鞍馬山の「義経伝説」紀行

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牛若と呼ばれし男の子遮那王となりて鞍馬を己が巣とせり

 

秋風の渡る鞍馬の参道を登る人らを仁王門喰ろふ







1 鞍馬山のイメージ

2002年11月4日。弁慶の笈ほどはないが一抱えの荷を背負い、比叡から吹き下ろす風に晩秋の京都を感じながら、都の洛北にある鞍馬寺に向かった。前日、大徳寺の某院で茶会があり、その時の荷物を何気なく背負ったいたのだが、これが今回の鞍馬詣でに思いがけぬドラマをもたらしたのであった・・・。

鞍馬と言えば、真っ先に思い出すのは、幼き日の源義経公のことである。「牛若」と呼ばれた悲劇の英雄義経公が、この霊山で、どのようなことを思って過ごしたのか、そのイメージの一端でも脳裏に浮かんで来ればいいが、と思いながら、「出町柳」から叡山電鉄に乗った。駅を越える度に線路の勾配は少しづつきつくなり、山あいをぬって走る車窓からは、若い紅葉たちが、「ようこそ秋の鞍馬へ」とでも言いたげに手を振ってくれる。

折から連休最終日とあって、電車の中は、正午を前に、早くもすし詰めの有様だ。若いカップルもいたが、中年の夫婦が多いような気がする。めいめい登山スタイルもバッチリと、秋の京都を満喫するぞ、という気迫みたいなものが漲っている。この人たちは、鞍馬という地に何を求めてやって来るのだろう。紅葉狩りか。それとも義経伝説だろうか。などと考えながらいると三〇分ほどで、終点の鞍馬山に着いてしまった。駅を一歩降りた瞬間、ひんやりとした空気が、周囲に立ちこめており、まさにそこは霊山そのものでった。

今や伝説で語られる以外になくなった鞍馬山における幼き義経公のイメージでも感じ取ることが出来るだろうか。もちろん誰しも鞍馬山に封じられているものの姿をこの目に見ることはできないことは分かっている。ただこの地に脈々と受け継がれている鞍馬信仰の底流になる水脈のようなものを少しでも感じ取れたらと思うのである。

鞍馬寺という寺名は、もちろん鞍馬山(570m)から来ている。鞍馬寺は、この山の中腹に位置している。そもそも「鞍馬」とは、暗いところを意味する「闇部」(くらぶ)あるいは「暗部」(くらぶ)といった言葉から転化したものではないかと言われている。

鞍馬は、歌枕としても知られ、古今集にもこんな歌が収められている。

秋の夜の月の光しあかければくらぶの山も越えぬべらなり(在原元方)
(訳:秋の夜に出る月の光が明るいようなので、闇深い鞍馬の山も越えていけそうだが・・・)

梅の花にほふ春べはくらぶ山やみにこゆれどしるくぞ有りける(紀貫之)
(訳:梅の花の匂う春には、さすがに鞍馬の山の闇を越える時も白く見えていることだ)

これを見ると、まさに鞍馬山のイメージは暗い闇を持つ山ということになる。おそらく都人にとっては異界そのものだったと言ってもいいのではないかと思われる。寺伝によれば、かつてここは、松尾山金剛寿院と呼ばれていた。寺の起こりは、奈良時代に中国より、五度もの難破と失明の苦難を乗り越えながら仏教に日本に広めるという強い思いを持って来日(753)した鑑真和上(688-763)に鑑禎(がんてい)という弟子がいたが、その人物が、宝亀元年(770)正月、夢の中に毘沙門が顕現し、この地に草堂を建てて、毘沙門天像を安置したことが始まりと言われている。周知のように毘沙門天は、別名で多聞天とも呼ばれ、ヒンズー教における財宝の神クーベラ(Kubera)を指す。須弥山中腹の北側に住んで、夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)を率いて北方を守護する武の神である。また七福神の一人であり、弁財天は彼の妻である。

日本における毘沙門信仰は、おそらく北を征服するという大和朝廷の強い征服欲と結びついて、国家的に薦められた一種の思想であったと言えるだろう。要は言うことを聞かぬ東北の民を、毘沙門の信仰によって、突き崩そうとしたのである。延暦一三年(794)京都に遷都した桓武天皇は、長い間、容易に攻めきれない東北を征服するべく、征夷大将軍に坂上田村麻呂を命じ、この鞍馬山に京都を鎮護するための伽藍の建設を延暦一五年(796)に開始したのであった。つまり京都の遷都の歴史とともに鞍馬の歴史もまた始まったことになる。

