高野山の春

夜半の御影堂
佐藤弘弥

高野山 御影堂にかかる月

野 山檀上伽藍 御影堂
御影堂に大杉の木立から月光が洩れる
(2007年1月25日午後10時 佐藤弘弥撮影)

朧なる丸き月 影、御影堂の上に懸かりて微笑みてけり ひろや

 1 御影堂の月

早春の高野山に向かった。高野山で、「世界遺産フォーラム in 高野山」(
07年1月 26日高野町 高野山大学主催)という集まりがあるためである。今年の冬は暖冬ということで、来 る途中の紀ノ川沿いの山々は、すっかり春の山のようであった。しかしさすがに標高800mを越える高野山は、昼は温かくても、夜になると肌を刺すような寒 さだった。

そ れでも、フォーラム開催の前夜、打ち合わせの後、ふと御影堂(みえどう)を拝みたくなった。御影堂の名 称は、空海の肖像画が掲げてあったところからそのように命名されたものだ。周知のよう に、御影堂は高野山の聖地と言われる檀上伽藍の中でももっとも大切なところで聖地の中の聖地とも言うべき区域である。空海さんが高野山を開山する時、この 付近に居を構えて、苦労に苦労を重ねたとされる。空海さんは、思うように進展しない根本道場建設計画にそれこそ昼夜を分かたず全身全霊をもって取組だので あった。いったいこの熱意はどこから生まれてきたものなのか。

御影堂付近は、空海さんの汗と苦労が染みついているに違いない・・・。そんなことを思いながら、いざその場に立つと、寒さもあってか、ぶる、ぶるっと、震 えがきた。手を合わせ、御影堂を拝むと、今度はその美しい夜の景色に思わず息を呑むことになった。御影堂の西方にある西塔周辺の大杉の木陰から、春の月が ちらりとこちらを覗いている。まだ満月ほどには膨らんでいないのだが、ふっくらとしたおぼろな月が空海さんその人のお顔のようでもあり、観じるものがあっ た。

私はほとんど無意識に背中のザックにあるカメラを取り、三脚がないのも構わず、夢中でシャッターを切った。感度をかなり上げたが、後で見れば、檀上伽藍が ライトアップされているとは云え、夜10時を過ぎた深夜である。ほとんどが手ぶれで見れる代物ではなかったが、ほんの数枚、何とか見れるものがあって、カ メラに向かいありがとうと云った。

空海さんには、今でも奥の院の御廟で生きているという入定伝説がある。もしかすると、彼は1200年後の今日でもこの御影堂と蛇腹道を歩いて奥の院を行き 来し、生きとし生ける私たちに、智慧を授けるために何らかのメッセージを発し続けているのかもしれない・・・。

もちろん、私は真言宗の僧侶でも研究者でも信者でもない。ただ空海というひとりの人間が、己の命の危険も省みずに
海を渡り、世界最先端 の勉学を学び、師の教えに従って、その経典をこの高野山の地に封印するという大事業を成し遂げたということは知っている。その不撓不 屈(ふとうふくつ)の精神には脱帽する以外にはない。特に「三教指帰」(さんごうしいき。空海24才の作品)など若い頃の著作を読むと、空海が、人並み外 れた溢れかえる欲望(煩悩)を抱えていたことが分かる。しかしながら煩悩とは、本来「負」ではあるが「生命エネルギー」そのものであり、それを空海は 「正」なるエネルギーに変換する方法を心得ていた。常に空海は他者を利するために、そのエネルギーをつかった。空海は、いつも日本のため、師のため、真言 密教のため、自らの命の最後の一滴まで捧げ尽くした人であった。千二百年前 にあって、空海の思想は、極東の後進国日本を遙かに飛び越えて、世界精神の領域にまで飛翔した。これ はほとんど奇跡であった。何故そのようなことが可能だったのか。空海が天才だったからか。もちろんそれもあるだろうが、私はそれよりも、他者を利するとい う大乗仏教の教えに徹底して従った結果ではないだろうか。私の推量が当たっているという確証はない。しかし少なくても現代世界に おいて、仏教生誕の地インドにもそして空海その人が学んだ中国にも、真言密教の極意を伝える地は、この高野山以外になくなってしまっていることは事実であ る。何たる空海の先見性だろう。おそらく、空海は、己の溢れかえるような欲望を自らの学(真言密教)の力で徹底的に押さえ込み、そのエネルギーを世と他者 のために命を燃やし尽くす変換の方法を知っていた。言い換えれば、空海という人物は、他を利するという「大乗仏教」の大道を生きた「利他行」 の人であった。

