川村渇真の「知性の泉」

既存の教育内容の価値は低下し続けている


昔からの惰性で続いている既存の教育内容

 教育の問題を考えるうえで、教える内容はもっとも重要なテーマだ。まず最初に、既存の教育内容がどんな形で決められたのか、改めて分析してみよう。
 現在の教育内容は、細かな補正が加えられているものの、基本的には、かなり長い間変わっていない。国語や数学など、基礎的な学問の分類に沿って教科が選ばれている。小学校から高校まで、科目の呼び名や分類が少し違うものの、教科選びの考え方は同じだ。
 注目すべきなのは、基礎的な学問が選ばれた理由や状況である。かなり昔なら、基礎的な知識でさえ、なかなか入手できなかった。出版されている本も少なく、図書館もほとんどなかった。そうなると、基礎的な知識を学校で教える価値や必要性が大きい。
 しかし、現代のように情報化が進むと、昔のような状況とは大きく異なる。基礎的な知識なら簡単に手に入るし、わざわざ学校へ行かなくても同じ内容を勉強できる。時代は確実に変わっているにもかかわらず、教科の構成はほとんど変化していない。現在の教科は、過去から単純に続いているだけである。どんな教科が必要なのか深く分析して、出てきた結果ではない。過去からの惰性で続いているだけなのだ。

現代社会では、知識の価値が相対的に低下し続ける

 惰性で続いている教科の構成だが、現在の状況から判断して、価値がどのように変わったのだろうか。教育内容を評価するには、その点が重要となる。
 このような教科が選ばれたのは、50年以上も前である。この50年の間に、世の中は大きく変化している。情報ツールであるパソコンと、それらを結ぶネットワークが発達したことは、とてつもなく大きな影響を及ぼす。世界中の研究者やジャーナリストが容易に素早く情報交換できることで、研究や分析の作業効率が向上し、生み出された知識の量は格段に増えた。50年の変化というものの、最近10年の変化が一番大きい。変化の大きさが、加速度的に増しているからだ。この傾向はさらに続き、過去10年よりも大きな変化が、今後の10年で起こる。今後は、ますます知識の量が増えるはずだ。そのすべての知る必要はないが、一人が知るべき知識の量は確実に増えている。
 もう1つ、知識を利用する状況も大きく変化している。情報ツールが発達したために、いろいろな情報を整理して保存でき、目的に応じて必要な情報だけを引き出せる。簡単に調べられないことでも、電子会議室で不特定多数に質問することができる。人間にとって一番変わったのは、暗記を最小限ですませられるようになった点だ。その代わりに、知識を上手に利用することが求められる。“知識の吸収”から“知識の活用”へと変わりつつある。
 現在の教育内容は、世の中の知識の変化に比べて、種類や量があまり変わっていない。同じ内容の知識なら、知識の量が増えたとこと価値が低下する。さらに、知識の活用が重要視されると、知っていることの価値は低下する。つまり二重に低下するわけだ。

価値の低下しない部分は、ほとんど教えていない

 知識の全体量が格段に増えても、価値の低下しない教育内容がある。単純な知識ではなく、訓練して習得する技術だ。その代表的なものが、作文技術。自分の考えた内容を、別な人に分かりやすく伝えるために、文章を書く技術である。それ以外にも、まだまだある。主なものをいくつか挙げてみよう。人前で自分の意見を述べること、他人の意見などを鵜呑みにせず論理的に評価すること、意見の異なる人ときちんと議論すること、みんなの意見を上手に集約すること、自分たちでルールや組織を築くこと、など数多い。
 ところが、現在の教育では、この種の内容をほとんど教えていない。作文技術に関しても、読書の感想文を書かせるぐらいで、どのように書けば分かりやすいのか、まったく教えない。他の項目に関しても、同様である。つまり、現在の教育は、価値が低下しやすい内容ばかり優先して教えていることに等しい。逆に見方をするなら、価値の低下しない技術を教えていないから、教育内容の価値が低下しているとも言える。
 現代社会は、昔の社会と比べると、価値の低下しない技術の必要性が増している。社会に出て仕事をする場合、作文技術は必須である。他の技術も同様だ。それを身に付けないまま、多くの知識を詰め込んでも、有効には活用できない。
 現在の教育内容を変えずに教育することは、価値が毎年低下し続けるものを教えることに等しい。ただし、小学校の低学年だけは、基礎的な知識を習得する必要性があるため例外といえる。もっと上の学年では、価値の低下しない内容を増やすべきだ。今後、教育内容を変更する場合には、以上のことを十分に考慮しなければならない。

(1997年8月22日)


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