混沌の廃墟にて -143-

シェアウェアの光と影

1991-01-28 (最終更新: 1996-11-05)

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TO:SDI00510
FROM:Phinloda
SUB:MacJapan '91-2
大政様

  前略、突然のお手紙失礼いたします。(*1)

  MacJapan の 1991 年 2 月号の特集、「シェアウェアの光と影」の中の、「フ
リーマーケットとしてのパソコン通信」を拝読させていただきました。この中で、
PDS と呼称についてのご意見を拝見いたしましたが、「フリーソフトウェアとい
う呼び方を広めよう運動」の提唱者として、ここは私の考え方も主張させていた
だきたいと思い立った次第です。勝手ながら、いくつか感想を書かせていただき
ます。

  まず、PDS が Public Domain Software の略と断言なさってますので、その前
提で書きたいと思います。と申しますのは、なかには、PDS とは「ピーディーエ
ス」という種類のソフトウェアで、public domain という言葉と何の関係もない
と主張する方もいるようですから。

  これに関して、

>   一般にはこれは著作権を放棄したという意味で説明されている

  と、まず述べていらっしゃいますが、これについて些細な意見を書かせていた
だきます。in the public domain という言葉からは、権利が切れている、という
ニュアンスがまずあります。例えば、著者の没後何十年か経って著作権が消失し
たとか、特許の期限が切れて誰でも使えるようになった、というイメージです。

  ご存じと思いますが、アメリカでは近年まで著作権を主張する場合には方式主
義、すなわち著作者が権利を主張する意思を表わすことにより初めて権利が発生
する方法を採用していました。法律が最近変更されたという話もあり、また州法
などではどうか考えると結構ややこしい話になりますので深入りは避けますが、
要するに、放棄する以前に、もともと著作権が存在しないソフトウェアが実際に
あった訳です。これらは、特に「放棄した」というよりは、著者が権利を主張す
る必然性を認めなかった、という解釈が正確ではないかと思います。

  また、日本のように無条件に著作権を持つことのできる場合は、確かに放棄す
ることによって public domain となると考えられますが、放棄して権利が消滅し
たということがすなわち public domain であり、放棄したという意味がただちに
public domain を意味するものではないと思います。

  辞書などを見ても、in the public domain の訳は、(著作権・特許権などの)
「権利の消滅した」というような表現となっていて、「権利を放棄した」という
表現はみられない筈です。(あらゆる辞書を確認したわけではないので、この点
は説得力に欠けますが)

  さて、これに続いて、

>   日本では著作権の放棄ができないから PDS は存在しない…

  という命題を紹介なさっています。例えば、最近の雑誌では「パソコン通信」
の 2月号、p62 にも、次のように書かれています。

>   これは、法律では放棄できないことになってはいるけれど…

  この件については、大政様は特にコメントなさってませんが、私の解釈を書か
せていただきます。これに関しては、拙作ながら、FPRG で以前公開いたしました、
「混沌の廃墟にて -129- 〜 -131-、Public Domain Software は日本に存在し得
るか (1)〜(3)」で詳しく述べました。ご希望ならドキュメントをお送りいたしま
すが、600 行以上という長文なので、今回はポイントのみ書かせていただきます
と、

    「著作権法」第六一条に、「著作権は、その全部又は一部を譲渡することが
    できる」と明確に記載されている。著作権は財産権である。個人の財産権は
    原則として処分自由で、従って、譲渡も放棄も自由である。

  という解釈です。もっとも、譲渡できる権利が放棄できないというのは、ババ
抜きのジョーカーみたいな存在になってしまい、何か変ですが、この点、「著作
権は日本では放棄できない」という主張の根拠をぜひ知りたいものです。

  想像ですが、「著作権は著作物の公表と同時に、著作者が特に主張を明確にし
なくても発生する」ということから拡大解釈して、「自動的に発生する権利だか
ら放棄できない」と誤解されているのではないかと思います。例えば遺産相続の
権利は、権利者なら「遺産相続の権利を主張します」というドキュメントに明記
しなくても必然的に発生しますが、本人が希望すれば放棄できますが、これと同
様ではないでしょうか。

    *

  本論に戻ります。私の解釈は明快です。PDS とは、software which is in the
public domain である、という主張です。すなわち、個人的な権利が消滅した
ものをそう呼んでおります。そこで、引用させていただきますと、

>   はたして「Public Domain」なる言葉は「著作権の放棄」という具体的で狭義
>   な事がらを指すものなのだろうか?

