日本及び日本人を考える

私の日本論

 
8.智の人道元と情の人親鸞

夏目漱石の「草枕」は、こんな書き出しではじめる。

「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。」

ここで言う「智」と「情」を、鈴木大拙翁の「日本的霊性」の色分けによれば、智の方向が禅宗で、情の方向が浄土宗ということになる。またその典型的な宗教家として位置づけるならば、前者は曹洞宗の道元禅師(1200〜1253)であり、後者は浄土真宗の親鸞上人(1173〜1262)ということになるであろう。

二人はともに、京都生まれで、出自も申し分ない知的な環境の中で育った大宗教家である。奇しくも二人は、幼くして両親を失い、不思議な縁(えにし)があったのか、天台宗の総本山延暦寺に預けられることとなった。二人は同じように当時の宗教としての天台宗に対して、次第に物足りなさを感じていったようだ。そこで道元は臨済宗の栄西禅師の門を叩き、中国に渡った。かたや親鸞は、法然の浄土の教えに影響を受けて法然の信仰をより徹底した形で追求していくことになる。同じく京都の恵まれた家庭に育ち、しかもまた同じく幼くして両親に死に別れた二人は、天台宗の門からの宗教人生であったが、こうして考え方の違いから、次第にまったく異なる道を歩むこととなった。

道元の思想において大切なことは、日々の修行である。厳しい戒律の元に、学僧達は、己自身の何たるかを問い詰めていく、そこではただ単に座禅をし、経を読む事だけがが修行ではない。掃き掃除はもちろん食すること、眠ること、もちろん呼吸することまで、修行そのものとなる。つまりは、生きることが修行なのである。

親鸞の教えは、やはり念仏によって、極楽浄土にいけると説く、極めて単純なものだが、このことは、これまでの天台宗など旧仏教にとっては、我慢のならない新興宗教と映ったに違いない。そこで親鸞は訴えられ、越後の国の佐渡へ流されることとなった。しかし宗教というものがある規模の教団を形成する過程では、宗教弾圧のようなことが、概してプラスに作用することは宗教の歴史ではよくあることだ。親鸞の教団も、この弾圧を契機として、その教義が固まり、組織が大きく展開することとなっていった。

親鸞の思想は、師である法然上人の教えを徹底した感がある。そのことは『法然が「悪人なほもて往生遂ぐ。いはんや善人はや」(法然上人伝記)といったのにたいし、親鸞はこの表現を逆にして「善人なおもて往生遂ぐ。いはんや悪人をや」(歎異抄)とした』(中村元著 日本思想史 東方出版1988年刊)という、中村氏の表現にもよく現されている。

これはいわゆる悪人正機説と言われる考え方であるが、様々な誤解がこの余りにもセンセーショナルな言い方から始まったが、それでもこれは宗教のスローガンとしては、事の次第、好きと嫌いは別にして、すごく力のある教えだと思う。おそらく信頼は、誤解され、曲解されることを覚悟で言ったのであろうが、まるでキリストが山上の垂訓で述べた「貧しいものは幸いである。神の国はあなた達のものだ」に匹敵するものだ。

この親鸞の教えの根底には、智に流されず、阿弥陀念仏を唱えることによって、罪深い凡夫そのものに徹しようとするところがある。事実、親鸞の人生そのものが、悪く言えば、非常に俗っぽい生き様に見えてくる。若い頃に、彼の枕元に阿弥陀様だか観音様が現れ、「そんなに女性が欲しければ、私が女性として、お前と恋に落ちてやろう。」という夢を見たことは、有名なエピソードである。仏教の戒めによれば、女性と付き合うことは、女犯(にょぼん)として、学僧が戒めなければならない禁忌であった。ブッダ自身、戒めの中で、女性には気を付けろ、修行の妨げになる。と何度の繰り返し、説いている。しかし現実には、幾年の間には、そんな戒律も都合良く解釈されて破られるようになる。確かにその意味では、親鸞は厳密に言えば戒律を破った破戒僧ということになる。しかしその当時は、天台宗の総本山延暦寺などでも、その戒律は、ある面では、あって無きに等しい状況になっていたようだ。

ただ親鸞は、ただの破戒僧ではない。阿弥陀の施す慈悲を絶対のものとして信じ、己自身が凡夫になることも、その慈悲を受ける資格と見なす徹底さが、その教えの根本にはある。彼自身が、己の性的欲求をも肯定し、妻帯することで、浄土宗の間口を大きくしたことは確かである。つまり一部の選ばれた智者だけが、また善行を施したものだけが、極楽にいけるだけではなく、罪深い者すなわち、これまで極楽など考えもしなかった民衆に、極楽浄土を身近に感じさせることに彼は成功、浄土宗の門戸が民衆の前に開かれたのである。その後の浄土宗の隆盛は、この親鸞の我執さえも肯定してしまうような教えの中にあるような気がしている。ともかくこうして親鸞は、妻帯し、肉を喰らい、四男三女に看取られながら、九十歳の天寿を全うした。