鐘楼

野 山檀上伽藍 鐘楼堂
大塔を下から照らすライトは過剰気味?!
(2007年1月25日午後10時 佐藤弘弥撮影)


浅き春御影堂行けば空海の吐息聴こゆる月影の中 ひろや


ひるがえって、千二百年後の日本社会を観想してみる。他者を利するなど、今の日本のどこを 注目すれば、見つけられるのか。いささか心許ない気持ちになる。いつの間に か私たちの時代は、私利私欲 の塊のような餓鬼(がき)や魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類が大手を振って跋扈(ばっこ)するえげつのない世の中になってしまった。今や、日本人は、 ほんの些細なことで、この世にふたりといない愛する人を憎み、傷つけ、時には殺害に及ぶことすら珍しいことではなくなった。新聞の社会面を覗くと、親族間 の事件や考えられないような暗澹(あんたん)たる気持ちにさせられる事件が掲載されていない日は皆無と言ってよい。何故、そのような悲惨なことが連続して 起こってしまうのか。それは私利私欲の奴隷となった私たちが、まず自分の小さな世界のことを世界のすべてと思い込む勘違いから来ているのではないかと思 う。別の言葉で言えば、小さな世界でしかものを見ていない、ということである。世界は広く、宇宙は無限である。考え方を狭めずに、多様な価値観で、自分自 身すらも一歩、二歩退いて、視てみることだ。檀上伽藍に立っていると、そのことがよく分かる気がしてくる。何故か、ここに立っていると、己という存在が、 小さな小さなものに思えてくる。

高野山は、空海がマンダラの世界をこの世に現実化して見せるようとの意図(グランドデザイン)をもって建設したマンダラ都市と云われている。多くの人は、 根本大塔が、檀上伽藍の中心であると信じているが、私はそのように思わない。中心はそこかしこに遍在をする。すなわち、個別の伽藍が個を担いながら、檀上 伽藍全体で、大日如来の精神を伝えていると私は観じている。仮にこの檀上伽藍を生命力に溢れた「都市的世界」(眼で見える世界)であるとするならば、また 高野山には、奥の院というもうひとつの中心がある。そこは生命力に満ちあふれた感じを強く受ける檀上伽藍と違って、
極めて静謐 で微細な感性を持ち、むしろ己の眼を閉じ心で観想するような「精神的世界」(心によって観える世界)ともいうべき聖域である。もっと云えば、それはこの世 とあの世をも暗示させ、そのふたつの中心世界は、蛇腹道という「道」を通じて結ばれているのである。

例えば、大乗の教えを端的に表したと云われる「般若心経」の構造をみれば、 経文自身に意味のある大半の部分と最後に「陀羅尼」(だらに)あるいは「真言」(しんごん)、「呪」(じゅ)などと表されるけっして訳さず音のみを発する 部分がある。有名な「ギャーティ、ギャーティ、ハーラー、ギャーティ・・・」というあのところである。原文を読み解けば、「行く者よ。彼岸に行く者よ。彼 岸にまったく行く者よ。覚りは、素晴らしい」というほどの意味になる。

この彼岸とは覚りの世界のことで必ずしも死者の行く浄土としてのあの世を意味するものではない。ブッダが自分の弟子(
舎利子)に、この世 の有り様を話して聞かせ、この世において覚りに至る道を説くのであるが、最後に弟子が修行を通して覚るにいたることを祈願し、あの「ギャーティ」で始まる 最後の「呪」をブッダが発した箇所なのである。空海には「即身成仏」の思想がある。これは多くの誤解を受けている言葉だが、簡単に云ってしまえば、この世 において覚りにいたる道(方法)をいうのである。したがって死者送りの葬送の御経と思われている「般若心経」同様に、生きとし生ける私たち命ある者のため の教えなのである。

空海の入定伝説の根源には、この「即身成仏」という空海自身の「今を生きる」ということに、特にこだわった思想があるのではないかと思う。それによれば 「人は生きたまま、その身、そのままで覚りに至ることができる」と説かれている。空海の思想は、死者のための思想ではなく、生者がよりよく生を生きるため の思想であった。まさにこれは空海革命とも云うべき方位逆転の発想があったと私はみる。何故ならば、彼岸とはそもそも西方にあると一般的に信じられている が、高野山の彼岸は間違いなく東に位置する「奥の院」にある。空海は、高野山の方位を熟知しながら、おそらく空海がこの地を開く以前から、この周辺の住人 の聖地だった奥の院をそのまま活かす形で、西に目映いばかりの伽藍が点在する宗教都市の建設を思い描いたと思われる。

