◆土屋豊のようなインディペンデントのメディア・アクティヴィストの作品が「普通」の試写室で上映されることはめずらしい。わたしは、土屋氏をむかしから知っており、1999年にアムステルダムでヘート・ロヴィンクらが開いたNext5Minutesに共にまねかれたとき、いっしょにアムステルダムの夜を楽しんだこともある。大学でも『新しい神様』の上映と講演をしたもらったのは大分まえだ。だから、氏が近年海外で高い評価を受けているのは、うれしいかぎりだ。本作のうわさは各方面から聞いていたので、期待して見に行った。期待は裏切られなかった。
◆けっこう運動関係の人の顔も見えたが、わたしの横にいたひとが、映像がちょっと「実験映画」風(わたしにはそのほうが面白い)になると、あくびをしたり、ケータイでメールを読んだりしているのが、気になった(というより、腹が立った)。そういう人は、土屋の作品を見る資格がない。ちなみに、この作品が2004年のロッテルダム・フィルム・フェスティヴァルで上映されたとき、途中で客席が半分になったらしい。おそらく、映像が「わびしい」印象をあたえたためだろう。たしかに、劇場のスクリーンで見ると、「映画」っぽい仕上がりではない。しかし土屋は、低予算とローテクを逆手に取って映画を作る戦略家だ。今回は、そういう作風が最もよく出ている。テーマと技術とプロデューシングが一体をなしている。
◆明らかに、この作品は、9・11に触発されて作られた。これは、土屋にとっての『11'09'01セプテンバー11』だと言える。彼は、WTCの爆破という出来事(それ自体は、広島・長崎の原爆を経験している者には、驚きではない)が、テレビの映像を通じて世界中の人の目に触れ、人々がそれを映像的出来事として見たということに「新しさ」を見る。そして、それは、たとえば、監視カメラの氾濫や、テレビのバラエティー番組で有名人のみならず個々人の私生活を覗き見したいという視聴者の欲望の昂進、植草一秀氏に象徴されるような(と土屋氏は言ってはいないが)「覗きサブカルチャー」の全般的昂進・・・と表裏一体のものであり、「テロ」だ、「戦争」だと言う以前に、このこと――つまり「覗き」の全世界化のなかにこそ、いま進行している深刻な事態があるのではないかという問いかけをする。
◆わたしは、かねてから、小倉利丸氏らの監視カメラの増殖に対する反対運動を尊敬しながらも、監視カメラなどというものは、20世紀後半になって浮上したテクノロジーの必然的産物であって、反対しようが、賛成しようが、抑えようのない動向だと思ってきた。それは、監視カメラの増殖を肯定するのではなくて、もし反対するのであれば、その動向そのものを異化してしまうような方向と方法でやらなければだめだということだ。テレビの例で言えば、テレビに反対するのなら、テレビを見ないというようなこと(あなたが見なくても、多くの人が見るだろう)ではなくて、テレビを(丁度、ダグラス・デイヴィスが「The Backward Televison」でやったような)テレビの機能転換をやらなければ意味がない。
◆この映画は、9・11のテレビ報道の「洗礼」を受けて、覗くということに強烈な直感をもってしまった青年・長谷川(長谷川貴之)が、盗撮からからはじまって、その映像をウェブサイトに公開し、さらには、そのサイトを通じてその長谷川に近づいてきた「ゴスロリ」ファッション(頭にボンネットのようなものを着け、下はロリコン趣味の気をそそる服を着る)の女・萌(ゲッチョフ・詩)の部屋のライブ・ストリーミング放送に至る物語である。その時間が、2001年9月11日から2002年の同日までに設定されており、その時間を重層化させながら、そのときどきのコメント的テキスト、ネットへの書き込み、モノローグ、インタヴュー、盗撮の映像を引き継いだ「ドラマ」などが交錯する。
◆渋谷駅まえでの盗撮では、秋葉原のトモカ電気・ラジオセンター店などで売っている送信機付の小さなビデオカメラをリボンのかかった小箱に入れて路上に転がしておき、その上を歩く女たちの股間を近くでモニタリングする)する。その次は、個々人の家に同様の装置をひそかに設置して、近くの車のなかで傍受する。棒のようなものの先端にカメラを付けて、女子トイレの天井や下の隙間から盗撮するという手口もある。いずれも、技術的には、よく知られたものであり、ハリウッド映画に出てくるような「技術先行」の無理なところがない。
◆この映画を見た人がどう思うかは知らないが、盗聴・盗撮はむろんのこと、ここで行われている以上のことが現実に行われている。猫をビニール袋に入れた映像をネットでライブ放送し、付属のチャットで「殺すかどうか」を議論させるというシーンにしても、1980年代初めに、ニューヨークのパブリックアクセスのテレビのライブで、犬を銃で撃ち殺すシーンを放送して問題になったことがある。また、萌が、自分の私生活をインターネットのライブで流すのも、すでに1996年ごろに試みた女性がアメリカにいた。この映画のなかで、長谷川が、自分が盗撮した映像をネットに流そうという気になったのは、アルバイト先の仲間に、「いまのネットはすごいよ」というようなことを言われ、女がチャットしながら服を脱いだり、性器を見せたりするサイトを覗いたのが推進力になったという設定になっている。ただ、これも、ずいぶんまえからある。わたしが言いたいのは、そういう「内容的」な点に驚いたり、感心したり、嫌悪したりしていてはこの映画のユニークさはわからないということだ。
