京都の義経伝説

 義経伝説を中心にした京都地誌


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   京都における義経伝説は、鞍馬寺より始まる。

鞍馬寺(くらまでら)

住所 左京区鞍馬本町1074

交通 叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅下車二十五分またはケーブル多宝塔下車五分

本尊 毘沙門天、千手観音

牛若がこの鞍馬寺に入ったのは7才の時であった。四才で母常磐と離された牛若は、義朝ゆかりの者の住んでいた京都山科に暮らしていたが、母の配慮もあって、やはり義朝の祈祷の師であった鞍馬の別当、東光坊の阿闍梨蓮忍(れんにん)の許(もと)に預けられた。この真意については、「義経記」だけではなく、「平治物語」や「吾妻鑑」にも同様の話が記載されており信憑性は高い。鎌倉史の研究者である安田元久氏も、「事実とみてよい」としている。この東光坊連忍師こそが、鞍馬山の天狗だったかもしれない。すなわち後の世の芸術家の脚色と民衆の想像力によって、牛若に剣術、兵法などの妖術を教えた鞍馬天狗となって伝説化されたものであろう。
 
鞍馬という地名は、文字通り、「暗いところを意味する闇部(くらぶ)・暗部(くらぶ)といった言葉から転化したものといわれる。」(日本の国宝13鞍馬寺他)また一説に、天武天皇が大友皇子と合戦した壬申の乱の折、天皇がここに逃れて御馬の鞍を下ろさずに繋いだので鞍馬とも伝えられる。

鞍馬寺は京都の洛北の左京区鞍馬本町にある。

門前の駒札には、寺の由来が次のように記されている。

正しくは松尾山金剛寿院と号し、鞍馬弘教の大本山である。縁起によれば、奈良時代、鑑真とともに来日した鑑禎(がんてい)が、宝亀元年(七七〇)正月四日初寅の夜、霊夢によってこの地に来り、毘沙門を感得して草庵を結んだのが、当寺の起りといわれる。延暦十五年(七九六)桓武天皇は藤原伊勢人(いせと)に命じて、皇城鎮護の道場として伽藍を造営せしめた。いらい朝野の信仰はふかく、白河・後白河法皇の御幸も行なわれた。しかし度々火災にかかり、往時の姿は失われたが、豊臣・徳川氏の保護をうけ、明治五年に現本堂も再建された。

当時の古い由緒を伝えて、本尊毘沙門天(国宝)はじめ彫刻や古文書の寺宝多数を蔵している。

山内は牛若丸(源義経)ゆかりの伝承地が多く、仁王門から山上への坂道は「枕草子」に記されている「つづら折」である。

現在、鞍馬仏教の中心として参拝客は多く、祭礼のうち六月二十日の竹伐(たけきり)、十月二十二日の火祭はとくに有名で、多数の参拝客でにぎわう。 京都市
 

藤原伊勢人の見た霊夢については、今昔物語(本朝仏法部巻十一の三十五)に記されている。それによれば、彼の夢に現れて、鞍馬に寺を建てることを勧めた翁とは貴布祢(貴船)明神であるという。この貴布祢明神は、賀茂川の源流に位置する地主神で水神とされ、貴布祢の名は、「木生根(木生嶺)」から生まれた地名とされる。

またその物語の中には、自分の白馬から鞍を外して、「汝、我が夢に見し所に必ず行き至るべし」と言い含めて放した。そしてたどり着いた場所が、鞍馬だったため、馬から鞍を外したことを持って、この鞍馬の地名の由来と説明している。

○鞍馬山 毘沙門天堂、この山にあり。あるいは松尾山と称す。(訓読 雍州府志巻一)
 

笛桜
鞍馬の奥院に桜の小木があった。傍らに碑があり、義経が笛を吹いた所で、笛桜といった、とあった。後に後継ぎの桜を植えたとも記されていた。

○山城國鞍馬山ニ義經ノ太刀・鎧等アリ、『平泉雑記巻四(四十一)ヨリ 相原友直著』
 
 

由岐神社(ゆきじんじゃ)

住所 左京区鞍馬本町1073

交通 叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅下車 京都バス鞍馬下車七分

社格 鞍馬寺の鎮守社

祭神 大己貴尊(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこのみこと)
医の神として知られ、もし天子が病に罹った折には、えびらの靱(ゆき)を社頭に掛けるので靱明神と云い、由岐神社の名が付いたようである。

