高野
山檀上伽藍 御影堂
御影堂に大杉の木立から月光が洩れる
(2007年1月25日午後10時 佐藤弘弥撮影)
朧なる丸き月
影、御影堂の上に懸かりて微笑みてけり ひろや
1 御影堂の月
早春の高野山に向かった。高野山で、「世界遺産フォーラム in 高野山」(07年1月
26日高野町 高野山大学主催)という集まりがあるためである。今年の冬は暖冬ということで、来
る途中の紀ノ川沿いの山々は、すっかり春の山のようであった。しかしさすがに標高800mを越える高野山は、昼は温かくても、夜になると肌を刺すような寒
さだった。
そ
れでも、フォーラム開催の前夜、打ち合わせの後、ふと御影堂(みえどう)を拝みたくなった。御影堂の名
称は、空海の肖像画が掲げてあったところからそのように命名されたものだ。周知のよう
に、御影堂は高野山の聖地と言われる檀上伽藍の中でももっとも大切なところで聖地の中の聖地とも言うべき区域である。空海さんが高野山を開山する時、この
付近に居を構えて、苦労に苦労を重ねたとされる。空海さんは、思うように進展しない根本道場建設計画にそれこそ昼夜を分かたず全身全霊をもって取組だので
あった。いったいこの熱意はどこから生まれてきたものなのか。
御影堂付近は、空海さんの汗と苦労が染みついているに違いない・・・。そんなことを思いながら、いざその場に立つと、寒さもあってか、ぶる、ぶるっと、震
えがきた。手を合わせ、御影堂を拝むと、今度はその美しい夜の景色に思わず息を呑むことになった。御影堂の西方にある西塔周辺の大杉の木陰から、春の月が
ちらりとこちらを覗いている。まだ満月ほどには膨らんでいないのだが、ふっくらとしたおぼろな月が空海さんその人のお顔のようでもあり、観じるものがあっ
た。
私はほとんど無意識に背中のザックにあるカメラを取り、三脚がないのも構わず、夢中でシャッターを切った。感度をかなり上げたが、後で見れば、檀上伽藍が
ライトアップされているとは云え、夜10時を過ぎた深夜である。ほとんどが手ぶれで見れる代物ではなかったが、ほんの数枚、何とか見れるものがあって、カ
メラに向かいありがとうと云った。
空海さんには、今でも奥の院の御廟で生きているという入定伝説がある。もしかすると、彼は1200年後の今日でもこの御影堂と蛇腹道を歩いて奥の院を行き
来し、生きとし生ける私たちに、智慧を授けるために何らかのメッセージを発し続けているのかもしれない・・・。
もちろん、私は真言宗の僧侶でも研究者でも信者でもない。ただ空海というひとりの人間が、己の命の危険も省みずに海を渡り、世界最先端
の勉学を学び、師の教えに従って、その経典をこの高野山の地に封印するという大事業を成し遂げたということは知っている。その不撓不
屈(ふとうふくつ)の精神には脱帽する以外にはない。特に「三教指帰」(さんごうしいき。空海24才の作品)など若い頃の著作を読むと、空海が、人並み外
れた溢れかえる欲望(煩悩)を抱えていたことが分かる。しかしながら煩悩とは、本来「負」ではあるが「生命エネルギー」そのものであり、それを空海は
「正」なるエネルギーに変換する方法を心得ていた。常に空海は他者を利するために、そのエネルギーをつかった。空海は、いつも日本のため、師のため、真言
密教のため、自らの命の最後の一滴まで捧げ尽くした人であった。千二百年前
にあって、空海の思想は、極東の後進国日本を遙かに飛び越えて、世界精神の領域にまで飛翔した。これ
はほとんど奇跡であった。何故そのようなことが可能だったのか。空海が天才だったからか。もちろんそれもあるだろうが、私はそれよりも、他者を利するとい
う大乗仏教の教えに徹底して従った結果ではないだろうか。私の推量が当たっているという確証はない。しかし少なくても現代世界に
おいて、仏教生誕の地インドにもそして空海その人が学んだ中国にも、真言密教の極意を伝える地は、この高野山以外になくなってしまっていることは事実であ
る。何たる空海の先見性だろう。おそらく、空海は、己の溢れかえるような欲望を自らの学(真言密教)の力で徹底的に押さえ込み、そのエネルギーを世と他者
のために命を燃やし尽くす変換の方法を知っていた。言い換えれば、空海という人物は、他を利するという「大乗仏教」の大道を生きた「利他行」
の人であった。

高野
山檀上伽藍 鐘楼堂
大塔を下から照らすライトは過剰気味?!