征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂には、特別の力が宿るようにとの思いから、いつしか毘沙門の化身と喧伝されたのであろう。確かに都の朝廷側は、東北の司令部として存在した多賀城を焼き討ちにしたアザマロの叛乱以来、新たに登場した東北の族長(おさ)のアテルイやモレの奇抜な奇襲作戦によって、苦戦を強いられていた。そこで最後の切り札のようにして登場したのが、毘沙門天の化身(?)坂上田村麻呂という武将だった・・・。

そんなことを考えながら、駅を出て山門に通じる通りを少しばかり登って、「つづら折り」と呼ばれる鞍馬寺の山道を登り始めたのであった。

http://www.st.rim.or.jp/~success/kyouto_yositune.html
 
 
 

2 仁王門の偉容

駅を曲がると5、60mのほどの門前町があり、正面に小山ほどもありそうな仁王門が堂々立っている。もしも「鞍馬詣」に来る者の中に不埒(ふらち)な考えを抱いている者でも紛れていたら、直ちにこの門の中から仁王が飛んできて、首根っこをひっつかまえて、足をばたつかせても、許して貰えないような凄みがある。中に控えている仁王像は、湛慶(たんけい)作と伝えられている。

勾配の急な石段を登る。端正な扁額が黄金に輝いている。人々は、仁王門の前に群がって、必死で記念写真を撮っている。この人々は何を祈願に来たのであろうか。昔から繰り返された「鞍馬詣」というものの根底には、何か人々の特別の思いが働いていたはずだ。今でこそ、鞍馬山そのものが観光地のようになっているが、元々この山は、霊山であり、祈りの山なのである。

祈りは、何か民衆の果てせぬ夢のようなものを神仏に祈り叶えてもらいたい、との切なる願いが根底にはある。私の数代前の祖先もまた遠く奥州の地から、一家の繁栄と商売繁昌を祈願するためにこの地を尋ねている。しかし最近日本中の山という山は、概ね単なる山の愛好者のためのトレッキングコースに成り下がってしまった感があり、少し寂しい。

昼暗き鞍馬の山のつづらの坂、媼(おうな)は登る重き荷を負ひ

仁王門をくぐり、柄杓(ひしゃく)を手にして、手と口を清める。無心になる。ひたすら鞍馬の山の霊験に浸るのだ。もう何も考えない。山道を見れば、道がふたつに分かれている。右を行けば階段。左は、だらだらと続く「つづら折り」と呼ばれる坂道がいつ果てるともなく連なっている。これが鞍馬の表参道で、ここから由岐神社を通り、鞍馬山の本堂に通じている。ここから距離にしてみれば、2.5mほどの道程だが、口で言うほど容易な山道ではない。立て札に、なるべく健康のために「つづら折り」の道を通るように、との勧めが書いてある。

ところで清少納言の「枕草子」第166段に、こんな下りがある。
「近くてとほきもの
宮のほとりの祭。思はぬ兄弟、親族の中。鞍馬のつづらおりといふ道。十二月の晦日、正月一日のほど」

なるほど、機知に富んだ女性らしく、面白く捉えている。鞍馬の山道は、簡単に着きそうに見えて、なかなか着かない厳しい道だなということか、などと思いながら、右の方の階段を進むと、鬼一法眼ゆかりの社があると記してあるので、迷わずに階段側を選択し、石段を一歩一歩踏みしめるように登る。
 

3 放生池から鬼一法眼社まで

やがて魚などを生かして放すと御利益があるという放生池(ほうじょういけ)につく。道程は長い。そこでまずは腹ごしらえと思い、ベンチに腰を下ろすと、背中から、おむすびを一個取り出して、水で一粒一粒を大切に頂いた。色とりどりの鯉が、秋の日射しを浴びて泳いでいる。
 

放生の池でほおばるおにぎりの米一粒を力と登る


鬼一の社を廻りなるほどに虚々実々の伝承もよき

放生池から少し歩くと、すぐに鬼一法眼社が見える。早くも義経伝説に係わる人物ゆかりの社の登場だ。鬼一法眼が実在していたかどうかは分からない。義経記第二巻にこの人物の伝説が詳しく述べられているが、その伝説の骨子は以上のようなことである。

京都の一條堀河に陰陽師の鬼一法眼という人物が住んでいた。その人物の評判を聞き、若い日の義経公は、奥州に下っていたが、何とか彼の所持していた秘伝の兵法を学びたいと思って、秘かに京に戻り、鬼一に弟子入りを申し出る。秘伝書の名は「六韜三略」(りくとうさんりゃく)。しかし鬼一はこの兵法書の閲覧を許さない。そこで義経公は、鬼一の三女のいつき姫(お伽草子では皆鶴)と契りを結び、これを盗み出させて、何日もかけて奥義を学んでしまう。実は鬼一もこの書の奥義については知っていない。ここで義経公は、師と頼んだ鬼一を乗り越えてしまうことになる。怒った鬼一は、弟子を刺客として差し向けたが、首を取られてしまう。目的を達した義経公は去り、奥州に戻る。しかし鬼一の幸寿前は、彼を諦めきれず、恋煩いによって亡くなってしまう・・・。