創建は、天慶年間(九三八−九四七)で鞍馬の産土(うぶすな)社である。
牛若の師事した東光坊の阿闍梨蓮忍の住居は、この社の後方にあったと伝えられる。
現在の拝殿は、慶長15年(一六一〇)に豊臣秀頼が寄進したものである。
尚、9月9日の「鞍馬の火祭り」は、この社の秋の祭礼である。

由岐神社から鞍馬本道までの約500mの坂道が、枕草子に書かれている九折(つづらおり)坂である。また東坊跡には義経供養塔がある。
 

僧正ガ谷(そうじょうがたに)

鞍馬寺の奧から貴船渓谷一帯を、かつて僧正ガ谷と呼んだようである。ここは牛若が異人(天狗)と出会い、剣術や兵法を習った場所と云われているが、その真意のほどは明かではない。ここに「牛若丸背較石」があり、1.2mほどの石だが、牛若が一六才の時、金売吉次に伴われて奥州に下る時、背較べをした石と云われている。近くには「不動堂」が建てられている。また「義経息次の水」は、牛若が毎夜の稽古の折、喉を潤した清水と云われている。「牛若兵法石」は奧院にある群石でこの辺りで魔王大僧正から剣術をならった際、刀や木刀で疵がついたと伝えられている。しかし実際の所は、長い間の雨水の浸食によって出来たとする説が有力。

○鞍馬寺の北にあり。相伝ふ、この山の大天狗僧正房、この処において、剣術を源牛若に伝ふ。故にこの谷の岩面多くは剣撃の痕ありといふ。(中略)これ地気の然らしむところなり。なんすれぞ、剣撃の痕ならんや。(訓読 雍州府志一)

○羅山翁神社考ニ云、鞍馬山ト興貴布禰之間有岩谷、名曰僧正谷、或云、不動明王示現之地也、世傅、源牛弱初名舎那王丸、遁平治亂入鞍馬寺、一日到僧正谷逢異人、一云山伏、異人教牛弱以剣術且盟曰、我為舎那王護神、其後時々興異人遇于僧正谷、善習其刺撃之法、牛若素好軽捷至此?精、及十五歳征奥州、寿永・元暦之際興平氏合戦、其功居多、文治之始再遊鞍馬山、不得復見異人、牛弱即源延尉義経也、
 按ルニ、僧正カ谷ト號スルハ、一演僧正ノ修行セシ谷ナル故名付、天狗僧正坊カ住ルユヘニ名付タルニハアラス、前二詳ナリ、
『平泉雑記巻二(四十八)ヨリ(相原友直著)』

○鞍馬天狗僧正像弁源牛弱像
公方家獨ノ山僧ヲ夢見玉フ、山僧ノ曰、我ハ是鞍馬ノ僧正ナリ、願クハ公狩野元信ヲシテ吾像ヲ圖シテ、以テ寺中ニ安置セシムヘシ、公驚キ覚テ元信ニ告ク、元信モ又同シ夢ヲ見ル、然レトモ實ニ其形ヲ不知、世ニ又圖像無シ、茫然トシテ紙上ニ臨ミテ手ヲ下スコト不能、忽チ蜘蛛アリ絲ヲ曳テ紙面ニユク、其跡ニ従テ是ヲ見ルニ、彷彿トシテ圖畫成ル、中カ僧正坊、左ハ役ノ行者、右ハ源牛弱、其?方六尺餘ナリ、元信カ家ハ其門狭少ニシテ是ヲ出シ難キ故、其簷ヲ破リテ出ス、當世ノ諺ニ曰、圖既ニ成テ屋ヲ破ルト云リ、其圖今鞍馬寺ノ堂ノ西ニアリ、本朝語園、『平泉雑記巻二(四十九)ヨリ(相原友直著)』

 

貴船神社(きぶねじんじゃ:古くは木船または貴布祢を宛てる)

住所 京都市左京区鞍馬貴船町182

交通 叡山電鉄鞍馬線貴船口駅下車30分、京都バス貴船神社下車すぐ

祭神 宇賀魂命、玉依姫、タカオカミノ神 弥都波能神(罔象女:ヤツハメノカミ)。
社格 「延喜式」明神二十二社の一社、後に上賀茂神社に属したが、明治初年官幣中社となり独立。

