川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−1999年12月


●1999年12月6日

結婚したら女性側の姓を採用したほうが良い

 現在の戸籍制度では、結婚するとどちらかの姓を選ばなくてはならない。個人的には、姓のない名前を主張しているし(「夫婦別姓の次は、姓を含まない名前に」を参照)、遠い将来にはそうなると確信している。しかし、現実の社会が人々の価値観から遅れている現状では、婚姻届を出す以上、どちらかの姓を選ぶことになる。
 では、どちらの姓を残したほうが良いのだろうか。どのようにして決めているかは知らないが、現状では男性側の姓を選択する夫婦が多い。しかし、個人的には、女性側の姓を採用したほうが良いと考える。その理由を簡単に説明しよう。
 まず、大きな利点を2つ。1つ目は、子供の将来である。最近は離婚する夫婦が増え、その傾向は今後も強まる。結婚するときに離婚後のことまで考慮するのは不謹慎かも知れないが、実際に離婚の確率が高まっている以上、無視することはできない。離婚した場合に一番配慮すべきなのが、子供への影響だ。少しでも苦しまないように、工夫しなければならない。子供は妻側に引き取られることが多いので、妻側が旧姓に戻ると、子供の姓まで変わってしまう。子供の姓が変われば、学校の友達に離婚を知られ、悪いことに巻き込まれる可能性も高まる。できるだけ避けるべきことである。子供の姓だけ変えないとか、妻の姓も変えない方法もあるが、苦肉の策でしかない。それより、最初から女性側の姓を採用して、離婚しても子供の姓が変わらないように配慮したほうがよい。
 2番目の利点は、企業などで旧姓を使う場合の影響だ。男女平等が広まってきたといっても、現実には女性のほうがまだまだ弱い立場である。そんな女性が旧姓を使えるように努力するより、強い立場の男性のほうが同じことを実現しやすい。
 この種の問題は、会社の体質に大きく関係するので、旧姓を使えるかだけの次元では済まない。旧姓を自由に使える風土は、先進的な企業に求められる人間尊重の価値観に等しい。そうなるように企業を動かすのは、男性側にも責任があるし、強い立場にある男性のほうが成功しやすい。こうして企業が進歩することで男女平等に近づき、人間尊重の度合いも高まる。自分が勤めている企業には、そうなってほしいだろう。
 逆に、欠点は何だろうか。もっとも大きいのは、夫となった男性が周囲からいろいろと言われることだ。婿に行ったのかとか、結婚当初から尻に敷かれているのかとか、古い価値観で判断した意見を数多く言われるだろう。本人に直接言わず、陰で噂されることもある。こういった状況を減らすためには、女性側の姓を採用した理由を、きちんと表明するしかない。それも、結婚する前から表明し、結婚式などで大々的に発表するとよい。当然、決断した理由もきちんと含めて。
 こうした行為に賛成するのは、女性全般に加え、新しい価値観のを持つ(=一般的に能力の高い)男性である。これらの人は、理由を知って良い行為だと思ってくれるだろう。運が良ければ、これをきっかけに素晴らしい友人ができるかもしれない。
 ただし、思わぬ副作用が出る可能性もある。こうした行為に反感を持つ人が、仕事のいろいろな場面で意地悪する点だ。該当するのは、古い価値観を持つ(=一般的に能力の低い)男性で、旧態依然とした日本企業だと、重役や管理職として数多く残っている。少しでも心配があるなら、あえて表明しないほうがよいだろう。
 もちろん、別な考え方もある。企業のレベルを見極めるために、わざと大々的に表明するのだ。もし所属企業の体質が古いと判断できたら、もっと良い企業に移ればよい。それを見分けるフィルターとして、表明を利用する。これをやるためには、本人にある程度の実力が必要なので、実力を身に付けてから実施したほうがよい。
 表明した人材に逃げられた企業側だが、実はダメージが大きい。表明が原因で辞めたことが社内に広まると、別の優秀な人材まで逃げる可能性が高まるからだ。これからの時代、企業の体質改善は、経営者の重要な仕事である。そのためにも、経営者自身が新しい価値観を持たなければならず、価値観が古いままだと絶対に実現できない。
 あと難しいのは、古い価値観を持つ親戚の存在だ。価値観が違うので、深く付き合うのは根本的に無理がある。適当に相手をしながら受け流すのが、賢明な方法だろう。それ以外に良い手はない。
 以上が、姓の選択で考えた主な内容だ。現在の常識から外れているかも知れないが、深く検討するほど、女性側の姓を採用するほうが良いと思えてならない。これから結婚する人は、相手と一緒に考えてみたらいかがだろうか。相手の本音が見えてきて、結構面白いと思う。こうして意見を述べた以上というのではなく、そのほうが賢明な選択だと確信しているので、自分が結婚して(その可能性は低いが)、籍を入れるとしたら、絶対にそうするつもりだ。