一方道元は、同じように旧仏教の天台宗に弾圧を受けながら、越前の国(福井)に永平寺を建てて、己の信じる禅の道をひたすら厳しく追及し、わずか五十三歳にして、弟子達に看取られながら亡くなった。余りにもあっけない死であった。私は常日頃、道元の自分に対する厳しい対峙の姿勢が、死期を早めたのではないか、とずっと思っているが、これが私の情による感覚だから当たっているかどうかは分からない。これほど己に厳しく向き合いながら、また仏教の経典と向き合い、思惟を続けた宗教家を私は他に知らない。彼の「正法眼蔵」という大著を日本初の哲学書と見る見方もあるが、それもなるほどとうなずけるのである。

この二人の余りにも違いすぎる生き様、思考の違いに私は、その後、道元に代表される禅宗が、武士の間に広まり、芸術や文化などの根本思想として発展していくのに対し、親鸞に代表される浄土系宗教が、民衆の間に広まって、日本人の生活の心情形成に多くの影響を与えたことは確かであろうと思う。そうなると漱石のいう草枕の冒頭の意味が一層、心に響いて来るのである。
 

9 日本人の「国民的性格」

夏目漱石の弟子に倫理学者の和辻哲郎(1889〜1960)という人物がいる。この人は、天才的な閃きを持った人物で、その学問領域は多岐に渡っているが、世界の気候と風土について書いた名著「風土」という本がある。その中で、氏は日本人を次のように語っている。

「日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が変化においてひそかに持久しつつその持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚(こうよう)の裏に俄然(がぜん)たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それはしめやかな激情、戦闘的な恬淡(てんたん=、無欲なこと)である。これが日本の国民的性格にほかならない。」

私はこの文章の中にある、次のような文言に注目したい。
「@豊かに流露する感情・A持久・B突発的昂揚・C俄然(がぜん)たるあきらめ・Dしめやかな激情・E戦闘的な恬淡(てんたん=、無欲なこと)」

和辻氏は、長く京都大学の教授をした人物で、今その自宅は、どうした因縁か、梅原猛氏の住む所となっている。その和辻氏が、日本及び日本について、見たものは、日本の歴史と文化に根ざしているものの、本質のなんたるかであった。和辻氏の生涯は、その生没年で見ても分かるように、第一次大戦、ロシア革命、大正デモクラシー、満州事変、太平洋戦争、と激動期の日本人の行動をすべて見てきた人物である。その人物が、日本人の性格をこのように見たことは、傾聴に値する話である。和辻氏の分析によれば、どうも日本人は、感情が豊かであるが、時として突然それが爆発的に昂揚して、ある種の暴走を生む可能性があることを示唆しているように見える。

確かに日本人の感情の起伏は激しい。突然天まで登るがごとく暴走したかと思うと、次の瞬間は、急に諦めに変る。中国大陸に進出し大東亜共栄圏を夢想したかと思えば、原爆の爆裂によって、途端に諦めの感情に変化する。この10数年間にも、日本人の感情の揺れは激しかった。アメリカに変わって世界の経済をリードするかに見えた日本経済は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などという外国人の評論家の著作に有頂天となり、低いはずの日本人の鼻を西洋人並に高々にした。それが今は土地神話と株式市場の低迷によって、自信喪失から諦めに変わった。ひどいのは土地や株の投資に猫も杓子も参加し、投資をしない人間を無能呼ばわりした人間がそこかしこにいたことを思い出す。これは一種のファシズムに似た感情だったと思う。要するに日本人の感情は、「激情」として片一方に大きく振れやすいのである。この繰り返しが日本の歴史の特徴と言えるかも知れない。

最近でもその日本人の感情の特徴を示す事件が発生している。例えば今年の夏に「雪印の牛乳」の問題が発生すると、あっちでもこっちでも、異臭や異物混入騒ぎがまき起こった。またついこの間は、60万年前と思われていた上高森遺跡の石器が、研究者の自作自演のインチキと分かり、考古学そのものの信頼が失墜するほどの激震が起こっているが、私からすればこれなども、日本人特有の片一方への過剰反応としか思われない。このように日本人の感情は常に一方に振れがちである。しかもそれが突如として、起こり激烈な感情そのものだから、容易にその流れを止めることが出来ないようなところがあるのである。
 

10 時代という呪縛と知識人

さて和辻氏は、その著「日本精神史研究」の中で、次のような興味深いことを言っている。

「大宝令(佐藤:注 紀元701年に制定された大宝律令の令の部分)を制定した政治家はある意味で社会主義的と呼ばれるような理想を抱いていたのである。それは民衆が富の分配の公平を要求したためにしかれたのでなかった。・・・彼ら政治家を動かしていたのは純粋に道徳的な理想である。「和」を説き「仏教」を説き聖賢の政治を説く十七条の憲法の精神に動かされ、断固として民衆の間に不和や困苦を根絶せんと欲したのである。」(飛鳥寧楽時代の政治的理想:大正11年5月)

