混沌の廃墟にて -129-

Public Domain Software は日本に存在し得るか (1)

1990-08-25 (最終更新: 1996-02-06)

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1. 概要

日本では著作権法により、PDSは存在し得ないという説がある。しかし著作 権法にはパブリック・ドメイン(公有)という概念は定義されていない。本稿は、 パブリック・ドメインという言葉の解釈を試み、また、これが日本における著作 権法上存在し得ることを主張する。

2.現状考察

2.1 風潮

近年、知的所有権の取扱いへの関心が急激に高まっている。特に、特許権およ び著作権に関する問題は、コンピュータ関連業界では論争の的になりがちである。

PDSという言葉は、public domain software という表現の頭文字のみ残して 省略したものであり、personal domain software ではない。public domain とい う言葉は、本来特許権・著作権が消滅した状態のことをいうのであるが、特に日 本においては、明かに著作権が主張されているソフトウェアまで含めてPDSと 呼ばれることがしばしばある。

特にマスコミによる無責任が、この風潮を増長させているように思われる。P DSという言葉を初めて雑誌で目にした時に、もしそれが「自由に使ってよいソ フトウェア」という程度の説明しか書いてなければ、高校生以上程度の英和辞典 ならおそらく解説されているはずの、public domain という熟語の意味すら検討 せずに、PDSという言葉を使うようになる危険が考えられる。

また、PDSという言葉は、日常の会話ではまず使われない、いわゆる専門用 語なので、これを使うことにより、優越感を持つこともあるのではないかと想像 する。この場合、public domain という熟語の意味を知らないことが、かえって 有利に働くかもしれない。

テレコミュニケーションのような新人が増加する世界で、用語に対する正しい 意味も考えずに、安易にPDSという言葉を使い、フィードバックする効果も無 視できない。

Public Domain Software というのが、権利が個人に存在しない(それ故パブリ ックドメインと呼ぶのである)ソフトウェアを意味すると考えれば、著作権を主 張しているソフトウェアに関してPDSと呼ぶのは不正確である。著作権とは個 人の権利主張であり、public ではないからである。さらに、著作権など大した権 利ではないという、知的所有権軽視の印象を与える危険も考えられる。特に、日 本は欧米、特に米国から知的所有権に関する摩擦が生じることが多かったので、 このような表現が与える印象については、よく検討しておく必要があると思われ る。

2.2 厳密に呼称することの必要性

厳密な意味でのPDSは日本には存在しないという考え方がある。特に、雑誌 記事でのPDS紹介の時に、PDSという言葉を説明する必要が生じるので、こ の時にこのような表現がよく見られる。

仮に厳密な意味でのPDSが存在しないとしても、それは public domain でな いソフトウェアをPDSと呼んでよい理由にならない。このようなソフトウェア に対して別の呼び方(例えば、フリーソフトウェア)を用いることが可能だし、 既にそのような対応を行っているメディアも多い。

また、もし日本以外で厳密な意味でのPDSが存在する可能性が残っているな ら、PDSあるいはフリーソフトウェアが、オンライン・コミュニケーションと いう、国境を容易に越えることのできるメディア上で広く配布されることを考慮 し、この点からもPDSという言葉を厳密に使う必要があると思われる。

近年非常にクローズアップされてきた「知的所有権」に関するとらえ方として は、public domain という概念が実際にあるのだから、ソフトウェアに関しても これを無意味に誤用することは、避けるべきである。もし public domain でない ソフトウェアをPDSと呼んだ方がよい合理的な理由としては、個人的な趣味の 問題を除けば、他に呼び方がないのが唯一の原因であったが、フリーソフトウェ アという表現がかなり広まってきた現在、これはPDSという言葉を無理に使う 理由にはならない。

「フリーソフトウェア」という表記は長すぎるので面倒だという意見があるだ ろう。面倒という程の長さではないとも思えるが、どうしても長すぎるという場 合には、「フリーソフトウェア」という表現をFSと省略して表現することを提 唱したい。

従って、最大の問題となるのは、「厳密な意味でのPDSが、日本の法律上存 在し得るのか」ということである。これに関して、著作権法上、PDSは日本で 存在し得るという主張を以下で試みる。

残念ながら、「厳密な意味でのPDSは日本に存在しない」という根拠(特に 法的な根拠)を示した文献は殆ど見つけることができなかった。従って、このよ うな主張に反論することが困難である。これに関しては、そのような文献あるい は主張のあった時点で、機会があれば反論したいと考える。

3. public domain という概念の定義

3.1 法律上の定義

日本の著作権法の中には、public domain という言葉も、公有という言葉も、 一度も出てこない。つまり、法律上、public domain という概念は日本では定義 されていないのである。これは客観的な事実である。「日本では法律上、PDS は存在し得ない」という表現は、法律として public domain という状態がないこ とが条文化されているという誤解を招く危険がある。現実には、そのような条文 はないのである。

ちもろん、法律上定義されていないということが、ただちに法解釈の不能性に 結びつくものではない。むしろ、法律上定義されていない概念を、対応する条文 の言葉に当てはめて検討することが法解釈であり、そのような必要はしばしばあ る。

例えば、法律には「どつく」という言葉がでてこないが、だから他人をどつい ても法律上問題ない、と解釈することはできない。例えば「どつく」という行為 が暴行であると解釈されれば、刑法第208条の[暴行]が適用されるだろう。