(2007年1月25日午後10時 佐藤弘弥撮影)
浅き春御影堂行けば空海の吐息聴こゆる月影の中 ひろや
ひるがえって、千二百年後の日本社会を観想してみる。他者を利するなど、今の日本のどこを
注目すれば、見つけられるのか。いささか心許ない気持ちになる。いつの間に
か私たちの時代は、私利私欲
の塊のような餓鬼(がき)や魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類が大手を振って跋扈(ばっこ)するえげつのない世の中になってしまった。今や、日本人は、
ほんの些細なことで、この世にふたりといない愛する人を憎み、傷つけ、時には殺害に及ぶことすら珍しいことではなくなった。新聞の社会面を覗くと、親族間
の事件や考えられないような暗澹(あんたん)たる気持ちにさせられる事件が掲載されていない日は皆無と言ってよい。何故、そのような悲惨なことが連続して
起こってしまうのか。それは私利私欲の奴隷となった私たちが、まず自分の小さな世界のことを世界のすべてと思い込む勘違いから来ているのではないかと思
う。別の言葉で言えば、小さな世界でしかものを見ていない、ということである。世界は広く、宇宙は無限である。考え方を狭めずに、多様な価値観で、自分自
身すらも一歩、二歩退いて、視てみることだ。檀上伽藍に立っていると、そのことがよく分かる気がしてくる。何故か、ここに立っていると、己という存在が、
小さな小さなものに思えてくる。
高野山は、空海がマンダラの世界をこの世に現実化して見せるようとの意図(グランドデザイン)をもって建設したマンダラ都市と云われている。多くの人は、
根本大塔が、檀上伽藍の中心であると信じているが、私はそのように思わない。中心はそこかしこに遍在をする。すなわち、個別の伽藍が個を担いながら、檀上
伽藍全体で、大日如来の精神を伝えていると私は観じている。仮にこの檀上伽藍を生命力に溢れた「都市的世界」(眼で見える世界)であるとするならば、また
高野山には、奥の院というもうひとつの中心がある。そこは生命力に満ちあふれた感じを強く受ける檀上伽藍と違って、極めて静謐
で微細な感性を持ち、むしろ己の眼を閉じ心で観想するような「精神的世界」(心によって観える世界)ともいうべき聖域である。もっと云えば、それはこの世
とあの世をも暗示させ、そのふたつの中心世界は、蛇腹道という「道」を通じて結ばれているのである。
例えば、大乗の教えを端的に表したと云われる「般若心経」の構造をみれば、
経文自身に意味のある大半の部分と最後に「陀羅尼」(だらに)あるいは「真言」(しんごん)、「呪」(じゅ)などと表されるけっして訳さず音のみを発する
部分がある。有名な「ギャーティ、ギャーティ、ハーラー、ギャーティ・・・」というあのところである。原文を読み解けば、「行く者よ。彼岸に行く者よ。彼
岸にまったく行く者よ。覚りは、素晴らしい」というほどの意味になる。
この彼岸とは覚りの世界のことで必ずしも死者の行く浄土としてのあの世を意味するものではない。ブッダが自分の弟子(舎利子)
に、この世
の有り様を話して聞かせ、この世において覚りに至る道を説くのであるが、最後に弟子が修行を通して覚るにいたることを祈願し、あの「ギャーティ」で始まる
最後の「呪」をブッダが発した箇所なのである。空海には「即身成仏」の思想がある。これは多くの誤解を受けている言葉だが、簡単に云ってしまえば、この世
において覚りにいたる道(方法)をいうのである。したがって死者送りの葬送の御経と思われている「般若心経」同様に、生きとし生ける私たち命ある者のため
の教えなのである。
空海の入定伝説の根源には、この「即身成仏」という空海自身の「今を生きる」ということに、特にこだわった思想があるのではないかと思う。それによれば
