義経公ロマンの旅
収集資料
藤沢の白旗神社 | 首洗い井戸 | 弁慶の首塚 | 静御前の墓 | 白河の関 |
庄司戻しの桜 | 白河神社 | 金売吉次の墓 | 飯坂温泉 | 医王寺 |
阿津賀志山 | 義経の腰掛松 | 田村神社 | 義経石弁慶石 | 金田八幡神社 |
栗原寺 | 大原木館 | 津久毛橋 | 沼倉御葬礼所 | 判官森と弁慶森 |
中尊寺 | 毛越寺 | 高舘(義経堂) | 雲際寺 | 長者原廃寺遺跡 |
衣関 | 清悦宮 | 新旧平泉地図 |
藤沢市にある白幡神社は源義経公を祀った神社として知られている。この神社は亀形山といい、古くは相模一宮の寒川比古命を祀っていたといわれる。
言い伝えによれば、「自刃した義経公の首は、黒漆の桶に美酒に浸され、早馬で鎌倉に入ったが、頼朝公の忌諱により、鎌倉入りを許されず、片瀬竜ノ口の刑場で、和田義盛と梶原景時の手によって首実検がなされた。その首は、梶原により、片瀬川に捨てられたが、そこに金色の亀が現れて、その首を背に乗せて、川を遡り、白旗の里にたどり着く。首は両目を見開いて、”我は源義経なり”と叫ぶ。びっくりした里の人が、それを拾い、念仏を唱えながら古井戸で丁寧に洗い清め、傍らの畑地を小高くもって塚とした。月印に小松を植え、その御霊を産土神の寒川神社(今日の白旗神社)に祀る」とある。
江戸時代に書かれた浅井了意「東海道名所記」(1658)によれば、文治5年(1189)に源九郎義経、奥州高舘の城にたてこもって自害された。義経と弁慶の首は、鎌倉の腰越まで運ばれ、そこで首実検がなされた。そして夜の間にここに飛んできたという。里の人々がこれをみると、(義経は)大きい亀の背にのって、声を出して笑ったという。鎌倉殿(頼朝)にこのことを伝えると、すぐに神に祀るように指示をして、それが白旗明神となった。その前には、弁慶の塚もある」と説明している。
一方「吾妻鏡」には、「義経は文治五年四月三十日、兄頼朝の勘気を受けて、奥州平泉高舘にて自害。同年六月十三日、奥州より新田の冠者高平らが、義経の首を持参。高平は腰越の宿に着き、そこで和田義盛、梶原景時によって、首実検が行われた」とある。しかしその後、肝心の義経公の首が、どのようになったかは、記されていない。
「義経物語」では、首実検をしたのは、和田、梶原ではなく、畠山重忠だったとあり、その首には巻物一巻をくわえていたとある。すなわち「判官の孝養には、くれぐれも梶原父が頭をはねられ、義経が精霊にくだしあずかるべし。しからずば悪霊となりて、当家を滅ぼしたてまつらん。(中略)願わくば、梶原父子の頭を切って義経に手向けたぶならば、未来ようよう恨みあるべからず」とある。
「鶏肋温故」(天保十三年 平野道治)には、「白旗明神御旅所の傍らに在、義経公の首を此処に埋め塚となし、諸人詳参して礼拝せし故にかく名づくると云伝う。昔はここに松の大木ありしが、近年枯れて一名首塚とも云う」
「我が住む里」(文政十三年 小川泰堂)(1830)では「これより(首塚を作ってからというもの)鎌倉御所において義経の怨霊さまざまの祟りをなして、右大将を悩ます、これによって、首塚の来たの山上にお社を営み、神として尊とみ御法楽ありける。その時、鎌倉在所の諸侯もこれを尊信し、社の東側に諸木、西には松を植えて、奉納ありしより、(中略)(宝暦二年)御旅所初めて建つ、同七年、江戸カンダ神輿屋六兵衛をして、白木にて神輿を造らしめ…」とある。
江戸幕府作成の「新編相模国風土記稿」には「白旗神社 社を亀形山と呼ぶ、文治五年義経奥州にて敗死し、その首は実検の後この地に埋め、その霊を祀りて当所の鎮守とせしと云う、義経の首は腰越にて実験ありし事、東鏡に見えたり、例祭、六月十五日、当社および八王子権現の御興を仮殿に写し、同二十一日まで神事ありて同日帰座す」とある。
現在は七月十九日から二十一日まで夏の祭礼が行われる。
現在の白旗神社の社殿は、記録によれば、宝暦二年(1752)に再建され、旧坂戸町総鎮守となり、白旗神社と称した模様。文治八年(1820)火災に遭い、天保六年(1835)年再建。昭和五十六年大改修が行われた。
尚、境内にある由来書きには、以下のように記されている。
「白旗神社
御祭神 寒川比古命 源義経公
配神 天照皇太神 大国主命 大山祀命 国狭槌命
例祭日 七月二十一日
由緒 往昔一ノ宮寒川神社を勧請し建久九年荘厳寺住僧覚憲別当となる。文治五年源義経奥州にて敗死し、其の首を黒漆櫃に入れ、美酒に浸し持ち来り腰越の里にて和田太郎義盛、梶原平三景時甲直垂を着け甲冑の郎従二十騎を相具して首実検っをなし此の地に埋めたり、斯実事に基きて宝治三年丁丑九月義経を合せ祀る、社前領家町に首塚首洗い井戸あり享保三年紀州公姫君参勤交代の砌此の陣屋に於て急に腹痛を起し大神に祈願せし処忽に全癒す、木杯一個紋章幕、高張を奉納し例祭には十万石の格式有と伝ふ、享保四年十二月二十一日神祀官領従三位吉田兼敬公より正一位を授く。宝暦二年社殿を再建し旧坂戸町総鎮守となし白旗神社と称つ、文政三庚辰年二月八日火災に罹り社殿及古書類等を焼失す、文政十一年六月より天保六年乙未冬に亙りて社殿を再建し現在に至る。」
白旗神社の南西にある。義経公の首を、洗い清めた井戸とされる。すぐ側には、義経公の塚もあったとされるが、現在はアパートとなっている。
藤沢の白旗神社の別当寺だった荘厳寺(しょうごんじ:住所 藤沢市本町4−6−12)には、江戸時代からと伝えられる義経公の位牌が安置されて
いる。(高さ53.5cm、巾11.2cm、台座奥9.4cm。木製。黒漆塗)
その表面は「笹竜胆の家紋 白旗大明神 神儀」、
裏面は「清和天皇十代御末源義経公 御誕生平治元年乙卯歳 文治五年乙卯歳閏四月三十日卒御歳三十七 崇 白旗大明神 天保三辰歳 法印
宥全調之」と、刻まれている。何故か、この位牌では、義経公の享年は、三十七歳と記されている。理由は不明。
藤沢消防署本町出張所裏にある常光寺の児童公園の石段の上に鎮座されている。石碑は古く摩耗しているものの、確かに「弁慶塚」と判読できる。ここにかつて八王子社が建てられていたはずである。これを八王子社と呼ぶ。
先の「鶏肋温故」(天保十三年 平野道治)にも「八王子権現は、常光寺の傍に在、武蔵坊弁慶の霊を祀るよし、これを白旗明神を義経と云うに対してなるべし」
(以上の説明は、学習院大学講師 前藤沢市文書館長 高野修の「白幡神社と義経」より)
JR栗橋駅前
埼玉県栗橋町:http://www.saitama-j.or.jp/~kankosta/kurihasi.htm
佐藤の栗橋訪問記:sizuka.html
「利根川図志」に曰く、
「(静は義経公の)御行方尋ねんと、(中略)侍女琴柱(ことじ)を召し連れて、下辺見という里まで下り給う。(中略)静御なつかしく思い、(義経公)の御行方尋ねれば、されば義経公は高舘でにてむなしくなり給うと語りもあえず、静は涙に袖をうるおして、げに頼り少なき世のありさま、是非陸奥までも尋ね行かんと思いしに、心をつくしし甲斐もなく、浮世にながらえば剃髪染衣(ていはつぜんえ)の身となりて、義経公の未来菩提を弔はんと橋(即下辺見思案橋)を越えて(中略)前林という里にかかり、自分手元の柳を引き結び、迷いし道のしるしとなし、都の方に向け給う。この所を静返しという。
当寺三十町東前林という所にあり。それより西に伊坂という里にかかり、給いしに、いとどさえ秋は物憂き習いなりけるに、旅の疲れと均しく、思わずも定なき世と諸ともに野辺の露と消え給う。琴柱涙と共に当寺に葬りし墓の印に一本の杉を植えおく。今にこれを一本杉という。この時、守り本尊ならびに(義経公に?)頂戴の舞衣、義経公形見の懐剣、当寺に納まり、常什物(じょうじゅうぶつ)となりおわんぬ。(中略)
春日詠静女舞衣和歌
やまのはにたちまふ袖のしずかにぞたなびく雲も雨とやはなる源徳純 (新田氏)」
舞う蝶の果てや夢見る塚のかげ 座仏
初蝶や静女の塚の初舞台 弘弥
http://www.st.rim.or.jp/~s_haya/spot002.html
参考文献:「利根川図志」 赤松宗旦著 岩波文庫
尚、同書には、静御前形見の品の図が添えられてあり、静ファン必見。(P82〜83)
凡例:このページ番号は、新人物往来社版「全譯吾妻鏡」第一巻による。佐藤が私的に抜き書き編集したもので、原文とは、一致しませんのであしからず。
1. 文治元年11月6日
義経一行西国に逃亡し体勢を立て直そうと計るが、運悪く嵐に遭い難破、航海を中止し、郎党分散し、義経に従う者は、わずかに源有綱、堀彌太郎(景光)、武蔵房弁慶、妾女静の四人であった。(p244)
2. 文治元年11月17日丙申
大和の国吉野山にて今夜亥の刻、義経妾静吉野の藤尾坂より下り蔵王堂に至る所を捕縛される。静曰く「われはこれ九郎判官の妾なり。大物の浜より豫州(義経)この山に来て、五日逗留する所(中略)伊予の守は山伏の姿をかりて逐電したのでした。時に伊予の守は、数多の金銀の類をわれに与え、雑色男等を付けて京へ送らんと思われたのでした。ところがこの男ども財宝を持ち逃げして雪深き山中に消えてしまい、このように迷っている所を・・・」と証言した云々。(p248)
