鞍馬山の「義経伝説」紀行

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御社の鳥居をくぐる人人の人それぞれの祈りを想ふ








4 由岐神社の由緒

そんなことを考えながら坂道を上って行くうちに由岐神社に着いた。

由岐神社は、「靫(ゆき)神社」とも表記し、この「靫」とは、弓の矢を携帯するために竹などで編み毛皮を張ったて背負う筒状の容器であった。元々この社は鞍馬寺の鎮守社であったが、拝殿の前の由緒書には、次のように記されている。
 

御由緒
御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなびこのみこと)
    二座
相殿  八所大明神

御鎮座

当社は王城の北方の鎮めとして、天慶三年(西暦九四〇)九月九日 靫大明神(後改め由伎更に改め由岐)と奉祀し大己貴命、少彦名命二座を鎮座し、古来天皇の御病気や世上騒動の時社殿前に靫をかけて平安を祈った為靫神社となづけられた。


御神徳

御祭神は国を治め、人民の生活の道を教えになり、特に医薬の道をお授けになった医薬の祖神であります。二柱共に、天上神である皇孫に国土の統治権を献上された国譲りの大業をなしとげられたところから、事業の守護神と仰ぎ、苦境に至ったとき、勇気と進取の神助を授け給い、また国土経営の神であるところから、会社経営の隆昌を祈念し、衣、食、住、の守護、諸災解除、病気平癒。商売繁盛、家内安全、厄除開運、交通安全、家運隆昌、無病息災、旅行安全、学業上達、縁談成就、安産の神として、特に火の神として御神徳は広大無辺、事物の根元を明らかにし、清、明、正、誠心のもとに、祈念すれば霊験神助を授かる信仰は昔も今も同じであります。


御神階

後陽成天皇の天正一七年正一位の宣下
末社
三宝荒神社 岩上社   白長弁財天社
冠者社    願かけ社  八幡社
石寄大明神社
文化財
拝殿 豊臣秀頼再建 慶長十五年(1610)重要文化財
狛犬 一対                重要文化財


例祭

火祭 十月二十二日(大祭)
由岐神社

夕暮れと見まごうほどの昼下がり由岐の御社魔界へ通ず

この由緒を読みながら、様々なことを思った。祀ってある神は、二座共に、出雲の神さまである。もちろん神さまとは言っても、神話化して描かれているだけのことで、人間である。大己貴命(おおなむちのみこと)とは、別名を大国主(オオクニヌシ)と言い、出雲国を治めた大王と目される人物であった。少彦名命(すくなびこのみこと)は、大国主を助けて、国政にあたった宰相のような立場の人物ではなかったかと思われる。日本書紀では、その辺りの二人の人物の活躍が、生き生きと描かれている。二人は人や家畜の病をも治す法を定め善政を敷いたようだ。その為にこの由緒書にもある通り、医薬の神とも言われるようになったのである。まあ、彼らが、どうして国を譲らねばならなかったのかは、日本書紀や古事記に文字通り譲るとして、「国譲り」とは、言葉のアヤであり、この二人の出雲の為政者は、自分の国を力によって奪われたということになる。
 

梅原猛氏によれば、概ね神として祀られる人物とは、怨霊になるほどの思いをこの世に残して亡くなった人物であると言う。とすれば、この二人が少なくても、国譲りという事実上の政治的敗北により、怨念を残して亡くなり、その怨霊を封じる目的をもって社を壮大に造り、そこに神として祀られたということになるであろう。このようにして血塗られた歴史の一端は、神話として見事に昇華や装飾やカモフラージュが施され、あの因幡の白ウサギをやさしく介抱する白い袋を背負った大国主の姿となり、また少彦名の場合は、一寸法師のモデルとして、人々の心に美しいイメージを持って残ることになったのであろう。