◆「内容」では、盗撮されている家で男女が言い争っているシーンが面白い。それは、盗撮カメラの荒れた画面から映画的にカメラがつなげるドラマであって、実際に盗撮されたものではないなのだが、女が、「あんたさぁ、『反戦』だとか、『アメリカ反対』だとか言うまえに貸したお金をかえしてよ」と言うのである。この男の雰囲気が、「小熊英二」さんに似ているのも笑える。コンビニで働いており、ときどき集会のビラに見入っていたりしている。彼女が言うには、運動だとか連帯だとか言っている連中は、個人意識のなかにそういう「大それた」問題以前の問題があり、それをすり替えるためにそういうことを言っているのだと言う。このあたりは、「運動」大好きクンたちを大いに怒らせるかもしれない。
◆わたしは、土屋豊は左翼だと思っているが、いわゆる「左翼」の人たちは、そう見ないらしい。以前、ある「左翼」の「大家」に会ったとき土屋をほめたら、「ありゃダメですよ」と一蹴された。しかし、9・11というよりも、ブッシュが選挙の公正なプロセスをへずに当選し、それが冗談かと思ったら、それが世界の「標準」になりつつある今日の状況を考えると、「左翼」――つまり支配的な権力に否をとなえる人々――は、このへんで、これまでの集会やデモを含むプロテストの方法と姿勢そのものを変えなければならないだろう。日本の「左翼」は、これまで、海外で起こった「革命」にパラノイアックな思い入れをすることによって、勢いをつけてきた。そういうパラノイアは、ときには創造的な効果をもつが、実際には、自分のやっていることがパラノイアなのだという自覚を失い、そのため、いずれは訪れるパラノイア=夢の失墜という事態にいたって、転向や、自分がそれまで信じていたはずの左翼性そのものを逆恨みしたりする。よく見れば、いまの政府や企業で実権を握っている多くは、かつての「左翼」であり、その転向組なのだということを知るべきだ。
◆誰にでもパラノイアは重要である。パラノイアがなければ映画を撮ることも、表現をすることもできないだろう。それで何かをなしとげたいという欲望ではなくて、「こうなったらいいな」という夢としてのパラノイア。そういうパラノイアとしてなら、「パリ5月革命」も「文化大革命」も「アウトノミア」も「チアパス」も、そして「ヴェネゼラの2002年4月」も意味がある。しかし、それらを「つかのまの夢」としてではなく、「理想的な制度」として、というようり「目黒のサンマ」的に崇拝するのが、これまでの「左翼」の慣例だった。
◆長谷川がやっている盗撮は、そういうのとは異なるパラノイアにひたることである。最初のほうのシーンで、彼は、渋谷駅前の歩道で盗撮した映像を家に持ち帰り、それを見ながら自慰をする。その映像は、決して鮮明なものではなく、想像とパラノイアなしには、性欲をわきたたせはしない。むろん、彼は、それがパラノイアの単なる装置にすぎないことを知っている。だから、彼は、そういう行動を「正当化」することを社会に向かって訴えたりはしない。
◆実は、WTCの報道の最初のほうの映像は、付近の監視カメラの映像だったという説がある。そうだとすれば、9・11は、監視カメラが制度として正当性を得た象徴的な事件だった。いずれにせよ、「盗撮」とは、うさんくさいものとみなされるのに対して、監視は、正当化された。以後、監視は、社会制度のなかの一装置としてあたりまえのものとなる。
◆わたしは、かねてから、「デジタル・ヌーディズム」ということを提唱してきた。デジタル・テクノロジーは、すべてをあらわにするテクノロジーである。それは、距離性をはぎとり、身体の内的な距離から宇宙の外的な距離までのあらゆる距離を極限まで縮めようという方向で「発展」する。いまのテクノロジーが、遺伝子操作という極小と、宇宙開発という極大とのあいだを動いているのは偶然ではない。ここでは、すべてがあばかれるから、「隠す」ということはかえってやっかいなことになる。この技術体制のもとでは、すべてを明かせてしまうほうが楽なのだ。が、それには、「隠す」ということによって人を操ったり、支配したり、カッコをつけたりする志向をあらためざるをえない。それは、可能か?
◆この映画では、「ゴスロリ」ファッションの子たちの腕には自傷の跡がある。長谷川は鼻と唇にピアスをしている。ひきこもりの人もいる。電車のなかで批判のモノローグをつぶやいている男もいる。彼や彼女らが、長谷川のサイトに惹かれるのは、それがパラノイア装置だからだ。権力もパラノイア装置を拡充している。それに対する「オールタナティヴ」は、あまりにわびしい。が、それが権力の戦略である。みずからが設置し、維持・管理しているもの以外の「類似品」は「うさんくさい」ものと見なすように訓練する。