3. 文治元年11月18日丁酉
静の説を聞いて、豫州を捜すため、静に同行を求めたが、これを激しく嫌がった。静の体調の回復を待って鎌倉に送るべき云々。(p248)
4. 文治元年12月8日
吉野執行静を北条殿の御邸に送る。(p256)
5. 文治元年12月15日申子
北条時政、静を尋問。静は捕まった時と同じ釈明をする。
6. 文治元年12月16日乙丑
静、(鎌倉殿に)召し出されるべし。
7. 文治2年正月29日戌申
頼朝、静を鎌倉に召し出す旨の命令を北条殿に下す。
8. 文治2年2月13日辛酉
北条時政より静を御送りしたとの報届く。
9. 文治2年3月1日乙卯
静、母の磯の禅師を伴い鎌倉に着く。安達新三郎清経宅に預けられる。
10. 文治2年3月6日甲申
静、俊兼、平盛時等に尋問を受ける。
静申して曰く「山中にはあらず当山の僧坊に居りました。そこで大衆蜂起のことを聞き、豫州は山伏の姿をして大峯に行く、と称して山に入られたのです。その寺の僧侶がこれを見送りました。私は豫州を慕い、一の鳥居の辺りに追いかけて行きますと、女人は入山叶わず、とのかの僧侶のお言葉に、仕方なく京へ戻るしかないと思っていると、一緒に同行していた雑色達が、いただいた財宝を持って逐電してしまったので、その後どうしようもなく蔵王堂の辺りで迷っていたので・・・云々」
さて静にこの僧侶の名を訪ねると、「忘れてしまいました」として、これを答えず、およそ京都で話した時とは、話に異なることが多い・・・。(p284)
11. 文治2年3月22日庚子
静、義経の子を懐妊していることが明らかとなる。出産の後、帰洛を許される旨の沙汰あり。(p284)
12. 文治2年4月8日乙卯
頼朝、政子、鶴岳宮に参拝のついでをもって、静を回廊に召しだして舞曲を施さしむる。p289
13. 文治2年5月14日辛卯
工藤祐経、梶原三郎景茂、千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、下若等を連れて、静の居る安達宅に勝手に行き、酒宴を催す。この席で梶原景茂は、しこたま酒に酔い、卑わいな言葉などを吐いて、静を愚弄する。そこで静曰く、「豫州は鎌倉殿の弟君、私はこのお方の妾です。御家人の身であるあなた様は、私たちがただの男女の仲でないことは承知のはず。もしも豫州が罪咎を問われなかったら、あなたにこうして対面することもなかったはず。ましてや今の立場で何を言おうと言うのですか」(p296)
14. 文治2年5月27日甲辰
静、大姫(頼朝、政子の長女)の仰せにより、御堂に参り芸を施す。(p298)
15. 文治2年7月29日庚戌
静、男児を出産。静は、安達新三郎によりこの子を渡すよう再三言われたが、しっかりとこの子を抱いて離さず、ついには母の磯禅師が引き離し、その子を渡す。直ちに由比の浦に捨てられる。静を不憫に思った政子が、頼朝に命乞いをしたが、頼朝は頑として聞き入れなかった。(p314)
16. 文治2年9月16日已未
静親子、帰洛を許される。政子と大姫により多くの重宝を賜る。(p320)
17. 文治2年9月22日已丑
京都において、豫州一党、堀彌太郎生け捕られる。また隠れ家を多勢にて急襲され、奮戦するも佐藤忠信、郎党2名とともに自害。この手柄は糟屋藤太有季(ありすえ)である。(p321)
奥州三古関の一つ、いわずと知れた東山道の終点。そして蝦夷(えみし)の国の入口である。いわき市の「勿来の関」とともに、平安時代の重要な関所である。近くには義経主従ゆかりの「庄司戻しの桜」もある。なお、この地域には、縄文文化の痕跡が多く見られ、竪穴式住居郡なども発掘靴されている。中世以降は、有名無実化していたが、江戸時代に入って、白河藩主松平定信により、現在の地が、白河の関跡と確定された。
また白河は、都の歌人たちの歌心を刺激。歌枕としても有名。歌の宝庫である。
便りあ>
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関 能因法師
白河の関屋を月の洩る影は人の心をとむるなりけり 西行法師
白河の関の関守いさむともしくるゝ秋の色はとまらし 藤原家隆
夕づく夜入りぬる影もとまりけり卯の花咲ける白河の関 藤原定家
都にはまだ青葉にてみしかども紅葉散りしく白河の関 源頼政
西か東か先づ早苗にも風の音 芭蕉
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良(奥の細道)
下野の青嵐来て関を越す 加藤楸邨
所在地:白河市大字旗宿(はたじゅく)字白川内 問い合せ先:白河市観光協会:0248-22-1147
http://www.shirakawa.ne.jp/~menu/sekinomori/seki4.htm
参考文献:
「西行物語」講談社学術文庫
「山家集」岩波文庫
「おくのほそ道」岩波文庫他
「歌枕伝説」荒俣宏著 世界文化社
湯の庄司、佐藤元治が源義経公、平家追討の出陣に伴い、愛息の継信、忠信の兄弟を、この地まで来て、見送り別れるときに、持っていた杖を、地に刺して、「我が息子たちが、義経公に仕え、ひとかどの男になるならば、この桜、地に根付け」との願をかけて、成長したのがこの桜である。江戸時代に野火の為消失し、現在はかつての霊木のイメージはない。
JR東北新幹線新白河駅からバス15分 , 東北自動車道 白河IC
問い合わせ先…表郷村公民館 TEL (0248)32-2526
http://www.naf.co.jp/omotego/sights/sakura.stm
http://www.fks-wo.th.moc.go.jp/htm/db_5.htm
現在白河の関の中に建てられている古社である。延喜式にも盛られている。旅の安全や、家内安全、縁結び、安産、勝負海運に御利益があるといわれる。現在の社殿は、仙台の伊達政宗公によって元和元年に改築奉納されたと伝えられる。
那須町の芦野から旧奥州街道(国道294号)を白河に向けて歩き、境の明神を越えて、白河に入り、更に1.5キロばかり行くと白河市皮篭(かわご)に八幡神社があり、横道にそれて200mほど奥に金売吉次兄弟の墓が建てられている。言い伝えによれば、承安4年(1178年)藤沢太郎入道という盗賊一味に襲われて、この地で殺害されて砂金の入った皮篭を奪われた。里人は、彼らを手厚く葬り、墓を建てた。後に源義経公が、治承4年(1180年)にこの場所に来たとき、吉次を哀れみ、源義家公ゆかりの八幡神社に立ち寄り、その霊を合祀したと言われる。墓は三つあり、中央が長男吉次、左が次男吉内、右が三男吉六と記されている。
所在地:白河市白坂字皮篭272―4 問い合せ先:白河市観光協会:0248-22-1147
同じような、金売吉次遭難地が、千葉にもある。「利根川図志」に曰く、千葉の印旛沼の北畔「埜原新田(やはらしんでん)の内、行徳新田(ぎょうとくしんでん)という所あり、言い伝えによれば、むかし金売り吉次信高兄弟が陸奥の国を往来してこの所を過ぎるとき、隣の村の萩原村に、荒神左近という盗賊が、吉次兄弟を殺して、宝を奪う。土地の人は墳を作り、樹木を植えて、その跡をしるす。これを吉次の墓という。宝永元年の洪水に、この所の堤が切れて、墓は掘れ押し流される。その跡方2百歩ばかりの沼となる。今これを吉次沼という。(中略)また隣村に中根村戸崎という所に観音堂あり。十一面観音なり。これ、金売り吉次の守り本尊という。霊験あらたなり。」
その昔、この辺りは、信夫の庄と呼ばれた。藤原秀郷の流れをくむ元治は、縁戚にあたる藤原秀衡の有力な家臣として、この地に大鳥城を築いて、南に睨みを利かせていた。彼には息子がいて、継信、忠信といった。この二人の兄弟は、後に義経公の平家追討に従い華々しい活躍の後、壮烈な最後を遂げる。
義経公は、奥州に落ちのびてきた時、真っ先にこの大鳥城に来て、継信の命を取った矢先などの遺品を持ち、元治夫婦を慰めた。またその折りに、義経公は、継信、忠信の母や奥方には申し訳ないと頭を下げ、息子たちには、自らの名を授けるなどして、人間としての優しい一面を見せている。その後、義経公は、平泉に入るが、頼りとする秀衡公が急死し、その子泰衡は、頼朝の執拗な脅しに負けて、義経公を高館に攻め滅ぼしてしまう。その時、もはや奥州勢の運命は決まっていた。
我が元治は、奥州藤原氏に最後まで忠義を尽くし、文治五年八月八日、頼朝率いる鎌倉勢と果敢に戦い、その傷がもとで亡くなった。時に七七歳の高齢であった。
そこでは歴史では明らかにされていないドラマがあった。
佐藤家系図(当主佐藤晃弥氏:宮城県栗原郡栗駒町沼倉在住)の一部を紹介する。
まず最初に、一般に湯の庄司佐藤元治という名で知られる人物について。
佐藤彦二郎 家信 荘司 従五位上
