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「誰でも自由に使ってよい」という状況は、たとえ Copyright が主張されたも のであっても、全ての著作権に関して無料で利用承諾を無制限に与え、かつ改変 も自由と宣言したなら、見かけ上は全くPDSと変わりなく実現できるだろう。 著作権が留保されていれば、ある時に作者の気分が変わって、自由な利用を禁止 するように宣言するようなことがあるかもしれないが、これは問題も大きい。た だ、そのような主旨変えが法的な意味でどのような問題となるかは、ここでは考 えないことにする。
にもかかわらず、PDSというものの意義を考える場合、やはり個人の所有物 ではなく、共有財産というポリシーが重要だと思うからである。Copyright とい うのは財産的権利であり、留保する限り個人の所有物という主張であることは明 白である。個人が財産的権利を持つものは共有財産とは言い難く、従って「パブ リック」ではなく「パーソナル・ドメイン」とでも呼ぶのが妥当だと思うのであ る。
ソフトウェアは、他の著作物に比べると、明らかにノウハウ・アイデア的要素 が大きく、例えばその一部あるいは全部を他に利用したり、または改変すること によって、別の用途にも適するように作り直すことが非常に簡単である。PDS が自由に自分のプログラムに組み込めるという性質を持つ異によって、再開発を 防ぎ、その開発パワーを他の作業に使えるという意義は大きいのである。
著作権を主張する対象が不在であれば、誰でも勝手にそれを複製することが可 能になる。ソフトウェアの場合、同一性の保持という点に重大な問題を含んでい ることは既に述べた。作者が他者による改変・切除などを許可するように宣言し て、この問題は回避しておくべきである。
誰もが自由に利用できることにより、悪い用途に使うための改造も助長するの ではないかと危惧するかもしれない。悪用するためのソフトウェアが作成された 場合、その責任は全て、そのソフトウェアの作者自身が負うべきである。最初か ら悪意の改造を予期して公開されたのでなければ、たとえそれに参考になるよう なPDSが存在したとしても、その責任をオリジナルの作者が負う必要はない。 悪用ではなく多数のユーザーの利益となるような使われ方も可能であることに注 目すべきである。公開されたソフトウェアをどのように応用するかは、応用者の モラルの問題にすぎない。
PDSの用途が無制限であるとはいえ、それを自分が作成したものだと偽るこ とは許されない。作者が誰であるかというのは、一つの事実として変更すること のできない性質を持つからである。また、このような行為は作者の人格を侵害す る行為であるから、社会慣習的にも問題がある。人格的権利を保持することは、 何ら財産的な価値を損なうものではない。
現在、広域のネットワークを利用できる環境は、一般家庭でも用意に使えるレ ベルになってきたし、コンピュータそのものが低価格になってきたため、ネット ワークを利用する人が急激に増加してきた。これは、ネットワークを使ってソフ トウェアをやりとりする環境が整ってきたことを意味している。
PDSという手段を使えば、個人が作成したソフトウェアを不特定多数の相手 に配布することが可能である。もしソフトウェアを芸術的な視点でとらえるなら、 これは自己表現の一つの形態に過ぎないが、それ以外にも、自己顕示欲を満たす とか、自分の技術レベルのアピールという意味でも、このような場所でソフトウ ェアを公開することに意義を見いだす場合が予想される。
ただし、これだけの目的では、著作権を留保して無料公開されたソフトウェア、 いわゆるフリーソフトウェアとの差異がない。では、PDSとフリーソフトウェ アの根本的な違いは何か。これは、いわゆる古典作品を誰が出版しても構わない のと同様、誰が勝手にそれを製品化しても構わないことに尽きる。
実際、フリーソフトウェアの多くが無断で商用とすることを禁止している。GNU というプロジェクトの配布しているソフトウェアを用いて作成した二次ソフトウ ェアを、市販してよいかどうかという議論は活発である。特に GNU が配布したラ イブラリを含むような製品であれば、「ソフトウェアは無料で誰にでも配布でき なければならない」という GNU の根本的な精神に反するものとなるため、処理が 難しい。FSF の見解としては、極力柔軟に利用できるような方針を考えているよ うだが、実際、これがボトルネックとなって開発に GNU によるソフトウェアを使 うことができない場合が発生している。
PDSを改善したものも、やはりPDSとして公開すべきという意見もある。 「あなたは無料でソフトウェアを手に入れたのだから、それを改良したものも無 料で公開しなければならない」という発想もある。手を加えるという行為は、や はり労働力の提供には違いないし、それに対して報酬を受ける権利は労働者にあ ると思うので、私としてはこのような発想には賛成できない。所詮人間は収入が なければ生活できない場合が多いからである。