この文章が書かれたのは、大正11年(1922年)であったが、流石の和辻氏も、いささか大正デモクラシーのロマンの呪術の中にあるような感じがする。そもそも天武朝の時代に書かれた記紀は、時の政権の歴史的正当性と神聖化のために美化するために書かれたことは明白であり、その記紀が伝える17条の憲法や大化改新の勅は、天武朝の政策が、いかに古代からの伝統を踏まえたものであるかを証明するためのプロパガンダ(文化宣伝)に他ならない。

したがって和辻氏が「政治家はある意味で社会主義的と呼ばれるような理想を抱いていた」という表現は「国家権力」というものに対して、少しロマンチックな見方であって、ある意味では世論を背負っているはずの知識人である和辻氏あたりが、こうした考えをもつのだから、その後、我が日本帝国が、西洋列強を向こうに回して、いさましくも「大東亜共栄圏」の理想を掲げて暴走することを許してしまう遠因になったとも言えるのではなかろうか。

そのことはさておき、私はこの文章に、国民に対して均質なものを求める国家の理想が、記紀の時代からあったのだということを強く感じる。すなわち和辻氏が、そこに社会主義的な理想を感じた「大宝令」に私は、その後一貫して、日本社会の権力に見られる、国民に対して均質な精神性と価値観を求める傾向が、この古代にして存在していたという現実をみて驚いてしまうのである。しかもその社会の頂点には、いつもながら神聖にして不可侵の王権(天皇制)を置いている。

第二次大戦後、日本が凄まじい勢いで経済復興を遂げている最中、当時のソ連(ソビエト連邦)の高官が、日本に来て、「これは社会主義である。我々は、日本のような社会を理想としてきた」というような語ったと言われるが、まさに官僚が国家システムの舵を完璧にとって、国民がそれに理路整然と従う、そこにプロレタリア独占の社会主義の理想を、ソ連の高官は見て、感動を覚えたのである。確かに日本社会の国家制度の底流には、古代の時代から培われてきた幻想の力とも言うべき王権としての天皇制が陰になり日向になり、絶大な影響力を公使するのである。

周知のように大化の改新以来の国家の理想を律法として完成させたものが大宝律令であり、その令(りょう)の部分が、大宝令であるが、もちろんこの法律は、唐令を日本社会に適応させて模倣であり、しかもそれによって、日本の古代社会の身分関係を明らかにするものだから、そこに和辻氏が見ている「社会主義の・・・理想」とやらとは、ほど遠いのは明らかである。むしろ現実には、和辻氏が言っていることと、逆の事が、その法の施行後に起こった。それは古代的な身分制度としての氏族制度が完璧に敷かれたことである。この大宝令を発案する中心には、藤原不比等というフィクサーがいたが、彼の頭の中で、構想された国家の理想が、天皇を傀儡とした藤原氏の国家支配だとしたら、その壮大なる国家乗っ取り計画は、その後見事に成就されたと見るべきである。しかし不比等自身は、当然ではあるが、それをけっして私心による国家構想とは言わなかった。天才的政治家であった彼は、それ以前の歴史を綜合し、日本社会の在るべき理想としての天皇制を中心とした日本型の律令制国家を夢想し、そのモデルをまんまと日本型の律令国家モデルとして、日本文化と基底部に埋め込むことに成功したのである。以後、日本の為政者たちは、ほとんど例外なく、このシステムの中心にある王権としての権威(天皇制)を己の権力の中核に錦の御旗として据えて、国家を維持しようとしたのである。

すなわち大宝令を含む所の大宝律令は、日本社会の上下の身分を明確にし、日本社会が本格的な階級社会に突入したことを宣言した法律であって、和辻氏がロマンチックに語る「社会主義的・・理想」とはまるでかけ離れた歴史的現実である。あえて言えばその社会の理想は、「日本型中華思想律令国家」という差別社会である。そこでは特定の氏族たちが血によって権力と身分を世襲し、変化を極端に嫌う、実に保守的で退屈きわまりない社会である。

まさにこれは今日の自民党がその孫子にまで権力を世襲し、当然のように巾を利かす現実が延々と今日の日本にまで、脈々と受け継がれていることと無援ではあるまい。だから我々は、日本社会を根底から規定している歴史と文化について、哲学者のごとく、懐疑的な眼を持って、見ていかなければならないのである。例えばそこで説かれる「和」について考えてみよう。もちろんここで説かれる「和」は、孔子がその弟子子路に説いた「和して同ぜず(君子和而不同、小人同而不和)」の教えではない。それは古代の身分を固定化した上での「和」、つまり社会がこれ以上左右に揺れないための国家維持システム(昔で言えば国体護持か)としての「和」の哲学でしかないのである。

したがって結論的に言わせてもらえば和辻氏が、古代法の中に見た「社会主義」とやらは、大正ロマンの時代に見た夢に他ならず、今日の我々が社会主義という時の、法のもとにおける人間の平等というものとは、少しも関係のないものである。和辻氏のこの文章の中に、この直感力に優れた天才的な哲学者にしてからが、このように時代という呪縛を免れ得ないという悲劇をみるのである。(つづく)佐藤
   

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2000.11.7
2000.11.22