[粉川哲夫(批評家)]

Q1.
『PEEP "TV" SHOW』のアイデアはどこから生まれましたか?俳優とキャラクタはどうやって決めましたか? 長谷川さんと萌さんとはどこで会いましたか?

●土屋
 私が作る作品には、常にメディア社会とアイデンティティの問題が関係しています。今回の作品もそのテーマの延長線上にあります。具体的なアイデアは、WTCテロの様子を伝えるテレビ番組を日本で見た私自身の印象から浮かびました。私は、WTCテロを政治的なアプローチではなく、リアリティショーが人気を呼ぶ社会の住人として、メディア論的にとらえてみたかったのです。
 「盗撮をする男」、「ゴシック&ロリータを着る女」は、映画のテーマと合うようにシナリオ執筆の段階で私と共同脚本家の雨宮処凛が設定しましたが、俳優が決まってからは、彼や彼女自身のキャラクターに劇中の人物が近づいて行きました。
 「長谷川」を演じた長谷川クンと「萌」を演じた詩(しおり)ちゃんは、共に私の前作『新しい神様』の観客で、その映画の主人公だった雨宮処凛が書いた本の熱心な読者でもありました。二人とも映画や出版関係のイベントで知り合いました。共に映画出演は初めてです。

Q2.
撮影手法(隠しカメラ等)は映画の主題(例えば、覗き行為)から来ましたか?それとも主題を選ぶ前に撮影手法を決めましたか?つまり、隠しカメラを使うためにこの主題を選んだのですか?

●土屋
 両方です。覗き行為について考えることは、進展する高度なメディア社会を考える上で非常に重要なことだと思います。テレビのリアリティショーは、人々の日常、そして内面までをも覗きたいという私達の欲望を満たしてくれています。また、街に出れば数々の監視カメラによって私達の日常は覗かれています。かつては映像(メディア)化され得なかった現実が、今ではモニターの中に映し出されています。私達はそれに翻弄され、現実感が狂い始めていると思います。長谷川は、失った現実感を取り戻す為に隠しカメラを仕掛けているのです。
 また、デジタルビデオの特徴を活かした作品を作る為に隠しカメラという手法を選んだということもあります。今回の撮影にはピンホールカメラという指先くらいのサイズのカメラも使っています。この小さなカメラで何が表現できるか、ということを試してみたい気持ちもありました。ビデオのリアルタイム性という機能も活かしつつ。

Q3.
この映画の中でどれくらい隠しカメラを使いましたか? 全ての外のシーンで隠しカメラを使いましたか?あなたは撮影の間、常に立ち会いしましたか?それとも、俳優たちに彼ら自身で撮影させましたか?

