佐藤弘弥
1 梅原猛の日本論
「日本とは何なのか」ということを少し考えてみたい。最近は「日本の歴史」シリーズ(講談
社)の第一回配本として、『「日本」とは何か』という網野善彦氏の本が発売されたばかりだ。そこで今日は、日本論の権威ともいうべき哲学者梅原猛氏の「日
本とは何か」(「日本とは何か」NHKブックス1990年刊)の序章部分を手がかりとして、まずは問題提起とする。
この文章の中で、日本というものを梅原氏は次のように明確に定義している。(いささか長く
なるが重要な問題を提起しているのでここに抜粋し引用する。)
「私は日本文化を縄文文化と弥生文化との対
立をはらんだ総合とみる。・・・現在、日本の国土の三分の二は森である。そしてその森の五十四%は天然林である。それは日本において弥生文化が広がって
も、縄文文化の母体である森はそのまま残されたことを意味している。
・・・日本文化を俯瞰(ふかん)するとすれ
ば、弥生人が縄文人を征服し、日本に統一国家ができたのは、4世紀から6世紀に掛けての古墳時代であるが、それを受け継いだ飛鳥・奈良時代は、その統一国
家を中国にならって律令国家たらしめようとした時代というべきであろう。・・・ところが平安時代の中頃から武士が台頭する。武士というものは、もともと狩
猟採集を業としていたものであり、縄文の遺民とみてまちがいないであろう。もともと関東は縄文文化の影響が強く、関東人は縄文人がそのまま農耕化したとい
う自然人類学の学者の説もある。
・・・中世とは、人間的にも文化的にも縄文
的なものの最盛の時代なのである。・・・縄文文化は平等を重んじる文化である。・・・縄文文化の住居跡をみると、まん中の広場を囲んで、まったく同じ大き
さの竪穴住居が並んでいる。これは縄文時代が、ほぼ完全な平等社会であったことを示す。・・・武士の台頭はこの平等化の流れをいっそう促進し、下克上が時
代の潮流となるのである。江戸時代は、このような平等化の要求の強い日本社会をもう一度、身分制度に返す試みによって、人工的につくられた社会であったと
いえる。
日本はこのようなふたつの性質の違う文化か
ら成り立っているが、宗教とか習俗とか言語とか、変わりにくいものは縄文文化の影響が強く、変わりやすいもの、技術とか教養としての文化と政治組織のよう
なものは弥生文化の影響が強い・・・日本文化は、その本質において森の文化である・・・この森の文化ということは、日本文化の大きな特徴であるけれども、
今、人間の自然征服がその限度に達し、森林の保護育成が時代の急務になろうとするとき、・・・森の文化を強く保存する日本文化は、今後の世界に古くかつ新
しい原理を提供するものとして大きな可能性を秘めているのである。・・・環境保護が二十一世紀の社会のもっとも重要な問題となり、・・・独自の文化的創造
が期待されるとき、縄文文化の伝統が想起されるべきであろう。」
この梅原氏の文章を更に要約すれば、「日本文化は、縄文的なものと弥生的なものの対
立とその総合の結果出来たものである。しかし本質的に日本文化の基底にあるものは、森の文化に象徴されるような縄文精神である。」ということにな
るであろう。
私は基本的にこの考え方に賛成である。この考え方に従えば、日本人の心の中では、縄文的な
精神と弥生的な精神が、せめぎ合っているということになる。そして文化にも当然その対立の構図は反映され、その時々で、時には縄文的なものが強く現れ、時
には弥生的な面が強く現れたりすることになる。ただ本質なるものはやはり、森というものに象徴される縄文的なるものである。
2 縄文人岡本太郎と弥生人平山郁夫
さてでは縄文的なるものとは、何であろうか。もちろんそれは、狩猟採集の文化を基本とする縄文人が創った民族文化の総称である。し
かしこの縄文文化というものは、つい数十年前まで、日本の文化史上では、稲作文化を中心としたを伝えた弥生的なるものより一段劣る文化と見なされていた。
確か中学の社会科の授業においても、縄文土器の荒々しい形状は、むしろ弥生時代への変化発展するための段階という説明がなされていたことを、私自身はっき
りと覚えている。要するに歴史家の眼は、縄文の芸術的価値を十分理解できなかったことになる。
しかし一人の芸術家の眼が、縄文式土器や土偶などを見た瞬間、その価値評価に一種の革命が起きた。その芸術家の名は、岡本太郎。
1951年40歳の岡本は、上野の国立博物館で、縄文土器の力強いフォルムに圧倒され、震えるような衝撃を受けた。その縄目模様や土偶の伝える原始の神
秘。岡本はそこに縄文人達の大いなる美的精神を直感した。それはピカソが、アフリカの何気ない木彫りの木像に芸術的ショックと芸術的インスピレーションを
受けたのと同じ感覚だった。
岡本の直感は、一つの発見だった。もちろん土器や土偶は考古学者たいがフィールドワークで発掘したものだが、岡本が「これは芸術
だ」と指摘するまでは、単なる過去を知る遺物に過ぎなかった。だから岡本は、日本の美術史上でも縄文的美意識の発見者として、その名を永遠に讃えられるで
あろう。それからの岡本太郎は、「縄文土器論」や「神秘日本」などを次々と著して、日本文化の基底部に母なるものとして眠る縄文的精神を世に喧伝役割を自
らで負った。そしてその成果は、岡本自身の作品にも当然の如く反映し、代表作「太陽の塔」(1970年の大阪万博の象徴であった巨大モニュメント)を完成
させた。あの塔を見る者を圧倒する縄文的な迫力がある。岡本はまさに縄文的なる精神を現代に蘇らせたのであった。
