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レポート7月24日前夜祭

「義経公810年祭」前夜祭

7月24日は、夜の八時から、菅原次男さんを迎えて、義経ロマンの旅500キロを祝う「前夜祭」が催された。栗駒山の中腹にある「ハイルザム栗駒」というホテルがある。そこに舞台を設え、かがり火を焚き、十三夜の月光が煌々と辺りを照らす中、花火が夜空を彩り、菅原さんを讃えるための手作りの祭りは始まった。

この夜のために、「小松芳泉」さんという踊りの名手が、友情出演を買って出てくれて、わざわざ福島の白河から来訪してくれた。創作舞踏「芳泉流家元」で気鋭の舞踏家である。この人は、白河の関の食堂で、菅原さんと偶然お会いした人物である。たまたま佐藤がこの先生の名刺を拝見し、「創作舞踊」と刻印してあったのを見て、「仮面劇義経伝説」の「第三幕 死の舞踏」への出演を打診したところ、快諾いただいた。まさに義経公が導いてくれたとしか思えない不思議なご縁である。

踊りの題材は、義経公の最初で最後の弁明の手紙、「腰越状」を脚色したものである。音楽はジャズのマイルス・デービスで、肝心の腰越状の朗読は、劇団民芸の俳優「岩下浩」氏に依頼した。すべては事情を説明して友情出演にて、ご参加いただいたものである。その部分の台本をここに掲載する。

* * * * * * * * *

第三幕 死の舞踏

 場所 義経の心の内

(道化の吉次現れる)

さて、義経公は最愛の家臣を失い。一時、心重き日々を過ごされていたが、そこは戦については鬼神でも乗り移ったかのような才を備えたお方、たちまちのうちに、平氏を四国の壇ノ浦に滅ぼされてしまわれた。源平合戦の源氏方の勝利の第一の功は、誰が見ても、義経公の戦上手にあるは明らか…。

…それがあのようにまさか忌まわしきことになろうとは…。

煙幕が焚かれる

黒子が舞台中央に義経公の首を象徴する兜を据える。

静寂の闇の中からほら貝の音が聞こえてくる。

腰越状の朗読が始まる。

音楽が流れる(マイルス・デービスの「In a silent way」から「In a silent way」)

白装束の人物(死に装束の義経あるいは義経の霊)が卵のように丸くなっていて、やがて舞い始める。

(静かな低い声で) 
 
 
かがり火の中で義経公の心を舞う「小松芳泉」女史

源義経おそれながらもうしあげます。

このたび名誉にも兄君の代官に撰ばれ、怨敵平家を討ち滅ぼし、父の汚名を晴らしました。そこでこの義経、褒美をいただけるとばかり思っておりましたのに、あらぬ男の讒言(ざんげん))により、未だ慰労の言葉すら頂いてはおりません。

義経は、手柄こそたてましたが、お叱りをうけるいわれはございません。悔しさで、涙に血がにじむ思いでございます。

兄君、どうか私の言い分に耳をおかしください。

梶原の讒言のどこに正義がございましょうや。このように鎌倉の目と鼻の先にいながら、お目通りも叶わず、この腰越で、数日を悔し涙で、暮らしております。

兄君、慈悲深きお顔をお見せください。

これでは兄弟(あにおとうと)になんの意味がございましょうや…。

それとも義経は、胸の内を語ることも許されず、また憐れんでもいただけぬのでしょうか。

この義経、生み落とされると間もなく、父君は討たれ、母君の手に抱かれて、大和の山野をさまよい、安らかに過ごした日は一日もございませんでした。

当時、京の都は戦乱が続き、身の危険もありましたので、さまざまな里を流れ歩き、里の人の世話になり、何とか生きながらえて参ったのです。

その時、思いもかけず、兄君が旗揚げをなさったという、心ときめくおうわさを聞き、矢も盾もたまらず、はせ参じた義経でございました。

またありがたくも宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、その手始めに、木曾義仲を倒し、あらゆる困難に堪え、次には平家を討ち果たし、亡き父の御霊をお鎮めました。それもこれも兄君に歓んでいただきたき一心で励んで参ったのです。義経には、それ以外のいかなる望もございませんでした。

さむらいとして最上の官位である五位の尉(ごいのじょう)に任命を受け入れたのも、ひとえに兄君と源家の名誉を考えてのこと…。義経にはそれ以外のいかなる望みもございませんでした。

にもかかわらず、このようにきついお仕置きを受けるとは…。

この義経の気持ちを、これ以上どのようにお伝えしたなら、分かっていただけるのでしょう。何度も神仏に誓って偽りを申しませんと、起請文を差し上げましたが、お許しのご返事を、いまだいただいてはおりません。

兄君、義経は、ただただ静かな気持ちを得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを言うのはよしましょう。どうか賢明なる御判断を。源九郎義経…。

腰越状を読み進に従い、

踊りも音楽も激しくなる。

朗読が終わった瞬間。

義経は死んだように床に伏して動かなくなる。

* * * * * * *

岩下氏の地に響き渡るような朗読。静謐なマイルスの音楽。そして切れるような小松女史の舞が、義経公の心情を見事に表現し、実に感動的な舞台であった。

「この踊りを見て、背筋が寒くなる思いがしましたね。これで今回の旅の疲れがいっぺんに吹き飛びました」と菅原さんは、目頭を押さえた。芸術というものの不思議な力を感じた夜であった。

 

翌朝、九時、沼倉「判官森」の下に菅原さんをはじめとする有志が、「義経公810年祭」のために集結した。その中に、昨夜の、舞台をボランティアで作ってくれた高橋安敏さんがいた。

「昨日の舞台最高でしたね。本当にありがとうございました。何か良い舞台なので、ホテルの方が、夏の間、そのままで借りたいみたいな話しをしてそうですよ」と菅原さんが言うと、

「あああの舞台ね。今朝早速解体して片づけましたから・・・」とニヤッとされた。

さすがである。わずか40分足らずの前夜祭の為だけに作り、すぐに解体する。この中にも日本文化というものの片鱗があるような気がした。つくづく、菅原さんは幸せ者である。


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最終更新日:99/07/28 18:30 Hsato