混沌の廃墟にて -130-

Public Domain Software は日本に存在し得るか (2)

1990-09-02 (最終更新: 1996-02-06)

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4 著作者人格権

4.1 著作者人格権と public domain の関係

「著作者人格権」は譲渡できない。
第五九条(著作者人格権の一身専属性)
著作者人格権は、著作者の一身に専属し、譲渡することができない。
著作者の権利を法的に定義するとき、財産的権利と人格的権利を独立させて考 えるか、双方をまとめて一つの権利として考えるか、学説上も意見が分かれてい る。前者を二元説という。日本の著作権法は、これを採用している。後者は、一 元説と呼ばれている。

Public domain に対する著作権法上の解釈を行う場合、一元説・二元説という 概念を持ち出すのは混乱を増やすだけで、意味をなさない。なぜなら、二元説に おいて「著作権」のみを放棄したものを public domain と呼ぶか、あるいは「著 作権」および「著作者人格権」の両者を放棄したものでなければ public domain と呼べないのか、という問題に帰着させれば、この議論を一元説に当てはめるの は極めて容易だからである。

この問題を検討するには、二つの権利の特徴を知るのが近道であろう。おおむ ね、著作者人格権が人格的な利益を保護する性質であるのに対し、著作権は財産 的権利の保護が目的であると言われる。ベルヌ条約(文学的及び美術的著作物の 保護に関するベルヌ条約)の、次の条文も参考になる。

第六条の二

(1) 著作者は、その財産的権利とは別個に、この権利が移転された後におい ても、著作物の創作者であることを主張する権利及び著作物の変更、切除そ の他の改変又は著作物に対するその他の侵害で自己の名誉又は声望を害する おそれのあるものに対して異議を申し立てる権利を保有する。

このように、財産的権利とは別に、著作者の名誉又は声望を守るための権利を 定めているのであり、これが著作者人格権に相当すると考えるのである。では、 Public domain となるには、このような権利までを放棄しなければならないだろ うか。そこで、ふたたび著作権法にたちもどり、権利別に検討してみよう。

著作者人格権は「公表権」「氏名表示権」「同一性保持権」の3つの権利から 成っている。このうち、「公表権」については、PDSは公開されていることを 前提として何ら差し支えないので、議論を省略し、残りの2つの権利について具 体的な例を交えて検討する。

第十九条(氏名表示権)
(1)著作者は、その著作物の原作品に、又はその著作物の公衆への提供若 しくは提示に際し、その実名若しくは変名を著作者名として表示し、又は著 作者名を表示しないこととする権利を有する。
例えば、バッハの曲は、バッハ自身によりバッハ作と表記する権利があり、ま たは作者が望まないならば表示しない権利があるというのである。バッハの曲を 私の作品と偽るならば、バッハの名誉の侵害ということになるだろう。作品の作 者が誰かというのは、事実に対する表現である。これは権利というよりは、真理 として曲げ得ない性質のものである。

その事実に対する表現、 例えば 「あるソフトウェアの作者が誰かを表記するという点のみが 問題となって、その結果ソフトウェアを自由に利用できない」という ことは考えられない。

第二十条(同一性保持権)
(1)著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、 その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
もしバッハの曲の一部を他者が改変し、「これがバッハの曲である」と主張し たなら、やはり事実を曲げる行為という点で許されるものではない。バッハの作 品そのものがバッハの曲なのであり、他人が勝手な解釈を行って、こちらの方が バッハの望んだものだろうと考えたとしても、やはり手を加えたものは既にバッ ハではないのである。アレンジの結果と原作のどちらがよいかというのは、全く 別の次元の問題である。

このように、氏名表示権、同一性保持権は、道義的にも極めて当然な主張であ り、これらが単に著作者の人格保護のために定められていることがわかる。

ならば、著作者人格権が放棄できないなら、public domain は存在しないと結 論することはできるだろうか。答はNOである。今述べたように、バッハの曲は 著作者人格権を保持した状態となっているが、それにも関わらず、バッハの曲が 今や public domain であることは明白なのだ。