岡本は、1929年18歳で、フランスのパリに留学している。そこで岡本はピカソやミロ、カンディンスキー、ダリなど当代一流の芸
術家に親しく接し、自らの芸術を進化させたのである。パリにあって、岡本は日本人の留学生達とサロンを組むことはなかった。彼はむしろ日本人の留学生の中
にあっては、異端中の異端であった。ある映画監督は、彼を「鼻つまみ者」だったとまで酷評している。岡本は、そんなことにはまったく無頓着であった。むし
ろフランスに染まり、フランス文化のエッセンスに触れようと必死になった。パリ大に入学し哲学と民俗学を学び、ショパンの「革命」や「雨だれ」を引いて、
パリジェンヌと恋を語った。それでも彼の精神の基底部にあったものは、やはり縄文的な日本精神であった。一方、そんな岡本を、「鼻つまみ」と称する連中の
精神の基底部には、日本精神を「みやび」や「もののあわれ」と見る弥生的なるものが強く現れていたようなきがする。
この岡本の生き様は、まさに道なき道を分け入っていく、縄文的狩猟民的な精神であり、
「人生は道がないからこそ、面白い。瞬間瞬間、心身をぶつけて前に進み、そして挑む」と、まで語っている。
この縄文人とも言うべき岡本太郎と対比をなす日本画家がいる。それは平山郁夫である。東京芸大の学長にまで登り詰めた平山は、アカ
デミズムの寵児(ちょうじ)の如く思われているが、氏の著作をみると、広島で被爆体験を持つなど、人一倍の苦労人、努力の人である。最近の彼は仏教の原点
を求めてシルクロードを何度も旅し、深い精神性に根ざした淡泊で静謐な作品群を発表し続けている。明らかに平山の精神は西へ西へと向かっているように見受
けられる。私はそこに弥生文化のルーツを探ろうとする平山の無意識を感じる。周知のように弥生的なるもののルーツは、大陸からもたらされた稲作文化であ
る。私は平山作品の中に、その稲作文化の臭いというか、弥生式土器にある静謐なる美意識のようなものを感じるのである。私からすれば、平山郁夫は、紛れも
なき弥生人の芸術家である。
私が、岡本太郎を縄文人と見、平山を弥生人と見る見方に対し、賛否両論あろう。もちろん私はこれによって、どちらの芸術が、優れて
いるなどと、口幅ったいことをいうつもりは毛頭ない。それは好みの問題であり、自分の気質の問題であると思う。ともかくこれで日本文化の中には、否応なく
縄文的なるものと弥生的なるものが存在することだけははっきりしたと思う。
3 日本人の考え方の根底にあるシャーマニズム
最近亡くなられた仏教思想の世界的な権威の中村元氏は、「日本人の思惟方法」という本の中で、このように日本人の考え方の特徴を分
類されている。
第一は、与えられた現実の容認である。読んでいてすぐ理解できると思うが、今の政治状況でも、何となく認めているわ
けではないのだが、容認して、仕方ない、政治とはこんなもんだ、と考えがちな所も、この目の前の現実を消極的ではあるが、認めてしまう傾向としてあるよう
に思われる。
第二には、人間結合組織を重視する傾向ということである。これは日本人は群れたがる、という言葉があるように、ある
集団に属して、安心感をえているような傾向がある。確かに「・・会」とか「・・教」とか「・・党」とか、一般生活においても、宗教活動、政治活動において
も、個人でうごくというよりは、ある集団に属して、活動するのを、常としているのが日本人の特徴である。このような頂点に天皇制という、絶対的な権力機構
を生み出す、原動力になったのかもしれない。
第三には非合理的傾向である。これも何となく納得してしまう。第一日本語を考えれば分かるが、日本語では、多くの場
合、私(I)が省かれ、主語が自分なのか、あるいはあいて(YOU)なのか、あるいは我々(WE)なのか、分からないことがしばしばである。例えば、芭蕉
の有名な句で「古池や蛙飛び込む水の音」というのがあるが、これがしばしば問題になるのは、英語でこれを表記する時、「私は聞いた。蛙が水に飛び込む音
を」となるのだが、芭蕉の句では、古池が主語のようでもあり、蛙のようでもあり、また極端に言えば水の音が主語ととれないこともない。中村氏は、七カ国語
を駆使して、仏教を研究されたすごい方だが、別の著作で日本語は、「共通の感覚、感情を前提にしていますので、主語を立てない、自己と他者を区別しない。
融合感といったらいいでしょうか・・・つまり和の精神です。・・・これを強調するのは日本人独特の考え方です」(対談集 日本文化を語る 東京書籍
1992年)と語っておられる。
第四はシャーマニズムの問題である。このシャーマニズムの一般的定義は説明すると、非常に難しいのだが、ここでは山
の神や祖先の霊などを祀るような宗教以前の原始宗教意識とでも表現しておくことにする。要するに日本人の思考の特徴の中に、この古い宗教形態が残ってい
て、これが後に神道となるのであるが、この影響が非常に根強いものだから、日本にインドの仏教が入って来ようが、中国の道教、儒教が入って来ようが、すべ
てこのシャーマニズムの影響を受けて日本的なものに変えられてしまうということになる。
仏教の研究者として中村氏の学問的方法は、厳格な「比較思想」としてつとに有名だが、仏教を研究する為には、他の宗教や歴史、学問
をトータルで学び、比較してこそ、初めて、仏教というものが見えてくるというお考えは、実にもっともな考えだ。私はこの中の第四のシャーマニズムの問題に
特に注目したい。これは日本人の心の故郷が、森の思想に根ざしているとする梅原猛氏の考え方にも符合すると思われるからである。
