桜レポート2007 「桜・さまざま」

北沢川緑道の桜 武相荘の山桜



下北沢の北沢川緑道の桜 
(07年3月29日 佐藤弘弥撮影)

時 は今、今しかなしという花の盛りに逢ふて写真撮りたり

佐藤弘弥
1 都 会の桜 下北沢の桜

東京世田谷の下北沢に、桜の名所というには大げさだが、なかなかいい桜の小道がある。小田急線下北沢 駅から南口を 降りて、十分ほど三軒茶屋方向に歩くと、 東から西に向 かって細長い桜の小道が続いている。およそ、北沢八幡神社の南の辺りから、茶沢通りを越えて、環七の手前にある圓乗院までの1キロ半ほどの道程であるが、 戦後に植えられたというソメイヨ シノも、けっこうな老木となり、右に左に枝を伸ばしながら、それでも毎年美しい花を結び続けている。

かつてここは北沢川という川が流れていて、度々氾濫を繰り返す暴れ川だったという。それが戦後の人口 増加により、 下水が川に流れ込み、ドブ川となっていた ところに下水道を通し、川は埋め立てられてしまっていたのだが、数年前により、人工のせせらぎを取り戻す自然再生の工事が、世田谷区により進められて 見違えるような小綺麗な景色となっている。



桜 の回廊 
(07年3月29日 佐藤弘弥撮影)

来る人 も去る人も皆花見上げ花の下にて何を思はむ

この道は、正式名称が「北沢川緑 道」というら しい。しかし地元の人は、この通りの名など、ほとんど知 らないようだ。この道に水の流れが復活し、せせらぎが 戻ってきた時には、みんなびっくりした。何しろ、下水を浄化した水を流しているのである。まあ、それでも無いよりはまし。人間にとって、せせらぎが聞こえ る住環境は実にありがたいものである。

1mほどしかない川幅ではあるが、川の両岸周辺には様々な草花や低木が植えられて、地元の住民の憩い の場所になっ ている。子供たちが遊ぶ砂場があり、老人 たちは、ベンチに語らい、若い恋人たちは、寄り添って歩き、ジョギングをする人が、時折息を切らして駆け抜けていく。夜ともなれば、地元の人が放したと思 われる小魚を狙ってシギのような水鳥が流れに浸かっている姿も見られるようになった。



春 の月と桜 
(07年3月29日 佐藤弘弥撮影)

春の月朧に見えて花陰にウサギの影の遊ぶ夕暮れ

このせせらぎが造られる以前に は、例年夜にな ると花見の喧噪で、地元の住民から「騒がしくて眠れな い」との苦情が相次いた。そのために商店会がこの通り沿 いに灯していた花見提灯が消えてしまった。それでも夜になると、せせらぎの音を聞きながら、遠慮がちにビール片手に夜桜を楽しんでいる人たちが、以前ほど ではないが、チラホラと見えるのも風情があっていいものだ。それからこの小道の周辺には、萩原朔太郎、坂口安吾、斎藤茂吉、加藤楸邨、森茉莉、宇野千代な ど、下北沢ゆかりの文豪たちの旧居跡が点在していて、「北沢川文学の小道」という呼び名もある。



桜 も人も輝く夕暮れ 
(07年3月29日 佐藤弘弥撮影)

野に 山に陽の日溢れて花も咲き人みな春に酔いしれし時



 2  旧家の桜 旧白洲次郎・正子邸「武相荘」の山桜

昨日、小田急線に乗り、鶴川の旧白洲次郎・正子邸(武相荘:ぶあいそう)向かった。



武 相荘の母屋前からお茶処(門)を
(07/4/1 佐藤弘弥撮影)

この「ぶあいそう」という奇妙な名 は、武蔵と相 模の間にある家ということと「無愛想」をもじって、ご亭主の次郎氏が付けたものだ。

東京郊外の地「鶴川」に、白洲夫妻が引越をした理由がまた凄い。何でもご亭主が、昭和18年(1943)、国際情勢の分析から日米が開戦するという確 信を持ち、東京が焼け野原になるとの閃きから、それならば、自分は郊外で農夫となって生きのびて、敗戦後日本の復興のためにできることをしようと決意し、 当時鶴川村と呼ばれたこの地の農家を購入して、居を構えたものだという。