「初め名を、元治と名乗ったが、信夫郡飯坂村に移住後、家信と改名した。飯坂の温泉地に居を構え、(荘園と共に)湯も管理することとなった。文治五年(1189年)8月右大将源頼朝公が兵を率いて、藤原泰衡を成敗するために、奥州に進軍してきた。同年8月8日、泰衡の兄の国衡は、刈田郡阿津賀志山に陣をしき、家信や河辺太郎高経、伊賀良目七郎高重らは、千石郡坂之上に高い砦と深い溝の結柵を設けて、頼朝軍の防御に備えた。その時、頼朝軍の中村常陸の入道朝宗とその息子の為宗、為重、資綱、為家などの一族郎党が、伊達郡沢原の辺りから矢を放ちながら進入してきた。家信、高経、高重など瀕死の傷を負いながらも、敵に挑みかかっていった。戦の中で、夥しい傷を受け、にくき敵為宗とよく最後まで勇敢に戦ったが、その傷がもとで家信は死亡した。享年は、77歳であった。
戒名は、寶嶽圓珍号自性院。
母は、佐藤右兵衛尉藤公景(きみかげ)の娘である。」
次に佐藤継信の項、
佐藤三郎 継信 左兵衛尉 従六位上
「元暦元年(1184年)源平合戦の時、千太夫判源義経公の軍に属して軍功をあげた。元暦二年(治元二年=1185年)2月19日讃岐の屋島において、平家の家人らを相手に越中二郎兵衛尉盛継や上総五郎兵衛尉忠光などと船を下りて、宮門前に陣取る。合戦が始まり、平教経(のりつね)の放った矢が、義経公に向かって放たれたところを、継信がとっさで身代わりとなり、命を落とした。享年36歳
戒名は、本嶽義法號吉祥院。
母は、奥州の住人 泉十郎藤清綱の娘」
次ぎに佐藤忠信の項、
佐藤四郎 忠信 右兵衛尉 従六位下
騎馬や弓などの武術すぐれ、元暦元年源義経公が、平氏と会戦の時に家来として付き従い功績をあげた。文治元年(1185年)四月衛府を拝命した。しかし同年12月、義経公一行が大和の吉野山において属に襲われた時、忠信は、横川法師覚範から、義経公を守り良く戦いこれを撃退した。その後、忠信は、宇治で義経公と分かれ、京に潜んだ。文治二年(1186年)9月22日、京の隠れやにおいて、糟屋藤太有季(かすやとうたありすえ)の兵の奇襲を受けて、力及ばずに自害して果てたのであった。享年34歳。
戒名は、利嶽西栄號清光院。
母は、兄の継信と同じ」
その他に元治には二人の娘がいた。
「長女 柴田四郎 藤秀清の妻。
母は、兄らと同じ
次女 泉三郎 藤忠衡(ただひら)の妻
母は、兄らと同じ」
最後に忠信の息子義忠の項。
佐藤四郎 信隆 荘司 右衛門尉 従六位下の部分である。
「初めは伊予守源義経の一字をいただいて、義忠と称していたが、後に信隆と名を改めた。文治5年(1189年)秋右大将源頼朝卿が、奥州において藤原泰衡を征伐したおり、信夫郡の畠山重忠の軍に属して、軍功をあげた。
建久元年(1190年)正月、大河二郎に就任。同年二月奥州において叛逆が起こり、足利(栃木)や上総(千葉)の人々をもって追討軍を組織して、反乱を鎮めた。信隆もこれに相従い、抜群の効をあげた功績により、頼朝卿より、同年三月出羽の国に食封五千貫文の恩賞を賜り、最上郡豊田村に居を移したのであった。その時より旗印を赤字に白蛇の目に改めた。
寛喜二年(1230年)四月二一日享年五八歳で没。
戒名は、心嶽西傳號自性院。
母は、信夫九郎藤正則の娘。」
ここから分かることは、元治は名を飯坂に来て、改名したこと。「吾妻鏡」では、許されて、家に帰されたとあるが、深手を負ってすぐ死亡したことである。
次ぎに乙和さんの名で知られる元治の妻は、泉十郎藤清綱の娘であること。
さらに概ね継信、忠信享年については、28才とか26才が多いが、佐藤家系図では、継信36才、忠信34才となっており、この方が様々な面で辻褄が合う。
また特に注目すべきは、佐藤の家名を残す為に、忠信の息子義忠、すなわち元治の孫は、馴染んだ名を捨て、祖父である元治と戦ったという過酷な現実である。しかも家隆が家来となったのは奥州攻めの急先鋒畠山重忠公である。阿津賀志山の攻防のあった文治五年八月、家隆は一七歳の若武者であったはずだ。いかに重忠公が、義経公や父の忠信と知り合いだったにせよ、その若き心は複雑だったに違いない。
http://www.anoa.or.jp/myhome/kawachi/izaka/izaka.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~vr2y-nsn/oku/iizaa01.htm
問い合せ先:飯坂温泉観光協会:024-542-4241
天長3年(826)に開基。湯の庄司と言われた佐藤基治によって再興された。この地で温泉を発見した鯖湖親王を奉るお宮があったのでこの地が鯖野という地名になったと言われており、これから鯖野の薬師と呼ばれる。薬師如来は身体の病を癒し、心の無明を解く御利益を持つ仏様である。
またこの寺は、佐藤一族の菩提樹として広く知られ、佐藤庄司夫妻の墓、継信忠信兄弟の墓など、佐藤一族の墓が、奥の院薬師堂の傍らにある。また、佐藤庄司夫妻の墓の左奥には、「乙和御前の悲しみが乗り移ったかのように西側の半分がつぼみのまま開かずに落ちてしまう」という「乙和の椿」なる古木がある。また瑠璃光殿(宝物殿)があり、「基治夫妻の使用した椀」、「弁慶の笈」、「弁慶直筆の経文」などを義経ファン必見の資料が一杯。
芭蕉は佐藤元治没後六百年の丁度その年(元禄二年1689)に、この医王寺を訪れて次の句を残した。
笈も太刀も五月にかざれ紙幟 芭蕉
(訳:今は端午の節句である。この寺に伝わる弁慶の笈も、義経公の太刀も、紙の幟と一緒に飾って、子供らにその武勇を伝えよう)
これが最近発見された自筆本では
弁慶が笈をもかざれ帋幟(かみのぼり)、となっている。
咲かで落つ椿よ西の空かなし 黙翁
太刀はいて武装悲しき妻の秋 自得
松平定信公(楽翁)歌
伝聴医王山寺昔
源公逃世不平等
可憐孤鶴離群涙
緑竹班然般若枝
住所:福島県飯坂町平野寺前四五
電話:0245−42−3797
http://www.anoa.or.jp/myhome/kawachi/izaka/ioji.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~vr2y-nsn/oku/iojaa01.htm
文治5年(1189)の奥州合戦において、平泉の藤原氏が源頼朝率いる鎌倉軍を迎え撃つために築いた防塁跡。厚樫山の中腹から南に下り、阿武隈川の旧河道である滝川までの3.2qにわたり存在する。
福島県国見町 国見町教育委員会 TEL (024)585-2892
阿津賀志山の合戦
文治5年(1189)7月、平泉藤原氏を討つべく東海・北陸・東山の三道に奥州征討の大軍をすすめた源頼朝は、みずから東山道の道をとり、29日白河の関を越えて奥州に入った。そこで鎌倉勢に抵抗する奥州軍はなかった。そこで梶原景季が次のようなごますりの駄句を詠んだ。
秋風に草木の露を払はせて君が越ゆれば 関守もなし
すでに奥州軍の最前線は信夫や伊達にあった。泰衡は伊達郡阿津賀志山に城壁を築き要害をかため、山の中間から国見にかけて五丈の堀を掘り、阿武隈川の水を堰入れて、異母兄西木戸太郎国平衡を大将軍に命じ、金剛別当秀綱以下2万騎の軍兵をこれにさしそえた。
戦闘は8月8日、阿津賀志山と信夫郡石那坂(福島市平田)とで展開された。頼朝は畠山重忠・小山朝光・工藤行光らに阿津賀志山の金剛別当秀綱らを強襲させ、秀綱を大木戸にしりぞかせた。いっぽう、石那坂では大将信夫庄司佐藤基治をはじめ、叔父河辺太郎高経・伊賀良目七郎高重のひきいる信夫の兵が、頼朝軍をむかえうつ。鎌倉勢は常陸入道念西、その子常陸冠者為宗らが背後からこれを攻めて、ついに奥州勢の名だたる者の首級18騎を、阿津賀志山に晒した。更に9日、三浦義村・葛西清重・工藤行光らは阿津賀志山の木戸口に夜襲をかけ、10日、畠山重忠。小山朝政・同朝光・和田義盛・三浦義澄・同義連らは大木戸を攻め、朝光らの郎従は藤原宿から土湯峠をこえ大木戸の上にでて国衡の陣の背後にまわれば、奥州勢の陣中はたちまち大混乱となり、国衡以下の諸将は逃亡した。
阿津賀志山の合戦は、頼朝軍と奥州軍との最初で最後の激戦とも言える戦いであった。泰衡は刈田郡に城郭をかまえ、名取・広瀬の両河に大縄をひいて柵をつくり、自身は国分原鞭館(仙台市)に陣どっていたが、阿津賀志山の大敗の報に接すると、気色を失って北方に逃走してしまった。頼朝はこれを追って、多賀城にはいり、海道をすすんだ千葉介常胤・千葉師常・岩城・岩崎の諸氏、および北陸道をすすんだ比企能員らの軍と、ここで合流させて、さらに北進し、8月20日平泉に到着した。すでにそこに泰衡の姿はなく、政庁である柳の御所に自ら火をかけて北へ向けて逃げてしまっていた。3日、泰衡は、その後、哀れにも自らの家来である河田次郎に殺害され、ここに三代百年に渡り黄金の文化を誇った奥州藤原氏は、あっさりと滅亡してしまった。
阿津賀志山合戦の裏話
文治5年(1189)8月10日、阿津賀志山合戦は決戦をむかえた。源頼朝は、すでに7月17日鎌倉を出発するにあたり、全軍30万の兵を東海道・北陸道・中路の3軍に分けて奥州へ進発させた。東海道の6将軍は千葉常胤と八田知家であった。途中、福島県域の岩崎の兵が先登に立ち、岩城・行方・宇太郎を経由し、中路をすすむ本隊と合流す る手はずであった。北陸軍の大将は此企能員、宇佐美実政らで、越後から出羽国をこえて北進した。頼朝みずからは、主力をひきいて中路(山道)をすすみ、先陣を畠山重忠とした。親衛隊1000騎の御家人のうち、福島県ゆかりの人びとは佐原義連、小山朝光、常陸二郎為重、工藤祐経など14人であった。