●土屋
 実際に隠しカメラで撮ったシーンは、冒頭の路上に座り込む長谷川の前に置いてある黄色い箱からの映像だけです。それ以外は、隠しカメラで撮ったような演出をしながら、普通にカメラを隠さず撮影しました。
 撮影は全てに立ち会っていますが、俳優に何の演出もしなかったシーンもあります。

Q4.
長谷川さんの考え方についてどう思いますか?彼の“現実感”と覗き行為の考え方についてどう思いますか?彼の性と死の繋がりに対する考えについてどう思いますか?

●土屋
 彼は、目の前の現実にリアリティを感じられません。それは、彼にとってはメディアの反映でしかないからです。全ての現象が「テレビで見たのと同じ」と思えてしまうのです。そこで彼は、自ら覗くという行為によって、ブラウン管やスクリーンに裂け目を入れ、そこからこぼれる“現実”をつかもうとします。あるいは、覗くことで“現実”を捕獲し、自分だけのブラウン管に押し込めようとします。しかし、そこに“本当の現実”などありません。彼に必要なのはコミュニケーションだと私は思います。目の前の人へのアクションとその人からのリアクション。その連続が疑いようもない現実だと思うからです。
 性と死は、私達に手っ取り早く現実感を与えてくれます。その為、現実感に飢えている人々は、しばしば、セックスに依存したり、死をファンタジー化してその世界に耽溺したりしてしまいます(例えば、劇中のナゴミのように)。しかし、その行為は、逆に性も死も虚構の世界に押しやってしまうことになってしまいます。長谷川はそのことを知っています。だから長谷川は、性も死も他人事のように遠くからながめているだけです。刺激的であるはずの性や死も長谷川には効き目がありません。ただ、イメージとしての性や死では現実感を取り戻せないことを自覚している分、長谷川には希望があると思います。

Q5.
この映画は「Lost Generation(失われた世代)」を表現していると思いますか?10年後、この人達はどこにいますか?何をしていますか?

●土屋
 この映画の登場人物は、90年代(バブル経済崩壊)以降の失われた世代です。90年代以降、日本の経済・政治は頭打ちとなり、停滞感、閉塞感が覆っています。その日常の平坦さが彼や彼女達の現実感の欠如にも繋がっています。
 勿論、悪い方の予想ですが、10年後、彼や彼女達の日常は今とたいして変わらないでしょう。結婚して子供を授かっている人もいません。万が一、子供ができていたとしても、生活という実感が持てず、子供をおもちゃのように可愛がるか、逆に動物のようにいじめているかもしれません。現実界に着地することを完全にあきらめ、ただ浮遊しているか、インスタントに世界を実感する方法(例えば、ドラッグ)を見つけて、日常をごまかしているかもしれません。
 良い方の予想(希望)としては、メディア社会のプラスの側面、個々人がメディアを通して自由にコミュニケートできることを利用して、自前の新しいコミュニケーション回路を作り出していることでしょう。例えば、長谷川は、シアトルのハッカーと協力して監視社会反対のアートプロジェクトをネット上で行っているかもしれません。

Q6.
あなたの映画は見る側と見られる側について論じています。カメラによって見られる事と人の目によって見られる事の根本的な違いは何だと思いますか?カメラを通して見られる事は目で見られる事とどのように違いますか?

●土屋
 人の目に見られるということは、見る側と見られる側の一対一の関係です。しかし、カメラに見られるということは、一対多の関係になります。カメラに見られた途端に私達はモニターの中の住人となり、理論上は、何億人もの人々に見られる可能性が出て来ます。そして、そのモニターを覗き込んでいる人の顔は見えません。その人に文句を言うことも出来なければ、握手をすることもできません。また、見ている側もモニターの中の住人には手を差しのべられず、ドラマの登場人物を眺めているような気分になります。メディア社会とは人の目で見る/見られるという一対一の関係が希薄化した社会だと思います。

Q7.
この映画によると、私たちはいつも見られているという事が前提とされています。でも、あなたの俳優は違います。カメラが俳優に見られる対象となっています。どうしてですか?

