義経伝説写真集1

藤沢の義経伝説を訪ねて

白旗神社 首洗井 荘厳寺 常光寺
 

白旗神社

住所:藤沢市藤沢2−4−7
電話:0466−22−9210
最寄り駅:小田急線藤沢本町下車 徒歩三分

白旗神社入口

白旗の氏子の衆の心意気鳥居に見ゑて涙溢るゝ
 
 



藤沢義経伝説紀行


佐藤弘弥

1 白旗神社

新宿から小田急電車を乗り継いで、相模大野で、江ノ島行きの各駅停車に乗った。目的は藤沢本町(ふじさわほんまち)に点在する源義経にまつわる史跡を見るためである。秋の日差しに溢れた湘南の空は、どこまでも深い青色をしていた。昼過ぎに、駅に辿り着くと、地図を見ながら、駅を左手に折れて、駅前商店街の細い路地を旧東海道に向かって歩いた。何気なく、八百屋のお兄さんに、「白旗神社はここを真っ直ぐでいいんですよね」と聞くと、「そうです。突き当たったら、通りを向こうに渡って、左に行って100mで、白旗神社ですから」と実に明解な答が返ってきて、嬉しくなった。何やら、この界隈の人々が、いかにこの神社を大切に思っているかが伝わって来るような気がした。

実は私がこの神社に来るのは、二度目である。一度目は、二年前(1999年の6月13日の日)だった。この日は、白旗神社において、「義経公810年祭」が催された日である。知らない人も多いと思うので、若干説明をさせて戴ければ、源義経の首塚と言われている場所がかつて藤沢の首洗い井の傍にあり、宮城県北部の栗駒町の沼倉という所に義経の胴塚と伝えられる判官森御葬礼所がある。栗駒に住む菅原次男氏が、このふたつの伝承に興味を抱き、色々と調べている内に、単なる伝承だけでは片づけられないものを感じた。そこで藤沢で郷土史を研究している平野雅道氏に電話をしたことから、思わず話が進み、八百年以上も、離ればなれになっている御骸(ごいがい)と御(くび)を合祀してはどうか、という話になったのである。もちろんこの間、白旗神社の近藤正宮司や氏子の皆さまの熱烈なご支援があって、僅か二、三ヶ月の間に、どんどんと話が展開して行ったのであった。
 
 

流れ権現造りの本殿

白鷺が飛ぶが如くに本殿は藤沢の地に雄々しく御座す

思うに源義経という人物には、どこか人の心を熱狂させる不思議な魔力があるようだ。もちろん胴体と首を合わせようとしても、栗駒の判官森の葬礼所は、国の持ち物で、藤沢の首塚のあった辺りは、住宅になっていて、掘り返す訳にはいかない。そこでどうしようかとなり、判官森の土と腰越の浦の砂を合わせて、御霊土(みたまつち)とすることとなったのであった。

大事なのは、人の心であり、イメージの力である。義経という稀代の英雄を慕う人々の心の中で、八百十年間離れ離れになっていたものを、どうにかして合わせようとするそのエネルギーは、大きな流れとなり、奥州と相州という遠く隔たった地域の人々の心をひとつに結びつけたのである。これは面白いと言えば、面白いし、不思議と言えば、実に不思議な話だ。何しろ義経という人物の八百年間以上離れていた御骸と御首を結びつけようとしたのに、結びついたのは、それまでは全く縁もゆかりもなかった人々の心をそのものだったのだから…。