頼朝の本隊が、阿津賀志山のふもと国見駅に到着したのは8月7日である。信夫・伊達郡の平野にすすんだ頼朝の遠征軍に対して奥州藤原勢は、石那坂、阿津賀志山などに堅陣をしていて待機していた。石那坂を第一、阿津賀志を第二の防禦線とし、白石付近に第3のそれをしいていた。しかし、その最大なものは、阿津賀志山の二重堀を主とする大要塞であった。頼朝は本営を国見に置き、8月8日より合戦ははじまったが、この日の戦いはいわば小手しらべであった。
頼朝はかねて間諜を放ち奥州軍の陣地をさぐっていらので、鋤鍬をもった特科部隊を先鋒軍に配置していた。これをむかえる二重堀は、阿津賀志山の中腹から阿武隈川岸にいたる約3キロにおよぶものであった。山腹部と平地部の二重堀の規模は異り、平地部は堀の深さや土塁の高さ・幅がより大規模である。この二重堀に直面して、特科部隊だけではどうすることもできなかった。
そこで西方山間部より、二重堀の裏に出ることを策した。阿津賀志山につらなる山々の要所要所には要塞・陣地が構築され、現在それらは陣場山・山館山などとよばれ空堀がいく重にもみられる。それらを攻める頼朝軍の小山朝光らは、8月9日数名の兵をつれて西方の内容・鳥取方面(国見町)の山をこえて阿津賀志山の裏に出た。これが世にいわれる鳥取越えであり、このことによって奥州軍の陣地はたちまち大混乱におちいり、正面より攻撃した特科部隊が大きな威力を発揮することになった。
奥州軍は頼朝軍にうらをかかれ、堅固な二重堀の構築もむなしく敗れ去った。総大将藤原国衡は、一度はのがれたが部下に殺された。
http://www.f.do-fukushima.or.jp/kunimi/iware/iware.htm
http://www.fusion.isp.ntt.co.jp/sasukene/4/1/kunimi/index.html
http://www.fusion.isp.ntt.co.jp/wnn-c/tokushu/98-7/30/izumi/5.html
町天然記念物。源義経が奥州平泉の藤原秀衡の館に向かう途中、腰をかけて休んだという伝説を持つ
赤松の老名木(二代目)。傍らには、義経神社と随古堂素閑の碑がある。しかし今、小社は、腰掛け松初代の古木の中に埋もれており、時の流れを感ずるばかりである。
福島県国見町 国見町教育委員会 TEL (024)585-2892
東北自動車道国見I.Cから約3km
宮城県白石市斉川上向山115。神社の境内には甲冑堂があり、堂内には佐藤継信・忠信兄弟の妻、楓(かえで)・初音(はつね)両女の甲冑木造がまつられている。
田村神社の社伝によれば、文亀年間(1501〜04)に佐藤左衛門亮信治(継信の末裔)によって建立されたと伝えられる。
継信の妻は、関東川越太郎の娘で名は楓(かえで)、忠信の妻は相馬小高城主行方五郎の娘で初音(はつね)といった。この二人が、嘆き悲しむ義理の母である乙和御前を夫の甲冑を身に着けて、慰めたのだという。(乙和御前は、その時尼となって、斉川の高福寺に暮らしていた。尚、飯坂での伝承は、医王寺で尼になった乙和さんの名は教信尼、継信の妻の名は、若桜、忠信の妻は、楓であり、斉川の伝承と少し異なる。)
この話は、昭和初期からの国定教科書にも載り、婦女子教育の材料とされた。
甲冑堂(国定教科書高等小学校読本巻三女子用第十五課)に曰く、
「奥州白石の城下より一里半南に、斎川といふ駅あり。此の斎川の町末に、高福寺といふ寺あり。奥州筋近年の凶作に此の寺も大破に及び、住持となりても食物乏しければ、僧も住まず。あき寺となり、本尊だに何方へ取納めしにや寺には見えず。庭は草深く、誠に狐・梟(こきょう)のすみかといふも余りあり。此の寺に又一つの小堂あり。俗に甲冑堂といふ。堂の書付には故将堂とあり。大いさ僅かに二間四方ばかりの小堂なり。本尊だに右の如くなれば、此の小堂の破損はいふまでもなし。漸うに縁に上り見る に、内に仏とても無く、唯婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。如何なる人の像にやと尋ぬるに、佐藤継信・忠信の妻なりとかや。 これ今より百余年前、橘南谿の「東遊記」に示せる所なり。
継信・忠信は源義経の家来なり。平家の盛なりし頃、義経は奥州に下りて身を藤原秀衡に寄せしが、兄頼朝の兵を挙ぐる由聞きて、急ぎて鎌倉へ馳参じぬ。継信兄弟も従ひ行きしに、其の後義経都へ攻上り、平家を追落して武成著しかりしかども、頼朝と不和となりて、再び奥州さして落延びたり。然るに継信は屋島の合戦に能登守教経の矢にあたりて斃れ、忠信も東都にて討たれしかば、同じく従ひ出でたりし亀井、片岡等の人々は無事にて帰国せしに、継信兄弟は形見ばかり帰りぬ。
母は悲しみに堪えず、せめて二人の中の一人にても帰りたらばと、悲歎の涙止む時なし。兄弟の妻は母の心根を察しやがて夫の甲冑を取出し、勇ましげにいでたちて、母の前にひざまづき「兄弟只今凱陣致し候ひぬ。」と言ひしかば、母も二人の嫁の志を喜びて、涙ををさめてほほえみたりとぞ。
継信の、主と頼みし義経に忠なりしは、屋島の戦に教経の矢面に立ちて、主の命に代りしにても知るべし。義経は痛手を負へる継信をいたはりて「一しょにとてこそ契りしに、先立つることの悲しさよ。思ひ置く事あらば言へかし。」と言へば、継信苦しげなる息の下に、「敵の矢にあたりて主君の命に代るは弓矢取る身の習、更に恨にあらず。唯、思ふ所は、故郷に遺し置きし老母の身の上なり。弟なる忠信をば、行末かけて召使ひ給へ。」とばかり言ひて、やがて息絶えたり。
今はの一言に、母の孝心、弟への友愛、之を聞ける兵も皆鎧の袖を絞りぬ。弟の忠信が吉野の山に踏止りて多勢の敵と戦ひ、義経を落しやりし武勇忠烈は、兄にも劣らずといふべし。妻なる二人の婦人が、深き悲しみを押包みて母を慰めんとせし健気さ、雄々しさ、打揃ひての忠孝、世にもめでたき例ならずや。時の人の其姿を木像に刻みて此の堂を建てしも、故あるかな。こゝに詣でし俳人の句に、
軍めく二人の嫁や花あやめ(いくさめく ふたりのよめや はなあやめ) 天野桃隣
卯の花やをどし毛ゆゝし女武者
明治八年、此の小堂は火災に罹り、像も共に焼失せたりとぞ。」
昭和14年4月、堂も像も再建された。ちなみに現在の御堂は、法隆寺の夢殿を模した総檜造りの美しい六角堂であり、中に安置されている二女(継信、忠信兄弟の妻二人)の木造は、山形美術博物館所蔵の与謝蕪村筆による「奧の細道図」の甲冑姿を参考に造られたものである。堂の傍らに芭蕉の門人、天野桃隣の「軍めく二人の嫁や花あやめ」(陸奥鵆:むつちどり所収―元禄九年刊)の句碑が建てられている。
参考資料:白石市史 「白石地方の伝承」より
問い合わせ先:白石市役所 社会教育課文化財係 0224-22-1343
源義経主従が、平泉の藤原秀衡を頼って落ちのびる途中、高森山(岩切城跡)で一休みをした。長い逃走の憂さ晴らしにと、石投げの競争をしたが、義経は小男なのでちいさな石を弁慶は大男だから大きな石を力一杯投げ飛ばした。石は宙を飛んで山を越え、谷を渡り、七北田川の南側の畑に落ち込んだという。その石は今でも二つならんで仲良く残っているという。
岩切字三所来た九四の遠藤木材店わきにある。もとは今の産業道路が通っている所にあったのをここに位置かえた。二つとも鎌倉時代の板碑(かたわ)である。(岩切歴史物語 早坂春一 現歴史民族資料館館長)
問い合わせ先:仙台市役所 教育委員会 文化財課 022-214-8892
住所 宮城県金成町字館下十二
通称:東舘
社伝によれば、古くは坂上田村麻呂がアテルイ率いる蝦夷の奥州軍と戦う時、ここに陣を置いたと伝えられる。また源頼義が前9年後3年の役の時、京都の石清水八幡宮から勧請し、戦勝を祈願したとも云われ、現在、当社の御本体は、頼義公の息子である源義家公である。その後奥州藤原氏の庇護を社運隆盛となり、地元では、もっぱら炭焼き藤太の長男である金売橘次(吉次)の館跡であるという伝承で知られている。
社家である清水家には、いくつかの重要な義経公ゆかりの品があり、白鞘(しろさや)に義経と書かれた「匕首(あいくち)」や「義経公の位牌」等がある。また金売橘次の開運印もある。
また多数の古文書があるがその縁起記(現在の金田八幡神社は、延宝三年=1675年当時、八幡山金田寺と称していた。当時の住職、龍宝院承栄が記す)に曰く、
「奥州栗原郡金田荘金生村(古くは神生村、俗書では神成の後に金生と改め現在に至る)東館住(古くは金田城、今俗に戸館)
金売橘次信高の両親は、福徳で智慧の優れた男児を授からんとして、紀州熊野三所大神を怠りなく信心していると、ある夜熊野の神様が母の夢に立たれて、三つの紅色の橘(みかん)をくだされた。すると母は即座に子を孕まれて、三人の男児を生まれた。長男は橘次、次男は橘内、橘六と云う。兄弟はみな健康で美しい若者に成長した。成人して商才にも恵まれ、その才知は世に並ぶ者もないほどであった。
