川村渇真の「知性の泉」

教師の価値も低下して、学校は建て前中心の世界へ向かう


教育内容の価値低下で、教育者の価値も低下する

 世の中の変化によって、教育内容の価値が低下すると、教える側である教師の価値にも影響を及ぼす。その点から分析を始めて、学校の変化も少し考察してみよう。
 現在のようにメディアやネットワークの発達した社会では、様々な情報が生徒に入る。世の中で起こっている各種問題、いろいろな国や組織の異なる考え方などだ。その中でもっとも大きいのは、実社会における価値観である。社会に出たときに必要な能力など、明確ではないにしろ、おおよその雰囲気は感じてしまう。学校で勉強した内容の多くが実社会に出たとき役に立たないことも含め、教育の基盤に大きく関わる情報を知ってしまうわけだ。これは、明確に理解するというよりも、雰囲気として分かるというほうが正確だろう。つまり、教育内容の価値の低下を、実社会からの情報で感じ取ってしまうのだ。
 現在の多くの教師は、特定の教科の教育方法に関しての能力を身に付けている。しかし、教える内容の価値が低下することで、その存在基盤が崩れ始める。役に立つか分からない内容をずっと教え続ける人と思えば、尊敬して教わる態度にはならない。英語のように、将来に重要な教科もある。しかし、ネイティブで話せる英語教師が少ないことは、いろいろな情報から知ってしまう。教えている内容の価値や教師の能力が低いと思われたら、別な内容について語ったときでも説得力は低下する。こんな現象が、すべての教科で起こり始めている。時間が経つほど、その程度が大きくなる。
 もちろん、自分の点数を付ける人なので、面と向かって言うことはない。尊敬できない教師に対しても、学校にいる間だけ言うことを聞いて、良い点数をもらえばよいと思うだけだ。教師が尊敬されるのは、担当する教育以外の部分で決まる。社会人としての能力が高いとか、普段の発言が納得できるとか、いろいろな人の面倒見がよいとか、教師ではなく人間として魅力に左右される。
 教育者だから普通の人よりも人間的に優れていると、思う人がいるかもしれない。しかし、それは大きな間違いだ。学校や役所は、実社会から隔離された特殊な世界である。その中に長くいると、一般社会人としての能力の不足する人が生まれやすい。生徒は実社会にいるので、どうしても周りの人々と比べてしまう。教育者として情熱は高いだろうが、社会人としての能力不足により相殺され、平均より低い点数を付けられる可能性が高い。当然のごとく個人差が大きいので、他の業界と同様に、教師の質もピンからキリまでだ。その中の一部の人だけが、学生から尊敬される人となる。

学校は、建て前が中心の演じる世界へと向かう

 教える内容を決めるのに、教師の意見はほとんど反映されない。非公開の密室で決められたものが、教師に与えられるだけである。自分に決定権のない教育内容の価値の低下によって、自分の価値が低下するのではたまらない。ある意味では、教師が被害者だとも言える。
 ところが、現在の教育内容が変わる兆候など、まったく見られない。今までと同じように、密室で年輩の人々が決めている。決定に参加している人のほとんど(おそらくは全員)が、世の中の変化を理解していない。この点こそ非常に重要なのだが、そんなことが分からない人々なので、気付く可能性は皆無に等しい。当分の間、改善は何も行われないだろう。このまま進むと、教師の価値もどんどんと低下し続ける。自分のせいではないと静観していても、状況は悪くなるだけだ。教育内容などを改善する立場にはないので、自分で能力を磨く以外、これといった対処方法は見付からない。教師にとっては、大変な変化の時代である。
 このまま進むと学校は、建て前が中心の“演じる世界”となる。教えている内容の価値が低下していることに何となく気付きながらも、とりあえず教え続ける教師。それを尊敬していないが、自分に点数を付ける人なので、とりあえず表面上だけは従う生徒。お互いが決められた役を演じる、そんな特殊な世界へと、現在の学校は向かっている。
 それを防ぐ唯一の力は、教師が人間として生徒に接することだけだ。その力がどれだけ大きいかは、教師の人間的な能力に依存する。また、負けないだけの力を持っているのは、一部の教師だけである。今後は、旧体質組織からのプレッシャーや、世の中の変化も大きくなる。そんな状況では、個人の力がどれだけ効果を発揮するのか大いに心配だ。
 仕方がないので、こんな状況を見極めた一部の親は、子供が学校以外の場所で能力を磨くようにさせる。その生徒にとっての学校は、もはや仕方なく行く場所でしかない。行くのを止める人も、ごく少数は出てくる。ここまで達するのは最悪の場合だが。
 以上のような変化は、教育内容や教育方法を変えない限り、回避することはできないだろう。今のところ、その可能性はゼロに等しい。

(1997年9月29日)


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