奥に「正一位白旗大明神」に金文字看板が見える

商店街の路地を抜けると、「大きな道」に突き当たった八百屋のお兄さん言われる通りに、白旗の交差点を向かいに渡って、左に進むと、白旗神社の壮大なスケールの鳥居が目に入った。実に美しい。秋空を背景にして白い鳥居とこんもりとした森の上にある白旗神社本殿に続く参道を入れてシャッターを押した。鳥居の横には、秋祭の大きな立て札が立て掛けられている。この秋祭では、藤沢市の無形文化財に指定されているという「湯立て神楽」が奉納されることとなっている。八百十年祭の折にも、この神楽が奉納され、実に素晴らしいもので、鳥肌が立つような感動を受けた。江戸時代から伝わったものだという話だが、太鼓のリズムといい、笛の奏でる音階という、舞人の仕草といい、古い神楽の形を色濃く遺しているような感じがした。どちらかと言えば、神楽と言えば、雄壮な南部神楽の印象が強い私の神楽のイメージを粉々に壊されたので余計に鮮明に心に焼き付いている。
 
 

本殿に続く参道の脇に
1999年6月13日義経公810年祭に建立された鎮霊碑が見える

参道を昇ると、そこには広場がある。左の奥に八百十年祭で建立された義経公鎮霊碑すっくと起っている。懐かしい思いがして、ビデオを回しながら、近づいた。円筒形のコンクリートの碑だが彫られた字が深くて、実に立派だ。裏に回ってみると、「白旗神社氏子一同」と、これまた力強い字が深く彫られている。またこの時の模様を伝える立て札が目に付いた。そこには、こんなことが書かれてある。

「源義経公鎮碑 文治五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し壮烈な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦で首実検後に棄てられたが、□に逆流し白旗神社の近くに流れ着き、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斉行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。

 平成十一年六月十三日 白旗神社」


 
 

義経公810年祭鎮霊碑の看板文

奥州と相州分かつ判官の御霊合わせてこの塔起つる

二年前のことが、思い出された。あの時、六月十三日の朝九時過ぎ、この碑には、白い幕が掛けられていた。どのような碑がその中にあるのか、どきどきしたものだ。そんなことを思いながら、次の階段を昇ろうとすると、中学生一年生位の女の子が、二人腰を下ろして、盛んに何か、話している。私は思わず、二人に話しかけてみた。

「この辺の人ですか」
「この裏に住んでいます」
「この神社が義経さんを祭っているのは知ってる?」
「もちろんです」
「明日の祭りは、やっぱり来るの?」
「ええ、たぶん」
「お父さんやお母さんは?」
「パパですか?パパなら、絶対くると思います」
「ウチのとパパも同じです」
「へー、神社の何かやってるの?」
「何か、神輿とか、大好きだし、この辺りの人は結構義経と弁慶が好きな人が多いです」

    

鎮霊碑の表(左)と裏(右)

たわいのない話だったが、やはりこの界隈の人が、源義経という人物を大切にしていることは疑いないようだ。それにしても藤沢という場所は、これほど鎌倉という場所に近いにもかかわらず、境川という川に隔てられて、鎌倉から見れば、やはりひとつの異界としての存在するのかもしれない。これは栗駒だって同じだ。栗駒に源義経の胴体が葬られた経緯は、藤原姓の沼倉小次郎高次という武将が、奥州街道の支道にある松山道の裏手にあたる沼倉を領地としていて、この人物と義経が、仲が良かった関係で、自害の後に、自分の館のあった判官森の一画に盛り土をして、塚を造ったと伝わっている。

鎌倉と藤沢の関係と同じように、平泉という所からみれば、栗駒の地も、山と道を隔てた異界に当たる。恨みや怨念を持って、亡くなった魂の多くは、このように中心の地から境を隔てた地に、封印する形で、鎮められることが多いとされるが、まさにこのようにして、義経の報われぬ魂は、それぞれ奥州においては栗駒の地に、そして相州においては藤沢の地に鎮められたのではあるまいか。つづく

  