一家はその御利益に感謝をし、毎年熊野山に詣でて熊野の大神の神力を敬い、ついに金生の里に熊野三所宮をたてることになった。時に承久四年九月(一一七四年)のことであった。一家は令をもって宮室を造り三つの神の御正体を一輪の中に安置し、これを本宮とした。本宮には阿弥陀様を、新宮には薬師様を、那智の宮には千手観音様を安置した。また村に三つの寺も創建した。大照山の南方には円教寺を建て、天皇や国司が使用する祭田寺を寄付した。その領地は、わずかであるが、この地は省令によって、熊田と呼ばれた。
最後の寺は、橘祥寺であるが、この寺は兄弟が、紀州に紅橘を求めて、それを金生の里に持ち帰り、新宮の地に植樹したので、この寺の名を熊野山橘祥寺(俗称は橘寺)としたのである。
この本宮社職には熊野大林寺那智の別当宮司の熊野山翁澤(おうたく)が就き、郷里の寺に戻り尊敬を集められた。(翁澤宮司は)御霊を熱心に崇拝し、日に応じて、新月新日ごとの祭祀を厳重に執り行った。すると三人の兄弟はこの熊野の大神の神力によって、その名は世に聞こえ、国司藤原秀衡公の家来となり、また金田の人々をもって源義経公を助けて、金生の里は隅々まで繁栄を謳歌することとなった。
文治年間(一一八五〜一一八九年間)にこの地に、郡司が到着し、姉歯氏は、恭敬の文を持って代々お仕えすることとなる。以後領主となった大崎氏は、本社領につき、加護を続けられた。永和年間の中頃(一三七五〜一三七八年)本末寺院のすべてが衰えてしまうことがあった。これによって大崎氏の家臣で小迫の荒崎城主菅原長善公(民部少輔)は、殿中の置くに大林寺を修造し、これを別当修武運栄昌(えいしょう)にお任せになった。
天正元年(一五七三年)春三月に村主の菅原氏が落城すると、この地はただちに葛西晴信(左京太夫)の領地に編入され、当主は近江守である阿倍重直公に替わった。重直公は天正七年四月に南館(後方に荒崎城を構え、住居は小迫城)に移られた。
同年八月には二階堂維清(治部少輔で藤原姓)公が、お上の書を持って、熊野山大林寺に居城を移す。この事情については重直公が、後に自ら筆を取って書き留められている。
「その先、元亀三年(一五七二年)(晴信公は)二月同郡福岡村を、梨崎村に編入する。この梨崎村を、維清は、天正七年(一五七九年)晴信公より賜ったのである。当の維清にしてみれば、福岡村は長く捜し求めていた地であって、維清は同年八月大林寺に居を移し、村の名を大林村と改名したのである」と。
大照山の旧跡を修験大僧都法印□□院の宥遍(ゆうへん)は熊野三所の別当職をかねて祭田寺の領地を元に戻し、天正八年(一五八〇年)三月宥遍法印は八幡山を金生寺の跡に移す。(それを改め金田寺と称した)
天正一三年(一五八五年)九月八幡山の院の跡に金田城として住居とした。同一八年一五九〇年)葛西家の没落により、金成氏(金重直の子で名を内膳と云う)は、落ちぶれて、後に祭田寺領は没収となる。それでも別当宥遍は、謹んで三尊の御正体をお守りして、金田寺の道場を修造し、三社の跡に小さな祠を建て、毎年供え物は欠くことなく、お祭り申し上げたのである。よって当社の誓願の霊験は益々あらたかで揺るぎのなきものである。
したがってここに伝来の当社の縁起の旨を右のように記した次第である。
時に延宝三年(一六七五年)竜舎乙卯の春正月上元日
八幡山金田寺現住職
三僧祗法印
龍宝院承栄 印影」(解読及び現代語訳佐藤弘弥)
金成町津久毛大原木にある。通称「鈴木館」という。義経四天王のひとり鈴木三郎重家の城。義経公下向の折、母子とともに三河国より参陣しここに住まふ、重家は文治五年(1189年)義経公とともに、平泉高館において壮烈な最期を遂げた。卒年は三十歳。奥方の亀世御前は、夫の死後尼となり、館のそばに庵を結び、現在の喜泉院となって、今に伝えられている。館の頂上部には、重家の供養碑(鈴光院殿前参木覚無量山大居士)、また沼倉(恵美)小次郎高次の供養碑(通山源公大居士)もある。ここで不思議なのは、この「通山源公大居士」という法名が、何故か雲際寺(衣川村)や東館(金田八幡神社=金成町)にある位牌の法名「捐館通山源公大居士神儀」と同じことである。
参考文献「金成町史」昭和48年版
問い合わせ先:金成町役場 教育委員会 0228−42−2986
金成町平形。三迫川沿岸一帯はは低湿地で、津久毛橋は奧大道(奥州街道)唯一の橋で要害の地である。頼朝率いる関東軍20万も、つく藻を苅って敷き詰めながら全軍渡ったと云う。吾妻鏡に曰く「梶原平二景高、一首の和歌を詠ずるの由、是を申す。”陸奥の勢は御方に津久毛橋渡して懸けん泰衡が頸”」と。さすがに頼朝にゴマをする様は父景時に似ている。津久毛橋を渡ると津久毛城がある。入り口の江浦藻山信楽寺跡に石灯籠の碑がある。その碑文に曰く「信楽寺は藤原泰衡の墓である。長い戦乱に寺が焼かれ、ある人が石刀現宿皈真密法の法名墓石を建立したが長年の風説で傷つき、遺跡が埋もれるので、子孫に伝えるため相談して、明治24年石灯籠一基を備えた」そこから細道を登ると津久毛橋城の西端頂部に杉目小太郎行信の墓がある。字の消えている石碑は一三本長根旧道にあったものを移したと伝えられているが、明治初年に建て替えた供養碑には義経公の「身替わり」と刻まれている。
問い合わせ先:金成町役場 教育委員会 0228−42−2986
福応山常福寺
金成町畑。元は天台宗で平安後期の仁安年中に金売橘次兄弟が父母の冥福を祈って、金成寺の沢に建立したという。後に邑主対馬守が大梨沢にこれを移し牌寺としたが、火災により寺号だけが残り、1528年邑の民により畑館に再建した。寺には炭焼藤太夫妻の位牌が安置され、藤太事跡の版木が蔵されている。又、畑のバス停近くに藤太夫妻の墓がある。
問い合わせ先:金成町役場 教育委員会 0228−42−2986
所在地:宮城県栗原郡栗駒町尾松栗原浦ノ沢
奥州藤原氏に関係した寺として、栗原寺(りつげんじ)の名があったが、確証が無いなどの理由で、まぼろしの寺とされていた。「栗原郡史」によれば往時三十六塔頭を誇っていた古刹栗原寺の荒廃した跡に、元禄二年仙台恵沢山竜宝寺、宥日和尚が再興し、天台宗から真言宗に改宗したのだと言う。
奥羽観蹟聞老史(おううかんぜきもんろうし:佐久間洞厳 著)に曰く、
「菱沼村有寺、号上品寺、是乃古之栗原寺也」(菱沼村に寺あり、名は上品寺。これ古の栗原寺なり)
封内風土記に曰く、「上品寺真言宗、伝曰、用明帝二年、宥日法印開山、古塁一、栗原隠岐所居」
また吾妻鏡に曰く、「文治六延三月、大河次郎兼任、於従軍者、悉被誅戮之後、独追進退、暦花山千福山本等、越亀山、出千栗原寺…」
要するに、吾妻鏡によれば、藤原泰衡の遺臣大河次郎兼任が、羽後(秋田)から一迫(鬼首)に討って出て、鎌倉方の武将達と清水田(尾松)に戦って敗れ、栗原寺に逃れてかくれていたが、黄金造りの太刀や、綿のはばきをつけた出で立ちが尋常ではないというので、附近の樵夫達が取囲み、遂に討取ったというのである。
「義経記」にも、栗原寺の名が出ている。金売り吉次に伴われて平泉めざして来た少年義経は、栗原寺に止まって、吉次が秀衡に報告し、其の迎えの使者が来たので、五十人の栗原寺の僧兵に護られて、平泉入りをし、秀衡の保護を受けた事になっている。
次いで平氏追討に出て偉功をたてた義経が、兄頼朝に追われ、二度目の平泉入りをした時も、やはりこの栗原寺に止まって、平泉に挨拶してその後で秀衡に対面している。こうしてみると、栗原寺は奥州藤原氏ゆかりの、古刹であり、僧兵等も相当数在住した寺だった事がわかる。
地元では、この古寺のある栗原寺付近を、クリハラではなく濁ってクリバラと呼び、栗原郡(くりはらぐん)の中心だったという説を唱える人もいる。周囲には戦のために掘ったと思われる土塁なども発見されており、平泉に至る古道もある。周囲には奥州藤原氏ゆかりの館(たて)も多く、更にこの近くには呰麻呂の乱(宝亀8年、777年)で知られる伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)一族の墓とも言われる鳥矢崎古墳群もある。まさにこの付近全体が、歴史ロマン溢れる名勝地である。
ともかくこの付近の今後の調査研究に期待したい。
参考文献「栗駒町史」「栗原郡史」
問い合わせ先:栗駒町役場 0228―45―2110 教育委員会
源義経公御葬礼所について
所在地:宮城県栗原郡栗駒沼倉 栗駒小学校前
義経公の御葬礼所は、現在宮城県栗原郡栗駒町沼倉にある栗駒小学校の校舎の裏山、通称「判官森」の頂上にある。そこは一見して中世の山城の遺構を示し、鎌倉初期、この地を治めていた豪族沼倉氏の居館跡である。これを地元では、万代館と呼ぶ。小高く細工された頂には慰霊碑があり、次の文字が刻まれている。
曰く「大願成就 沼倉村基兵衛 上拝源九郎官者義経公 文治五年閏四月二八日」