「人は生きたまま、その身、そのままで覚りに至ることができる」と説かれている。空海の思想は、死者のための思想ではなく、生者がよりよく生を生きるため
の思想であった。まさにこれは空海革命とも云うべき方位逆転の発想があったと私はみる。何故ならば、彼岸とはそもそも西方にあると一般的に信じられている
が、高野山の彼岸は間違いなく東に位置する「奥の院」にある。空海は、高野山の方位を熟知しながら、おそらく空海がこの地を開く以前から、この周辺の住人
の聖地だった奥の院をそのまま活かす形で、西に目映いばかりの伽藍が点在する宗教都市の建設を思い描いたと思われる。
そう言えば、以前、高野山に住む人から聞いたことがある。
彼女はこのように云った。
「夜の夜中でも、ふと御大師さんに会いたくて奥の院に行きたくなることがあるんですよ。」
この言葉に、私ははっとした。
確かに、夜の墓場というものは、一般的に言えば怖くてしようがないが、高野山奥の院は、まったく違う感じがする。そこには死者を弔う卒塔婆が林立する薄暗
いところであるが、ひと度自分を空(むな)しくして、中に分け入り、「南無大師遍照金剛」と唱和すれば、いつ何時でも空海さんその人に会うことが可能なの
である。よくよく考えてみれば、奥の院は、生者がよく生きるために、空海の思想というものによって整えられた覚りを得るための秘なる場所なのである。
空海の著書に「般若心経秘鍵」(はんにゃしんぎょうひけん)というものがある。その中にこんな下りがある。
「顕密は人に在り。声字はすなわち非なり。然れども猶、顕が中の秘、秘が中の極秘なり。浅
深重重まくのみ」(宮坂宥勝 空海全集第二巻 P371所収)
それを宮坂宥勝氏は次のように訳している。
「顕
教と密教の相違は、受けとる側の人にあるものであり、経文の声字には相違ないのである。しかしながら、顕教の中の秘教、秘教の中の極秘の教えといったふう
に。浅い教えから深い教えへと、幾重にも教えが重なりあっているのである。」(前掲書 P372)
この空海の言を私なりに解釈すれば、般若心経の構造を語っているように見える。般若心経は、「顕」なる大半の部分と「秘」なる「呪」の部分に分かれる。
「秘」は意味があって意味がない。それは理性によって知る知恵ではなく、心によって知覚される智慧である。秘なるものを、理性で認識しようとする時、その
理解は「知ること」ではあっても、「覚ること」ではない。高野山のふたつの中心点もまたこれと同じ構造をもっているのである。
御影堂に行こうと思い立ち、そこで思いもかけず、堂の上に昇った月影を見たのであるが、その時、心の中で何かが目覚めるのを感じた。そして今、私は、今こ
そ徹底して他人のためにのみ生き抜いた人間空海その人から、よく生きるための深い智慧を学ぶ必要があると実感した。高野山は、日本人空海が、生命を削って
開いた人生の修行道場である。したがって、私たちが高野山に足を運ぶことの意味は、今だ奥の院に静かに座し続けると言われる空海の心に触れ、吐息を聴き、
人のために生きることの尊さを観じとることにあるのではないだろうか。
奥の院の二の橋を渡る頃、時間は午前10時28分を差し掛けていた。地蔵仏
を撮っていて、時を忘れてしまっていた。10時半になると、奥の院の御供所(ごくうしょ)の前にある「嘗試地蔵尊」(あじみじぞうそん)から、空海に膳が
運ばれることになっている。
もう時間がない。私はカメラなどを抱えながら、小走りになって嘗試地蔵の小さな堂の前に辿り着いた。すでに大勢の人が、カメラやビデオなどを抱えながら、
今や遅しと、膳の運ばれるのを待ちかまえていた。
「嘗試地蔵尊」の「あじみ」とは、文字通り「味を試す」ことであり、謂われは、「奥の院堂塔興廃記」によれば、空海の弟子であった「愛慢」と「愛語」とい
う二人が、「土佐から空海のお供をしてきたということで「土佐の国御厨ノ明神」(とさのくにのみくりやのみょうじん)と言われるようになったということで