このような意見を別の機会で書いたことがある。これらは都合のいいように、 必要な議論をわざと避けていて、その意味ではかなり詭弁に近い。そこで、特に プログラム著作物に関して問題となりそうな点について、さらに検討を進めよう。

4.2 氏名表示権に関する問題

例えばプログラムを実行時に表示されるメッセージに作者の名前が含まれてい るとき、それを削除しなければ処理の都合上問題になる場合が考えられる。作者 の名前だから都合が悪いというのではなく、内容と無関係に画面に表示すること 自体に問題があることが多い。これを勝手に削除するのは、氏名表示権の侵害に ならないか。私の経験では、ある種のバッチ的処理に、そのようなプログラムを 組み込もうとして、このような問題が発生したことがある。

上のような特殊な例でなければ、作者名が表示されることがただちにソフトウ ェアを自由に使うことへの障壁になることはないと思われる。

4.3 同一性保持権に関する問題

文芸作品・絵画・写真などの著作物に比べると、プログラム著作物は、用途に 従って改変したり、一部分を利用する可能性が極めて高い。同一性を保持するこ とが、応用を制限し、自由に利用することへの妨げになることは十分有り得る。 これは、PDSの精神にも反する結果となりかねない。

同一性保持権は、4.1 で例示したように、改変部分を作者の著作であるように 誤解されるような行為だけでなく、改変部が他者によることが明記された上でも、 なお権利の侵害となることが考えられる。

しかし、同一性保持権が常に作者に専有されていることが、PDSの存在を否 定するのではない。うまい方法があるからである。著作権法で定められているの は、著作者が著作物に関して、「その意に反して」変更されないという権利を保 持する、ということである。「著作物は理由にかかわらず、著者以外が変更して はならない」と主張しているわけではない。

従って、もし著作者が「このプログラムは自由に変更・切除して構わない」と 宣言していたら、どのような変更も「その意に反する」ものとはなり得ない。こ のように宣言することにより、著作者人格権を侵害せず、誰でも自由に改変でき る著作物を公開することが可能になる、というのが私の解釈である。私がPDS と宣言している公開ソフトウェアには、わざわざ「このソフトウェアのいかなる 変更も許可する」という主旨のドキュメントを付属させている。

しかし、著作者によっては、自由な改変を望まない可能性もある。この場合に は著作者人格権により、原則として他者の改変は許されなくなる。ただし、これ がPDSの精神の意図に反しないかどうかは判断が難しいこともあるだろう。次 は架空の例である。

A氏が通信ソフトをPDSとして公開した。A氏はこのプログラムに、表示 画面を保存し、逆スクールさせて表示させる機能を故意に除去した。表示し た画面を逆スクロールさせて確認している時間は、回線が使われずにふさが った状態になるので、多数共有を想定した回線の無駄使いを助長する機能は 望ましくないと考えたのである。このソフトウェアはPDSとしてソースと ともに公開された。

他人が回線を待っている時間は自分には関係ない、むしろ自分が便利なら他 人はどうでもいいと考えていたB氏は、このソフトに逆スクロールの機能を 追加して公開した。B氏を支持する人が殆どだったため、B氏のソフトは広 く使われ、A氏のソフトは誰も使わなくなってしまった。結果的に、回線は ますます混雑し、A氏をその原因を作った一人として、そのことを不満に思 う人達に責任を追求されることになった。もちろんB氏も責任追求されたが、 逆スクロールの機能は常識であり、ソースを公開したら機能が追加されるこ とは予想できたはず、と主張したのである。

なお、プログラムに関しては、同一性保持権に対する例外事項が定められてい る。これからも、同一性保持権が、プログラムを通常に利用するための障害にな っていることが想像できるであろう。

4.4 PDS

以上のように、著作者人格権のうち、同一性保持権は、ソフトウェアを自由に 利用する上で障害になる原因となることも考えられるが、特にどのような改変も 構わないと作者が名言する限り、誰もが自由に使えるというPDSの基本的な精 神に反しない性質を持たせることは、著作者人格権の一身専属性にかかわらず、 可能である。

(続く)


    COMPUTING AT CHAOS RUINS -130-
    1990-09-02, NIFTY-Serve FPROG mes(3)-145
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1990, 1996