石は地元で産出される通称、栗駒石で彫り込みが浅く文字も宛字があり、また義経公の自害の日は、閏四月三十日で吾妻鏡など正史と異なっているが、沼倉村とある点から江戸時代の顕影と考えられる。また五輪塔は、上部の半円(風)と如意珠形(空)が欠落しているが、この形は平泉金鶏山にある義経公の妻と幼児の墓と同一形式である。
さてこの史跡の信憑性を証拠付ける文献資料があるので紹介する。
「義経自殺于高館、後沼倉小次郎高次者葬之于此地、以立其墳墓、此地高次古館址 在頭高山(義経高館にて自殺せし後、これを沼倉小次郎高次は、この地に葬る。この地は高次の古館の址にて、頭上に高き山あり)」
「愚按スルニ此地ト云ルハ、栗原郡三迫庄沼倉村ヲサス、義経高館ニテ自殺ノ後、沼倉小次郎高次と云うモノ此地に葬テ墓ヲ築キタリ、此所ニ高次が館址山上ニアリ(考えてみれば、この地と言うのは、栗原郡三迫の庄の沼倉村を指している。義経公は、高館で自殺した後、沼倉小次郎高次という者が、この地に墓を築いた。この所に高次の館の址が、山の上にある)」(平泉町史 資料編二「義経雑記 義経墳墓」)
沼倉字河子田、栗駒小学校の裏赤松の立ち並ぶ眺望の勝れた高知である。判官森は五間四面の土塚を築き、その上に古色蒼然として一見数百年を経たと思われる五輪の塔と石碑がある。古碑には次のように刻まれている。
「大願成就
上拝源九郎判官者義経公
文治五年閏四月二十八日」
相原友直の平泉雑記巻之一の三十五に「義經墳墓」として以下のように記されている。
「義經自殺于高館、○伊校本、高館、後沼倉小治郎○伊校本、小次郎、高次者葬之于此地、以其墳墓、此地高次古館趾在上頭高山、稱之弁慶峰、往昔武蔵坊經
歴逍遙之地也、石出于封内名蹟志、
愚按ズルニ、此地ト云ルハ、栗原郡三迫庄沼倉村ヲサス、義經高館ニテ自殺ノ後、沼倉小次郎高次ト云モノ、此地ニ葬テ墓ヲ築キタリ、此所ニ高次ガ館○伊校本、館址山上ニアリ、弁慶峰ト云アリ、昔弁慶逍遙セシ地ナリト云、高次○伊校本、高次ハ義經ニ親シカリシ者ナルニヤ」又「奥羽観蹟聞老志」(佐久間洞厳著1719年)に万代館主沼倉小次郎高次(別名恵美小次郎高次)は、義経と親交があったので、義経自刃後遺骸をこの地に葬り、墓碑と五輪の塔を建てて弔ったとある。
安永風土記には、
「一、判官森 右、源義経公五輪塔有之候ニ付、名附候由申傳候事、一ツ古碑 一ツ五輪塔一基 源義経公、於高館御生害以後、当村御館主恵美小次郎高次ト申御方、遺骸ヲ埋葬之被相建候由、申伝候事」とある。
また江戸時代に成立したと思われる「清悦物語」に、
「義経之御葬礼所ハ大崎殿御在所三迫内沼倉二定メ、(中略)其ノ上弁慶、鈴木兄弟、佐藤・兄弟、修(ナガヒ)源蔵、熊井太郎、備前平四郎兼房遠ヲ初メトシテ以上十人、義経之御葬礼同前二被成」とある。(解読:駒形根神社宮司 鈴杵 憲穂氏)
判官森の下には、義経、弁慶に因む(義経)鞭桜の伝説がある。義経公が、友人である恵美小次郎高次の館に訪れた際、馬の鞭として使った枝を土の中に挿した所、それが成長して桜の樹になったという。この義経鞭桜のそばに弁慶鞭桜もあったようだ。現在は、その桜はいつの時にか枯れ、三代目(?)と言われる小さな桜が、沼倉郵便局前の小川の畔に植えられている。
またそのそばには、平成十一年四月、義経公八百十年祭を記念し、静の里、栗橋からと思われる「静の杖桜」二本が植樹されている。
貴船社
判官森下二〇〇米の地点にあって義経の守護神と伝う、八〇〇年も経た杉の古木があった、今はその切株直径2.5米のもの存している。この神は祈願成就の霊験あらたかな神、深更に参拝する者多く、殊に戦争時に詣でるものが多かった。現在は、近くの奥州総鎮守駒形根神社に合祀されて沼倉郵便局前に小祠のみ残っている。
白幡社
(古書に白旗社とあり)判官森を距る約六〇〇米の地点にある。白旗大明神を祀る。この神社も義経公の守護神で一度境内を侵せば神罰直ちに至ると伝えられている。今松の古木があった。貴船社と同じく現在は、近くの奥州総鎮守駒形根神社に合祀されて沼倉郵便局前に貴船社と並んで小祠が立っている。
義経の御前水
判官森より約一、五〇〇米の沼倉永洞の森林の中に清水が湧出している。義経がこの水を召し上がられたと伝えられ、御前水の名がある。
白岩館
義経公の胴体を葬り塚を作ったとされる沼倉氏(恵美小次郎高次)の館址である。尚、その恵美氏の末裔と云われる白岩城主沼倉飛弾守は天正十九年(1586)伊達政宗との戦に敗れ、桃生郡深谷糟塚山にて自刃した。
黒岩館
文治の役、栗原三迫の黒岩口にて、猛烈に抵抗し、結局捕らえられて首を切られた若九郎大夫が城主であったと伝えられる。東側を北へ向かう道は古代より近世まで、平泉に至る古道であった。
万代館
古舘ともいい沼倉にある。高さ十四丈、南北六十間で、先の沼倉小次郎高次の居城であった。西北は絶壁で、東南に深谷がある。更に背北に幅十間余の塹壕を以って繞らした堅牢な城址で昔を偲ばせるものがある。高次の祖恵美太郎惟高なるものが、大同年中坂上田村麿将軍東夷征伐に従軍し軍功により此の地を賜って居住した。のち平泉の藤原清衡に属し、累代恩顧を受け一八代の末裔高次に至り、源義経と親密な関係があった。為に頼朝の悪む処となって落城したと伝えられている。蘇武家にその系図があったが天保三年の際、消失したといわれている。古歌に、「万代にながく伝えときずきたる古館城のあとそ雄々しき」とあり…。
岩の目館
沼倉の岩倉俗称「岩の目」という所にあり、高さ三十丈、南北六十間で恵美小次郎高次の祖先の古城址であったといわれ、又ここに名水があり、岩の亀裂から湧出しているので館主の御膳水と称されていたという。
亀井館
(尾松桜田)桜田中屋敷囲、松岩寺を含む一帯を亀井館と云われている。文治元年、源義経が兄頼朝の勘気を受けて奥州に落ちのびる時、義経に従い側近として活躍した鈴木三郎重家、弟亀井重清も共に奥州に入った。文治五年藤原泰衡が頼朝の威を恐れて、命じられるままに義経を攻めた。義経は、無念の涙を呑んで意を決し同年閏四月三十日衣川のほとり高館において、妻(二十二歳)子(四歳の女児)を害してその身も自害し、齢三十一を最後に果てたと云う。(年代不明)亀井六郎に従う者合い語らい、主君のために、城外西方の丘に五輪塔を建立してその冥福を祈った。この地を五輪と名付け、現在も尚この地名が残っている。
駿河館
栗駒町鳥矢崎猿飛来(さっぴらい)にあり、旧記よれば、高さ十三丈八尺余、東西十三間、南北二十八間、義経四天王の一人駿河次郎の居館址と伝えられ、猿飛来城とも呼ばれる。尚、この猿飛来という地名は、アイヌ語の変化した地名という研究もある。
学花山長林寺(阿弥陀堂)遺址
沼倉字寺垣に長林寺址がある。山火事の延焼にあい堂宇を消失、先年、焼け跡から茶臼と石仏六体がみつかり、別当の円年寺で保管をしている。現在は、夏草が生い茂り往時の面影はない。奥州観蹟聞老誌に曰く「同村仏体ノ背後記曰、応永二年所建也、蔵ニ義経ノ馬具一如、今纔(わずか)ニ余隻鐙一、叉有古笈一弁慶所負旧我也、納錦襴袈裟一傍有、古礎一往時多二堂塔置、八幡天神愛宕薬師観音遺跡也」とある。要するに、この寺には、義経公の馬具や弁慶の笈、錦の袈裟などの宝物があったとされている。
以上参考文献 「栗駒町史」昭和38年
http://www1.neweb.ne.jp/wa/kurikoma/yoshitsune/kurikoma.html
問い合わせ先:栗駒町役場 0228―45―2110 教育委員会
所在地 岩手県西磐井郡平泉町字衣関202
開祖 慈覚大師
現貫首 千田孝信
宗派・寺格 天台宗・東北大本山
本尊 阿弥陀如来
沿革 嘉祥三年(850年)天台宗第三の座主、慈覚大師円仁によって開かれ弘台寿院と称したが、そののち清和天皇より中尊寺の号を賜ったと伝えられている。またこの所在地が衣の関の関路にあった所から山号を関山と称している。老杉に覆われた参道をのぼりきると、そこに鞘堂(さやどう)に覆われる形で国宝の金色堂がある。
平安時代の末期、みちのく平泉の黄金文化の華を咲かせた奥州藤原三代。その初代清衡公が自ら前九年・後三年の役という長い戦乱を体験し、荒れ果てたこの地方の安寧と国家の安泰を祈念して仏国土の建設に取りかかった。つまり前九年・後三年の役で亡くなった人の霊を慰めるとともに、平和な国土建設を期して建てた一種の楽土である。その最初に取り組んだのがこの中尊寺造営であった。南は今の福島県白河の関から、北は陸奥湾外ケ浜までの中間に位置しているこの関山に、堂塔四十余宇、僧坊三百を数える壮大な寺院を建立した。寺院中央に釈迦・多宝像二体を左右に安置し、その間に道を開いて旅人が行き交った。二階大堂、三重の塔、経蔵、金色堂他華麗な堂塔が立ち並んでいたが、建武四年(1337)の野火から起こった大火によりことごとく消失。
尚、現在の鞘堂は二代目である。初代鞘堂は金色堂を自然の腐食にから守るために造られ、金色堂をすっぽりと覆う、まさに鞘のようなお堂で正応元年(1288)鎌倉七代将軍惟康親王が時の執権北条貞時に命じて造営させたものである。
金色堂
