川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−1999年11月


●1999年11月19日

価値ある人との出会いが人生では重要

 10月の下旬から、ある小さなベンチャー企業の情報システム・アドバイザーを引き受けた。その企業で小さなパーティーがあり、翻訳のアルバイトをしている学生さんと話す機会があった。来年春に就職する二人の魅力的な女性で、すがすがしい初々しさを感じた。
 話しながら思い出したのは、自分の若い頃のことだ。田舎から東京へ出て来た当初だったので、かなりオドオドしていたと記憶している。彼女たちのほうが、ずいぶんとしっかりしている。自分の場合は、生きていること自体がとても辛くて、ただただ惰性で生きていた時期だった。
 昔を思い出すとともに、今までの人生を振り返ってみた。ダラダラとした生き方が大きく変わったのは、ある人物との出会いである。2番目の会社に入社した少し後で、その人が途中で入社してきた。システムに関してはもちろん、マネジメントや社会といったテーマについて、いろいろな話を聞かせてもらった。それが知的なトリガーとなって、きちんとした視点や考え方を身に付けられた。自分にとっては、人生と仕事の両面での師匠だと、今でも思っている。
 5つの会社に勤めたし、派遣などの形で複数の会社に行ったし、アドバイザーとしては3つ目の会社と付き合っている。このように多くの企業に出入りしていると、数多くの人と出会える。しかし、知的なトリガーを与えてくれる人は非常に少ない。小さなトリガーを含めても今まで数人、大きなトリガーに限定すれば一人しかいない。それだけに、貴重な出会いといえる。
 知的なトリガーとは、物事の見方や考え方などに関して、疑問を持たせたり、改善するためのヒントを与えてくれるものだ。それをもとにして、自分なりに考えて問題に対処する。トリガーを与える人は、常に抽象的な内容を言うわけではない。必要なら、具体的な対処方法を教える。もっとも重要なのは、具体的な方法を導くまでの工程をきちんと説明する点だ。このような思考過程に触れることで、トリガーを受け取る側が大きく成長できる。
 自分にとっては知的なトリガーが重要だったが、これが全員に当てはまるわけではない。仕事の種類や価値観が違うと、別な要素の提供が必要だろう。広い意味では、適切な助言と表現したほうがよい。トリガーを与える人も、良い助言者という表現が適する。
 世の中を見回すと、テレビや雑誌などのマスメディアを中心に、多くの情報が入ってくる。その内容は、重要でなかったり不適切なものが多数を占める。ごく一部の単行本やウェブページには非常に価値ある内容が含まれるが、かなりの少数派でしかない。つまり、無視したほうがよい情報のほうが圧倒的に多いわけだ。それだけに、価値の高い考え方などを教えてくれる人の助言が重要となる。また、直接話ができる場合は、分からない部分を質問したり、興味のある部分を教えてもらったりできる。
 たいていの分野では、大きな才能がなくても、マトモなやり方を知ることで、きちんと仕事する程度の能力は付けられる。要点は2つで、まず真剣な努力は必須。1つの分野で3年から5年ほど必死で勉強すれば、かなりの能力が身に付く。もう1つは、努力の質を高めることだ。適切な方向で努力し、良いやり方を習得すれば、努力が実際の能力に生まれ変わる。これら2つのうち、自分だけではどうしようもないのが後者である。考えるヒントを与えたり、具体的な方法を教えてくれる人物が近くにいれば、努力の成果が大きくなりやすい。つまり必要なのは、真剣な努力と、良い助言を与えてくれる人物なのだ。
 良い助言者と巡り会えたら、接し方には注意しなければならない。相手の能力を利用しようするような姿勢ではダメだ。そんな気持ちは、相手にすぐバレてしまう。そうではなく、きちんとした態度で対話しながら、素直な気持ちで接したほうがよい。きっと相手に伝わり、真剣に助言してくれるだろう。最終的には、人間と人間の付き合いなのだから。このようにして、良い関係を末永く保とう。
 世の中を見渡すと、必死で努力している人は少ない。それだけに、真剣に取り組めば、相対的な能力レベルは確実に高くなる。信頼できる助言者を見付けて、手助けしてもらいながら努力すればよい。
 学校で真剣に勉強しなかった人も、さほど心配しなくてよい。現在の学校では、本当に大切なことはあまり教えていない。社会に出てからでも遅くはないので、自分が少しでも興味のある分野を見付けて、少なくとも3年は必死で努力してみよう。もちろん、その分野で信頼できる助言者を見付け、少しでも手助けしてもらって。
 このように誰かから手助けしてもらって、ある程度の能力が身に付いたら、今度は助言する側に回る番だ。助言してくれた人には返せないが、これから勉強する人には手助けしてあげられる。こうやって、助言を循環させる輪に入ってほしい。
 良い助言者と出会って、一番変わる点は何だろうか。仕事の能力が高まるのは当然だが、それ以外の部分でも大きな変化がある。自分に自信を持てることで、何にでも積極的に参加したり、前向きに考えたりできるようになると思う。仕事以外の生き甲斐も見付けやすくなるし、同じ価値観を持つ仲間と活動したりできる。少なくとも、自分の場合はそうだった。惰性で生きていた若い頃から、積極的に活動する現在へと変われた。この点は、どんなに強調しても足りないぐらい大きい。
 以上のことから、良い助言者の重要性が伝わったと思う。めったに出会えないので出会いを大切にすること、きちんとした態度で向き合うことなど、基本的なことを守れば、人生は良い方向に進むだろう。