4.シャーマン、ヒミコの鬼道について
シャーマンと言われて、まず思い出すのは、邪馬台国にいたと言われるヒミコである。私が何故漢字で、「卑弥呼」表記しないかと言え
ば、それはこの表記でいくと、この文字の持つイメージの力によって、ヒミコという音韻の持つ、力というか、イメージの広がりが阻害されてしまうことを怖れ
るからである。
魏志倭人伝によればヒミコは、国が乱れていたので擁立せられた女王で「鬼道につかえ、よく衆をまどわせる」と記載されている。さて
この「鬼道」であるが、これを簡単に説明するならば、青森の恐山にいる「イタコ」のようなものではないかと思われる。恐山では、「イタコ」と呼ばれる女性
達が、トランス状態となり、そこに先祖の霊に会いに来た者に様々なことを「伝え」そして「語る」。イタコに憑依した霊的な存在が、語る話によって、人々は
亡くなった肉親たちの思いを忍び、癒され、山を下りていくのである。
ヒミコという名称は、おそらくこのヒ(日ないし陽または火)のミコ(巫女)という意味であろうと推測できる。アマテラスオオミカミ
を称して大日霊女という表記の仕方もあるが、どうもここから大を美称と解して省いてみれば日霊女(ひみこ)と読めないこともない。まあヒミコがアマテラス
オオミカミであるかはともかく、このように鬼の道に精通したヒミコなる邪馬台国の女王が、存在し、乱れていた国をひとまず鎮めたことは確かなようである。
これがおそらく日本における国家宗教の始まりだったということは言えるかも知れない。
同じことは、ギリシャでもオリンパスの神殿の巫女(みこ)達によって、執り行われていた。やはりギリシャでもトランス状態になった
巫女たちが、神聖なるご託宣を述べていたと言われる。例えばベロポネソス戦争として有名な戦のおり、ペルシャに攻められたギリシャの為政者達は、この巫女
によるご託宣によって、アテネの市民を、丸ごと別の都市に非難させ、船を造り、策を用い、巧みに相手を海に誘い出し、強大なペルシャ軍を、ものの見事にう
ち破ったことは、つとに有名な話である。高度に発展した民主主義国家である古代ギリシャにおいても、このような呪術的なる習俗が存在したということは、や
はりこのシャーマン的なるものは宗教の発展段階において、不可避の通過儀礼なのかもしれない。
しかし現代のギリシャに行ってみると、この呪術的な習慣は、まったく見られなくなった。やはりユダヤ教から派生したキリスト教とい
う一神教により、古代ギリシャの神々はただただギリシャ神話という物語に封じ込められてしまって、神々としてのリアルな神々しさを失ってしまっているとし
か言えない。第一、アテネにあるあのパルテノン神殿ですら、単なるアテネを象徴するランドマークタワーとしての役割しか与えられていない。深夜になって、
あのパルテノンがネオンサインでもあるまいに、赤や青にライトアップされるのを見て、幻滅を感じるのは私だけではあるまい。ギリシャの習俗から、古代ギリ
シャの宗教的伝統が、消滅してしまった原因は、唯一絶対の神しか認めないキリスト教の性格から、ギリシャの神々のような多神教的伝統が、異教的として徹底
的な形で排除され、当然その宗教にまつわる習俗も、排斥されてしまったと見るべきであろう。だからアテネに行って、アクロポリスに登り、神々が出現した島
々をつぶさにみながら感じたことを正直に言えば「ここには神はいない」という単純な結論と落胆の二文字であった。
それに比べて、日本はどこに行っても神の祀っていない寺社はない。いや寺社だけではない。田舎に行き、少し脇道に逸れようものな
ら、いたる所に小さな祠(ほこら)を見つけることができる。それはある時は、山の神様であったり、荒神様であったりまちまちだが、どこかの誰かが、ちゃん
と掃除をし、その前を掃き清め、神の訪れを待っている。要するに、古代いや原始から続く、呪術的宗教の連続がそこにはある。もっと分かりやすく言えば、古
代からの宗教的伝統がまさに生きているということである。
5 ギリシャにおいて、消滅した宗教的伝統が日本では何故残ったのか
さてどうしてギリシャにおいては、消滅した宗教的伝統が日本において残ったのであろうか。それはおそらく三つの要因が考えられるで
あろう。第一は、その後、日本に流入した宗教が、多神教の元祖とも言うべきインド思想の発露としての仏教や宗教というよりは為政学や道徳に近い儒教、さら
に道教に至ってはアニミズムやトーテミズムなどの原始宗教的習俗を色濃く残しているのだから、日本のヒミコの時代に連なる「鬼道」としての原始宗教的な習
俗は、そのままの形で生きのびていったということ。第二には、日本における「鬼道」としての原始宗教が、概念として非常に多様性に富んでおり、どんな宗教
が移入したとしても、それをはねつけて、日本的な形に修形されるということである。第三には、ユーラシア大陸の東の端の島国にあるという地理的要因であ
る。
日本は、海に囲まれた島国であるため、大陸内部にある他国と違って、外部からの宗教的な圧迫を受けずに済んだ。逆に言えば、日本と
いう国家においては、他民族による特定宗教の強制ということはなく、自分たちが国家のシステムを維持するために必要な宗教と判断した仏教を能動的主体的に
受け入れて行ったため、原始宗教ととしてのシャーマン的な要素(原始神道)もうまく取り込んで行くことが出来たのである。その結果、神仏混交とか、神仏習
合という形で、宗教的棲み分けができたと考えられるのである。そのことのこのことにより、日本古来の宗教的習俗が、本来の形で残ったということも言えるで