二人がここに越して来て、今年で64年の歳月が流れた。いつの間にか、巨大都市東京の爆発的膨張の中で、長閑な農村地帯だった鶴川には、団地が出き東京の ベットタウン化する一方、いくつかの大学も進出してきて、学園都市の様相を呈している。



母 屋の玄関の前の常滑の大壺に山桜(?)が
(07/4/1 佐藤弘弥撮影)

今では亭主白洲次郎氏も奥方の正子さんも故人となって、武相荘は一般公開 されている。小田急線鶴川駅前からゆっくりと歩いても、十数分で辿り着く 距離だ。

山桜について私が知ったのは、白洲正子(1910−1998)さんの著書の中で知ってからである。本の名はすっかり忘れてしまったが、裏山に山桜が植えて あるという記述を思い出し、春先に行った時に、あれが例の山桜か、などと目星をつけていた。

私は入場券を購入すると、カメラをバッグから出し、胸の高鳴りを抑えながら、どれほどの見事な風情を醸し出すものかと、長屋門を通り抜けた。柿の木の古木 の前から茅葺き屋根の母屋を素通りし、夫である白洲次郎氏の遺品を埋めたとされる五輪の塔の前で、お二人の御霊に手を合わせた。そこから「鈴鹿峠」と刻ま れた石塔を左にみて、裏山のなだらかな尾根にそって自然石をいくつも並べてある石段を登って行った。

裏山といっても、母屋の後ろにある小高い丘というようなもので、高さにすれば七、八メーターほどであろうか。そこは紅葉樹が見事に枯れ葉を落とし、春の日 が小山の隅々にまで射していた。



裏山から山 桜をみる
(07/4/1 佐藤弘弥撮影)

さて肝心の山桜であるが、確かに山桜の若木が、天に向かって幾本が真っ直 ぐに伸びて、小振りな花を結んでいるのが確かに見えた。しかし何か私の中で、拍子 抜けする気持ちがした。それは私の桜というものに対する固定観念が「ソメイヨシノ」という桜に毒されているためか、あるいは吉野山の「一目千本」と言われ るような圧倒的なものを見ているために、眼が曇っているのではないか、と反省をした。

そんな矢先、どこからか二羽の烏が、肝心の次郎と正子の山桜の枝に留まって、こちらをじっと見ている。そこには、昨今特に嫌われ者の「いたずら烏」のイ メージはなく、どことなく品の良い感じがしている。「やはり烏も、来るところにくれば、遠慮したりするのかな?!」などと他愛ないことを思ってしまった。



不思議な二 羽の烏が悠然と山桜の枝に
(07/4/1 佐藤弘弥撮影)


同じことを京都の鴨川の辺で感じたことがある。その時は、春の夕暮れ時 だったが、一羽 の烏が、鴨川上空を上流に向かって、悠然と飛んで行くのを見た時、さ すがに神の遣いだけに、ただ鳥(とり)ではないなと思ったのだ。それはおそらく、地元の人々が、烏を神の遣いという目で見て、それなりに大切にしてきたか らであろう。

記紀の伝承には、「ヤタガラス」と言われる烏が、熊野から大和に東征する神武天皇の道案内を買って出たとされる。この烏、実は烏などではなく、その先に大 和を統治していた賀茂氏ではなかったかという説もある。現在の京都の下鴨神社、上賀茂神社に連なる一族である。

しばらく、山桜と烏の写真を撮ると、烏が挨拶をしたわけではなかろうが、「カァー」と一声啼いて去って行った。

石段を下りて、母屋の茅葺き屋根の下に行くと、わずかに西に傾いた日の光を浴びて、椿が「私も撮って」というように自己主張をしている。そのずっと上に、 山桜が、巨大な茅葺き屋根に寄りそうように花を開き、青い空で輝いていた。

でもその姿が、どことなく遠慮がちで、そこはかと無いものに感じた。それはたとえて言うならば、利休(1522−1591)と秀吉((1537− 1598)の「朝顔」のエピソードにも似ているように思えた。