●1999年11月30日

社員の能力をテストで判断するのは責任逃避

 知人に聞いた話だが、外部の能力テストを社員に受けさせる企業があるそうだ。社員の基本的な能力を客観的に調べるのが目的だという。どんなテストかは知らないが、テストだけで能力が調べられるのか、大いに疑問だ。
 もう1つ思ったことがある。社長を含む役員が同じ能力テストを受けたのかという疑問だ。社員に強制的に受けさせるのなら、自分も受けるのが当たり前ではないかと。社長自身の結果によっては、テスト結果の位置付けを考え直さなければならないだろう。
 きちんと考える前提として、能力が高いから社長になれたと仮定しよう。社長自身の結果が良かったら、能力テストを良いと判断しても構わない。しかし、社長自身の点数が悪かったら、どうすればよいのだろうか。テストの限界を認めて、結果を無視するのが賢明な判断だ。
 テスト自体の良し悪しの評価は、社長一人の結果だけで判断するのは難しい。役員全員が最初に受けて、その結果を見て判断すべきだろう。そうすれば、より正確な評価ができる。もちろん、優秀でないと役員になれないことが大前提である。
 このような手順を踏むのは、能力テストの信憑性をきちんと評価する姿勢でもある。疑問を持たずに採用するのではなく、本当に正しいのか調べるために試し、確認できてから採用しなければならない。このように検査しないと、ダメなものに振り回されることになる。非常に重要な点だ。
 逆に、社長や役員が受けず、社員にだけ受けさせるとしたら、相当にズルイ考え方といえる。おそらく、自分たちの結果が悪かったとき、メンツが保てないとでも思うのだろう。ダメな経営者がやりそうな行為だ。能力テストなんかに頼らず、実務の結果を見て能力を評価するようでないと、その企業の将来は危ない。
 もし自分が社員として受けることになり、社長が受けてないと知ったらどうするだろうか。きっと、直談判に行くだろう。それと、能力テスト自体を自分なりに評価して、評価結果を社内のウェブページに公開するだろう。「こんなテストで評価して大丈夫なの、人事部さん?」といったタイトルで。人事部の担当者は驚くだろうが、社内のアホ行為を止めさせるためには、これぐらいのパンチを与えなければならない。
 能力テストに頼るのは、自分たちが評価することからの逃避である。学歴や資格で判断するのと同じ発想で、自分たちが責任を取らなくて済むために行う。このように評価から逃げてばかりなら、その担当者はきちんと仕事してないと等しいので、その人こそ不要といえる。


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