あろう。
日本という国においては、その文化の形成過程において、特に中国からの文化を能動的に受容してきたのであるが、しかしその根底に
は、常にヒミコの時代からの原始的精神性(原始神道)というものが保持されてきたと見るべきである。確かに日本は、古代からずっと単に宗教に限らず漢字や
律令制度など、その多く文化を中国文化に依存してきた。しかし大事なことは、この文化の受容においても一定の緊張関係が保たれていた。仏教の受容寄におい
ても、蘇我氏と物部氏の間で激烈な宗教戦争が繰り広げれたほどだった。また漢字の受容時においても、それを単純に受け入れるのではなく、漢字から万葉仮名
を創り出して、音読訓読を工夫したように、日本化して使用するということを意識して行った。この万葉仮名の受容ひとつにしても文化受容における日本能動的
な特徴というものがよく出ている。
それはおそらく為政者達が、日本という国家の独立性を相当に意識していた為である。聖徳太子が、中国の天子に「日出る国の天子、日
没する国の天子に」という国書をやって、相手を激怒させたことがあるが、これなども、国家としてのアイデンティティと能動性を示すエピソードである。
もしも国家としての日本が、地理的に見て中国のすぐ側に存在していたとしたら、こう簡単には行かなかったはずである。おそらくはす
ぐに併合されて中国化されてしまうか、不名誉な従属国としての立場に落ちていたであろう。してみると偶然とはいえこの日本列島の地理的要因も日本独自の文
化を形成する過程では重要な要因となったことは明らかである。この三つの要因をまとめておくとすれば、第一は、外部要因であり、第二は内部要因、第三は地
理的要因ということになる。すなわちこれは単に日本の宗教的特徴というではなく、日本文化の特徴ということになるであろう。
6.日本人の時間に対する考え方と「能」
次ぎに日本人の時間に対する考え方を見ていこうと思う。そこでまず政治学者の丸山真男の、言葉を引いておこう。これは終戦間もない
昭和20年10月25日に書かれたノートの断片である。
「東洋精神に欠けているものは時間との対決だ(歴史哲学)時間をうつろうもの、仮相とみるかぎり、人間精神の形成が時間を通じての
み実現されるということは、一つの単なる偶然、止むをえざる廻り路にすぎなくなる。かくては思想史というものは無意味なものとなり、人間はかつて数千年の
昔にソクラテス、孔子、釈迦、キリストの到達した精神的高みから一度転落して以後、いたずらなる混迷と低徊(ていかい)を繰り返している。しかしわれわれ
は、よしソクラテスからプラトーへ、孔子から孟子への展開が転落であるにせよ、やはりそこに転落の必然性を思わずにはいられないのだ。しかもそれは決して
単なる転落ではない。それはソクラテスや孔子における絶対的なものが、ソフィストや諸子百家の出現によって、相対的にまで引き下げられた時代を背景として
いる。かかる時代には、そうした相対的立場に一旦自らも立ってそれを通じて絶対的なものへ高まる以外に生きようがないのだ。そうしてかくして再び獲得され
た絶対的なものは、ソクラテス、孔子よりも関連的に豊かになっている事は否定できない。我々はそこに進歩を認める。」(「自己内対話」死後に発見された三
冊のノートの1「折りたく柴の記」よりみすず書房98年刊)
難しいことを言っているようだが、要は「東洋思想においては時間との対決観念が曖昧だ。絶対的な思想としてのソクラテスや孔子、釈
迦、キリストばかり見ていたのでは、その時から現在まで人間の努力というものは無に帰してしまう。ソクラテスからプラトンへの哲学の流れや、孔子から孟子
への儒教の歴史、あるいは釈迦から大乗仏教が生まれて来るまでの、歴史を相対的に評価することで、そこに進歩というものを認めるべきだ。」と丸山は語って
いることになる。しかし果たして進歩とは、本当にそのようなものだろうか、確かに西洋哲学においては、時間に対する対峙の仕方が、東洋より厳しいことは
はっきりしている。哲学者のベルグソンやハイデガーらは、自分なりの時間論を確立しようとやっきになった。大事なことは、時間の中でどう生きるか、どう時
間と関わるか、ということがデカルト哲学以降、彼ら西洋の哲学者の根底にある思索テーマだった。
「東洋の思想」と丸山が言う時、この言い方を、私は少々大雑把な分類ではないかと思う。何故なら東洋思想の潮流は、一つではないか
らだ。インド思想においては、確かに時間は常に相対的であり、厳密に時間の経過、歴史的事象が、時系列ではなく抽象化され語られる。中村元もその著「イン
ド人の思惟方法」で、インド人の思惟の特徴として「時間観念の欠如」(ママ)を上げておられたと思う。そのためにインドの歴史を伝える古典においても、歴
史は、あれだけ数学的素養に優れた民族でありながら、厳密に時系列を追って歴史が語られることはない。むしろ二代叙事詩マハーバーラタ」、「ラーマーヤ
ナ」あるいは「シャクンタラー」のように時間を超越した抽象的な物語として語られる。そこでは時系列に起きた歴史的事象よりは、物語としての流れや普遍性
が強調される。つまり時間は概ね物語の中では無視されたものになる。
しかし東洋思想のもうひとつの潮流としての中国思想においては、歴史的事象は、歴史として編年体の形をとり、厳密に書かれ、そして
残される。この違いはやはり大きい。日本においては、元来インド的な発想が強いように感じるが、後におそらく中国の律令制度を国の基盤として国家建設をし
