高木彬光成吉思汗の秘密の読まれ方

 

高木彬光氏の推理小説「成吉思汗の秘密」は、義経不死伝説のバイブル的な本である。
この小説は昭和33年に書かれた。それ以降40年以上に渡り、日本中の源義経ファンは、この本の英雄ロマンに魅せられ、途絶えることなく読み継がれてきた。その後も多くの義経伝説をめぐる小説が書かれたが、これ以上の作品は今の所見あたらないと言ってよい。

高木氏は並々ならぬ意欲で、義経不死伝説の資料を収集し、渾身の筆致で同書を書いた。感心させられるのは、いわゆる「義公即成吉思汗論」の肯定論と否定論を併記しつつ、懇切丁寧にストーリーを組み立てている点だ。ちょっと気になるのは、結末が曖昧で思わせぶりになっていることだが、そこがまた義経不死伝説を育む温床となったように思う。

この小説を読む限り、高木氏が義経不死伝説の支持者のようにはどうしても思われない。にもかかわらず世間の多くの読者諸氏は、否定論にはあまり注目せず、肯定論の数々に魅せられるような傾向が多く見受けられる。おそらくこれは判官贔屓のためであろうか。

まずこの小説で、読者は、下記のような、決定的なトリック(罠)に心を奪われる。

「朕の姓は源、義経の裔なり、その先は清和に出ず、故に国を清と号す」
驚くべきことにこの一文を遺したのは、中国の清朝時代に隆盛を極めた六代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)だというのだ。この古文書は、森助右衛門という人物が著した『国学忘貝』(こくがくわすれがい1783年刊?)に紹介されている「図書輯勘録」(としよしゆうかんろく)の序文として存在するものだとという。もしこの古文書が、本当に存在するものなら、確かにすごいことだ。ところが後に、この説の根拠はいっぺんに瓦解する。
こんな具合に。
「ほう、やはり、『図書輯勘録』の、あの記録を見つけて来たのかね。…あの記録は、この研究をつづけて行く人なら、誰でも一度はおちこむ罠だよ」
そして、この原典である『国学忘貝』を徹底的に批判した桂川中良の『桂林漫録』の長文を引用し、「長く繋念を絶つべし」(議論の余地無し、問題外)と明確に否定している。

ただ高木氏は、義経不死説を信じている読者に一種の救いを作る。
こんな感じだ。

『図書輯勘録』について、「ところが、その本については、そういう原典が存在するという説が、またあらわれ出したのだよ。最近の日中国交の回復にからんで、向こうに旅行したある学者が、その原典と思われるものを発見したという報告があったのだ」と。
もちろんこれは虚構であり、そんな事実はない。こうしてこの『図書輯勘録』にあるという乾隆帝の一文は、義経不死伝説の闇の中に永遠に封じ込められて、一人歩きを始めるのである。
 
このように義経不死伝説が人々の心の中で生成発展する傾向は、義経公が亡くなってから、時と所を越えて、800年の年月を経て為されてきたものである。これはまさに、日本人の精神の変遷史と言うべき伝説なのである。近代では、1924年(大正13年)に出版された小谷部全一郎氏(1867−1941)の「成吉思汗は源義経也」によって、義経はついに他国の偉人ジンギスカンにまで擬せられたのである。これ以降、「義経即成吉思汗論」は、幾たびも論争の的となり、繰り返され、蒸し返されてきた論議であった。もちろん小谷部氏の著作は、出版直後から、史学界の猛烈な反駁に遇い、一旦は完全に葬り去られるかに見えた。しかし世間の義経を思慕する民衆からは、熱っぽい支持を受けて、機会ある毎に復活してきたのである。

金田一京助氏は、小谷部氏の著作に次のような批判を加えている。

「小谷部氏の義経論は小谷部氏の「義経信仰」の告白に他ならない。だからどこにも史料の慧敏な批判や吟味をもって論述に客観性を与うべき企図も態度も見いだせない。換言すればあの書は史論よりはむしろ、英雄不死伝説の圏内にはいる古来の義経伝説の全容の一部を構成する最も典型的、最も入念な文献として興味あるものである。