ある。
またこの膳の奉仕が始まったのは、高野山が栄えるきっかけとなった藤原道長(968−1027)が高野山に参詣した治安3年(1023)年以来のことだそ
うだ。
膳は日に二度、奥の院の空海の御廟前にある拝殿(礼堂)に運ばれる。かつては朝の4時と6時であったが、今は時代に合わせて、それぞれ朝の6時と10時半
になっている。この膳を運ぶ職にある人は、特に「維那」(ゆいな)と尊敬を込めて呼ばれる。現在、この職をしているのは、仏教民俗学の学者でもある「日野
西眞定師」(1924ー )である。何度かお会いし、高野山と奥の院のことについてご教授をいただいているが、その深い見識と慈愛に満ちた眼差しは、世間
が生き仏と称するように、お会いするだけで、自然に頭が下がるようなお人である。
私自身、この朝の膳の儀式を拝見するのは3度目であるが、前回二度については、先達を務めたのは、日野西師ではなかった。今日は先生が役をされるというの
で、何としても拝見したかったのである。密かに胸の高鳴りを覚えた。それでもなかなか日野西師は現れない。ますます人が人を呼んで、奥の院の無明橋まで人
が溢れかえる有様だった。同行二人のお遍路姿の団体もいれば、駆け付けた観光客風の人もいる。銘々、手を合わせ、それぞれの感慨と祈りをもって、手を合わ
せている。師の登場を急かすように経を唱える者もいる。
時間にして10時45分頃、やがて維那さんが橙色の僧衣に、頭には白いストール風の布を頭に乗せ、厳かに登場された。嘗試地蔵の前に止まり、真言を唱え始
める。その真言は「おん・かかか・びさんまえい・そわか」である。これを七度唱える。これが「嘗試の儀礼」である。
この空海に対する膳の奉仕は、「奥院勤行之事」(おくのいんごんぎょうのこと)という指示書によって、微に入り細にわたって決まっているのだという。話し
によれば、朝には拝殿正面に顔を洗う水と手ぬぐいも用意され、朝の膳が終わると、その後にはお菓子を付けて抹茶があげられたりもするようである。
奥の院 拝殿 無明橋から
維那(ゆいな)が膳を運ぶ
(2007年1月27日 午前10時45分頃 佐藤弘弥撮影)
無明なる我を恥じ入る思いもて玉川越ゆる覚り得んとて
ひろや
さて嘗試地蔵の前には、日野西師の他に、若い僧が二人、現れ白木の平たい箱に天秤棒を通して、維那の後について、無明橋を渡り、拝殿に向かうのである。
日野西師は、道が人の群れによって塞がれているのを見て、「道を開けるように」と指示された。すると見物人たちは、たちまち左右に道を開け、維那の後に
従って拝殿を目指すのである。
奥の院 玉川の板卒塔婆 無明橋から
(2007年1月27日 午前10時45分頃 佐藤弘弥撮影)
かの人は玉
川映る満月に恋でもせしか流石西行 ひろや
無明橋まで行くと、どこからか、ここからは撮影はできませんと声がした。以前は撮影許可をもらっていたが、今回はそのような準備をしていなかったので、橋
の袂で、拝殿に向かう一行を静かに見送ったのである。そこから玉川を見ると、キラキラと光ものがある。それは祈りによって投げ入れられたコインであった。
その先には、無数の板卒塔婆が堰のようにして並んでいる。
その時、ふと西行法師のあの歌が浮かんできた。
こと
となく君恋渡る橋の上に争ふものは月の影のみ
(大意:何となく、奥の院の橋の上で月を見ていたあの時のことが思い出されて、貴方を
恋しく想いました。橋の上で色々な論争もしましたが、今は川面に映る丸い月だけが私の前にあるのです。)
それに対する返しの歌がある。
思い
やる心は見えで橋の上に争ひけりな月の影のみ
(大意:どうでしょうか。あの時には、私には貴方さまの私を思いやる心は少しも見えま
せんでした。橋の上での諍いが思い出されます。ですが、言い争うのはもう止めましょう。貴方さまの心には、お月さまがだけが気に「懸」かっているのでしょ
うから?)
