桜レポート2007 「桜・さまざま」

吉野山の桜 靖国神社の桜



如 意輪寺の近くから金峯山寺を見る
(06/4/17 佐藤弘弥撮影)


  3 吉野山 神木としての桜 

桜が咲く頃の奈良吉野は、ほんとうに桃源郷(とうげんきょう)のようなところだ。

「桃源郷」とは、中国六朝時代の詩人陶淵明(365-427)が、その代表作「桃花源記」(とうかげんき)の中で夢想したユートピア(仙境)である。ひと りの漁師が、谷川に分け入って魚を獲ろうとしていると、突然一面に桃の花の咲き乱れる世界に足を踏み込んでしまう。そこに住む見慣れない外国人風住民に話 しを聞けば、秦の始皇帝の弾圧を避けて、移り住んだ人々が、花を植え、外界と隔絶したところに夢のような花の国を創り上げていたのである。

桜の頃、京都駅から近鉄吉野線に乗って、吉野山に降り立った時、私も先の漁師と同じようなショックを受けた。それは「桜がいっぱいある」とか「花が美し い」だとかいうものではなく、この世ならぬ異界(仙境)に迷い込んだような気持ちになってしまったからだ。

後にも先にも、このような桜の園を見たことはない。はじめは私も、「わが国第一の桜の名所を拝もう」との下心がどこかにあった。しかし吉野に降り立った瞬 間、これは「違う」と思った。




後 醍醐天皇陵付近の桜を逆光で撮す
(06/4/17 佐藤弘弥撮影)


吉野山に、桜がこれほど植樹され、桜の一大繁殖地になった理由は、ただひとつ、桜が蔵王権現の宿る神木とされるためである。これは修験道の祖と呼ばれる役 行者(生没年不詳)が、山上ケ岳で山岳修行に励んでいるとき、蔵王権現を感得し、これを桜の木に刻み、「桜は、蔵王権現の神木ゆえ、伐ってはならぬ」と告 げてからだという。以後吉野山は、桜の聖山(サンクチュアリ)となった。その後にも、吉野山には、どんどん桜の献木が続き、現在では若木を入れたら、十万 本以上もの桜の木が存 在していると言われている。

周知のように、吉野山は、高低差があるため、地上に近い順に、下千本、中千本、奥千本と徐々に咲いていく。このため、余所の桜の名所と比べ、長い時期桜を 楽しむことができる。

そのむかし、源義経(1159-1189)が兄頼朝に追われ、静御前とこの地で落ち合ったことは有名な話しである。落ち合った場所は、当時の吉水院で、現 在の世界遺産吉水神社であろうと言われている。そこには義経と静が滞在していた部屋が「潜居の間」として大切に保存されている。この建物は金峯山寺別当の 住居とされていたところであり、そこに義経一行が身を潜めていたということは、吉野山一山が逃亡者を匿っていたことを意味するものである。

義経の時代には、あの桜の歌人とも言うべき西行法師(1118-1190)も、北面の武士というエリートの道を自ら捨てて、この吉野山の奥にこもって修行 に励んだとされ、現在奥千本には、西行庵というものが伝えられている。



神木の桜と 金峯山寺
(06/4/17 佐藤弘弥撮影)

吉野山は、古来より、都を逃れてきた貴人たちを温かく迎えたところである。壬申の乱(672)の折、大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇:?- 686)は、この地に出家と称して移り住み、政敵大友皇子を破るための秘策を練って勝手神社で勝利を祈念したことで知られている。また南北朝に分かれた時 代、後醍醐天皇(1288-1339)は、ここに逃れて吉野神宮を興したこともある。

また吉野には、豊臣秀吉が、天下統一を祝い、内外から徳川家康、伊達政宗など五千人もの大行列を連ねてやってきたことがある。やはり吉水院に寄宿した秀吉 は、幾日も降雨が続くことに立腹し、一山の僧侶に対し「すぐに快晴のための祈祷をせよ。もしも明日雨が降るようであれば、吉野山全体に火をかける」と、か つての主人信長のような言動を発したとされる。翌日は、何とか法要の甲斐あって、花見日和となり、吉野山の一目千本の桜を見た秀吉はご満悦だったという。 だが、やはり長い目でみれば、蔵王権現の天罰に当たったと見えて、豊臣氏は一族郎等ことごとく滅びさってしまったことは周知の事実だ。


