静御前終焉の地を行 く
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埼玉県北葛飾郡栗橋町

静御前 上村松園作 東京国立近代美術館蔵99年 04月 25日、世田谷の自宅を一時過ぎに出て、静の墓があるという埼玉の栗橋に向かった。新宿からほぼ一時間15分駅余り。3時過ぎにその駅栗橋に着いた。東京 は、雲が割れて青空が顔をのぞかせていたが、栗橋に着くと、空は今にも泣き出しそうな様子だった。駅前の看板で、すぐに静の墓の場所を探した。するとかな り見にくいその看板の端に、静の墓二分とある。しかしその方向も目印もなく、不親切極まりない。

この距離ではタクシーに乗る意味もなく、歩道を渡って本屋で地図を見ることにした。駅を北に70mばかり歩 くと、その場所は、すぐに現れた。静御前の墓。そこは何故か藤棚があり、淡い紫の花が満開であった。そこは以前光了寺という所だったようだ。中央に静女 (しずじょ)の墓があり、その左には、義経招魂碑があり、そばには小さな生まれてすぐに鎌倉の海に流された静と義経の子供の慰霊塔が建てられている。墓の 右後ろには明治にできた碑が建っており、その横には、

舞う蝶の果てや夢見る塚のかげ 座仏」なる句碑がある。

またその右には最近植えられたと見られる「静桜」の若木が小さな柵を設けられてひっそり咲いている。薄いピ ンクの可憐さを湛えて、大樹に成長する日が待ち遠しいかぎりだ。

@栗橋教育委員会による看板によれば、この墓は、享和三年(1803年)5月に関東郡代中川飛騨守忠秀(な かがわひだのかみただひで)という人物が作ったものであるらしい。以前の墓は、利根川の氾濫で流されてしまったようだ。

A墓のあったとされる光了寺の過去帳には静の戒名として「巖松院殿義静妙源大姉」が残されている模様。また 静が、この光了寺を訪ねた理由は、義経の叔父に当たる人物が住職をしていたよしみで、吉野山で静と決別するおり、義経は静に、

「吾がこののちの所在は武州葛飾の光了寺の住僧なる叔父に聞けば知らる可し。御身は一度京に帰り、明年の春 海道(東海道)を通りてかしこに来たりてたずねよ」と語ったというのだ。

尚現在、光了寺は、茨城県古河市中田にあるが、昔は伊坂(現栗橋町)にあったようだ。この寺には、静の遺品 の舞衣(まいぎぬ)の一部や、鏡、守本尊などが残されている。

B看板の説明によれば「静の生年月日は、一一六八〜一一八九年となっている。静は、文治五年(一一八九年) 奥州の義経を追って、下総国の下辺見という所で、義経の最後を知らされた。そのことを知った静は、すぐに髪を切って仏門に入るつもりで都へ行こうとした。 しかしその途中、「伊坂の里」で病に罹り、同年九月一五日に帰らぬ人となった」とある。

Cまたインターネットの歴史の町栗橋町の教えるところによれば、一旦京に戻った静だったが、義経への思い断 ち難く、

「侍女と共に京都を後に奥州平泉へ向かいました。義経が殺される年、文治5年1月のことです。泰衡が義経を 討ち死にさせた直後の5月、静はようやく太田荘須賀(宮代町)を経て、下河辺荘高野(杉戸町)にたどり着きました。

ここから、静は古河の関所、元栗橋(茨城県五霞村)を目指すのですが、関所での取り調べが厳重であることか ら、八甫(鷲宮町)を経て、高柳(栗橋町)に出て、高柳寺に一泊しました。翌日、奥州路を下逸見(茨城県総和町)までやってきた静は、旅人から義経が先月 平泉で討ち死にしたことを知らされ、精根尽き、伊坂(栗橋町)まで、引き返してきましたが、既に静は生きる望みさえ失っていました。

静は伊坂(栗橋町)の地で剃髪し尼となりましたが、その3ヶ月後の8月、義経の名を最後にこの世をさりまし た。」と云々。現在栗橋町にある「静御前遺跡保存会」では、毎年九月十五日、静御前の命日にちなみ墓前祭を行っている模様。

Dコンサイス日本地名辞典(第三版三省堂)によれば、栗橋町は、明治22年(一八八九年)四月一日、静(し ずか)と豊田(とよだ)という二村が合併してできた町である。江戸時代にこの場所は、日光街道の宿場で発展し、利根川を利用した河川交通の要地であったよ うだ。

E吾妻鏡によれば、静が鎌倉に来たのは、文治二年(一一八六年)三月一日である。頼朝は、義経の行方を詰問 したが静は一切答えない。

F静は、同年四月六日、鶴岡八幡宮で頼朝政子夫妻を前に舞を舞った。彼女はこの時、妊娠六ヶ月であった。静 は、舞う前に、

 「吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人のあとぞ恋しき 」(歌意:吉野山の白雪を踏み分けて奥州に消えた 人(義経)が恋しい、と詠んでから舞った。

 さらに

 「しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」(歌意:しず布を織るために糸を巻くおだま きのように繰り返す、昔であったらどんなに良いことか)とも詠んだ。

 尚、この二歌には、本歌がある。

 「み吉野の山の白雪踏み分けて入りしにしひとのおとずれもせぬ}(古今集三二五壬生忠岑=壬生忠見の父)

 「古のしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」(伊勢物語第三二段)

F同年七月二九日静は男児を出産する。しかし非常にも同月二九日、頼朝の使者安達新三郎によって由井の浦に 捨てられた。

G同年九月一六日静は、許されて、帰洛の途につく。

追記 尚、この他に静の墓は日本中にあるようで、長野の美麻村や兵庫淡路島の津名町にも静の墓と称されるも のが遺っている。

初蝶や静女の塚の初舞台 ひろや

                          文責 佐藤弘弥
参考文献:

「全釈吾妻鏡」第一巻 新人物往来社刊

「吾妻鏡の世界 大谷雅子著 平成八年一月一五日 新人物往来社刊

「利根川図誌」赤松宗旦著 岩波文庫


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