ようとした大和朝廷の為政者達によって、中国の思想国策として取り入れられていったと考えられる。
しかしながら多くの日本人は、やはり時間には無頓着である。この点はインド的といったらいいのか、やはり日本人は時間観念(歴史観念)は西洋人だけではな
く、中国人とい比べても厳密さに欠けるところがある。別の言い方をすれば、日本人は余り時間というものに重きを置いていない。そのことは、日本人の特徴で
あり、一種の民族的文化的特徴ということも言えるだろう。
私はこの日本人の民族文化の特徴を、日本人の欠点だとは思っていない。むしろこれこそが、日本人の思考の根底にあって、日本人を日
本人たらしめている特徴のようにも感じるのだ。例えば、私は埴谷雄高の小説「死霊」の主人公がそうするように、ブッダをあたかも側にいる友人のように感じ
たり、聖書の中のキリストの何気ない怒りや悲しみに触れた時、非常なほど人間的な親しみを感じるのだが、これは時間観念が曖昧という否定的な部分ではな
く、むしろ直感を通じて、過去の人物と実感を持って対面出来るのは、日本人の特技と言っていいかもしれない。
時間を相対的に捉える芸術の典型としてまず真っ先に思いつくのは、世阿弥という天才が作り上げた能である。能においては、時間だけ
ではなく、空間すらも省略化されている。能という芸術が、日本において成立するためには、観客の想像力が必要であった。何もない狭い能舞台という劇空間
に、無限の宇宙と大地が拡がり、シテの一歩が100里、千里の距離を表現する。また一瞬の場面の転換で、生者は死者となり、いとも簡単に過去現在未来を往
復する。
能が日本の中世社会で芸術として確立した背景には、丸山が「時間との対決」を曖昧にしているとする日本人の東洋的な時間概念や空間概念に対する曖昧さこそ
が、この世界に誇るべき芸術を成立せしめていることは明らかである。
7. 日本人の精神の覚醒期としての中世
梅原猛氏の近著は「法然」である。まだ読んではいないが、おそらく梅原氏の創作意図は、「日本人の心の姿」の源流としての法然(そ
の思想としての浄土宗)を分析することにあるであろう。この試みは過去に何度もなされてきたことである。
法然とは、もちろん浄土宗の教祖として、その後の親鸞の先駆けをなした大宗教家である。今日浄土宗は、浄土真宗と併せ、信徒の数と
しては日本一である。何故この宗派が、このように最大の宗教団体になったかと言えば、元々厳しい戒律に支えられた宗教であった仏教を非常に分かりやすく大
衆が受け入れやすい形で、説いた点にあったことは明らかだ。この教えの最大の特徴は「浄土信仰」と「他力」という教義である。「南無阿弥陀仏」と唱えれ
ば、誰でも極楽浄土に行けるとするこの信仰は、ある意味では非常に安易であるが、誰もが容易に受け入れ易いものだ。
ところが、本来ブッダが説いた仏教は、このような他力的な教えではない。自分が自覚し、悟りを得る極めて自立的な信仰であった。浄
土教は、同じインドの土壌から起こったものだが、ブッダの目覚めからから六百年ほど遅れて、インド西域でアミダ崇拝として始まった信仰であった。それがい
つしか仏教と同じように中国に伝わり仏教の中に習合され、日本に伝わってきたものである。
不思議なことにインドや中国では、浄土教は宗派としては広まらなかった。それが日本において大教団となったのは、やはり先の能と同
じで、日本人の心の中にその教えを受け入れるだけの何ものかの精神的素地があったからに他ならない。
仏教学者として世界的な名声を博している人物に故鈴木大拙翁がいるが、翁はその著「日本的霊性」の中で、このように中世鎌倉期にお
ける浄土教と禅宗の流れを日本的精神の目覚めとして次のように語っている。(日本的霊性の解釈は、難しいが、ここでは仏教の影響を受けながら日本独自の宗
教意識が現れたことととしておこう。ある意味では、この日本的霊性の覚醒があってはじめて、日本人は日本人としてのアイデンティティを確立しえる精神的基
盤を持つことになる。)
「自分の考えでは浄土系思想と禅とが、最も純粋な姿で(霊性の日本的)なるものであると言いたい。・・・なるほど仏教は、欽明天皇
時代に渡来した・・・仏教の働きかけで、日本民族のあいだに本当の宗教意識が台頭して、その表現が仏教的形態をとっても、それは歴史的偶然性で、日本的霊
性そのものの真体は、・・・その下に見いだされなければならぬ。」
難しい文言が並んでいるが、翁は鎌倉時代に成立した浄土教と禅宗の教えの中に、民族としての意識が目覚めた姿がみえる。そこで日本
人の民族としての霊性(日本独自の宗教意識)が、浄土宗、禅宗という形をとって現れた、ということを言っている。つまり換言すれば、鎌倉時代に至って、初
めて日本という国家においては、外来の文化を消化した形で受け入れて、独自の文化として確立したことになる。
確かに鎌倉仏教という呼び名があるように、単なる最澄が持ち帰った天台の教義を、洗い直し、独自の教えとして、日本化せしめた法然
と親鸞の宗教活動もやはり、日本の民衆における精神が、まさに卵から孵る寸前の状態であったのを、その外側から、親鳥のようにつついて、働きかけたことに
よるものである。これは禅の言葉で言えば、まさに「卒啄同時」(そったくどうじ)ということになる。
しかしこれはこと浄土宗と禅宗に限られたことではなかった。日蓮が法華経を中心に据えて唱えた日蓮宗でも同じである。日蓮は、「浄
土教」の「南無阿弥陀仏」と同じく「南無妙法蓮華教」と唱えることで、救われると説いた。その意味でも、鎌倉期において、はじめて平安期に最澄と空海に