白旗神社でも弁慶の名の付くものは多い
左が弁慶松、右が弁慶の力石だ


史料
白旗神社略誌
白旗神社
御祭神 寒川比古命、源義経公
配神  天照皇太神、大国主命、大山祀命、国狭槌命
例祭日 七月二十一日
由緒
往昔一ノ宮寒川神社を勧請し建久九年荘厳寺住僧覚憲別当となる、文治五年源義経奥州にて敗死し、その首を黒漆柩に入れ、美酒に浸し持ち来り腰越の里にて和田太郎義盛、梶原平三景時直垂を着け甲冑の郎従二十騎を相具して首実検をなし此の地に埋めたり、斯(かか)る実事に基きて宝治三年丁丑九月義経を合せ祀る、社前領家町に首塚、首洗井あり、享保三年紀州公姫君参勤交代の砌(みぎり)此の陣屋於て急に腹痛を起し、大神に祈願せし処、忽(たちまち)に全癒す、木杯一個紋章幕、高張を奉納し、例祭には十万石の格式有と伝ふ、享保四年十二月二十一日神祀官領従三位吉田兼敬公より、正一位を授く。宝暦二年社殿を再建し旧坂戸町総鎮守となし、白旗神社と称つ、文政三年庚辰年二月八日、火災に罹(かか)り、社殿及古書類等を焼失す、文政十一年子年六月より天保六乙末年冬に亙(亘:わた)りて社殿を再建し現在に至る。
御社殿
現在の御社殿は文政十一年六月より天保六年十二月にわたって造営された、本殿、幣殿、拝殿を連ねた典型的流権現造り(ながれごんげんずくり)であります。華麗な彫刻は代表敵江戸時代を偲ぶ神社建築の文化財として貴重なものです。昭和五十四年六月御社殿腐朽による大改修工事によって、在来の御社殿が一新した。
木造銅板葺流権現造り
本殿 3、45坪
幣殿 2、90坪
拝殿 8、02坪
例祭と神輿渡御
死腹はまつりは昔から夏の景物で七月十五日の出御祭に始まり七月二十一日の大祭に続いて午後一時より神幸祭が行われる。宝暦七年、義経弁慶の神輿二基が作られ白丁姿で氏子渡御があり、行列が従う。各町御酒所に於て御神楽の奉奏があり、氏子、崇敬者の家運の繁栄を祈るのである。
相模一帯はもとより、鎌倉、三浦、京浜地方より集まってくる人々の群でにぎわい、湘南地方の夏祭りの中でも名物の一つである。これは藤沢藤沢宿場時代にこの地方一帯の商業の中心になっていたからで、藤沢の商人、ことに坂戸町、領家町等の問屋街では、この日やってきたお得意客にお銚子一本と赤飯をふまって、お祭りの接待をした。その頃の農村では、一年の勘定は、盆と暮にきまっておりましたが、藤沢の問屋と取引きしていた農村は、何時か、白旗祭りの日を勘定日と定め、これが「白旗勘定」と呼ばれる起りであります。
特殊神事
十月二十八日白旗神社秋祭に行われる湯立神楽(八座)の神事があります。これは江戸時代より、この地方に伝わる神楽で、特徴は五色の注連(シメ)と竹で天蓋(テンガイ)を造り、この山作りの構造と注連(シメ)切は秘伝とされております。
神楽の一つに「笹ノ舞」がありますが、沸騰したお湯に笹を浸し参拝衆の頭上に散らかしかける、これが湯花と言います。この湯をうけた者は無病息災としての信仰があります。
又最後に「剣ノ舞」(もどき)があります。天狗の面をつけ鉾(ホコ)を持って四方のクジ切と神前に供えた投餅をまく、そのとき面をつけた山ノ神が杓文字(シャモジ)を持って現れ道化を演じながら参拝衆に餅をまく、この特殊神事は無形文化材として今日まで伝わっております。
白旗神社と義経
白旗神社は、およそ七百年前、源義経の霊を祀ったものであります。義経は一一五九年(平治元)源義朝の六男(八男また九男ともいう)として生れ、幼名牛若丸、母は常磐御前、二歳の時、義朝が平治の乱で平清盛に敗死し、危うく殺されるところを赦されて、兄頼朝は伊豆に流され、牛若丸は京都の一條長成の庇護をうけて生成しました。