あるプログラマはPDSを元にして、非常に強力な開発ツールを作る能力を持 っているかもしれない。それは結果的には、PDSを作る人にとっても利益とな る可能性を秘めている。しかし、その開発ツールは無料で公開しろとか、市販し てはならないという制限があれば、そのプログラマは、飯を食うために市販でき る別のつまらないソフトウェアを作成することになり、強力な開発ツールを作る 時間は失われてしまうだろう。このようにして、全世界の人が便利になるチャン スを失うのと、その可能性を残しておくのとは、いずれが望ましいだろうか。
もちろん、オリジナルが遜色ないなら、無料でオリジナルを手にいれた方が安 上がりである。それなら、わざわざ市販された版を買う人はいないだろう。自作 の用例集や詳細なマニュアルを添えて有料で市販することは、付加価値に値段を 付けたと解釈すれば意義がある。
PDSを改良した行為に報酬を要求するか、改良版もPDSとして公開するか は、手間をかけた人が決定権を持っている。
あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売 り<払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むこ とになります。そのうえで、わたしについて来なさい。俗世の所有欲に関する否定的な発想は、多くの宗教に見られるものであるが、 PDSという発想の中に、所有を否定する潜在的な願望があると考えるのである。 なぜなら、この場合、自己が所有しないという意志表示は、「神の国に入る」た めに必要なことであって、単純に無欲だという言葉で片付く問題ではないのであ る。共有するという点では、同じく聖書から次のエピソードを引用させていただ く。(マルコの福音書、10.21)
そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を 取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与え られたので、弟子たちは群衆に配った。PDSの世界においては、このような奇跡が現実となることを見過ごしてはな らない。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを拾うと、十二のか ごにいっぱいあった。
(同、14.19-20)
理屈っぽい言い方をするなら、もし他の人が作ったソフトウェアを自分が自由 に加工でき、しかも自由に処分できるなら、極めて都合がよいことは明白である。 ここで、PDSの創始者達は、もしそのような人が10人集まったら、各自1つ ずつソフトウェアを提供すれば、全員9つのソフトウェアが手にはいることに気 付いたのではないか。ソフトウェアの驚くべき多くの部分が単純なモジュールで あり、Cのような言語を使えば、ある程度心がけて作った関数は、殆ど何も考え なくても他のプログラムに流用することも可能である。このような作業をソフト ウェアごとに行うのはどうかと思う。何のことはない、グループウェアなどと最 近になって騒いでいるようだが、PDSの世界では既にそのような発想は当たり 前だったのである。
また、ソフトウェアというのは、たとえ一人で作成したものであっても、必ず しも自分の力で作ったとは思えない部分が含まれている。アルゴリズムの多くは 先人から学んだものであるし、他の人のプログラムを真似て腕を磨いた経験のあ る人は多い。「まず他の人のプログラムを読め」という原則は今でも最強の秘伝 であり、他を寄せ付けないのである。この点、ソフトウェアは元来共有的な性質 を持つのだとも言える。
パブリックドメインという概念が日本の法律上は定義されていないことを指 摘している。また、日本の著作者人格権に相当する保護がアメリカの法律で は行われないことも書かれている。
Free Software に出てくる単語 'free' というのは、金銭的な意味ではなく、 「自由」という意味であることを Stallman 氏は別の機会で述べている。 "How GNU Will Be Available" のセクションには、"GNU is not in the public domain." と書かれている。
GNU のソフトウェアを PDS と称している。
著作権の放棄されたソフトを PDS と呼ぶのは間違いと主張。
GNU を PDS のプロジェクトと称している。
public domain の訳として「公有(著作権、特許権などの権利消滅状態)」と 紹介しながら、「PDS は決して著作権を放棄したものではない」と主張。
著作権は財産権なので放棄も自由と主張している。著作者人格権に関する問 題に触れている。
31権利の消滅、の項で、著作権の消滅原因として、保存期間の終了、相続 人の不存在等、放棄、時効の4つを検討している。特に、「著作権も一般の財産権と同様にその全部または一部を放棄することが できる」(p.172、上段 7〜8 行、この項 千野直邦氏による)という見解に注目した い。
COMPUTING AT CHAOS RUINS -131- 1990-09-07, NIFTY-Serve FPROG mes(3)-159 FPROG SYSOP / SDI00344 フィンローダ (C) Phinloda 1990, 1996