金色堂は、天治元年(1124)の造立で、中尊寺壮健当初唯一の遺構である。三間四面の小さなお堂ではあるが、材料には青森ひばを用い、屋根は木瓦葺きとし、その名の通り、内外を厚い漆で塗り固めた上に金箔を張り、黄金が燦然と輝く皆金色(かいこんじき)の阿弥陀堂である。堂内は三壇に分かれており、向かって中央が清衡壇(須弥壇)、左に基衡壇(二代の基衡公)、右に秀衡壇(三代秀衡公、四代泰衡公)となっている。その中には、それぞれのご遺体が安置されている。
元禄二年(1189)陰暦五月十三日(陽暦六月二十九日)、四十六歳の松尾芭蕉は、「おくのほそ道」の旅で、中尊寺金色堂を訪れ、鞘堂に守られ、絢爛と輝く金色堂を見て、
五月雨を降り残してや光堂
と詠んだ。
問い合わせ先:中尊寺事務局 0191−46−2211
平泉町観光商工課0191−46−2111
参考文献
日本仏教総覧 別冊歴史読本 新人物往来社 1995年
平泉中尊寺 佐々木邦世著 吉川弘文館 1999年
平泉 高橋富雄著 教育社 1978年
平泉 斉藤利男 岩波新書 1992年
平泉の世紀 高橋富雄著 NHKブックス 1999年
おくの細道 角川文庫版 昭和42年
参考サイト
http://www.laphouse.com/ptBashouHI.htm
http://www.laphouse.com/ptChusonji.htm
http://www.laphouse.com/ptPhoto3.htm
中尊寺のホームページ
http://www.kpc.co.jp/chusonji/
その文化の中心が隣山中尊寺であり、毛越寺であった。永い兵乱に荒廃した堂塔坊舎の再建の勅願が、長治年中(一一〇四〜〇六)堀河帝より発せられ、藤原清衡・基衡父子が十余年を費やし金堂円隆寺講堂・常行堂・法華堂・二階総門(南大門)・経蔵・鐘楼・吉祥堂・千手堂・鎮守堂・嘉祥寺・観自在王院等等、堂塔四十余、僧坊五百余を建立し、鳥羽天皇に至り勅使佐少弁富任が下って、円隆寺の宣下あり、勅額及び国家鎮護の勅願文を賜った。円隆寺は桁行七間(実尺九〇尺)、梁間六間(実尺七四尺)、回廊により経蔵、鐘楼を左右に連ねる典型的な寝殿造り様式。
本尊丈六薬師如来、脇侍並びに十二神将は、基衡が運慶に刻ませた当代無比の傑作であったことが『吾妻鏡』に記録されている。嘉祥寺について『吾妻鏡』には、「未だ功を終えざるの以前に基衡入滅す、仍って秀衡之を造り畢んぬ。四壁並に三面の扉、法華経二十八品の大意を彩画す。本尊は薬師丈六也」とあり、その規模・様式等、円隆寺とほぼ同じであることを、発掘調査の結果が報じている。
文治五年(一一八九)四代泰衡が源頼朝に追われ、毛越寺大檀主藤原氏の滅亡を迎えることとなったが、戦勝将軍源頼朝は凱旋の帰途平泉の巡覧をなし、武門祈願所として寺領安堵の壁書を、円隆寺南大門に揚げ、藤原氏同様の庇護を加え、”吾が朝無双の精舎”と嘆称したと『吾妻鏡』に見られる。しかし同じ『吾妻鏡』嘉禄二年(一二二六)十月八日の条に「陸奥国平泉円隆寺焼亡す」とあり、この嘉禄の災にあったのが、円隆寺・嘉祥寺伽藍群であり、大泉ヶ池北側一帯である。その後、天正元年(一五七三)観自在王院・南大門、更に慶長二年(一五九七)常行堂・法華堂の焼失により毛越寺伽藍は、その跡のみを残すこととなった。常塔四〇年、禅坊五百余と称した毛越寺一山は、江戸期には十八坊となり、この十八坊が現在の毛越寺一山に継承され、その伝統が厳守されている。
E見どころ 広大な庭園は特別史跡、特別名勝の二重指定を受けており、東洋一の遣水は八〇メートルの長さを誇る。「延年の舞」は国指定重要無形民俗文化財。宝物館には、毛越寺及び一山支院の宝物の収蔵と県指定文化財の展示がなされている。
白鹿伝説
寺伝によると嘉祥三年(850)慈覚大師が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。
ふと足下を見ると、地面に点々と鹿の毛が落ちておりました。大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっておりました。大師が近づくと、かき消すように姿を消し、やがてどこからともなく、一人の白髪の老人が現れ、この地に御堂を建てて霊場にせよと告げられました。
大師はこの老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の御堂を建立し、嘉祥寺と号しました。これが毛越てらの起こりとされます。(毛越寺パンフレットより)
問い合わせ先:毛越寺事務局 0191-46-2331
平泉町観光商工課0191−46−2111
毛越寺のホームページ
http://www2.kpc.co.jp/motsuji/INDEX2.html
http://www.laphouse.com/ptBashouHI.htm
http://www.kurikoma.or.jp/~imamuraa/iti/midokoro/motsuji/index.html
高舘(たかだて)は北上川に臨む丘陵です。衣川館(ころもがわのたて)判官館(ほうがんだて)とも呼ばれ、その眺望は平泉第一といわれています。高舘はかつて、兄頼朝に追われ藤原秀衡公を頼って奥州に落ち延びた源義経公の居館があった所といわれ、文治五年(一一八九)閏四月三十日の秀衡公の子泰衡に襲われ妻子とともにしたのもこの地と伝えられています。丘の頂きには天和三年(一六八三)に仙台藩主第四代伊達綱村公が義経公を偲んで立てた義経堂があり、中には義経公の木造が安置されています。像は勇ましい甲冑姿で、若き英雄義経公の在りし日のお姿が偲ばれます。
高舘から眺めますと、眼下に北上川が流れ、遠く束稲山(別名…東山)の連山が望まれます。また西から衣川が北上川に合流していますが、衣川の流域はかつて前九年。後三年の役の戦いが繰り広げられたところであり、弁慶立往生の故事でも知られています。
源義経公像
義経堂の本尊として堂創設時に制作されたもので、凛々しい武者姿の像は極めて綿密に作られています。像は制作時代より古い技法を伝えており特徴としては、
源義経主従供養塔(宝篋印塔)
この塔は昭和六十一年、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶八百年の御遠忌を期して、義経公主従最期の地として最も相応しいこの高舘に、供養の為に造立されたものです。
高舘宝物館
宝物館には、武具や発掘出土品、義経堂建立の際かかげられた上梁文などが陳列されています。主な陳列物は次の通りです。
戦用遺物
軍旗筒 時代不詳・毛越寺蔵
軍用足袋 時代不詳・毛越寺蔵
直刀 時代不詳・毛越寺蔵 平泉高舘地域から出土
鏃 平泉高舘地域から出土
鐙 時代不詳・寿徳院蔵
陣太鼓 鎌倉時代 寿徳院蔵
鉄 冑 鉢 鎌倉時代 寿徳院蔵 義経堂境内より出土
陳釜 鎌倉時代 寿徳院蔵
鞍 伝「安倍貞任初陣のとき用いたもの」寿徳院蔵
文書
義経堂上梁文 木版・毛越寺蔵
文化五年銘棟札
書状2通 白王院蔵
鈴木三郎重家の書状 白王院蔵
亀井六郎重清の書状
発掘出土品・他
磚………1点
銅銭……7個
鉄銭……6個
瓦………計60点
絵馬(太夫黒)3点
西行と芭蕉
束稲山はかつて安倍頼時が一万本の桜を植えたといわれる桜の名所でした。文治二年(一一八六)、平泉を訪れた西行法師はその見事さを山家集で次のように歌に詠みました。
ききもせず束稲山の桜花
吉野の外にかかるべしとは
更にもう一首山家集より
とりわきて心もしみてさへそ渡る
衣川見に来るけふしも
また元禄二年(一六八九)俳聖松尾芭蕉は「奥の細道」の旅で、高舘に登り、平泉の栄華八や義経公を思い、有名な俳句をのこしました。
夏草や兵共が夢の跡
夜間 0191−46−2331(毛越寺事務局)
千手院
藤原三代公の位牌堂で、金鶏山の登山口にある。金鶏山の中腹に義経公の妻子の五輪塔があったが、現在登山口付近に移動している。
問い合わせ先:平泉町観光商工課0191−46−2111
所在地 胆沢郡衣川村下衣川字張山63−1
現住職 渡辺義光
開祖 慈覚大師
当寺は嘉祥三年(850)慈覚大師の開基による天台宗牛局(うしまど)山雲際寺で、関山中尊寺の別院であったともされている。文治二年(1186)平泉へ再び下向した源義経公は、乳母の菩提のため当寺へ不動明王像を奉納安置し、翌文治三年には下向の時に随行してきた民部卿の禅師頼然が導師となり、北の方を中興開基として廃頽していた当寺が復興されたという。文治五年(1189)義経公と北の方が自害された後住僧の頼然は、義経公の位牌「捐館通山源公大居士神儀」(えんかんつうざんげんこうだいこじしんぎ:裏、文治五年閏四月二八日源義経公)と北の方の位牌「当寺開基局山妙好尼大姉」(とうじかいききょくざんみょうこうにだいし)を安置し菩提を弔ったと伝えられ当寺に現存している。
応永の頃(1394−)からは住僧も定まらず、時折、中尊寺の老僧が閑居していたといわれるが、文明五年(1473)になって、報恩山永徳寺の六世、珊光素玉(さんこうそぎょく)和尚の弟子智海(ちかい)が、当寺を禅寺に改めようとし、素玉和尚を開山の師として招き、応永時代の僧玄弘を二代として、智海は三代目の住職となって天台を曹洞に転宗し、寺号を雲際寺に改めて二度目の復興がなされた。
