西行庵(吉野と西行)

 

金峯山寺  吉水神社  勝手神社  佐藤忠信花矢倉  西行庵  義経蹴抜塔  狐忠信慰霊の碑  静の舞衣装
 

秋の吉野山義経伝説紀行       西国三十三所名所図会

晩秋の西行庵は妖しいほどに美しい
(2004年11月20日佐藤撮影)

今日今し西行庵に来てみれば妖しきほどの佇まい視し

吉野の奥千本にある西行庵に行った。予想以上に奥山のなかにその庵はあった。伝承であるが、ここに西行は三年間も住んでいたと云われる。おそらく出家して間もない25才前後の頃のことだろう。西行がここに住み着いた理由は、まず第一に、都から隔絶された地であるということだ。西行は浮世の煩わしさから遠ざかりたかったに違いない。第二には、吉野が桜の名所として徐々に有名になりつつあったことがあげられる。

金峯神社の右脇の坂道を10分ばかり奥山に分け入って行くと、安禅寺の跡を過ぎて、苔清水と呼ばれる清水が岩間から湧き出している場所がある。

西行は、この清水について、こんな歌を詠んでいる。
 

とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすほどもなき住居かな
(歌意:とくとくと岩間から苔清水が湧いてきているのだがたった独り小さな庵に暮らす私にとっては汲んでゆくほどもないことだ)


清水は苔むした木の樋を伝って休まずに流れてくる。私は思わず手を合わせて、西行と地の霊に向かって祈りを捧げすぐにボルヴィックのボトルを取って、八割ほど残っている水を捨てて、この清水を注ぎ込んだ。溜まるのも待ちきれず、この水を一口呑む。
 

すると別世界のような美しい場所がある。何とも表現のしようもない美しさだ。光がこの西行庵のある一角で、煙っているように見えた。息を呑む美しさというものは、こんなものかもしれない、紅葉が辺り一面に散らばっている。木の上も木の下も全てが赤い。カメラを向けていると時を忘れるほどだ。入れ替わり立ち替わり、旅人が訪れては消えた。

もしかすると、西行も、そんな旅人の一人だったかもしれない。余りに美しい場所を発見した若き西行は、ここに住むことを決断したのであろう。そこには大いなる決断があった。しかもそれは瞬間的な決断だったと思う。とにかく西行は、この地を訪れてこの地に足を踏み入れた瞬間、この場所に落ち着こう、絶対そうしようと、と思ったに違いない。

人間には誰しもそんな思い出がある。ああ、こんなところに住んでみたい。しかしたいがいその思いつきのようは生きれないのである。でも西行は、決断をして、雪深い、住むに不便な、この地に腰を下ろした。それにしても妖しいほどに美しい桃源郷のようなところであった。
 
 

西行庵の紅葉が光に煙る
(2004年11月20日佐藤撮影)

秋暮れて吉野の里の山景の一木一草光に煙る

西行庵の側に湧く苔清水(とくとく清水)
(11月20日佐藤撮影)

とくとくと湧き来る清水手に受けて呑めば甘味は仏の慈悲か

吉野と云えば桜。それほど吉野の山桜は有名だ。何故これほど、吉野に桜が植えられ、桜の名所になったかといえば、それは、金峯山寺の開祖、役行者が、修行中に金峯山上湧出岳で突然桜の木に蔵王権現を感得し神木となったという伝承に由来する。以後、吉野山周辺には、衆徒たちがたくさんの桜を植樹して、万葉集(780年代か?)の時代には、吉野の景色と云えば雪だったものが、古今集(905年〜914年頃成立)の編纂される頃になると、以下のような桜を詠んだ歌が収載されるようになる。
 

み吉野の山辺に咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれる    紀友則

越えぬ間は吉野の山の桜花人づてにのみ聞きわたるかな  紀貫之


更に時代が流れて、拾遺和歌集(1005年〜07年頃成立)の頃には、更に桜の名所の代名詞のようになって、このような歌まで詠まれるに至る。
 

吉野山絶えず霞のたなびくは人に知られぬ花や咲くらん   題知らず

吉野山消えせぬ雪と見えつるは峰続き咲く桜なりけり    よみ人知らず

 
こうして衆徒が祈りを込めて植えていった桜は、吉野をいつしか雪深き山里から桜の園という神秘的かつ魅惑的なイメージの聖地に変えて行ったのである。そして吉野は自ずからひとりの偉大な歌人を世に出すのである。花の歌人と云われる西行法師(1118-1190)である。