●土屋
 しかし、その俳優もまた、あなたに見られています。この映画を見るということは、複雑な入れ子構造となったメディア社会を客観的に眺めつつ、自らもその構造の一部であることを自覚することでもあると思います。


[「RES Magazine」誌上インタビュー全文(原文英語)/インタビュアー・Adam Hart]

同時多発テロの衝撃的な映像を軸にしてはいるが、これまで繰り返し語られてきた文脈とは全く異なる次元で語っている。アメリカではなく、一見なんの関係もない遠い日本の東京で始めから終わりまで物語が展開する。主題となるのはテロそのものではない。渋谷にたむろするゴシックロリータと言われる人形のようなファッションに身を包む少女、潔癖症の引きこもりの少年、平和運動をするコンビニ店員の青年、嫉妬して暴力をふるう青年、ペディキュアに数時間を費やす店員、配信される他人の生活を覗き見するカメラ、ネット上でリアルタイムで殺されそうな猫。どれが普通でどれが異常なのか。あふれる映像が様々なレベルの現実感(刺激)を提供する中で、我々がどうやって現実と虚構の境界を体験し、判断するのかを探ろうとする。WTCに飛行機が突っ込む映像を痛みとしてではなく、美しいと受け止める彼らは冷酷非情だろうか。映像に載せられると現実の断片が見世物にすり替わってしまうこと、誰かの現実が誰かのフィクションになること、そして逆に自分のリアルなはずの生活が現実感を失い退屈なものに感じられてしまうこと、むしろ虚構に現実感を得ること、そうした感覚が自分にないと言い切ることができるだろうか。台本のあるフィクションという設定だが、演じた人物たちの実際の生の声が部分的に挿入されている。物議をかもし感情的になりがちな映像をあえて用い、偽ることをやめようとした試みを評価したい作品だ。


[東谷麗奈(映画批評家・NY在住)/アートコラムペーパー「云々」]

Welcome to the 21st century

'2,843 people were blown to hell when a fireball hit the World Trade Center. It was such a beautiful sight. A beer in one hand, I was glued to the TV. Everything's going crazy. That's why I peep at the corpses under the rubble.' Open your browser on www.peeptvshow.net and these are going to be your welcoming lines...

Describing himself as a media activist, Yutaka Tsuchiya expands his palette to feature filmmaking with a debut highly representive of the hyper-vital DV low budget trend in young Japanese cinema. Starting from the assumption that 'the borders between inner and outer worlds have blurred', Yutaka aptly uses the post-September 11 worldwide trauma to powerfully expose the alienation and loss of grip on reality experienced by social outcasts in Shibuya, Tokyo. The implosion of identity, hopeless lack of self-confidence and detachment from 'normal life' are virulentry sketched, not just as a marginal syndrome limited to helpless freaks, but played out on a grand scale as the fast-spreading epidemic that plagues the new society of advancing globalisation, empty consumerism, media-set agendas and internet-based contact.

Rough, harsh, raw and sometimes crude, PEEP "TV" SHOW build up a very lose and always open narrative through a galloping ride towards the first anniversary of September 11. Compulsive digital voyeur Hasegawa and 18-year-old sucidal Moe team up on an unpredictably successful (and profitable) experiment, offering on the PEEP "TV" SHOW website something people seem to be craving for REAL. Images captured through house windows by hidden cameras, violently dark excerpts from Moe's diary, a day-by-day chronicle of the movements of one of the perpetrators of the WTC terrorist attack all mix into an inhomogeneous and disparate magma. The film itself restlessly blurs boundaries and mixes widely disparate elements, thus forcing the viewer to always question the images he's shown and making him/her feel boxed inside the same never-ending nightmare the protagonists are lost in.

offering a wide-angle and unconventional perspective on utterly complex subjects and adventurously experimenting with the possibilities of digital in every respect (acting, sound, editing, camera style), PEEP "TV" SHOW is no doubt a one-of-a-kind cinematic experience and an encouraging sign of things to come from Yutaka Tsuchiya.


[Paolo Bertolin]

Raw, cheap and bravura video film that does not pay much attention to the boundary that apparently exists between fiction and reality. With and about a gothic girl and other kids from Shibuya, Tokyo, obsessed by the Internet, looks and security cameras.