周知のように、この話しは、秀吉が、利休が庭一杯に朝顔を育てていて、近いうちに「朝顔の茶会」のような面白い趣向を見せてくれるものと期待していたとい うものである。秀吉は、密かにこの朝顔の開花の様子を探らせ、「いつか、いつか?!」と思っていると、とうとう咲いた、という知らせが入って、利休からの 案内もなく、我慢がならなくなった秀吉はとうとう自分から「明日朝に朝顔を所望したい」と利休に連絡をして、ドキドキしながら、利休の家に行ってみると、 庭にはどこにも朝顔など咲いていない。いぶかしく思って茶室に入ると、床の間の前に、たった一輪、朝顔が生けてあるのが見えたのである。



山桜は母屋 を守るように天に伸びる
(07/4/1 佐藤弘弥撮影)

とかく、豪奢で華美好みの秀吉である。醍醐の花見や吉野山の花見は、贅沢 の限りを尽く したもので、おそらく利休は、そうしたもののアンチテーゼとして、抑 制の利いた過小なもの、うつろなもの、世阿弥の言葉で言えば「幽玄」な美を、秀吉に見せたものであろう。ここに秀吉と利休の感性の決定的な相違があり、後 に利休が腹を切って見せねばならなかった根本の原因があったのである。

世阿弥は、花の本質を「秘すれば花」と言った。この意味は、「目の前にある花の奥にある花の本質を心の奥で観(かん)じろ」という意味と解することができ る。芭蕉は、 「西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その道を貫くものは一つなり。」(「笈の小文」1687=貞享4年)と いうことを言った。これはみな、世阿弥の「秘すれば花」という日本文化の底流に流れるひとつの「セオリー」を言ったものである。




武 相荘の長屋門の前の柿の古木越しに隣屋との境界にある桜を望む
(07/4/1 佐藤弘弥撮影)

私は、この日本文化のセオリーあるいは精神というものが、この武相荘にあるのをしみじみと感じたのである。ここで私は母屋の玄関の前に行く。すると、常滑 焼きの大壺に、小さな山桜が、まるで「野にあるように生けてある」のを発見した。「野にあるように生ける」という言葉は、利休が茶席に花を生ける時の極意 を言ったもので、白洲正子も、この言葉を著作の中で何度も反芻(はんすう)するように語っている。

私はこの武相荘の山桜の佇まいに考えさせられた。お茶処でコーヒーを所望し、再び庭の周辺の佇まいを見ていると、武相荘と近所の境界線近くに、桜があるの を見つけた。どうもソメイヨシノには見えないのだが、山桜と言い切る自信もなかった。この付近には、シデコブシの白い花が咲いていて、さらにその手前には 柚の黄色い実がたわわに下がっていた。その凛とした風情に見取れてしまった。



柚 子とコブシと桜の饗宴
(07/4/1 佐藤弘弥撮影)

武相荘の春の庭を見ながら、外山滋比古(1923−)氏が「俳句的」(み すず書房  1998年刊)で言った「俳句は・・・抑情の詩だ」という言葉を思い出 した。この著は俳句を論じた文化論であるが、世阿弥が「秘すれば花」と言った日本文化の底流に流れる省略(情感を抑える表現)の表現法が、実は日本人の美 意識そのものであることを証明した優れた日本文化論であると思われる。

その中で、外山氏は、
「我執は抑える。主観は殺す。生な感情はおもてにあらわさない。・・・散るものを散らせ、落ちるものを落としたとき、もっとも花やかな表現になる。その方 が享受者の心の中で花も実もつけることが容易だ・・・」と言っている。



隣 屋との境界の桜
武相荘の上を流れゆく雲も輝いて見える
(07/4/1 佐藤弘弥撮影)

私は、武相荘のほんの少しばかり見える山桜を見ながら、その景色の中に 「秘すれば花」 というようなものが、ちらほらと見え隠れしているのを観じて、なるほ どと思った。

来 てみれば茅葺き屋根のその先に幽かに見ゆる山桜かな



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 <北沢川の桜に寄せるその他の歌四首>
あと幾度花を見れると言ふ母の言の葉浮かぶ桜小道に
春の月花陰出でし午後の五時酒酌み交わす人影はなく
早々に散りし桜の流れゆく北沢川のせせらぎに佇(た)つ
花散らす風にも負けず花たちは今日のこの日を精一杯咲く


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