西行研究の第一人者故目崎徳衛氏(1921-2003)は、「吉野を恋人にも比すべき存在」(「西行の思想史的研究」吉川弘文館)と誠にうまい表現をされている。西行は、その名を佐藤義清(さとうのりきよ)と云った。東国において、平将門(?-940)の起こした乱を鎮めた藤原秀郷(生没年不詳)の流れを汲む武門の家に生まれ、鳥羽院(1103-1156)の周囲を警護する北面の武士であったが、23歳の若さで、突然妻子を捨てて出家し、以後73歳で亡くなるまで、花を愛で鄙(ひな)の里を流れ歩く風雅の道に生きた法師であった。

そんな西行と吉野の関係を偲ばせるこんな歌が山家集にある。歌の前には、歌の趣旨を伝える詞書(ことばがき)が添えられている。
 

 国々めぐりまはりて、春帰りて吉野の方へまゐらむとしけるに、人の、このほどいずくにか跡とむべきと申しければ
 (訳:諸国を廻って、わが家に戻って、吉野の方に行こうと旅の準備をしていると、人が、「今度はどこに滞在されるつもりなのですか?」と云うので、)
花をみし昔の心あらためて吉野の里にすまむとぞ思ふ
(歌意:花ばかり見ていた昔の心を改めて吉野の里にしばらく腰を据えて住んでみようと思っているのです)
おそらく、西行は吉野を出家前から愛していて、何度も訪れている。その大きな理由は、やはり吉野が花の名所で風光明媚な場所であったからであろう。しかし出家後は、吉野という地において、桜の木が神木であり、信仰の化身のような存在であることを、西行自身強く意識するようになる。出家以前と出家してからの吉野に対する思いというものは明らかに違ってきている。単に花の名所としての吉野ではなく、これほど美しい花の山になってきた吉野の本質に触れたいと思っている。吉野を美しい花の山に変貌させた根本には、衆徒の信仰心というものがある。その衆徒の心の花に触れるために、吉野に改めて住んでみたい。西行は本気でそのように考えているのである。

旅に出ていても、都に居ても、西行は春になると必ず恋人を恋うる若者の思いを抱いて、このような歌を詠ってしまうのだ。

白河の梢を見てぞなぐさむる吉野の山にかよふ心を
(歌意:私の心は明らかに吉野の山にある。しかしその思いを目の前の白河の花の梢を観て慰めているのだよ)
吉野山花の散りにし木のもとにとめし心は我を待つらむ
(歌意:吉野山から遠く離れている私だが、かつて散った花の木の下で、その儚さに心を奪われたことがあった。あの木が今年も美しい花をつけて私を待っている気がするのだ)
何しろ、西行が吉野の地を詠み込んだ歌は、五十八首にもなる。まさに俗世を捨てた西行にとって吉野は、新たな永遠の恋人であったのかもしれない。
 
 

かの人は花の歌人と呼ばれゐて西方浄土に微笑てけん

西行庵の紅葉は燃える
(佐藤撮影)

あかあかと空を焦がして吉野山桜紅葉の命は燃ゆる

その西行が、庵を結んだと伝えられる場所が、奥の千本という場所にある。金峯神社の境内を越えて小径を行くと、吉野の花の見事さを世に伝えた西行法師が三年間隠棲していたとされる西行庵が見えてくる。もちろん現在の庵は、後世に建てられたものだが、樹木の中にひっそりと立っていて、小さな庵の隙間から西行法師の鼓動が聞こえてくるような気がする。近くには、「苔清水」と云う石清水が湧き出している場所も残っている。西行が何歳の頃にこの場所に住んでいたかということは明確になっていないが、八百五十年の時を越えて、吉野の人々は、西行法師のありし日の姿をまるでわが家の祖のようにして伝えている。

ただ高野山に住んでいたのが、三十二才の頃であるとされており、奥州平泉に行ったのが、三十才前後の頃(二十六才ないし二十七才説も)と云われているので、大体の推測は可能である。