都の北方の北方賀茂川の水源にあたり、炎干や風雨の時は竜王の滝に祈雨・止雨を祈って朝廷より奉幣された。鎌倉寺建立のとき、貴船明神が地主神としてあらわれ、勝地を示したとの伝承がある。(鞍馬寺蓋寺縁起)

この貴船神社は、水を司るタカオカミの神を祭神とする神社で、貴船は「木生根」「木生嶺」とも書き、木の神であったものが、平安遷都後、賀茂川の水源として、水の神を祀るようになったということだ。古くは、川社、川上社とも呼ばれ、祈雨の時は黒馬を、止雨のときは白馬を奉納したと伝えられる。
境内には義経記で、有名な「鬼一法眼古趾の碑」がある。ここには鬼一法眼の墓があった場所とされる。何故この場所に、鬼一法眼の墓が造られたかは、不明である。
この鬼一法眼は、陰陽師で一条堀川に住んでいたとされる。中国から伝わったとされる兵法書「六韜」を保持していたとされる伝説的な人物だった。是非ともこの「六韜」の極意を知りたかった義経は、鬼一の娘と恋仲となり、その娘の助力を得て、兵法書を三ヶ月ほどかかって読み解き、遂にその書の真意を極めたとされる。そのことに怒った鬼一は、屈強な弟子をやって、義経殺害を画策したが、逆に斬り殺されて、娘は義経を恋い慕いつつ、別れの辛さから十六才の若さで亡くなってしまう。(義経記 巻二)
 
 

源義朝屋敷(大源庵跡)

大徳寺に近い、北区紫竹牛若町に大源庵(大徳寺の末寺)の跡がある。元義経の父源義朝の別邸があったとされる。常磐第(ときわのてい)とも称す。(常磐は義経の母。初九条院雑司にて、絶世の美女。)

南庭の場所に産湯の井がある。常磐御前が牛若丸を産む際ここでから産湯を汲んだとされる井戸である。

○産湯水 
産湯水ハ、洛陽紫竹村大徳寺ノ末寺大源庵方丈ノ南庭ニアリ、相傅フ、此地義朝ノ第宅ニシテ、義朝ノ愛妾常盤此處ニテ牛弱(ウシワカ)ヲ産ス、其時此井
ヲ汲テ産湯ニ用ユ、土人此地ヲ古御所ト云ト、雍州府志ニ出、 『平泉雑記巻三(十)ヨリ(相原友直著)』
 
 

大源庵は、明治11年まで現存していた。この一帯は竹藪であったのを開墾し、大正15年に遺跡地として、建碑したものである。洛陽名所集巻八には、「常磐故御所(ときわふるごしょ)は大源庵で閣殿の後ろに古井がある」、と見える。

近くにもうひとつ同名の井戸があった。大宮頭紫竹の畑中に牛若誕生井である。井戸枠はなく、石柵を設けて囲ってある。江戸時代には井戸の上に覆屋があり、その額も現存している。その昔は、弁財天社が牛若誕生井戸の傍らに南向きであり、誕生弁財天の祠があったと伝えられ、その様子が洛北名所の版画に見える。

「寛文拾庚戌年、大徳寺境内寺社改差上留」の上野村の条に、
一、 牛若丸、生産井戸
一、 弁天社、小宮、壱社
とある。井戸の東方に小塚があり、松があり、前に竹を建て注連が張られている場所があり、これは義経の胞衣塚(えなずか)と伝えられている。

近くには今宮神社(北区紫野今宮町21)があり、その北東300m付近に光念寺(浄土宗:紫野来栖町28)がある。ここに常磐御前の守本尊の「腹帯地蔵」が安置されている。また光念院から北東300mに常徳寺(日蓮宗:紫竹下竹殿町)があるが、そこには常磐御前が安産を祈願して祈ったとされる「地蔵菩薩坐像」が本堂に置かれてあり、常磐地蔵と呼ばれている。

ちなみに近江鏡山の付近の街道に、京都から左手の傍に「義経元服の水」として、六.六平方メートルばかりの清水が涌いていて、前の雑木に注連縄(しめなわ)が張られている。
 
 