Raw, authentic and ostentatiously low budget, with low-grade images, this DV feature dissolves the borders that supposedly separate fiction from reality. Centred on the generation of kids that hang out on the streets and small apartments around Shibuya, in Tokyo, Yutaka Tsuchiya's film captures two months of the strangely dislocated lives of these young people. No family life is hinted at, they often live alone and isolated in cubicle like apartments. Obsessed by the internet, by surveillance cameras, at home with internet porn, always dealing with sex but at the same time strangely sexless, but caught up in numerous forms of peeping in which they peep and in turn become somebody else's spectacle, this is a generation for which fashion statements are not just a way of life, but their very being and identity. Yutaka scripted Peep "TV" Show in collaboration with a 'goth' girl, her street style half way between vampire and shepherd girl Bo Peep. The film radiates authenticity as it follows several diverse characters through their night and day life in the electronically wired, digital neon city of surfaces and screens. If it is a film more of encounters and an accumulation of incidents than a concluding narrative, it is the better to describe and offer a real vision of this extraordinary society of the spectacle in this urban, young people's world.


[Simon Field]

A portrait of alienated cyber-youth, Peep "TV" Show is so much of the moment so hyperbolically trendy, even that it risks becoming dated overnight. But as a fiction with a quasi-documentary flavour, Yukata Tsuchiya's panorama of a voyeuristic technological culture makes for revealing and intermittently urgent viewing. Its essayistic thrust and defiantly lo-fi DV execution will make it extremely tough to distribute, but it should find a niche with festivals having won the FIPRESCI award at Rotterdam - and at venues specialising in new media and pop-culture experimentation.

The film is built around two characters who appear, judging from the press notes, to be thinly disguised versions of its leads. Hasegawa a long-haired, facially-pierced young man - spends his days on the streets of Tokyo's Shibuya district, secretly filming passers-by with his camcorder. He also spies on local inhabitants, posting footage of them on his website, which also serves as a vehicle for his musings on September the 11th. He finds a kindred spirit in Moe (Gezchof), a young woman who dresses in the cult fashion known as Gosloli, or Gothic Lolita; she volunteers to have her everyday existence webcast live on the site. Other characters include a traumatised middle-aged salaryman, Hasegawa's porn-obsessed co-worker, and Moe's friend Nagomi (Akiko Ueda), who posts murderous thoughts on her weblog.

Not so much a narrative film as an imaginative essay on the media-saturated condition of modern Japan, Peep "TV" Show is distinctive for its use of real people effectively playing themselves, and encouraged to improvise. For example, Mamoru Kouyama, who plays a shy agoraphobic, himself did not leave his room for five years.

Shot on digital video, the film uses the imperfections of the medium to vivid effect, manipulating split-screens, text and website images; shooting in Tokyo's streets and subways imparts a nervous kinetic immediacy. There is much intriguing sociological insight into the Gothic Lolita cult, in which young women dress like frilly Bo Peep dolls, with Moe explaining articulately how the style enables her to find a confident sense of identity.

Despite some frenzied early material cut to ear-splitting noise guitar, much of the mood is introverted, even oppressive. Although the surveillance-style material looks a little over-familiar, individual images startle; in particular, viewers may blanch at a distressingly realistic-looking sequence in which a cat is asphyxiated in a plastic bag, while website users vote on whether or not it should survive.

The film may well be acute in its diagnosis of a lost generation of Japanese youth, and certainly sheds interesting light on the way that Japan views the effects of September 11. But it is hard not to feel that the film's traumatised lead duo have narcissistically appropriated the catastrophe for their own emotional purposes: posing in front of a projection of the collapsing Twin Towers, they muse: "This is our Ground Zero". It is hard to sustain sympathy with characters who seem so much like disturbed poseurs, but the sense that they are at least partly real gives this odd, restless document a distinctly abrasive edge.


[Jonathan Romney / Screen Daily]

FIPRESCI - The international federation of film critics
Midnight Eye
Variety
Film Threat
Like Anna Karina's Sweater
破 (POTS)
cuttingedge
The Link
The Japan Times
すばる(2005年5月号)
下村健一の『眼のツケドコロ』