よってもたらされた仏教が、単に鎮護国家という形から解放され、民衆自身が自覚的に受け入れ可能な形に変化し、日本化されたと解釈できるであろう。
鎌倉期から始まる中世において、日本人の精神が覚醒したという鈴木翁の指摘は、なるほどとうなずける。確かに現在の日本文化の源流
となる文化のほとんどは、この時期に発生したものがほとんどである。お茶、華、能、狂言、これらの文化は、この時期、日本的精神を体現した多くの天才達に
よって、創作されたものである。
8.智の人道元と情の人親鸞
夏目漱石の「草枕」は、こんな書き出しではじめる。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意
地を通せ
ば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画
が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。」
ここで言う「智」と「情」を、鈴木大拙翁の「日本的霊性」の色分けによれば、智の方向が禅
宗で、情
の方向が浄土宗ということになる。またその典型的な宗教家として位置づけるならば、前者は曹洞宗の道元禅師(1200〜1253)であり、後者は浄土真宗
の親鸞上人(1173〜1262)ということになるであろう。
二人はともに、京都生まれで、出自も申し分ない知的な環境の中で育った大宗教家である。奇
しくも二
人は、幼くして両親を失い、不思議な縁(えにし)があったのか、天台宗の総本山延暦寺に預けられることとなった。二人は同じように当時の宗教としての天台
宗に対して、次第に物足りなさを感じていったようだ。そこで道元は臨済宗の栄西禅師の門を叩き、中国に渡った。かたや親鸞は、法然の浄土の教えに影響を受
けて法然の信仰をより徹底した形で追求していくことになる。同じく京都の恵まれた家庭に育ち、しかもまた同じく幼くして両親に死に別れた二人は、天台宗の
門からの宗教人生であったが、こうして考え方の違いから、次第にまったく異なる道を歩むこととなった。
道元の思想において大切なことは、日々の修行である。厳しい戒律の元に、学僧達は、己自身
の何たる
かを問い詰めていく、そこではただ単に座禅をし、経を読む事だけがが修行ではない。掃き掃除はもちろん食すること、眠ること、もちろん呼吸することまで、
修行そのものとなる。つまりは、生きることが修行なのである。
親鸞の教えは、やはり念仏によって、極楽浄土にいけると説く、極めて単純なものだが、この
ことは、
これまでの天台宗など旧仏教にとっては、我慢のならない新興宗教と映ったに違いない。そこで親鸞は訴えられ、越後の国の佐渡へ流されることとなった。しか
し宗教というものがある規模の教団を形成する過程では、宗教弾圧のようなことが、概してプラスに作用することは宗教の歴史ではよくあることだ。親鸞の教団
も、この弾圧を契機として、その教義が固まり、組織が大きく展開することとなっていった。
親鸞の思想は、師である法然上人の教えを徹底した感がある。そのことは『法然が「悪人なほ
もて往生
遂ぐ。いはんや善人はや」(法然上人伝記)といったのにたいし、親鸞はこの表現を逆にして「善人なおもて往生遂ぐ。いはんや悪人をや」(歎異抄)とした』
(中村元著 日本思想史 東方出版1988年刊)という、中村氏の表現にもよく現されている。
これはいわゆる悪人正機説と言われる考え方であるが、様々な誤解がこの余りにもセンセー
ショナルな
言い方から始まったが、それでもこれは宗教のスローガンとしては、事の次第、好きと嫌いは別にして、すごく力のある教えだと思う。おそらく信頼は、誤解さ
れ、曲解されることを覚悟で言ったのであろうが、まるでキリストが山上の垂訓で述べた「貧しいものは幸いである。神の国はあなた達のものだ」に匹敵するも
のだ。
この親鸞の教えの根底には、智に流されず、阿弥陀念仏を唱えることによって、罪深い凡夫そ
のものに
徹しようとするところがある。事実、親鸞の人生そのものが、悪く言えば、非常に俗っぽい生き様に見えてくる。若い頃に、彼の枕元に阿弥陀様だか観音様が現
れ、「そんなに女性が欲しければ、私が女性として、お前と恋に落ちてやろう。」という夢を見たことは、有名なエピソードである。仏教の戒めによれば、女性
と付き合うことは、女犯(にょぼん)として、学僧が戒めなければならない禁忌であった。ブッダ自身、戒めの中で、女性には気を付けろ、修行の妨げになる。
と何度の繰り返し、説いている。しかし現実には、幾年の間には、そんな戒律も都合良く解釈されて破られるようになる。確かにその意味では、親鸞は厳密に言
えば戒律を破った破戒僧ということになる。しかしその当時は、天台宗の総本山延暦寺などでも、その戒律は、ある面では、あって無きに等しい状況になってい
たようだ。
ただ親鸞は、ただの破戒僧ではない。阿弥陀の施す慈悲を絶対のものとして信じ、己自身が凡
夫になる
ことも、その慈悲を受ける資格と見なす徹底さが、その教えの根本にはある。彼自身が、己の性的欲求をも肯定し、妻帯することで、浄土宗の間口を大きくした
ことは確かである。つまり一部の選ばれた智者だけが、また善行を施したものだけが、極楽にいけるだけではなく、罪深い者すなわち、これまで極楽など考えも
しなかった民衆に、極楽浄土を身近に感じさせることに彼は成功、浄土宗の門戸が民衆の前に開かれたのである。その後の浄土宗の隆盛は、この親鸞の我執さえ