常磐御前の墓

京都市右京区常磐。
京福北野線ときわ駅下車。

常磐は、太秦(うずまさ)という、現在「太秦映画村」の名で知られる場所の北西にある。元々は秦氏という渡来人が、開いた土地とされ、京都で最古の寺、広隆寺があることで有名な街である。この広隆寺は、602年に、秦氏の長であった秦河勝が、聖徳太子より賜った仏像を安置するために造った秦氏の氏寺である。常磐は、太秦の北西に位置する街で、弘仁二年(811年)に源光寺が建てられたことに由来する地名だという。義経の母の常磐御前は、この里の出身という伝説がある。

源光寺の地蔵堂の東の小庵の庭の傍らには、里人がこの里の出である常磐の為に建てたとされる塚がある。始めこの塚は、古体でとても美しい形をしていたらしいが、その美しさ故に、聚楽館(豊臣秀吉が天正13年に造営)に移されたということである。

春秋もしらぬ常磐の山里は住む人さへや面がはりせぬ  在原元方(新古今和歌集)

染めかぬるときはの杜の梢より秋の色は見えけれ     藤原忠定(玉葉集)

○常盤墓
常盤カ墓近江國関ヶ原ト今洲ノ宿ノ間二山中ノ里アリ、義経ノ母常盤カ墓道ノ北森アル處ナリト云リ、又蟠龍子カ俗説辨ニハ、此墓常盤カ墓ニアラサルコトヲ辨セリ、 『平泉雑記巻三(十三)ヨリ(相原友直著)』
 
 

源義経の館

揚梅(やまもも)通油小路の西(下京区)。六条堀川の館という。土佐帽正俊が夜討ちにて、義経を襲ったのは、この場所である。

○源義経宅 油小路と堀川との間、六条の南に跡あり。世にいはゆる堀川御所、この処なりと。(訓読 雍州府志 巻八)
 

武蔵坊弁慶宅

二条河原の東南(中京区)にある。
主君義経が堀川館において、鎌倉から遣わされた刺客土佐坊に急襲された折、弁慶はこの場所から馳せ参じて、土佐坊一味八十名ほどを討ち取ったとされる。後にここは荒れ地となり、弁慶芝(べんけいがしば)と称するようになった。

○辨慶芝ハ、二条河原ノ東南ニアリ、相傅、武蔵坊辨慶義経ニ従ヒ京ニアル日寅居ヲ此所ニ構ヘ、土佐房昌俊義経ヲ堀川舘ニ襲フ時モ亦此處ニ宿ス、則馬ヲ馳テ行、終ニ昌俊ヲ捕フ、此地今ニ於テ耕種セスト、雍州府志出、『平泉雑記巻二(一九)ヨリ(相原友直著)』
 

佐藤忠信屋敷

七条坊門不動堂の東南(下京区)にある。
忠信は、吉野山で義経の身代わりとなり、追っ手を切り捨てて逃亡した後、都に身を隠してここに住んでいた。この場所は、その関係で、忠信の武勇と忠義に敬意を表するためか、その後、耕作地となっても分地(功労のあった者に土地を分けて与えること)を避けたと言われる。ここに一人の男子が住んでいた。名を坊門三郎といい、佐藤忠信の落し胤と言われる。武家に坊門という姓があるのは、皆この末裔である。(参考:雍州府志 巻八)
 

二基塔

愛宕郡滑谷に十三重の華蔵塔二基あり、土人伝へいう、佐藤忠信夫婦の塔なりと。しかれども、その実を知らず。今、これを考へふるに、石塔台座の表に。永仁三年二月二十日施主法西の字を記す。案ずるに、永仁の年号は、伏見院の時なり。正法(ママ)人の為にして、これを建つるものか、また、みずから為にして立つるところか、これを知らず。正法、、また未だ何の人なることを詳らかにせず。山伏なりと。一説に鳥部野に岩渕の勤操を葬りしより以来(このかた)、良賎の葬場となる。この処、鳥部野を去ること遠からず。しかるときは、この一基は、勤操の塔にして、一基は経を納むる塔か。(訓読 雍州府志 巻十)
 

継信忠信塔

在妙法院北石塔町北方人家族。其体石重塔也。今ノ高サ二間余。昔八十三重アリ。崩落シテ其下ニアリ。土人伝テ、継信忠信ガ塔トイウ。台座東南ニ字アリ。永仁三年二月二十日。施主法西。已上 伝不詳。’(山州名跡志 巻三 愛宕郡)
 
 

橘次井(きちじい)