神と仏の関係でもそれは同じだ。はじめ日本の民は、神を信仰していた。神は、そこかしこの山や川や海にあるいは辻辻にいる精霊のような存在であった。それが六世紀になると、仏の信仰が新興宗教として日本列島に津波のように押し寄せてきた。新しい文明の利器と共に日本に移入されたこの仏教は、国家護持の宗教となり、次々に古い宗教である神の信仰を駆逐する勢いで日本列島を席巻した。それからというもの物部氏と蘇我氏のような宗教対立にまでエスカレートし、国を分かつような戦にまで発展したが、そこで神と仏が共に糾合する知恵が模索され、旧き神はインドに起源をもつ仏教の神さまの新しい姿を借りて蘇るのであった。このことを神仏混淆あるいは神仏習合と呼んだりするが、それは先の大国主の「国譲り」と同じような「譲り」の思想ではないかと思うのである。こうして神と仏は合体し、日本的な宗教がいつの間にか出来上がっていったのである。

さて、これは「記紀」を読んでの私の想像に過ぎないが、日本の最初の国家統一を果たしたのは、出雲の国を統一した大国主であった可能性がある。また出雲の大国主の一族は、奈良や熊野にも進出をし、山代と呼ばれた京都一体にもその勢力を伸ばしていたと思われる。由岐が、靫であれば、それは武装解除をして、矢を放棄した先住の民の国譲りの象徴的な名付けとも感じられるからだ・・・。

拝殿の屋根の苔とてありがたく茫然とだた空見つむなり

5 由岐神社の火祭り

由岐神社の拝殿(重文)は美しい。特に檜皮葺(ひわだぶ)きの屋根に苔むしているのが、何とも言えず雰囲気がある。この建物は慶長15年(1610)豊臣秀頼によって再建されたものである。急な斜面に割拝殿(わりはいでん)と言って、真ん中を割ってくぐり抜けるような造りになっている。階段をゆっくりと上がって本殿の前に着き、下をみると、じっとして下からこちらを見ている人がいた。本殿は以外なほど小ぶりである。本殿の棟札は左右には、鎌倉時代の造られ狛犬(重文)が阿吽(あうん)の呼吸で参拝する者を待ちかまえている。

一山を焦がす鞍馬の火祭りの神秘思へば鈴の音の鳴る

この由岐神社の、年中行事と言えば、毎年、10月22日に催される「火祭り」が有名だ。祭りの由来は、天慶3年(940)に御所に祭られていた祭神の御神体を鞍馬山に遷す時に、村人が松明を手にして迎えたという故事によるものと言われる。

私も観たことがないのだが、京都の三大奇祭と言われるほど、独特の雰囲気があるようだ。聞いた話によれば、祭りは鞍馬山に夕闇が迫る頃に始まるそうだ。まず子供たちの小さな松明の一団に続き若者たちが五mにも及ぶような大松明を担ぎ「サイレイ、サイリョウ」の声を掛けながら、鞍馬街道を鞍馬寺の山門前にやってくる。この大松明の数は、二百本にも及ぶという。そして山門一帯が、火の海と化した所で、由岐神社から二基の神興が担がれて下って来る。神輿と松明は、一体となり、町内を巡幸するのである。神輿が再び、神輿殿に戻るのは深夜になる。確かに各地には、ドント祭とか、火に関する祭りは様々あるが、これほど火というものを豪快に取り入れた祭りも珍しい。

きっと義経公も、牛若時代に、この火祭りに松明を持って参加したことであろう。人間というものは、火を見ると何か、自分の中にあるものが刺激されて、興奮を覚えるものであるが、火と一体になることで、宗教的には、もしかするとゾロアスター教の教義にも通じる系譜が隠されているかもしれないとさえ思う。

周知のようにこのゾロアスター教は、紀元前六世紀頃のペルシャの予言者ゾロアスター(ツァラツストラ)が始めた宗教である。これは光の神である善神と、暗黒の神である悪神が対立し、ついには光りの神が勝利して、悪神は闇の中に追放される。この場合、善神を象徴するのが火であり、ここから火を拝するということで「拝火教」とも呼ばれるのである。

人間の文明というものは、まったく脈絡がない様に見えて、実は不思議に通じていることが多いものだ。由岐神社の火祭りと、ゾロアスターの教えを比較し、火への信仰を読み解くのも面白いかもしれない。
 

つづく


2002.11.13 Hsato
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