●1999年12月29日

間違った内容のまま終わる、電子会議での話題

 電子会議室の1形態であるメーリングリストが、インターネットとともに普及してきた。自分でも、いくつかのメーリングリストに参加している。といっても、単に受信しておき、後で暇を見付けて斜め読みする程度だ。
 複数のメーリングリストを読んでいて、共通の現象を発見した。取り上げられた話題のうち、間違った結論のまま終了してしまう例が、意外に多いのだ。発言者が一人ではなく、複数いてもそうなっていた。
 間違った結論で終わるのには、それなりの原因がある。もっとも多いのは、きちんとした資料を調べずに発言し続けることだ。ある人があいまいな記憶をもとに書き、それに対して疑問の発言が出る。疑問が出た時点で資料を調べればよいのだが、誰もそうしない。別な形であいまいな話を続け、勝手な推量や憶測の内容ばかりが書かれる。そのうちに話題が終了し、間違った内容のまま終わるというパターンである。その話題に関して正しい知識を持っている人は間違いだと気付くが、そうでない人は間違った結論を信じるかも知れない。
 そもそも、疑問が生じた時点で適切な資料を調べない点こそ問題だ。インターネットが普及した現状では、かなりの資料が広く公開されている。話題に関係している組織のサイトを見れば、電子化された資料が公開されていることも多い。それを見付けて読むだけなので、素早く作業すれば10分ほどで調べ終わるだろう。もう少し時間がかかる場合もあるが、以前のように長い時間を費やすことは少ない。
 発言された内容を読んで感じるのは、調べようとする気配がまったく感じられない点だ。面倒なので調べないのではなく、調べるという基本的な行為が身に付いていないように思う。該当する人が、意外に多いのではないだろうか。さらに言うなら、きちんと調べて結論を出す能力が身に付いていない大きな原因は、現在の教育にある。教えてないので身に付いていないのは、自然な結果だろう。
 電子会議を見ていて、もう1つ別なパターンも見付かった。取り上げられた話題によっては、正しい意見を述べる人が出てくるが、それによって正しい結論で終わるとは限らない。間違いを指摘された人の全員が、素直に認めるわけではないからだ。困った人になると、「専門的なことは分からないが、〜とは信じられない」とか「〜は信用しないことにしている」と言い、内容に関係ない部分で判断し、間違った内容を続ける。また、別なパターンとして「何を言いたいのか分からない」と言い、信頼できない内容を書き続ける人もいる。こうなると、正しい知識を提示した発言者はあきれてしまう。当然、続く発言をやめるため、全体としては正しい結論で終わらない。
 こちらのほうの原因は、論理的な思考や議論方法の欠如だ。これも学校では教えてくれない能力である。こうして電子会議室の言い合い(議論とは呼べないので)を見ていると、現在の学校における教育内容の低レベルさを強く感じてしまう。なぜ、大切なことを教えないのかと。やはり、教育内容の根本的な改革は必要だ。
 以上のような現状を知ったら、会議室での発言内容を簡単には信じられないだろう。自分が知らない分野の内容に関しては、ある程度の信頼がおける資料を参照し、確認する癖を付けたほうがよい。それより大切なのは教育改革なのだが、こちらのほうは期待薄だ。期待薄というより、期待ゼロに近いかも。正直言って、とても悲しい。


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