住所:上京区知恵光院通居今出上ル桜井町102−1

西陣5辻通の南、桜井の辻(上京区智恵光院通五辻下ル)。
この地は金売橘次末春の宅地である。源牛若丸が始めて奥州に就く時、首途(かどで)をここで祝った。それに因んで首途の水と名づける。旅行安全に御利益があるとされる。この地に首途八幡神社がある。ここを奥州の藤原氏の京都邸(平泉第)と見る説がある。

【首途八幡神社について 】

金売橘治の京都の居館が、現在の上京区にある首途八幡神社と比定されている。

首途八幡神社は、織物で有名な西陣の側にある小社(東西に長い二百七十五坪ほどの敷地)であるが、京都で奥州文化を論ずる時には、どうしても避けて通れない重要な旧跡である。社殿によれば、この「首途」(かどで)とは、ここにはかつて奥州の金商人金売吉次が住居を構えていた所とされ、元服前の源義経が牛若丸と呼ばれていた頃に、ここから吉次と共に奥州に首途したと伝えられている。境内には、首途の井戸があり、「首途の清水」を汲んで旅に出れば、御利益があると信じられている。義経は平家追討に向かう時にも、この水で身を清めて戦場に向かったと言われている。京都事典(東京堂出版)によれば、「この地は桃園宮跡で桃園親王を祀ったとも」言われている。

またこの地は、平安宮の背後に位置しており、外交的な面では地勢的にもまさに第(大使館)として絶好の地である。祭神は、応神天皇、比売大神、神功皇后で、宇佐八幡宮を勧請したものと伝えられているが、はっきりと奥州藤原氏に関連あるとする文献などの証拠は見つかっていない。大内裏(だいだいり)の鬼門(北東)に位置していたことから、王城鎮護の社として、内野八幡宮とも呼ばれていたが、中世以降の度々の火災により、神社の大半は失われたようである。尚、現在の首途八幡神社は、戦後の混乱期に荒廃していたのを、昭和四十年代に地元の人々によって再興されているものである。

○橘次井
橘次ノ井、京西陣五辻ノ南桜井ノ辻子(ツシ)ニアリ、相伝フ、此所金賣橘次季春カ宅地ナリト、
此井大ニシテ水モ又清冷ナリ、義經橘次カ東行ニ従フ時、此所ヨリ首途スト、 『平泉雑記巻五(四)ヨリ(相原友直著)』
 

○三條吉次
金商人三條吉次カ名、諸書不同、義經記ニ信高ト云、熊坂之謠モ又同之、太平記劔巻二五條吉次季春ト云、義經勲功記同之、鎌倉實記ニ末春トス、平治物語ニ奥州ノ金商人吉次ト云者、京上リノ次ニハ必鞍馬ヘ参レリ、堀彌太郎ト云シハ此金商人コト也ト云リ、又鎌倉實記ニ(「南部叢書」に依る)「ハ三條吉次、後ニ堀彌太郎景光トスルハ云ハ、甚誤リナリト云リ、○吉次屋敷趾膽澤郡衣川村ニ有、居舘門ナトノ舊礎、今ニ残レリ、又山ノ目南磐井川○伊校本、岩井川、近所ニモ吉次屋敷趾ト云ル有、奥州白川ト白坂驛トノ間ニ華籠原○伊校本、華籠原、ト云ル處アリ、海道ノ傍ニ小社有リ、昔三條吉次・同吉内・同吉六ト云ル兄弟ノ者ハ、毎年都ヨリ黄金商ノ為ニ平泉ニ下リタルガ、或時此所ニテ盗賊ニ害セラル、此小社ハ其墓ニ祠ヲ立シナリト云、葛籠(カワゴ)ヲ捨置タル地故ニ名ツクルトゾ、又分散橋トイフ小橋有リ、盗賊金ヲ分散セシ處ナリト云、
『平泉雑記巻三(十八)ヨリ(相原友直著)』
 
 
 

血洗池(ちあらいのいけ)

粟田山の下(左京区)にある。安元3年初秋、源牛若丸が、金売橘次と共に奥州に下る時、水を偶然ながらかけられたことに憤慨した義経が、その者(関原与市)の鼻を削ぎ、切り殺して、さらに部下七人を切り、血の付いた刀を洗った池とされる。傍らには、蹴揚水(けあげのみず)があるが、ここが牛若丸が、水をかけられた場所である。近くには蹴上大神宮(日向大神宮)がある。