吉水神社方 向の桜
(06/4/17 佐藤弘弥撮影)

歌舞伎(浄瑠璃)に「義経千本桜」(1747年 初演竹田出雲他作)という演目がある。義経がやってきたのは、雪深き冬であったが、何故か「千本桜」と明 確に「桜」と結びつけられている。このことは、吉野山という土地のイメージそのものが、常に「桜」というものと一体不可分なものとして日本人の心の中に 眠っているためと思われる。



中 千本から下千本(金峯山寺)方向を一望
(07/4/1 佐藤弘弥撮影)

はらはらと吉野の風に舞ふ花を平和日本の象徴とせむ

現代最高の劇評家の渡辺保(1936- )氏は、その著「千本桜」(「千本桜」東京書籍 平成二年刊)の中で、このようなことを言っている。

吉野は、一つの、かくされた帝都である。しか しなぜ吉野がかくされた帝都であったのか。そこに吉野という土地のもつ特権的な意味があり、謎がかくされているに違いない。
以上、六つの謎。

判官贔屓(義経)、天 皇制、鮓、桜、狐、吉野。

この六つの謎が「義経千本桜」という神話劇を 形成している。・・・おそらくこの六つの謎について考えることは、「千本桜」について考えるというよりも、日本人について考えるということなのである。そ れもあまり意識されない日本の民衆の嗜好について考えるということだろう。

吉野山に行き、吉野の桜に触れることは、日本人の何なるかを知ることに通じる旨の渡辺氏の発言は、吉野山の桜を経験したものとしてよく分かる。吉野には、 役行者の生きた時代にタイムスリップするような不思議な雰囲気がそこかしこに浮遊しているのを感じる。馬の背のようなだらだらとした坂道を桜に埋もれた人 の群れをぬって中千本、奥千本と尋ねて行くと、確かに桜と自分が一体となったような奇妙な感覚が残るのも不思議だった。これはやはり行ったことのある者で ないと分からない感覚かもしれない。

実はそんな私も数年前、源義経の吉野行の取材で知遇を得た吉水神社の宮司佐藤一彦氏より、「狂おしいまでに咲く吉野山の桜を是非見てください」とのメール をいただいたことがあった。失礼ながら、お誘いの言葉に「少し大仰(おおぎょう)ではないか」と思ったものだ。

だが、今になって思えば、宮司の言う通りだった。吉野山の桜というものには、日本人を狂おしい気持ちに誘うような得体の知れない何かが宿っている。そう肌 で感じ取ったのであった。

狂 おしき思ひ潜めて桜木は吉野の山の神となりたり


吉 野山・吉水神社「一目千本」からの桜

吉水神社の公式ホームページより、佐藤一彦宮司のご厚意で掲載させてい ただきます。



吉 水神社 一目千本からの景観
(撮影 吉水神社宮司佐藤一彦氏)



吉 水神社の狛犬
桜の中に人か埋もれている。
(撮影 吉水神社宮司佐藤一彦氏)



一 目千本と 杉
明治以降に植林された杉を減らし桜の植樹が今も続けられている。
(撮影 吉水神社宮司佐藤一彦氏)





靖 国神社拝殿
(06年4月4日 佐藤弘弥撮影)


4 靖国神社 英霊を弔う桜

どうしても散り際の桜が舞う姿を見たくて、九段の靖国神社に参拝した。

四月四日、昼過ぎ、空は薄日が射す天気であったが、雲行きがあやしい。市ヶ谷から十分ほど歩き、第一の大鳥居をくぐり、第二の鳥居をくぐり、拝殿に向かっ た。

靖国神社の境内には、合わせて八百本を越える桜があると言われる。この靖国神社、近くの千鳥ヶ淵と同じく東京の桜の名所のひとつに数えられるようになっ た。

かつての靖国神社は、今のように、厳重に警備されているようなところではなく、近くの住民やここに祀られている遺族たちが、年に一度咲く桜の頃に、桜の下 に集い、花見を楽しみながら、酒を酌み交わし、戦没者の冥福を祈ったということである。現在、靖国神社では、桜の下で酒を酌み交わすような花見は出来なく なっており、その面ではかつての長閑さはというものはなくなっているということであろう。