も肯定してしまうような教えの中にあるような気がしている。ともかくこうして親鸞は、妻帯し、肉を喰らい、四男三女に看取られながら、九十歳の天寿を全う
した。
一方道元は、同じように旧仏教の天台宗に弾圧を受けながら、越前の国(福井)に永平寺を建
てて、己
の信じる禅の道をひたすら厳しく追及し、わずか五十三歳にして、弟子達に看取られながら亡くなった。余りにもあっけない死であった。私は常日頃、道元の自
分に対する厳しい対峙の姿勢が、死期を早めたのではないか、とずっと思っているが、これが私の情による感覚だから当たっているかどうかは分からない。これ
ほど己に厳しく向き合いながら、また仏教の経典と向き合い、思惟を続けた宗教家を私は他に知らない。彼の「正法眼蔵」という大著を日本初の哲学書と見る見
方もあるが、それもなるほどとうなずけるのである。
この二人の余りにも違いすぎる生き様、思考の違いに私は、その後、道元に代表される禅宗
が、武士の
間に広まり、芸術や文化などの根本思想として発展していくのに対し、親鸞に代表される浄土系宗教が、民衆の間に広まって、日本人の生活の心情形成に多くの
影響を与えたことは確かであろうと思う。そうなると漱石のいう草枕の冒頭の意味が一層、心に響いて来るのである。
9 日本人の「国民的性格」
夏目漱石の弟子に倫理学者の和辻哲郎(1889〜1960)という人物がいる。この人は、天才的な閃きを持った人物で、その学問領
域は多岐に渡っているが、世界の気候と風土について書いた名著「風土」という本がある。その中で、氏は日本人を次のように語っている。
「日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が変化においてひそかに持久しつつその持久的変化の各瞬間に突発性を含むこ
と、及び
この活発なる感情が反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚(こうよう)の裏に俄然(がぜん)たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられ
る。それはしめやかな激情、戦闘的な恬淡(てんたん=、無欲なこと)である。これが日本の国民的性格にほかならない。」
私はこの文章の中にある、次のような文言に注目したい。
「@豊かに流露する感情・A持久・B突発的昂揚・C俄然(がぜん)たるあきらめ・Dしめやかな激情・E戦闘的な恬淡(てんたん=、無欲なこと)」
和辻氏は、長く京都大学の教授をした人物で、今その自宅は、どうした因縁か、梅原猛氏の住む所となっている。その和辻氏が、日本及
び日本に
ついて、見たものは、日本の歴史と文化に根ざしているものの、本質のなんたるかであった。和辻氏の生涯は、その生没年で見ても分かるように、第一次大戦、
ロシア革命、大正デモクラシー、満州事変、太平洋戦争、と激動期の日本人の行動をすべて見てきた人物である。その人物が、日本人の性格をこのように見たこ
とは、傾聴に値する話である。和辻氏の分析によれば、どうも日本人は、感情が豊かであるが、時として突然それが爆発的に昂揚して、ある種の暴走を生む可能
性があることを示唆しているように見える。
確かに日本人の感情の起伏は激しい。突然天まで登るがごとく暴走したかと思うと、次の瞬間は、急に諦めに変る。中国大陸に進出し大
東亜共
栄圏を夢想したかと思えば、原爆の爆裂によって、途端に諦めの感情に変化する。この10数年間にも、日本人の感情の揺れは激しかった。アメリカに変わって
世界の経済をリードするかに見えた日本経済は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などという外国人の評論家の著作に有頂天となり、低いはずの日本人の鼻を
西洋人並に高々にした。それが今は土地神話と株式市場の低迷によって、自信喪失から諦めに変わった。ひどいのは土地や株の投資に猫も杓子も参加し、投資を
しない人間を無能呼ばわりした人間がそこかしこにいたことを思い出す。これは一種のファシズムに似た感情だったと思う。要するに日本人の感情は、「激情」
として片一方に大きく振れやすいのである。この繰り返しが日本の歴史の特徴と言えるかも知れない。
最近でもその日本人の感情の特徴を示す事件が発生している。例えば今年の夏に「雪印の牛乳」の問題が発生すると、あっちでもこっち
でも、
異臭や異物混入騒ぎがまき起こった。またついこの間は、60万年前と思われていた上高森遺跡の石器が、研究者の自作自演のインチキと分かり、考古学そのも
のの信頼が失墜するほどの激震が起こっているが、私からすればこれなども、日本人特有の片一方への過剰反応としか思われない。このように日本人の感情は常
に一方に振れがちである。しかもそれが突如として、起こり激烈な感情そのものだから、容易にその流れを止めることが出来ないようなところがあるのである。
10 時代という呪縛と知識人
さて和辻氏は、その著「日本精神史研究」の中で、次のような興味深いことを言っている。
「大宝令(佐藤:注 紀元701年に制定された大宝律令の令の部分)を制定した政治家はある意味で社会主義的と呼ばれるような理想
を抱いて
いたのである。それは民衆が富の分配の公平を要求したためにしかれたのでなかった。・・・彼ら政治家を動かしていたのは純粋に道徳的な理想である。「和」
を説き「仏教」を説き聖賢の政治を説く十七条の憲法の精神に動かされ、断固として民衆の間に不和や困苦を根絶せんと欲したのである。」(飛鳥寧楽時代の政
