21世紀の幕開けに僕らは世界の裂け目を目撃した。21世紀の幕開けにふさわしく、ブラウン管から無差別放射を浴びたのだ。その壊滅的な打撃について愚鈍なヤツらは気づきもしない。僕らのグラウンド・ゼロとは、あなたの足元のことではなかったのか?あのふたつの高層ビルに突っ込んだふたつの火の玉の美しさの秘密について、僕らはそろそろ語り始めなければならない。そうしなければ全ては手遅れとなるだろう。
(監督 : 土屋 豊/2004年9月)


 2001年9月11日のニューヨークのテレビ中継を見た多くの人が、「まるで映画のようだ」と告白した。2003年4月のバグダッドでは、アメリカ軍がイラク国営テレビを電波ジャックし、あからさまなメディア戦争に終止符を打とうとしていた。
 世界はメディアに覆われた。そして、そのメディアは現実を演出し、私たちのリアルを多重化させていく。私たちの身体性を希薄化し、世界との距離感を曖昧にさせていく。
 自らのリアルを見失った私たちは、時に、生きている実感欲しさに手首を切ったり、世界を相手取ることをやめるために自分の部屋にひきこもったり、インターネットで心中相手を募集したりして、自身の生に遠近感を与えようとする。
 しかし、それは仕方がないことなのだ。私たちは、イラク戦争もタマちゃん騒動も窪塚洋介の電撃結婚もまったく等しい価値をもつように情報化される純粋に空っぽなメディア社会の住人なのだ。世界とは、ブラウン管越しに眺める張りぼてのステージで繰り広げられる茶番劇の再放送のことなのである。自分がその再放送の観客なのか、登場人物なのか、自分は今、本当にここにいるのか。それを確かめられる術はあまりない。

 2001年9月11日、束の間、張りぼて世界に裂け目が入った。「まるで映画のようだ」と告白した人々は、究極のドキュメンタリーをリアルな体験として思う存分楽しんだ。その後のアフガニスタン、イラクの戦争では、殺戮現場からの生中継にみんなが目を輝かせた。それは、絶望的状況だった。張りぼて世界の裂け目が新たな舞台装置となったのだ。エンターテイメントと化した戦争は、「今夜、夫婦喧嘩を監視カメラで生中継!」というドキュメント・バラエティ番組と何ら変わりはない。さらにインターネットの網の目が、人々の日常や内面までをも外部へと溶解させる。
 内と外の境界は消滅し、絶対的な他者がいなくなった。私たちの本当の戦争は、この勝つことも負けることも後戻りもできない情報資本主義社会という戦場で生き延びなければならないことではないのか?

 世界はまるで、いかがわしい覗き部屋である。私たちは観客であると同時にモデルでもある。その覗き部屋に新たな裂け目を入れること、その覗き部屋を飛び出して他者と出会うこと、自分自身のリアルを奪還すること、そういう困難な闘いを今回の作品では描きたいと思っていた。
(監督 : 土屋 豊/2003年9月)