 七歳の時、母は出家させる目的で鞍馬山へのぼらせ、名を遮那王丸と改めました。しかし遮那王丸は憤然として父祖の恥をそそごうと思い立ち、日夜武芸を習い、十六歳の時三條季春という金商人に伴なわれて、はるばる奥州に下り、平泉の藤原秀衡に頼ることになりました。或いは、十八歳の時ひそかに都に上り、鬼一法眼に従って兵法を学び、その後奥州に下ったという説もあります。
 二十二歳の時、頼朝が以仁王の令旨を奉じて平家追討の軍を起すを聞き、佐藤継信、忠信等の豪雄を従えて平泉を出発し、夜を日についで頼朝の陣営に馳せ参じました。

 一一八四年(寿永三)頼朝の命をうけて兄範頼と共に木曾義仲を討ち、ついで平宗盛をひよどり越の奇襲で一の谷に破り、更に平家の大軍を屋島に討ち、壇の浦に追いつめて滅ぼしました。そこで義経は軍状を頼朝に報告するため、平家の大将宗盛等の捕虜を鎌倉に押し送って東下したのですが、頼朝は義経に勝手な行動があったことを怒って鎌倉に入ることを拒みました。義経は誓書(腰越状)を差出したりして誤解を解こうとつとめましたが、遂に許されなかったので、大いに頼朝の措置を怨らんで京都へ引返し、ここに兄弟の間は一層けわしくなりました。

 義経は頼朝から追われる身となり、武蔵坊弁慶等を従えて、奈良吉野など方方に隠れまわること三年、頼朝の探索がますます厳しくなったので静女とも別れ、山伏姿に假りし奥州に下り、再び藤原秀衡を頼ることにいたしました。秀衡は義経を衣川館に入らせて厚く待遇しましたが、間もなく秀衡が病死し、その子泰衡が継ぐと、頼朝の威を恐れ、父の遺言に背いて義経の居館を急襲して自殺させました。

 時に一一八九年(文治五)義経は三十一歳でありました。義経の首は黒漆の櫃に入れ、美酒に浸して届けられたので、頼朝は和田義盛、梶原景時に首実検をさせましたが、たとえ兄弟の間が不和であったためにせよ、余りにも惨めなその姿に、見る者皆袖をぬらさない者はありませんでした。首はそのまま河原へ取り捨てられたのですが、不思議にも金色の亀にすくいあげられ、背に乗せて境川を藤沢宿の河辺に運びこまれ「われは不幸にして悪人の舌頭にかかって高館の露と消えたが、その首さえ捨てられて怨魂やる方なし。汝等よく葬りくれよ」と告げたので、里人は大いに驚きその首を洗って丁重に弔いました。

 これが現在の首洗井と首塚であると伝えられます。一方鎌倉の御所では、義経の怨霊に苦しめられ、頼朝は藤原次郎清親に命じ、首塚から一町ほど北の亀の子山に社を建てて義経の霊を祀らせました。これが即ち、白旗神社の起りであります。(以上)
 

*この文書は、白旗神社様のご厚意で掲載させていただいているものです。依って無断転載は固くお断りいたします。





史料

白旗神社の新しい源義経公顕彰碑のこと

平野雅道

本殿階段の下、左にあたらしい源義経公顕彰碑がある。平成十一年春、宮城県栗駒町の菅原次男氏から意外な申し出があった。栗駒町には義経の遺骸を祭る供養碑があり、離れてしまった首と胴体を合わせ供養したいとのこと、確かに遺骸は別々になったわけで急遽現地に飛んだ。六月十三日盛大に供養祭が行なわれ、菅原さんは合わせた義経公の魂を徒歩で約五百キロ一ヶ月かけて運んだ。
(「東海道五十三次 藤沢宿史跡ガイドブック」平野雅道著より抜粋)

*この文書は、可満くらやミニ資料館の平野雅道氏のご厚意で掲載させていただいているものです。依って無断転載は固くお断りいたします。本資料を欲しい方は、可満くらやミニ資料館、電話0466−25−7459まで、ご連絡してください。
 



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2001.10.31 H.sato