川村渇真の「知性の泉」

教育内容は幅広い視点で決めるべき


既存の教育内容に縛られる必要はない

 新しい教育内容は、どのように求めるべきであろうか。既存の教育内容を改良する形で、導き出しても良いのであろうか。結論を先に言うなら、既存の教育内容などまったく参考にせず、もっと根本から考え直さなければならない。その理由を、まず簡単に説明しよう。
 既存の教育内容は、最近のテクノロジーなど無縁の時代に決められたものである。非常に狭い意味の学問しか取り扱わず、コンピュータやネットワーク技術の進歩によって、その価値は段々と低下し続けている(既存の教育内容の価値は低下し続けているを参照)。
 最悪なのは、必要性や価値などを考え直すことなどせず、ただただ惰性で続けている点だ。個々の教育内容が生徒の将来に必要かどうかなど、ほとんど考えていない。もし真剣に考えているなら、いろいろな手を打つだろう。たとえば、これからの時代は漢字を書けなくても困らないので、漢字の書き取りテストを禁止するとか。また、作文のような大切な技術を含めてない点も大きな問題である。大切な改良を加えないため、価値がどんどんと低下し続けている。
 教育内容だけでなく、教育方法にも大きな問題がある。必要もない暗記を強制し、生徒に無駄な時間を浪費させている(実社会での仕事のやり方を無視した試験方法を参照)。浪費は各人の何年間にも及び、しかも大規模に行われる。日本中の多くの人に、大量の無駄な時間を浪費させて良いものだろうか。
 このような教育内容なので、理想からはほど遠い内容となってしまった。少し改良したぐらいでは良くならず、根本的に作り直すしか方法はない。つまり、既存の教育内容に縛られる必要はなく、無視して新しく作るしかない。

社会できちんと生きるための知識と技能を提供する

 では、新しい教育内容を、どのような視点で求めるべきだろうか。もっとも考慮すべきなのは、教育を受ける本人はもとより、社会全体も一緒に良くなることだ。
 既存の教育では、学問以外の部分を、家庭の問題だとして扱わない。そのため、家庭環境の善し悪しが、生徒の教育態度や生活態度に大きく影響する。また、重要な教育内容であるモノの見方や考え方は、学校で教えてくれない。それを教えるのは、親を含む周囲の人々なので、生まれた環境によって習得具合が決まる。生まれた環境の善し悪しは、本人のせいではなく、運が良いか悪いかでしかない。つまり、大切なことを教えてもらえるかどうかは、運しだいなのである。
 このような社会だと、運の悪い人は非行に走り、最悪だと重要な犯罪を起こす。関係のない人が巻き込まれて殺されることもある。そんなことで殺されるなんて、たまったものではない。社会として、そのような状況を少しでも改善すべきではないだろうか。その有効な手段に教育が使えるはずだ。
 生まれた環境が悪いとしても、義務教育によって、社会できちんと生きていけるための知識や技能を身に付ける機会が与えられるとしたらどうだろう。ただし、このような教育に絶対はないので、あくまで機会でしかない。しかし、どんどんと改良することで、機会を生かせる確率は向上できる。
 多くの人は、自分が社会に貢献できて、ある程度まで認められたいと思っている。そのために何をしたらよいのか、探す機会を教育が与える。各人の適性が異なるので、自分に合った方法を見付けられるような教育内容に設計すべきである。貢献の方法が得られたら、本人も幸せに生きられる可能性が高い。
 新しい教育内容を考えるための重要な視点は“社会と個人の幸福”だ。周囲の人と上手に生活できるだけでなく、社会を良くするために少しでも役立つ、知識と技能を提供する。具体的な教育内容は、この視点を出発点として考えるべきである。

テクノロジーを徹底的に活用する

 もう1つ重要なことは、テクノロジーの徹底的な活用。限られた人数の教師だけでは、幅広いことを教えられない。それを補うために、コンピュータやネットワークを最大限に活用する。
 テクノロジーの活用では、2つの大きなメリットが挙げられる。まず1つは、読んで分かるような知識へ自由にアクセスできる点だ。たとえば、作文の勉強をする際に、上手な書き方などをネットワーク経由で調べられるようにする。本のようにページ数の制限などないので、もっと多くの説明や例を用いて、非常に詳しく説明できる。また、図や動画をふんだんに使ったり、対話型に仕上げることで、分かりやすさを限界まで高められる。結果として、資料を読むだけで身に付く人が増える。教師の労力は、資料を見ても分からない人に集中できて、全体の効率はかなり高まる。
 もう1つのメリットは、いろいろな専門家へネットワーク経由で尋ねられる点だ。各分野の専門家と契約して、何か分からないことがあったら尋ねる仕組みを用意する。質問内容と回答を整理して公開すれば、それ自体も役立つ資料となり、読んで分かる可能性がますます高まる。最後に残る質問は、個人ごとの添削とか、非常に新しい問題だけになるはずだ。
 テクノロジーの進歩は、既存の教育内容の価値を低下させ、それに費やす多くの時間を解放する。既存の教育内容は、小学校低学年ぐらいまでの最小限しか必要なく、全体としては数分の1の時間で済む。おかげで、より重要な教育内容に多くの時間を割り当てられる。新しい教育を始める時期として、最適な時代を迎えたと言えるだろう。
 いろいろなノウハウまでネットワーク経由で調べられると、人間相手でしか会得できない技能を教えることが、教師の重要な役割となる。団体活動への上手な参加方法など、人間が手助けして習得する技能は必ず残る。テクノロジーだけですべてを教えることは、当分は無理だろう。
 教育内容や教育方法を決める際には、テクノロジーの活用を、大きな前提条件とすべきである。それによって重要な知識や技能を効率的に身に付けられ、教師もより本質的な教育内容へと集中できるからだ。

(1998年3月29日)


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