神 池庭園の池
(06年4月4日 佐藤弘弥撮影)
水面浮く花の筏を縫ふように緋鯉の泳ぐ靖国の池

現在、靖国神社のソメイヨシノは東京の「桜の開花」の基準木となっている。何でも気象庁職員が目視で観察し、五つの花弁が開くと、「開花」と宣言されるら しい。

桜の品種は、図鑑などを開いていても分かる通り、本来もっと多様なのである。ソメイヨシノは、寿命が短い代わりに、花びらも大きく、生育が早いためにすぐ に花をつけるという特徴があって日本中を席巻しているのである。桜好きからすれば、納得できるものではない。

この傾向は、世の中にすべて伺える。例えば食用のニワトリでもウシでも、ほとんどが二歳以下で、人の食卓に上ってしまうという。動物も植物も花もみな促成 な品種に改良される。その一方で奥山の原始林の中にある山桜や彼岸桜というものは、貴重な品種ではあるが、どんどんと古くなって朽ちたり、伐採されて、な かなかお目にかかれない状況にある。

現代人の趣向に適合したソメイヨシノは、それなり素晴らしいとは思うが、その流れに収れんしていくのを見るのは、郊外に巨大なスーパーが出来て、商店街が つぶれる様を見るようで辛いものがある。



参 集殿前に散りゆく桜
(06年4月4日 佐藤弘弥撮影)
靖国の桜木見上げ乙女らは何を思ふや戦なき世に


拝殿を拝むと、西に折れて、能楽堂の前を通り抜け、戦没馬、軍犬、伝書鳩の慰霊塔を見ながら一休みをした。この奥には、「遊就館」(ゆうしゅうかん)があ る。ここには戦没者に因む遺品が陳列されていて、さながら「近代日本戦争博物館」の趣きがある。

この周辺には、夥しい数の桜が散っていた。風が吹く度に、桜が花吹雪のようになって舞い降りてくる。次第に黒い雲が上空に集まってきて、今にも雨が降って くるように見えた。

その中をアメリカ人と思われる若い男性と日本女性のカップルが、手を繋いで、参集殿の奥にある神池庭園に向かって歩いて行くのが見えた。なかなか微笑まし い感じだ。そう言えば、拝殿の賽銭箱の前にも、数人の外国人がいて、どのように日本人が祈るのかを観察し、その通りのやり方で、不器用ながら「二礼二拍手 礼」を一所懸命にやっている姿があり、とても印象的だった。



日 米のカップルか?
(06年4月4日 佐藤弘弥撮影)
日米の男女睦まじ靖国の参集殿に花吹雪舞ふ


今、さまざまな議論がこの靖国神社にはある。それは「靖国問題」とまで言われている。この議論で一番大事なことは、靖国神社そのものが、時代というものを 絶えず考えながら、変化させてはいけない部分と逆に積極的に変化を受け入れ部分を切り分けて考えられる柔軟な姿勢ではないかと思うのである。

それにしても、時の首相が、この神社を訪れる度に、マスコミは大きく報じ、マスコミの外信部は中国政府、韓国政府、北朝鮮政府のコメントをいち早く取ろう と躍起になる姿は、余り美しいものではない。

時には、小泉前総理のように、意固地になるリーダーも居て、日本のアジア外交がストップするような事態にまで発展するのも利口な外交とは言えない。




散 る花にフラッシュが当たって
(06年4月4日 佐藤弘弥撮影)
風に舞ふ花は美し音もなく我が手の甲に舞い降りてけり

周知のように、ここには、明治維新の折、戊辰の役(1868)以降、第二次大戦まで、国家の側に立って、戦い、亡くなった人たち、およそ二百五十万人を神 として祀る神社である。したがって神社の歴史としては139年ほどの歴史しかない。それでも陸、海軍の管轄する軍人軍属の特異な神社として建立され、戦後 もその御霊を鎮める神社として存続してきたものである。