三十才の頃の西行が平泉で詠んだという有名な歌がある。

聞きもせず束稲山の桜花吉野の外にかかるべしとは
(歌意:聞いたことがなかった。奥州の束稲山がこのような桜の花園だったことを。まさか吉野の他にこのような場所があろうとは。)
この歌を手がかりとして、ひとつの仮説がなり立つと思われる。それは西行が、平泉に行く前の数年間をこの吉野に隠っていたというものである。西行の吉野の本格的滞在は、出家して間もない若い頃、俗世の塵を払うために住んだ可能性がある。

何故ならば、平泉での「聞きもせず」の歌は、吉野の桜の見事さを実感として知っていなければ恥ずかしくて、とても成立するような歌ではないからだ。つまり桜の吉野というフィルターを通してこそ束稲山の桜が光ってくる。とすれば、やはり西行の吉野隠棲の時期は、奥州行脚以前と考えて良さそうである。西行は若くして吉野の恋の虜となったのである。それは俗世の様々な煩いや捨て去らなければならない諸々の私欲との格闘の日々であったと推測される。
 

世の中を捨てて捨てえぬ心地して都はなれぬ我が身なりけり
(歌意:世の中を捨てたはずの私であるのに、遠く離れた都の思い出が煩悩となって私を一向に離れないのだ。)


上記の歌が、吉野で詠まれた歌かどうかは不明であるが、若くして出家した西行は、津波のように押し寄せてくる煩悩と闘いながら、吉野の山河を眺めていたに違いない。西行にとっての慰めは吉野の人々との交流であり、そして吉野の山河と草木であった。

そして西行が吉野を去る日が来る。山家集の離別歌に、詞書(ことばがき)付きのこんな歌がある。
 

年頃申しなれたりける人に、遠く修行にするよし申してまかりたりける、名残おほしくて立ちけるに、紅葉のしたりけるを見せまほしくて侍りつるかひなく、いかに、と申しければ、木のもとに立ちよりてよみける
(訳:長い間慣れ親しんだ人に、「遠くへ修行に行きます」と申し上げて、失礼しようとした時、名残惜しくて立ち去り難くしていると、「紅葉のしだれている姿をお見せしましょうか。たいしたものではないが、どうなさいますか?!」とその人が云うので、木の下でこんな歌を詠んだのでした。)
心をば深き紅葉の色にそめて別れゆくや散るになるらむ
(歌意:この私の名残惜しい気持を、吉野の深紅の紅葉の色に染めて、別れて参りましょう。それが散るということでしょうから。)


きっぱりとした覚悟を感じる歌である。三年という歳月が、西行という人物を変えたのかもしれない。先に故目崎氏の説をとって、吉野は「恋人」のような存在という話をした。私は更に、西行にとって吉野という山里は、俗世への煩悩を断ち切るための学びの場であり、歌の才能を開花させるための「ゆりかご」のようなところであったと云うべきかもしれないと思うようになった。つづく
 
 

日脚伸び西行庵に舞ふ紅葉ひらふ人あり老いたる二人
奥山の木々に埋もれ落葉焚く主は何処秋の夕暮
吉野山西行庵に降り積もる落葉に涙拭ふ夕暮
苔清水汲めど尽きせぬ清水にて西行和歌に通じるかとも
しずしずと吉野の山は夕暮れて西行庵に枯葉舞ひ落つ



史料

西国三十三所名所図会」より

凡例
臨川書店版 「西国三十三所図会」(平成三年四月刊)を底本にして佐藤が現代語訳したもの。
同書の原典は、解題によれば、嘉永六年(1853)年三月刊行。編集は鶏鳴舎の暁鐘成。
 

○青根が峯(あおねがみね)

安禅寺の上にある山を云う。この下に龍ヶ谷というところがある。義経が、馬を乗り捨てたところと云われている。またこの東の谷に、義経が落行く時に、竹をまとめて向いに渡ったというところがある。

○苔清水(こけしみず)

奥の院より300mほど奥山にある。岩間を伝ってくる清水である。ここよりまた200mばかり隔てた奥に西行法師の庵室と云われる古跡がある。今でも西行の像を安置している。

○西行庵古跡(さいぎょうあんのこせき)

「今西行」と云われる似雲(じうん)という僧が苔清水の奥にしばし住んでいたと「近世畸人伝」に見えている。この庵は、近世に似雲法師が住んだ跡かもしれない。
 
 

西行庵古跡
(西国三十三所名所図会より)









2004.11.15 Hsato

義経伝説