その時、牛若一行は、その菩提を弔うために、地蔵九体を祀ったとされる。現在は、義経大日如来と日ノ岡一切経谷町に義経地蔵尊のみが伝わっている。

○蹴挙水 下粟田にあり。源義経、牛若たりし時、鞍馬山を出でて、売金商橘治末春に従ひて東行す、ここにおいて、関原与市に逢ふ、与市は美濃国の士なり。馬に騎り、京師に入る。その従者十人。意気揚々然として列なり行く。誤りてこの水を蹴て、義経の衣を汚す。義経、その無礼を怒り、刀を抜き、従者十人を斬る。与市が耳鼻を殺(そ)いでこれを放つ。義経、喜びておもへらく、東行首途の吉兆なりと。今、この水を誤りて、関清水と称す。関清水は近江国大津の西、追分の東にあり。(訓読 雍州府志 巻九)
○血洗池 義経、与市が徒を斬りて、しかうして後、刀を洗ふ処なり。(訓読 雍州府志 巻九)
 

五条大橋(ごじょうのおおはし)

▼市バス河原町五条下車、東へ徒歩3分▼京阪電鉄京阪五条駅下車、西すぐのところにある。
京都五条通りの鴨川にかかる橋で、牛若丸と弁慶が出会った場所とされる。今、橋のたもとには、漫画のような牛若、弁慶の像(御所人形作家、面屋庄三氏作)が建っている。

ところでこんな歌があるのを知らない日本人は、いないだろう。

○牛若丸

一 京の五条の橋の上
  大のおとこの弁慶は
  長い薙刀(なぎなた)ふりあげて
  牛若めがけて切りかかる

二 牛若丸は飛(と)びのいて
  持った扇を投げつけて
  来い来いと欄干(らんかん)の
  上へあがって手を叩(たた)く

三 前やうしろや右左
  ここと思えば又あちら
  燕(つばめ)のような早業(はやわざ)に
  鬼の弁慶あやまった
             (牛若丸 文部省唱歌 )

子供の頃、この光景の絵本などを見ながら、若き日の牛若丸の雄姿に胸を躍らせた人も多いと思う。

ところがこの五条大橋の牛若と弁慶の対決はフィクションである。もちろんこれも「義経記」の記述を真実とみればの話である。義経記において、伝説の二人が初めて会ったのは、五条天神である。義経記によれば、弁慶の母が、五条天神に子を授かることを祈願して、弁慶を妊娠したとの記述がある。

二人の出会いの場が、五条の橋に移ってしまったような話に固まったのは、義経人気が高まりをみせた明治期である。先の文部省唱歌「牛若丸」が作られたのも、そんな時期であった。

五条は、古くから市内と伏見をむすぶ要衝の地であり、五条大橋は、元々木の橋であった。義経の時代、この橋は、五条坊門(現在の松原通り)にかかっていた。それを天正年間(1573〜91年)に豊臣秀吉が下流の六条坊門(現五条通り)に移し、そのまま五条橋と称したものである。また通りの名も同じく五条通りと改めたものである。正保二年(1645年)石造となった。昭和10年には鴨川が氾濫して五条大橋も流出したが、再び造り直された。
 

五条天神(ごじょうのてんじん)

義経記によれば、この場所が、牛若丸と弁慶の初対面の場である。

住所 下京区天神前町の西洞院通り松原下ルにある。

祭神は大己貴命、天照大神。天使社とも云う。旧村社。
社伝によれば、平安京遷都の折、弘法大師空海が創建しと言われる。

「諸社根元記」には、「延文5年5月10日藤原国定解状云、当社者高野之大師草創、去正治2年4月25日被授正五位下訖、永和四4年(ママ)正一位、云、靭(ゆき)明神、紫野今宮韓神五条天神同体也」とある。

「徒然草」の第二〇三段に、「大方世中のさわがしき時は、靭をかけらる」とあり、病気平癒の神とされた。現在でも厄除けの神として、庶民の信仰をあつめ、神社が配布する宝船図は、日本最古の宝船図として珍重されている。鞍馬にも由岐(靭)神社があるが、そことの関係については不詳。
 