  に対してまず感じたのは、「著作権」に対する考え方が大政様と私とで非常に
異なっているのではないか、ということです。私は、作者が著作権を主張するの
と放棄するのとでは、狭義な事柄ではなく、決定的に大きな差異だと思います。

  「著作権」というのは、譲渡や放棄しない限り、著作者が独占的に主張できる
権利です。細かく考えれば内容は多岐にわたりますが、copyright という言葉が
意味するように、元来は複製する権利から由来しているそうです。著作者の許可
なければ、複製してはならない、と独断で裁量できる権利なのです。

  すなわち、私の考えでは、Copyright の主張されているソフトウェアは、個人
がその強力な権利を独占しているソフトウェアというイメージです。

  これに対して、PDS というのは、public の所有物という印象があります。これ
は、大政様が MacJapan 誌で主張なさったように、

>   公共資産としてのソフトウェア

  という解釈に同感です。それは、どこまでも共有物としての存在です。法律的
云々を論じる以前に、まず「共有物」としての存在である所に PDS の本質がある
と思います。

  となってくると、個人の裁量で複製云々を裁量できるような存在のソフトウェ
アを、PDS と呼ぶのは、どうも違和感があります。Copyright とは、「これは共
有物ではなく作者だけが権利を持っているんだ」という意思の明確な主張がまず
あり、その上に法的な話が付加されてくるものです。権利を持っているのはあく
まで個人です。ですから、こういうのは私は Personal Domain Software と呼ん
でいます。:-)

  「著作権」に対する理解の必要性が重要な論点だと思います。最近、知的所有
権に関する日本の態度の甘さは、国際的な問題にもなっています。特にアメリカ
からの日本叩きのネタになりがちですが、このような背景も十分理解した上で、
なおソフトウェアに対する著作権の理解は、我々プログラマーにとって実に切実
なる問題でもあります。

  想像ですが、ユーザーにとっては、ソフトウェアの作者が著作権を主張してい
るかどうか、そんなことはどうでもいいじゃないか、という考え方もあるかもし
れません。利用者にすれば、無料で使えるかどうかが本質的に重要であって、も
し無料で使えるのなら、それがフリーソフトウェアであろうが、PDS であろうが、
使う上にはあまり影響しないからです。作者に権利があるのか、共有物なのかは、
作者にとって重大な問題なのです。

  著作権の留保されているフリーソフトウェアは、いわば私有地を公園として提
供しているようなものであり、公共施設ではありません。Copyright が主張され
たソフトウェアを PUBLIC DOMAIN software と呼ぶことは、個人の主張している
権利を軽視するものであり、また、逆に本来の PDS を公表している作者の名誉を
ないがしろにするような気がしてならないのです。

   もちろん、No Copyright のソフトウェアは PDS と呼んで構わないし、PDS が
今後数多く発表されることを期待しています。

    *

  最後に「フリーソフトウェア」の定義について書きたいと思います。

  大政様は、

>   シェアウェアやそれに対してのフリーウェアという呼び名がつくのは当然と
>   しても、全体を総称する時には PDS という言葉を使うべきであると私は思う
>   のである。

  と述べていらっしゃいますが、この文章からは、「フリーウェア」を無料のソ
フトウェアと解釈なさっているような感じがしました。これについて意見を書か
せていただきます。

  私は「フリーソフトウェア」という言葉をよく使います。PDS を public domain
な software としたのと同様、free な software のことをフリーソフトウェアと
呼んでいます。これだと何が明快だかわかりませんので、free という言葉の意味
が問題になります。

  何かしら自由に使えるような要素を持ったソフトウェアのことを、私はそう呼
んでいます。最も典型的なのは、ある種の制限に従うならば、自由に配布して構
わない、というものです。制限があるのに free とはいかに :-) と言われそうで
すが、例えばデパートの試食コーナーで、「ご自由にご試食ください」と書いて
あるようなものでしょうか。

  このような考え方が私個人の特別な解釈でないことを示すために、参考になり
そうなドキュメントを 2 つ紹介させていただきます。

  まず、共立出版の雑誌、bit、1987-8 の「リチャード・ストールマン氏を囲ん
で」という記事です。ストールマン氏のことはあえて説明いたしませんが、この
記事の中で、ストールマン氏は、free software と言う場合には、無料という意
味ではなく、コピーが自由なのだと主張し、さらに、次のように述べています。

>   たとえ私がお金をもらったとしても、でき上がったソフトウェアを人々が自
>   由にコピーすることを制限したりはしないということです。

    (p.15, 右段より引用)

  すなわち、お金を取っても free software である場合があることになります。

  2 つ目は、この手の洋雑誌では最もメジャーな部類に属すると思われます、BYTE
誌、1990-6, pp.97-100。ここでは、David Fiedler 氏が FREE SOFTWARE! という
記事を書いています。

  この記事では、free software をPDS、shareware、そしてその中間の存在とし
て、freely available software の 3 種類に分類しています。つまり、free
software には、PDS も shareware も含まれていることになります。私の見解も
まったく同様です。ついでに、同記事の中に、PDS について説明した箇所があり
ますので、そこだけ引用いたします。これも同感です。

>   The most free software is public domain, which means the author
>   explicitly relinquishes the copyright, and the software belongs
>   to anyone who wishes to use it in any way.


  長文となり申し訳ありません。FMACUS のさらなる発展をお祈りしつつ、今回は
これにて失礼させていただきます。

                                                                草々


補足

(*1) この文章はFMACUSのSYSOPに向けて出したメールの内容をそのまま使ったもので ある。本文に関しては、表記を改めたい個所もあるが、あえて全く手を加えない で掲載した。本文中に現れる、別の回へのリンクを以下に示す。


        COMPUTING AT CHAOS RUINS -143-
        1991-01-28, NIFTY-Serve FPROG mes(12)-3
        FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
        (C) Phinloda 1991, 1996