もっとも「史論」には個人的著者がある。伝説には大勢の民衆意識?伝承団体がその創造者、支持者である。…(中略)思うにしかしそれでよいであろう。一方に史学は新分の虚偽をも許さず、いっさいの粉薫を落剥して有りの儘(まま)の真相を認識しようとすると、また一方に我々の最もドラマチックな最も華やかなこの国民的英雄を思慕する情の生々として伝承するかぎり、正史のままに、あそこで、あのままに死なすことが、永久に忍ぶことの出来ない国民的哀苦である。

この思慕の情の続く限り、この哀苦の涙のかわかぬ限り、いかなる科学の笞(むち)にも係わらず、様を替え姿を代えて隙を見、機を窺って義経は復活するであろう。或いは史学の上では完全に死んでも、伝説の上に蘇るであろう。…(略)」と。「英雄不死伝説の見地から」(「アイヌ文化論」三省堂 所載 )

どうしてこんなにも義経公の不死説が、幾多の変転を遂げつつ止むことなく成長しつづけるのだろうか。考えてみればこれが伝説というものの本質かもしれない。いつの間にか、論理の通っているはずの学者の論文は、忘れ去られ、かえって旗色の悪い小谷部氏の説の方が、人々の記憶の中に残っていく。高木氏の小説でもその傾向は同じだ。つまり肯定否定の両論があるにも関わらずづ、どうしてもセンセーショナルな肯定論ばかりに、光が当てられ、多くの読者の心に残ってしまうのである。これは実に不可思議なことだ。

私はここに伝説の何たるかを見る。すなわち義経不死伝説というものは、このように虚構が積み上げられ、民衆の心の中で育まれ、発展生成し、一種の虚構の結晶と化すのである。私はそのようにして形成された伝説を端から否定する立場は採らない。伝説という遊びの部分が人間の歴史にはあって良いし、それはある種の癒しなのである。また伝説の中にも、ある種の真実があると思うし、また多くの人々が、志半ばで亡くなった義経公に対する限りない思慕の情のようなものを抱く気持ちも理解できる。これはこれで日本人の美風ではあるまいか。

但し私は荒唐無稽な伝説が、あたかも歴史的真実であるかのように喧伝されたり、歴史的事実の一断片として、語られることにはあくまでも反対する者である。ましてや崇敬する伝説の英雄義経公が他国を侵略するためのイデオロギーとして利用されるなど言語道断である。他国の英雄を横取りし、実はそれは自分の国の英雄が行って変化(へんげ)したものだなどと語ったら、まずは軽蔑されるか、頭がどうかしている、と思われるに違いない。

伝説は伝説として語られるからこそ意味がある。伝説は、歴史学ではない。それは民話などと同様、民俗学的見地からあるいは日本人の精神史の側面から語られ論じられべきだ。伝説と歴史学との違い、そこの所を明確に区別できる歴史観を養いたいものである。

結論である。高木氏のベストセラー「成吉思汗の秘密」の読まれ方に、すでに義経伝説生成の秘密が隠されている。何故なら高木氏がいかに肯定否定の両論を併記しようとも、それを読む人の心は知らぬ間に義経不死説に惹かれているのだから・・・。佐藤


補注
さて「国学忘貝」なる書物が書かれたのが確かに1783年であるとすれば、当奥州デジタル文庫に掲載している相原友直翁が「平泉雑記」(1773年)よりほんのわずか後の成立ということになる。

厳密な歴史観を持つ、相原翁は、「義経勲功記」「鎌倉実記」の原典批判を展開し、また義經渡蝦夷説や蝦夷風土考之説を妄説、俗説と退け、当時の歴史解釈に伝説が入り込んでいることを指摘し、歴史的解釈と伝説的解釈に明確に区分けをしておられる。是非一読をお勧めする次第である。

もし成立年代が、「国学」の方が少しでも先であったら、相原翁の舌鋒鋭い批判が展開されたはずだ。ただここではっきりするのは、荒唐無稽な「義経清朝始祖論」が大体、今から220年位前には成立していたという事実である。要するに古来からあった義経公島渡り伝説が、江戸中期に入って、最もらしく脚色され、小説「鎌倉実記」により、「義経清朝始祖説」として結実し、それを受ける形で「義経即成吉思汗説」が形成されたということになるであろう。
 


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2000.7.14