戦後日本の平和の礎となり国のために殉じた人に手を合わせて何故悪いという論理があり、一見それは正しいように思える。

しかしそこには、ふたつの問題が浮上してくると思われる。ひとつは、日本には古来より、人が亡くなった時には、敵も味方もみな浄土に送るという弔いの美風 があることだ。例えば明治維新というものがあり、幕府側にいた人物は、何もはじめから国家に反逆をするつもりだったわけではなく、たまたま幕府側という立 場に立ってしまったということである。

明治維新という激動期には、不幸にも敵味方となり、散った多くの日本人がいた。その人々すべての御霊を弔う気持ちになれないものだろうか。

徳川方として最後まで武士の志を示した会津藩は、白虎隊という少年兵の悲劇があるなど、すさまじい犠牲を払った。その為かどうか、会津と薩摩の人々は、感 情のもつれのようなものがあり、子息子女が、その藩のものであると、結婚を許さなかったということもあったと聞く。しかしそんな頑固さも少しずつ解消され ているようである。また明治政府推進の文字通り牽引役となった西郷隆盛は、上野に銅像はあるものの、この九段の靖国神社には祀られていない。西南の役 (1877)で政府軍の敵方にまわった西郷であるが、このような人物が共に眠れるような施設があってもよいと思うのである。



鳩 魂塔に平和の祈りを見る
(06年4月4日 佐藤弘弥撮影)
我らみな戦後生まれの者なれど戦の悲惨吾子ら伝へむ

もうひとつは、日本がアジア諸国で、戦線を拡大し、多くの国々に対する配慮の情である。これは第二次大戦をどうように見るかという問題にも通じるので、簡 単ではない。しかし日本人としては、全世界、特にアジア諸国に申し訳ないという気持ちがあるのであれば、他国の人々の気持ちを忖度(そんたく)して、少な くても現在のような「遊就館」展示品については再検討し、戦争讃美と誤解されかねないようにすべきではないかと思う。

おそらく、靖国神社を積極的に認め崇敬する人も、その逆に靖国神社ではなく、敵も味方も含めあらゆる戦争の犠牲者が誰気兼ねなく埋葬される国立墓地のよう な建設すべきだ、とする人も、二度と第二次大戦のような不幸な戦争があってはならない、という気持ちは一緒であろう。

だとすれば、手だてはあるのではないだろうか。広島や長崎には、アメリカによる原爆投下に対し、それを残虐な戦争犯罪として怨みを未来永劫に伝えるような 施設ではなく、世界精神の立場から、一度その怨みたき負の感情を排除し、改めて「二度と過ちは繰り返しませんから!」と高らかに宣言をしている。この宣言 の主語は誰か。「日本人」だろうか。そうではない。これは「私たち世界人類は」という文言が省略されていると見るべきだ。だからこそこそ「広島」の原爆 ドームとその周辺の慰霊碑一体は、人類普遍の価値を持つものとしてユネスコ世界遺産として登録されているのである。



空 が俄にかき曇り花吹雪が舞った
(06年4月4日 佐藤弘弥撮影)
桜舞ふ今日のこの日の靖国に平和祈念し頭を垂るゝ

日本人は靖国神社というものを、ユネスコ世界遺産に推薦するかどうかは別のこととしても、世界中の人々が、「日本の九段には美しい桜の園がある。そしてそ こには、明治維新以降、日本に関わる近代の戦争で犠牲となったあらゆる人々が安らかに眠っているところだ」と、言われるような聖地にすべきではないかと思 うのである。

神池庭園の池に大量の桜の花びらが浮いていた。一面それは白い雪が降り積もったような雰囲気だった。すると急に強風が吹き、花吹雪が舞って、上空はますま す暗くなった。急いで拝殿に舞い戻り、再度拝礼を済ますと、雷鳴がなり響く中を、靖国神社を後にしたのであった。



こ の後いきなり豪雨がやってきた
(06年4月4日 佐藤弘弥撮影)
靖国の桜愛でつつ戦争の世紀と呼ばるゝ二十世紀想ほゆ

その日、東京には19年ぶりに四月の雪が降った。上空にはマイナス三〇度という真冬並みの寒気が居座っていたという。思わぬ天候であったが、私は日本の近 代史の激動を思いながら、ずぶ濡れで市ヶ谷の駅にたどり着いたのであった。




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