元和二年(1616)この地に転封された芦名盛信は、またまた荒れ果てていや当寺の地に移住することとし、本村の不動明王は北西の方に新たな不動堂を建立して安置した。寛永八年(1631)頃、盛信の孫の重信は祖父の菩提のためその不動堂の場所に寺を新築し、標祭寺七世節翁和尚を招いて当時の三度目の復興がなされ、山号を妙好山に改めて現在に及んでいる。正徳三年(1713)重信の曾孫盛連は藩命により奉行職となり加美郡中新田へ移ることになり、芦名氏は九九年間の衣川在住を終わるが、雲際寺安泰のために慎重な配慮をしたと伝えられる。
現存する本尊等の宝物
木造不動明王立像(像高56.8cm 昭和54年修理)
木造矜羯羅童子立像(こんがらどうじりつぞう:像高34.2cm 天明七年)
制タ迦童子立像(せいたかどうじりつぞう:像高34.0cm 天明七年)
木造韋駄天立像(いだてんりつぞう:像高32.0cm 天明七年)
木造如意輪観音半跏像(像高15.0cm)
その他宝物
妙好山雲際寺伝記等。
妙好山雲際寺
曹洞宗、本郡永徳寺末寺、伝云、後土御門帝、文明五年、珊光素玉和尚開山、希文按、観迹聞老志・名跡志共曰、仁明帝嘉祥中、釋巨岳者所開、寺院往昔在牛局山、仍号牛局山雲際寺、今改妙好山、寺中有義経牌子、曰義経通山大居士、二説不同、不知孰是、然曰此寺舊在牛局山、而号牛局山、則文明五年、移于今知、素玉中興開祖、改号妙好山乎。(以上 封内風土記 巻之十九)
問い合せ先
衣川村教育委員会 0197-52-3111
雲際寺 0197-52-3068
所在地 衣川村大字下衣川字田中西
種別 寺院跡
時代 古代
「衣川村誌」に曰く、この地、「三條吉次信高の宅址にして、東西五十五間、南北四十八間、地平担なり、四隣、水田に接し、礎石、今、尚、在せり。後人呼んで長者原と云ふ。
因に記す。吉次の父を炭焼き藤太と云ふ。陸前、栗原郡、金成村の人なり。三子あり、吉次、吉内、吉六といふ。長子吉次、性、怜、少にして商を好み、平泉府に出入りせり。秀衡、夙(つと)に其頴才(えいさい)を愛し命じて庶用を弁ぜしむ。其母、京の産なるを以て砂金を托して京洛にひさがしむ。吉次、大に利する所あり。両後往復、間断なかりしと。斯くて公候の門に出入り、三條吉次の名、京洛の間に嘖々たりしといふ。時に牛若丸之を聞き、窃に託して平泉に来られるなり。」
「長者ヶ原調査報告書(昭和四七年)」に曰く、「長者ヶ原廃寺地区では、北門の存在が十分考えられること、堀は北側で非常に良く残されていたこと、出土品からみて、遺跡の創建はいわゆる平泉文化以前であること等である。残念ながら土塁の外部では、創建時の遺講はすでに削平されたか、検出することができなかった。(中略)この遺跡は、平泉地区に於いては、泥田廃寺跡等と同様、平泉藤原文化に先行する寺院跡と考えられ、この点で重要な遺跡である。」
国道を平泉方面から来て衣川を渡ると、すぐ衣川橋というバス停がある。バス停からすぐの角を西に折れ、衣川に沿った水田地帯の小道を10分ほど歩くと三峯神社参道入口という標識が見えてくる。そこを右に曲がりゆるいカーブを5分ほど行くと、右側の土塁に石碑と案内板が立っている。ここが長者原廃寺跡(県史跡)である。
このあたりは古くから金売吉次屋敷跡とも朝日町長者屋敷跡ともいわれた。金売吉次(三条吉次信高)は京都と平泉を往来した商人で、16歳の義経(牛若丸)を鞍馬寺から秀衡のもとにつれてきた人物として知られている。彼の手をとおして京の情報や産物が平泉に、奥羽の砂金や馬は京に運ばれたことであろう。
長者原廃寺跡の土塁に立ってみると、南に衣川を隔てて中尊寺の関山、東に西行法師に詠われた束稲山、北に6層建の衣川莊(国民宿舎)と城郭建築の懐徳館(歴史資料館)、西に高速自動車道を挟んで山峰と月山神社の森が見渡せる。肥沃な河岸段丘の平坦地である。1958(昭和33)年のこの地の発掘調査の結果、約100m四方の土累跡、南門跡、本堂跡、西方塔跡が確認されている。礎石の配列や建物の配置、出土した土師器などから、平泉藤原時代かそれ以前の寺院跡と判明した。
またこのあたりは衣川柵に隣接し、平泉時代以前の11世紀には、陸奥の豪族阿部氏の本拠地であり、源義経・義家軍と対峙した前九年の役(1051-62)の激戦地でもあった。近くに阿倍氏に関連する旗鉾神社(阿倍氏の守護神)、池田九輪塔跡(現五輪塔、伝阿倍頼時の墓)などもある。12世紀、藤原氏の平泉時代になると、この地を含めた古都は10万人の人口を擁する京都に次ぐ都市といわれた。このころも川に沿った河岸地帯が一般市民の生活の場、生活物資交易の場として繁栄した。長者原廃寺跡の東西に残る六日市場、八日市場も往時のゆかりの地名と考えられる。
なお、この廃寺跡から西北に3km行くと、村の中心地である古戸に出る。そこに一首坂がある。前九年の役の折、敗走する安倍貞任を追った源義家が矢をつがえ「衣のたてはほころびにけり」と和歌でよびかけたところ、貞任は馬をとめてふりかえり「年をへし糸のみだれのくるしさに」と上の句をつげた。義家はそのゆかしさを感じ、矢をおさめ引き返したという「古今著聞集」に出てくる故事の地である。(「岩手県の歴史散歩」山川出版より)
問い合せ先
衣川村教育委員会 0197-52-3111
衣川村ホームページ http://www.isop.ne.jp/atrui/koro.html
去高館一街餘、山下有小関路、是古関門之址也、
東史日、此地昔時西界白河関東限外濱、行程十餘日、
於其中間立関門、名日衣関、
一説日、衣関在伊達郡白鳥村、日鵜木、其傍有関山明神、
今日之関門宅、是乃往時通行之道路而今廢其地也、
高闢関門、左則隣高峻、右則通長途、南北層巒相峙険隘之地、
もろ共にたたまし物をみちのくの衣の関をよそに見るかな
詞花 別 和泉式部(大江雅致ノ女)
さくら色によもの山風染てけり衣の関の春のあけほの
夫木集 春部 前中納言定家(藤原)
亀井松
去高館西北二街餘、田中有古墳、是乃亀井六郎重保戦死之地、
後人葬之以為一堆塚、上植一青松、日之亀井松、
鈴木墓
去亀井松西北三街餘、在田上、鈴木三郎重家戦死之地也、
郷人葬于玄、或日兼房墓也、
弁慶堂址
在衣関以西山頭、往昔有一堂、藏武藏坊弁慶像、其堂今荒廢遺像在大日堂、
或日、此地乃重家墓所也、
問い合せ先
衣川村教育委員会 0197-52-3111
衣川村ホームページ http://www.isop.ne.jp/atrui/koro.html
東磐井郡川崎村。義経公亡き後、その命により、生き延びて、義経公最期について、事の次第を詳細に語ったと伝えられる常陸坊海尊と清悦坊の縁の宮。常陸坊海尊は秋田仙北、清悦坊は平泉にそれぞれ生き延び、代々語り継がれてきた物語が「清悦物語」である。土地の民の間では、清悦宮は清悦坊さまと呼ばれ、川崎村の河崎の柵跡西口北上川河畔にあり、葛西氏が守っている。社殿はアイオン台風の時にながされ、現在はセメントのお宮が祀られている。清悦物語は異本が多いことで知られ、川崎村、栗駒町でもそれぞれ内容の異なるものが発見されている。
佐藤の訪問レポート
岩手県川崎村の清悦宮を訪れました。例の前九年後三年の役の戦場になった所です。
そこへ参ってがっがりしました。谷間の狭い道路を砂利を採取するためか、 砂利トラックが、猛スピードで行き交います。また村の背後には、山崩れを防ぐために切り取った部分に鉄筋を通し、コンクリートを吹き付けてある。仕舞いには歴史の漫画のようなものを書いている。
実に情けない光景を目にしました。 でも古い街道の町並みはすばらしく、その町並みを生かした村造りはできないものか、
と思いました。そこから北上川を遡って一ノ関の方へ少しいくと清悦宮が、ぽつんと道ばた
に立っています。おそらく誰もきに止めないでしょう。以前は、ちゃんとしたお堂のようなものが
あり、鞘堂のような建物もあったそうですが、昭和20年初期のアイオン台風の時にすべて流されて下流にあった宮の看板を拾ってきて、祠は別に作って再び元の位置に戻したのだそうです。お宮の裏の葛西さんというお宅には、清悦宮の木の看板が
掛けてあって、それを写真に撮らせていただきました。私はその時、この清悦宮が生きていると感じました。何かほっとする思いがしました。村の人々が、清悦さんを大切に思い今でも信仰の対象としていることに感動したのです。
でも悲しいしいことですが、もうじき堤防工事とかで、清悦宮もそこにある家々も移転させられる運命にあると
聞きました。確かに洪水の危険があるので、致し方ないのかは知れませんが、何か考えさせられましたね。
でもそれを大切にしながら、守っていくという人があるかぎり、その清悦宮は生きており、その何かが、祠の前に立つ者の感動を呼び覚ましているのでは?と感じました。(2000.3.28)
問い合せ先:川崎村教育委員会 0191-43-2111
更新
2000.3.30 Hsato