川村渇真の「知性の泉」

実社会での仕事のやり方を無視した試験方法


学校の勉強では暗記を求められる

 学校では多くの教科を勉強する。どの教科でも、いろいろな知識を覚えなければならない。国語(日本語と表現すべきだが)なら、漢字の読み書き、ことわざと意味、人の名前と作品などだ。数学や物理なら、いろいろな公式や法則と利用例、その中に登場する様々な用語、公式や法則を発見した人の名前など。これらの教科はまだ軽いほうで、歴史と英語はその上を行く。歴史なら、事件の名前、発生した年、関連する人物を暗記する。英語も、数多くの単語や例文を覚える。
 以上のような勉強を続け、小学校から高校までの12年間で、かなり多くのことを暗記しなければならない。4年制のの大学まで出るなら、16年間もかけて、さらに多くのことを覚える。改めて考えると、すごい量の知識を暗記していることになる。まあ実際には、昔覚えた内容を、どんどんと忘れていくのではあるが。

現実の世界では資料を見ながら問題を解決する

 このような勉強をした後で入る世界は、現実の社会だ。16年もかけて暗記した内容は、どれだけ生かせるのだろうか。多くの人が感じていて、よく耳にする意見は「学校で勉強したことのほとんどは、社会に出て役に立たなかった」である。そのとおりで、役に立たないことのほうが多いのだ。
 ここでちょっと、現実の世界での仕事の方法を、学校の勉強と比べてみよう。学校で勉強するときには、いろいろな知識を暗記する。ところが実社会では、資料を見ながら仕事をしても構わない。また、分からないことは知っている人に尋ねて、問題の解決方法を求める。このような方法で仕事を進めるので、覚えなくて済むものは基本的に暗記しないのが当たり前となる。懸命に暗記するという光景を見ることは、ほとんどない。「無駄な暗記はしない」が基本だ。
 以上のことから、学校の勉強と実社会での仕事を比べると、考え方や方法が根本的に異なっていることが見えてくる。どちらがマトモなのか、あえて考えてみると、実社会でのやり方のほうがマトモとしか思えない。

暗記が必要な原因は試験方法にある

 それでは、学校の勉強のほうは、なぜ懸命に暗記する必要があるのだろうか。英語なら暗記は仕方がないものの、他の教科では暗記の不要な場合がほとんどだ。答えは、意外と単純である。試験があるからだ。現在の学校の試験では、資料を見ながら受けることができない。そのため、いろいろなことを暗記して臨むことになる。状況を考えれば当然の流れであり、誰もがそうしている。
 では、なぜ試験中に資料を見たらダメなのだろうか。現実の世界では、資料を見ながら仕事を進めるのだから、学校の試験でも資料を見ながら受けても問題ないはずだ。それを問い始めると、試験の存在意義にまで達する。なぜ試験をするのだろうか。試験は必要なのだろうかと。
 試験の目的の1つは、勉強させることにある。試験というプレッシャーがあるから、いやな勉強でも我慢して行う。その点での役割は否定できない。勉強させるためには試験が必要である。では、試験の方法には問題ないのだろうか。
 それを明らかにするために、資料を見ても良い試験を実施すると、どうなるのか考えてみよう。ほとんどの試験問題は、暗記しているかを調べる問題である。資料を見て良いのなら、試験の回答は資料を書き写すだけとなる。それでは、みんなが良い点数を取ってしまい、差が付かない。これでは、試験を実施する意味がほとんどない。
 差が出ない原因だが、実は試験問題にある。暗記中心の試験問題だから、資料を見ると誰もが良い点を取れる。解決策として、資料を見ても簡単には解けない問題に変えればよいのだが、その種の問題を作るのは難しい。仕方がないので、暗記を中心とした問題に落ち着く。その結果、差を付けるために、資料を見る試験方法は適さない。

暗記に割く時間と労力はバカにならない

 以上を総合的に考えると、簡単な問題で点数に差を付けるために、現実の世界とかけ離れた試験方法を採用しているとすら思える。ちょっと深読みしすぎだろうか。
 読みが当たっているかどうかは、あまり重要なことではない。問題にすべきは、暗記中心の試験方法である。そのために、多くの学生が“無駄な暗記”を強いられている。後で調べながら使えるように理解することと、その内容を暗記することの間には、大きな違いがある。多くの知識を暗記するためには、膨大な時間と労力を割かなければならない。
 もう1つ、暗記というのは、使わないと忘れるという特性を持つ。せっかく記憶した知識も、使わないものがほとんどなので、何年か経つと消えてしまう。つまり、後で忘れることが明らかにも関わらず、懸命に暗記“させられて”いるのだ。教育を受ける全員に、こんな無駄なことをさせていて良いのだろうか。
 これが、現在の教育の重要な一面であり、大きな問題点でもある。修正する気配どころか、問題意識さえ持ってないようで、困ったものだ。現在の試験方法を変えない限り、現在や将来に有効な教育方法など得られるはずがない。

(1997年8月18日)


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