義経伝説写真集1

藤沢の義経伝説を訪ねて

白旗神社 首洗井 荘厳寺 常光寺
 

伝義経公首洗井

藤沢本町徒歩8分

藤沢本町で降り、左に進と旧街道と交差する交差点が見えるので、その交差点を向かいに渡り、旧街道を藤沢方面に進んで約80mで、マンションの前に下のような小さな「伝源義経首洗井戸」という立て札が見えるので、左折する。徒歩で白旗神社より五分位の道程。

義経公首洗い井戸の入口は分かりづらい

誰知るや軒に囲まれ辛うじて今に伝ふる首洗い井戸
 

首洗い井戸全景

「藤沢市史跡」とあるもその他に気遣いとても在ると思えず
 
 


この碑には下のような文が刻まれている。
かつてはこの奧にある民家の辺りに盛土された義経公の首塚があったとされる。この碑はそこから運ばれてきたものかもしれない。


「武蔵坊弁慶弁慶之霊
九郎判官源義経公之首塚
亀井坊 伊勢坊
             各霊
片岡坊 駿河坊」
 
 

首洗い井戸の脇にある石には「九郎尊神」と刻まれている。
 

死して尚苦労多かりこの殿は九郎尊神と碑にぞ刻まれ



史料

源義経公と首洗い井戸

平野雅道

『東海道名所絵図』には史跡として白旗神社の祭神は源義経で、別当寺として荘厳寺を紹介し、弁慶塚は常光寺の八王子社に祭られていると記されている。寛政七年(一七九五)の刊行である。義経弁慶の活躍を描いた『義経記』は江戸初期の寛永十年(一六三三)に書かれこの軍記物が多くの義経伝説を生むもとになっている。歌舞伎などで脚色され、判官びいきの語源にもなった。

藤沢宿の史跡は兄源頼朝の勘気を蒙った義経が、文治五年閏四月三十日奥州衣川館で自害した後に首実検した六月十三日以降の首級の話である。腰越で曝され捨てられ、首は泥にまみれたまま亀に背負われ境川をのぼり藤沢の里に到着、哀れに思った里人が井戸で首を洗い清め弔うため首塚を作った。これを神とし祭ったのが白旗神社で亀の伝承により本殿の山を亀尾山という。

『藤沢市史』第二巻は天保七年(一八三六)高山彦九郎の「小田原行」の抜粋をのせ、神社より南東半丁の所には玉垣で十間四方の角に弁慶の首塚があると記録されている。故山本悦三氏は『移り変わる藤沢の街』で首塚の位置を記憶し一本の老松があったという。井戸以外の石碑はその首塚から現在の場所に移動したのである。小川泰堂は『我棲里』で「礼拝塚」として首塚を紹介、日頃、宿民は通行するたびに拝んだと記してある。

首塚は現在民家になっているが鳥居と社があり柵で囲んだ様子がわかる。白旗神社と対面していたのである。前述の高山彦九郎も本殿から見えたように、記録している。

(「東海道五十三次 藤沢宿史跡ガイドブック」平野雅道著より抜粋)

*この文書は、可満くらやミニ資料館の平野雅道氏のご厚意で掲載させていただいているものです。依って無断転載は固くお断りいたします。本資料を欲しい方は、可満くらやミニ資料館、電話0466−25−7459まで、ご連絡してください。



 


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2001.11.2 H.sato