まあ良くできた話だ。今日「六韜三略」という本そのものが市販されているが、それを読むと兵法書というよりは政治の書の色彩が強く、とても秘伝書というような類のものではない。「孫子」などの方がよほど優れている。偽書との噂すらあるこの本を読んだからといって、兵法の奥が分かるなどというのは、どう考えても無理がある。おそらく鞍馬にいた時代には、鬼一に擬せられた人物はいたはずで、その人物と義経公とのエピソードがいくつかあり、それが義経記創作の過程で、膨らんで行ったものと考えて差し支えないであろう。
 
 
 

つづら折りの山道を登りながら、鬼一法眼の娘のことが何故か気になった。もちろん伝説上の説話とは分かっているのだが、無性に気になるのだ。自分の愛する者の為に、己の命を捧げてもという健気さは、何か普遍的なものがありそうな気がしてくるのだ・・・。

古に、景行天皇にヤマトタケルという皇子がいた。日本中を転戦して歩き、最後には、白鳥の姿となって飛び去ったというあの悲劇の皇子である。彼が三浦半島の沖に差し掛かった時、突然、海が荒れて難破しそうになった。上総(かずさ)の国に向かっていたその船には、妃のオトタチバナ姫が同行していたが、姫は海神の怒りを鎮めるために、海に身を投げて、夫の危機を救うのである。余りにもよく知られた話である。

中世には、こんな話もある。京都の今出川通りに千本釈迦堂という名で有名な大報恩寺という寺がある。この寺に「おかめ」伝説という話が伝わっている。この寺の創建は、鎌倉時代の初頭であるが、大工の長井高次という棟梁がいた。ところがどうしたことか、腕の良い大工も手元が狂って、やっと見つかった四本の柱の一本を切ってしまった。困った挙げ句に、女房の阿亀に話した所、この気丈な女性は、夫の苦悩を見かねて、古い記録などを辿っていくうちに、「マスグミ」という手法があることを知る。その方法を高次に話すと、夫は見事に寺の棟上式を執り行うことが叶ったのであった。でもこの阿亀という女房は、妻の助言如きで、頭領の夫が、棟上式を行えたというのでは、夫の恥となると思い、その日の朝に自害して果ててしまう。以来、誰となくこの阿亀さんのことを「おかめ」と親しみをこめて呼びこの千本釈迦堂にはお参りする人が絶えず「おかめ塚」が出来たというのである。

江戸時代にも、あの四十七士が、本懐を遂げる時の有名な話が残っている。怨敵である吉良邸を討つ為には、どうしても邸内の正確な絵図が必要であったが、この時、士の一人に岡野金右衛門という若い侍が居て、この人物が、大工の棟梁の娘の力を借りてこの絵図面を手に入れるのである。

義経公やヤマトタケル以下の話も、みんな窮地に陥った時に、女性に救われる話という共通項がある。しかも不思議なのは、愛する夫や恋人の窮地を救った後には、これらの女性は大体、命を落としている。毎年年越しの定番となった感じのする忠臣蔵でも、岡野の相手となった大工の棟梁の娘は、シナリオ上殺されてしまうようである。もちろんこれだって事実かどうかは分からない。しかしシナリオ構造からも、また日本的な物語の類型からも、変な言い回しだが、死んだ方がすっきりするということが言えるであろう。これは単なる内助の功というような類で片づけられないような民俗的な裏がありそうに思える。本来何か女性には、窮地を救う霊力のようなものがあるのかもしれないとさえ思う。

民俗学の柳田国男に「妹の力」という著作があるが、これは古来より女性が特別の力を持つと信じられてきたことを民俗学の立場から検証したものだ。するとどこからか「元始、女性は太陽であった」と、平塚らいちょうさんの声でも聞こえて来そうな気がした。別に私はフェミニストという訳ではないが、確かにむかしは、恋人や妻のことを「妹」(いも)と呼んだというが、これは単に現在使う「イモウト」という言葉の意味よりは、若い女性の総称と言って良い位の意味であった。もちろん姉(あね)とも呼ぶが、イモの方が呼び名としては、どうしても愛らしい感じがするのは確かだ。
 
 

つづく


2002.11.13 Hsato
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