弁慶石

三条麩町を東に入った所にある巨石。元は鞍馬口にあったものが、洪水で流れ着いたものとされる伝説上の大石。弁慶が比叡山から投げた石だとか、衣川で立ち往生した弁慶がこの石になったという突拍子もない言い伝えまである。

弁慶石というもの、叡山の麓の愛宕郡八瀬里にもあり。
○八瀬里、一つの石あり。伝へいふ。武蔵坊弁慶、叡山に登るとき、この里を経過す。この石を携へ来たりて、ここに置く。その身の長(丈)これに等しという。(訓読 雍州府志一)
 

静神社(しずかじんじゃ)
 

京都府竹野郡網野町礒にある。
祭神は、静比女命(しずかひめのみこと:静御前)。

「丹後國竹野郡誌」(大正四年に京都府竹野郡役所によって編纂された地誌)を要約すれば、静神社の由緒は以下のように説明されている。

「伝説浜詰村誌稿」の伝えるところによれば、静御前は、当村に住む礒野善次の娘であったが、不幸にして、父の善次を亡くし、寡婦となった母は、自分の生まれ故郷である京都に、幼い静尾(静の幼名)を連れていき、祇園の某家の白拍子となした。その後、静18歳にして、義経と出会い、愛妾となった。義経が頼朝に追われるようになり、吉野で分かれ分かれとなる。吉野で捕まった静はその時、すでに義経の子を身籠もっていた。男子を産んだが、直ちに殺され、傷心の静は、母礒の禅師とともに京から、故郷の礒に戻って、晩年を過ごして、没したとされる。死後に静の遺品を埋めたされる塚と思われる塚が三個あり、その辺りを「三ツ塚法丈ケ成」と云う。

また「丹後旧事記」(たんごきゅうじき:江戸天明年間に成立)の語るところによれば、元和元年(1615年)に宮津藩主京極高広が、この地に訪れた時、惣左衛門という漁師が、奥より箱を開いて、先祖の(?)礒の惣太に義経が、奥州に逃げる途中の吉野山からもらったとされる手紙をみせた。そのことに感激した国主は、この村を磯村と呼ばれるようになったとされる。その手紙も天明二年(1782年)の火災にて焼失してしまったとのこと。

但し、これらの説に対して、「丹後州宮津府志」(たんごしゅうみやつふし宝暦十一年成立)のは、「義経勲功記」が史料として採用している「丹後海陸巡遊記」を「此書何人の作なる事をしらず誕妄の説」と批判し退けている。

尚、現在の静神社は、元の社の位置より200m離れた所にあり、静御前の木像が祭神として祀られている。
 

網野町の静伝説についての参考
@「丹後旧事記」(たんごきゅうじき:江戸天明年間に成立した地誌、田中新吉著)は、静伝説について以下のように伝えている。

○静の神社  竹野郡木津庄磯村
祭神 静の木像
元和三年丁巳夏五月京極高広順國の時当社の神記尋ねらるるに惣左衛門といふ海人一つの箱を持来り一書を出し奉見られけるに源判官義経吉野山より賜り申されし消息なり。名当磯野惣太殿源義経とあり国主大いに感賞有て再び此地を磯村と云一村と成よし仰せ有けるなり。此頃漸海士七軒有と奥平記に見えたり相伝ふ源義経に仕へし静女は当國塩江の海士の娘なり貧窮の余り七歳にして都へ上りて遊里へ売て白拍子となす後義経の妾ち成と伝ふ。(丹後史料叢書 名著出版 第一集 昭和四七年刊)

Aまた「丹後州宮津府志」(たんごしゅうみやづふし:宝暦十一年成立、小林玄章他著)では次のような記載がある。

○静御前の遺跡
竹野郡木津浜村の傍に礒という小村あり、相伝ふ静女の母磯野禅師は、此村の産にて其ゆかりにて静晩年に爰に来り住りとかや、今静の社とて小祠あり静が木像を祭るよし。此事義経勲功記といえる冊子に丹後海陸巡遊記を引てのせたり、此書何人の作なる事をしらず誕妄の説多し。又聞磯村という名は五十年来よりの名にて、今漸三十軒ばかりの人家ありて五十年斗前には人家はなかりしかとぞ。後人礒といふより礒禅師を附会し、静女が像を好事のの人設けしよりいよいよ其説を伝へしものと見へたり。一書云静は讃岐國大内群小磯の云所の産なりとぞ。