そこで、PDSの存在に関しては、まず public domain という概念が、法律上 どのような概念に対応し、その結果どう解釈されるかという問題と考えることに なる。PDSの存在可否の意見が分かれるのは、public domain という概念の解 釈に関する個人差が大きいためである。

3.2 public domain に対する法解釈

public domain というのは、アメリカの法律上は、著作権の消滅した状態を指 すとされている。従来、アメリカでは著作権の発生に関して、積極的な意志表示 が必要であったので、特に著作者が権利を主張しない限り、著作権の発生しない 状態の著作物が存在し得た。このような状態のソフトウェアをPDSと呼ぶのは 正しい表現である。

著作権には保護期間が定められている。この期間を経過した著作物は、やはり public domain と呼ばれて差し支えない。日本では、著者の生存中および死後5 0年を保護期間と定めているので、この期間を経過した著作物は public domain を呼ぶのは正しい表現である。英和辞書には、public domain という熟語に対し て、特許権などの期限が切れた状態、と書かれているが、これに相当する。

では、著者の死後50年が経過するまで、著作権は消滅することは有り得ない か。著作権法第61条には、次のように書いてある。

第六一条(著作権の譲渡)
(1)著作権は、その全部又は一部を譲渡することができる。
このように、譲渡する権利であるならば、それは放棄もできるという説があり、 私もこの意見に同感である。もちろん、最終的な法解釈は裁判所の判断によらな ければならない。また、著作権は放棄できないと考えている人もいるようである が、私はその法的根拠を知らない。判例も知らない。

ただし、著作権の解釈に関して、次のような意見は興味深い。

日本では、著作権表示をしなくても自動的に著作権が発生し、著作権のうち 著作者人格権と呼ばれる権利については放棄することができない、とれさて いますので、厳密な意味での「著作権を放棄した」ソフトウェアは少ないこ とになります。

山下幸夫、オンラインソフトと著作権、
NETWORKER 1990 夏号、 株式会社アスキー発行、
p.49, 左段 l.17 〜 23 より引用

この説に対して、極めて自然な疑問がただちに発生する。それは、著作権法第 十七条から明白である。
第十七条(著作者の権利)
(1)著作者は、次条第一項、第十九条第一項及び第二十条第一項に規定す る権利(以下「著作者人格権」という。)並びに第二十一条から第二十八条 までに規定する権利(以下「著作権」という。)を享有する。
このように、著作権法においては、著作者は、「著作者人格権」並びに「著作 権」を享有すると書かれていて、「著作者人格権」は「著作権」のうちに含まれ るとは書いてない。すなわち、少なくとも日本の法律上は、「著作者人格権」と 「著作権」は、全く独立した別個の権利と解釈すると考えるのが妥当である。

もし「著作権のうち著作者人格権と呼ばれる権利」という表現を用いるという のなら、「著作権のうち著作者人格権と呼ばれない権利」のことを何と呼ぶのか という、非常に興味深い問題が発生する。文献によれば、これを「狭義の著作権」 とか、「著作財産権」と呼ぶこともあるようである。しかし、いずれの言葉も、 日本の著作権法には存在しない用語なのである。非常にまぎらわしいので、本稿 では「著作権」と呼ぶ場合には、日本の著作権法で示された通りの「著作権」を 指すものとする。

なお、著作権および著作者人格権を総称したものを、「広義の著作権」と称す ることもあるようである。

そこで、引用させていただいた文章を再度分脈から検討すれば、ここでは「広 義の著作権」、すなわち「著作権」を放棄し、かつ「著作者人格権」も放棄した ソフトウェアは少ない、と書いてあるというように拡大解釈するのが妥当だと思 われる。

しかし、日本の法律上、これは明らかに矛盾が含まれている。後で述べるよう に、著作権法によれば、著作者人格権は放棄することができないからである。た だし、日本の法律に拘束されない場合は、この限りではないから、そのようなソ フトウェアを指していると考えることは可能である。

ここで、public domain を著作権法により解釈するとして、次の2つの有力な 説について対比、検討する。

    a)「著作権」および「著作者人格権」を放棄した状態は public domain である

    b)「著作権」を放棄した状態は public domain である
では、例えばアメリカの法律では著作者人格権を放棄することが可能なのかと いうと、十分な資料がないため憶測の域を越えない議論となってしまうが、アメ リカの法律では、もともと著作者人格権という概念が存在しないらしい。つまり、 著作者人格権が放棄できるという条文が、アメリカの法律に明記されているわけ ではない。最初から著作者人格権などというものは保護されていないとすれば、 ないものが放棄できないのは明白な論理である。

もし上の論理が正しいと仮定すれば、アメリカにはもともと「広義の著作権」 という概念が存在しないのであるから、それに対してPDSという言葉を結び付 けるのは誤りである。むしろ、日本の著作権法で定義された「著作権」という概 念をアメリカの法律で解釈した場合の「著作権」と対応させるのが自然であり、 日本の著作権法による「著作権」+「著作者人格権」をアメリカの法律の著作権 に対応させるのは無理がある。

従って、結論としては、a) よりは b) がPDSにおける public domain とい う性質を適切に表現していると考えたい。

(続く)


    COMPUTING AT CHAOS RUINS -129-
    1990-08-25, NIFTY-Serve FPROG mes(3)-129
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1990, 1996