この歌は男女の恋の歌のようにも見える。確かにこの二首は、名句とまでは言えないが、日本最大の墓所という奥の院のイメージを一変させるような
艶めかしさと生命力に満ちあふれた歌である。場面を現代とすれば、十分あり得る話しだ。まず二人の男女が、
満月が煌々と奥の院を照らす中を、奥の院の無明橋までやってくる。そこで、ふとしたきっかけで、橋の上か、橋の袂で諍(いさか)いが起こる。男は玉川に映
る月が気になってしょうがない。そこで男は、月に目をやりながら、「月が見てますからもう止しましょう」と言う。女の方は「あなたは私の話しより、月の方
が好きなのでしょう」などと言って、プイと横を向き、スタスタと宿に帰ってしまう。後には玉川に映る月と男が残される・・・。そん
なストーリーだ。こうなると不遜な話しだが、奥の院は、男女が恋のさや当てをする日比谷公園か北の丸公園のようなところにも思えて
くるのである。
もちろん西行法師の頃、男女がこの奥の院にやってくることはあり得ない。当時は女人禁制の高野山である。実
はこの歌のやり取りは、西行法師と今は京都に住んでいる先輩僧西住上人との間で取り交わされたものである。おそらく、西行が、先輩僧に対し、聖地という場
違いな場所で論争(あるいは判者のいない歌合のようなものか?)になってしまったことを詫びる気持ちで送った歌と思われる。しかも西行がそれを恋の歌にし
てにして送ったところが面白い。それにしても、恋の歌にして先輩僧に送る西行も西行ならば、それを受け女性らしいたおやかな筆致で返す西住上人という人物
の器量もすごいものだ。これが当時の日本人の心の豊かさとも受け取れるのである。
そんな八百数十年前の無明橋でのエピソードを思いながら、私は橋を渡り、空海への膳の奉仕が行われようとする拝殿に向かったので
あった。
奥の院 玉川の精妙なる流れ
(20064月18日 午前6時頃 佐藤弘弥撮影)
さ
らさらと乙女の柔き髪のごと高野流るるせせらぎの音 ひろや
拝殿で、維那は、膳を正面の空海の御廟に正対するように供え、座に就いて、三十分以上に渡って、経や真言を唱和するのである。最後まで、この模様を見続け
る人は、ほとんどいない。私は、ほの暗い拝殿で行われる神秘の儀式にすっかり身を委ねて拝み続けた。やがて、儀式が終わると、本当に雲が晴れたような清々
しい気持ちになった。拝殿の入口を出たところで、私が小さく「ご苦労様でございました。」と頭を下げると、一瞬、日
野西師は、こちらに眼差しを向けられたが、高野山の歴史や民俗について講義される学者の顔とは別人のようであった。何だか私は御仏そのものに出会ったよう
な気分になってしまった。