治的理想:大正11年5月)
この文章が書かれたのは、大正11年(1922年)であったが、流石の和辻氏も、いささか大正デモクラシーのロマンの呪術の中にあ
るよう
な感じがする。そもそも天武朝の時代に書かれた記紀は、時の政権の歴史的正当性と神聖化のために美化するために書かれたことは明白であり、その記紀が伝え
る17条の憲法や大化改新の勅は、天武朝の政策が、いかに古代からの伝統を踏まえたものであるかを証明するためのプロパガンダ(文化宣伝)に他ならない。
したがって和辻氏が「政治家はある意味で社会主義的と呼ばれるような理想を抱いていた」という表現は「国家権力」というものに対し
て、少
しロマンチックな見方であって、ある意味では世論を背負っているはずの知識人である和辻氏あたりが、こうした考えをもつのだから、その後、我が日本帝国
が、西洋列強を向こうに回して、いさましくも「大東亜共栄圏」の理想を掲げて暴走することを許してしまう遠因になったとも言えるのではなかろうか。
そのことはさておき、私はこの文章に、国民に対して均質なものを求める国家の理想が、記紀の時代からあったのだということを強く感
じる。
すなわち和辻氏が、そこに社会主義的な理想を感じた「大宝令」に私は、その後一貫して、日本社会の権力に見られる、国民に対して均質な精神性と価値観を求
める傾向が、この古代にして存在していたという現実をみて驚いてしまうのである。しかもその社会の頂点には、いつもながら神聖にして不可侵の王権(天皇
制)を置いている。
第二次大戦後、日本が凄まじい勢いで経済復興を遂げている最中、当時のソ連(ソビエト連邦)の高官が、日本に来て、「これは社会主
義であ
る。我々は、日本のような社会を理想としてきた」というような語ったと言われるが、まさに官僚が国家システムの舵を完璧にとって、国民がそれに理路整然と
従う、そこにプロレタリア独占の社会主義の理想を、ソ連の高官は見て、感動を覚えたのである。確かに日本社会の国家制度の底流には、古代の時代から培われ
てきた幻想の力とも言うべき王権としての天皇制が陰になり日向になり、絶大な影響力を公使するのである。
周知のように大化の改新以来の国家の理想を律法として完成させたものが大宝律令であり、その令(りょう)の部分が、大宝令である
が、もち
ろんこの法律は、唐令を日本社会に適応させて模倣であり、しかもそれによって、日本の古代社会の身分関係を明らかにするものだから、そこに和辻氏が見てい
る「社会主義の・・・理想」とやらとは、ほど遠いのは明らかである。むしろ現実には、和辻氏が言っていることと、逆の事が、その法の施行後に起こった。そ
れは古代的な身分制度としての氏族制度が完璧に敷かれたことである。この大宝令を発案する中心には、藤原不比等というフィクサーがいたが、彼の頭の中で、
構想された国家の理想が、天皇を傀儡とした藤原氏の国家支配だとしたら、その壮大なる国家乗っ取り計画は、その後見事に成就されたと見るべきである。しか
し不比等自身は、当然ではあるが、それをけっして私心による国家構想とは言わなかった。天才的政治家であった彼は、それ以前の歴史を綜合し、日本社会の在
るべき理想としての天皇制を中心とした日本型の律令制国家を夢想し、そのモデルをまんまと日本型の律令国家モデルとして、日本文化と基底部に埋め込むこと
に成功したのである。以後、日本の為政者たちは、ほとんど例外なく、このシステムの中心にある王権としての権威(天皇制)を己の権力の中核に錦の御旗とし
て据えて、国家を維持しようとしたのである。
すなわち大宝令を含む所の大宝律令は、日本社会の上下の身分を明確にし、日本社会が本格的な階級社会に突入したことを宣言した法律
であっ
て、和辻氏がロマンチックに語る「社会主義的・・理想」とはまるでかけ離れた歴史的現実である。あえて言えばその社会の理想は、「日本型中華律令国家」と
いう差別社会である。そこでは特定の氏族たちが血によって権力と身分を世襲し、変化を極端に嫌う、実に保守的で退屈きわまりない社会である。
まさにこれは今日の自民党がその孫子にまで権力を世襲させる政治的状況の根源にある精神文化的伝統(?)かもしれない。だから我々
は、日
本社会を根底から規定している歴史と文化について、哲学者ソクラテスのごとく、懐疑的な眼を持って、見ていかなければならないのである。例えばそこで説か
れる「和」について考えてみよう。もちろんここで説かれる「和」は、孔子がその弟子子路に説いた「和して同ぜず(君子和而不同、小人同而不和)」の教えで
はない。それは古代の身分を固定化した上での「和」、つまり社会がこれ以上左右に揺れないための国家維持システム(昔で言えば国体護持か)としての「和」
の哲学でしかないのである。
したがって結論的に言わせてもらえば和辻氏が、古代法の中に見た「社会主義」とやらは、氏が大正ロマンの時代に見た自身の夢に他ならず、
今日の我々が「社会主義」と定義する際の、「生産手段の社会的所有を土台とする社会体制、およびその実現を目指す思想・運動」(広辞苑第四版)というよう
な意味とは、誠にかけ離れたものである。残念ながら尊敬する和辻氏、この直感力に優れた天才的な哲学者にしてからが、このように時代という呪縛を免れ得な
かったという歴史的現実は、文化的にみて厳しく問われなければならない。何故ならこのことは日本帝国主義の暴走を許したという意味で、ひとり和辻氏の学問
的悲劇に止まらないと思うからである。佐藤弘弥
(つづく)