梅の香の匂ふひと夜を小笹寿司

−ありがとう岡田周蔵翁−

梅ヶ丘・羽根木公園の夜の梅
2003.2.9撮 影)


 
下北沢の小笹寿司が、この度、生まれ変わった。 天才岡田周蔵は、昨年(2002)暮れをもって、高齢による体力の限界を悟って引退をした。寂しい限りではあるが、一筋にこの道を歩いてきた岡田周蔵翁の 決断に敬意を表したい。

そしてこの二月一日、新月の日、二十五年に渡って、小笹の鬼の 岡田の下で修行を続けてきた西川勉氏が、小笹寿司亭主(オヤジさん)の名跡を嗣ぐこととなった。寂しさの募っていた矢先だっただけに、この喜びはひとしお だ。小笹寿司を愛する馴染みの人々と共にこの日の新装開店を心から祝いたい・・・。

そんな気持で、新装開店の日、私は蕾の白梅の鉢物を抱え、脇に は京都の銘酒「月の桂」を挟んで、小笹の青いのれんを潜った。人が狭い店の中に溢れていた。新ご亭主の西川氏は、私の顔を見るなり、人なつっこい笑顔で照 れくさそうに、
「へーい、佐藤さんがお見えだよ」と言った。
すると奥から「いらっしゃいませ」と聞き慣れない声が した。
見れば、見慣れない奥方だった。緊張した面持ちで、こ ちらを見ておられる。
瞬間にすべてを悟った。岡田のオヤジさんは、経営から すべて手を退かれ、西川さんの奥さんがオカミさんになられたのだろう。これから夫唱婦随で、小笹という寿司の世界の大看板を背負って行かれるのか・・・。

そう考えた時、何故か、「奥の細道」の最初の句が脳裏に浮かん だ。

 草の戸も住替わる代ぞひなの家

これは芭蕉が、隅田川にあった自分の家を売り払って、路銀とし て、奥州の旅に出かける時に最初に詠んだ句である。むさ苦しかった身よりもない自分の庵でも、今度は、小さな女の子がいる家族に買われて、ひな祭りの飾り がある。こうして芭蕉は、退路を断って命がけの旅に出かけるのである。

そして何となく華やいだ気分になった。

「新しいオヤジさん。これお祝いです」と言ってお祝いの白梅を オカミさんに渡した。
そこにはこんな句が添えてある。

 梅の香の匂ふひと夜を小笹寿司

次に小脇から、酒の瓶を取って、
「あとこれ、京都の『月の桂』という濁り酒です。皆さ んで宜しければ呑みましょう」と言いながら瓶を軽く振ると、見る間に白く濁って、蓋を取ると発酵して泡がシューとなった。みんなで回すと、
「いやこれは、うまい。目出度い。実に好い日に来たも のだありがとう」とカウンターに座っていた中年の紳士から声がでた。
「西川さん。今日が新月なの知っていましたか。実に好 き日に開店されましたね。これこそ小笹の箸袋にある『好日』ではありませんか?!」
「新月?あそうでしたか。すいません。知りませんでし た」

店を見渡しても、何も替わっていない。でも何かが新しくなって いる。そして何か華やいでいる。もちろん岡田のオヤジさんはいない。ただ「祝 岡田周蔵」の札の掛かった樽酒が無造作に奥に置いてあって、「さあ、自由に 呑め!」と言わんばかりにどっかと座っている。一度退いたらテコでも来ない頑固な寿司職人岡田周蔵翁の偉大さに改めて触れた気がした。

そしてこうも思った。「岡田周蔵は、寿司の世界の横綱だったの だ」と。丁度相撲を愛した岡田周蔵翁は、ケガを心配していた平成の大横綱貴乃花と奇しくも同じ年に引退をすることになった。

以上、平成十五年二月一日の日から、下北沢の小笹寿司に岡田周 蔵翁は居ないけれども、岡田周蔵の鮨魂は新オヤジ、西川勉氏によって、未来に向けて見事に受け継がれたことを実感した。

  新月の二月朔日いそいそと祝儀の梅と小笹寿司入る
 奥に置く「祝岡田周蔵」の樽酒の妙に気になる 新月の夜 
 歌詠めば親爺睨みて江戸っ子は寿司と俳句と叱 られた夜も
 「温燗」と云へば「人肌」と云はすまで酒も出 さぬか小笹の親爺 
 親爺焼く穴子の生地焼き「人肌」で味わいたり し夜の暖かさ
 しんみりとお猪口片手に長き夜を小笹の穴子味 わいし頃
 きっかけは「小笹の穴子を頬ばればそこに宇宙 がある」との言葉
 ありがとう岡田周蔵あらばこそ江戸前寿司の粋 に出会ゑり
 江戸前の寿司と頑固を貫きて岡田周蔵伝説とか す
 寿司と云ふ己を燃やす生業(ネタ)持ちて鬼と 呼ばれし人を称ゑむ


佐藤弘弥


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2003.2.10

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