B更に「丹哥府誌」(たんかふし:宝暦十一年〜天保十二年成立した地誌、丹哥は丹後の、小林玄章著には)次のようなことが書かれている。

丹後の口碑によれば、村の後山に室寺と寺に四ツ塚という場所があり、礎石が残っていた。更に村の続きに尼僧ケ浜り、村人の話では、静の縁の土地だということだ。しかしながら六十年ほど前に大火があり、一村すべて焼け、記録も知る者も消えて、真偽を調べる術はないと、記している。(丹後史料叢書 名著出版 第七集 昭和四七年刊)
 

以上のことから勘案してみると、丹後國竹野郡誌が、一番新しい静伝説ということになるが、江戸期に書かれた「丹後旧事記」や「丹後州宮津府志」、「丹哥府誌」を綜合し、伝説の緻密化が計られていて、伝説というものが、時代を追って、筋立てがより論理的になっていく過程が面白い。

また宮津藩主の京極高広が、登場するところなどは、義経伝説の変種あるいは傍流としての「清悦物語」(=常陸坊海尊の伝説)と非常に似た側面がある。清悦物語は、義経の高館での落城を生き生きと語る清悦が、実は義経の家来の常陸坊海尊で、四百年間を生きて、奥州の覇者として君臨した伊達政宗にも拝謁し、何度も義経一行の最後について話したという伝承物語である。これについては柳田国男も「東北文学の研究」で詳細な検討を加えている。私は、当地において、藩主を登場させたのは、清悦物語において伊達政宗が登場するのと同じく、この地の静伝説をこの地に定着させる意図をもってなされた権威付けの可能性が強いと思うがどうであろうか。
 

続く
 



参考文献
 

義経残照 読売新聞社 1990年刊
源義経  土橋治重著 成美堂 昭和47年刊
京都市の地名 日本歴史地名体系 平凡社 1978年刊
京都(エリアガイド29)昭文社 1999年1月2版
京都の歴史散歩(上中下)山川出版社 1995年刊
京都事典 東京堂出版 平成5年刊
京都の歴史(歴史シリーズ26)山川出版 昭和44年刊
京都 林屋辰三郎著 岩波新書 1962年刊
謡蹟めぐり(京都編)青木実著 檜出版 昭和60年刊
京都民俗志 東洋文庫 平凡社 昭和43年刊
山州名跡志(1、2巻)雄山閣 昭和46年刊
訓読 雍州府志 立川美彦編著 臨川書店 平成9年刊
和漢三才図会(11、12)東洋文庫 平凡社 1988年刊
鞍馬寺 中野玄三著 中央公論美術出版 昭和47年刊 
日本の国宝(13、鞍馬寺他)朝日新聞社 1997年刊
京の駒札 吉田達也著 芸艸堂 一九九一年刊
京都謎解き散歩 左方郁子著 廣済堂 平成九年刊 
千年の息吹き(上) 上田正昭 他編 京都新聞社 1993年刊
義経伝説推理行 荒巻義雄・合田一道著 徳間文庫 1993年刊
京都の伝説(洛中・洛外を歩く) 福田 晃 他著 淡交社 平成6年刊
時代別・京都を歩く 蔵田敏明著 山と渓谷社 1999年刊
丹後史料叢書 名著出版  昭和四七年刊
 

義経記 島津久基校訂 岩波文庫 1939年刊
義経記 (全2巻)東洋文庫 平凡社 1968年刊
義経記 岡見正雄校訂 岩波日本古典文学大系新装版 1959年
源義経 安田元久著 新人物往来社 平成5年刊
源義経のすべて 奥富敬之編 新人物往来社 1993年刊
弁慶物語(「室町物語集」下ヨリ)岩波新日本古典文学大系 1992年刊
源平盛衰記 博文館 明治二六年刊
源平の興亡(歴史群像シリーズ)学研 1989年刊
源平時代人物写真集 志村有弘著 勉強堂 平成一〇年刊
日本架空伝承人名事典 平凡社 一九八六年刊
歴史読本 昭和四一年五月号 新人物往来社
歴史読本 昭和五七年六月号 新人物往来社
鎌倉室町人名事典 新人物往来社 平成二年刊
奥州藤原史料 東北大学東北文化研究会編 吉川弘文館 昭和三四年

平泉三部作(実記、旧蹟志、雑記) 相原友直著 


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