そう言えば、以前、高野山に住む人から聞いたことがある。
彼女はこのように云った。
「夜の夜中でも、ふと御大師さんに会いたくて奥の院に行きたくなることがあるんですよ。」
この言葉に、私ははっとした。

確かに、夜の墓場というものは、一般的に言えば怖くてしようがないが、高野山奥の院は、まったく違う感じがする。そこには死者を弔う卒塔婆が林立する薄暗 いところであるが、ひと度自分を空(むな)しくして、中に分け入り、「南無大師遍照金剛」と唱和すれば、いつ何時でも空海さんその人に会うことが可能なの である。よくよく考えてみれば、奥の院は、生者がよく生きるために、空海の思想というものによって整えられた覚りを得るための秘なる場所なのである。

空海の著書に「般若心経秘鍵」(はんにゃしんぎょうひけん)というものがある。その中にこんな下りがある。
「顕密は人に在り。声字はすなわち非なり。然れども猶、顕が中の秘、秘が中の極秘なり。浅 深重重まくのみ」(宮坂宥勝 空海全集第二巻 P371所収)

それを宮坂宥勝氏は次のように訳している。
「顕 教と密教の相違は、受けとる側の人にあるものであり、経文の声字には相違ないのである。しかしながら、顕教の中の秘教、秘教の中の極秘の教えといったふう に。浅い教えから深い教えへと、幾重にも教えが重なりあっているのである。」(前掲書 P372)

この空海の言を私なりに解釈すれば、般若心経の構造を語っているように見える。般若心経は、「顕」なる大半の部分と「秘」なる「呪」の部分に分かれる。 「秘」は意味があって意味がない。それは理性によって知る知恵ではなく、心によって知覚される智慧である。秘なるものを、理性で認識しようとする時、その 理解は「知ること」ではあっても、「覚ること」ではない。高野山のふたつの中心点もまたこれと同じ構造をもっているのである。

御影堂に行こうと思い立ち、そこで思いもかけず、堂の上に昇った月影を見たのであるが、その時、心の中で何かが目覚めるのを感じた。そして今、私は、今こ そ徹底して他人のためにのみ生き抜いた人間空海その人から、よく生きるための深い智慧を学ぶ必要があると実感した。高野山は、日本人空海が、生命を削って 開いた人生の修行道場である。したがって、私たちが高野山に足を運ぶことの意味は、今だ奥の院に静かに座し続けると言われる空海の心に触れ、吐息を聴き、 人のために生きることの尊さを観じとることにあるのではないだろうか。



朝の檀上伽藍


高野山の夜明け 六時の鐘の下より



高野山の 夜明け 六時の鐘の下から
(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

2 根本大塔を照らす朝日

1月26日の「世界遺産フォーラム in 高野山」(高野山大学 松下講堂)は、
日 本中から「世界遺産」に関わる関係者や団体、市民が450人も集まり成功裏 に終わった。このことは、「世界遺産」という言葉が、様々な意味で現代を解く重要な「キーワード」となりつつあることを感じさせた。

その夜は、私自身、知的な興奮もあったのか、なかなか寝付けず、少しうとうとしたが、眠ろうと目を瞑ると、次々と光のようなイメージが現れ交錯しまた現れ るという具合であった。一種の至高体験だったのかもしれない。そしてとうとう4時過ぎには起きてしまった。思いは、早く6時からのお勤めを済ませて朝食を 取り、朝日に輝く檀上伽藍の根本大塔を見たいという気持ちでいっぱいになった。

蛇腹道から西塔、根本大塔を拝む

早朝 蛇 腹道から西塔、根本大塔を拝む
(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

眠られず朝を迎えて白い息吐きつつ高野蛇腹道行く ひろや

泊まりの宿坊は高野山大学のすぐ東隣に位置する安養院(あんにょういん)というところだった。かつてこの寺は「金剛三 昧院」の別院であったようである。毛利元就(1497-1571)との奇縁が生じ、その孫の輝元(1553-1625)の代に、「毛利家宿坊」の一札をも らい、以後毛利家の菩提所となったと伝えられる。本堂には毛利家代々の位牌が並び中央には御本尊の大日如来が鎮座している。

本堂でのお勤めの6時まではかなりあるが、身繕いを整えて、大日如来との対面を静かに待った。この仏は木造の大日如来坐像で国指定の重要文化財とのことで ある。高野山というところは、まさに歩けば文化財に当たるようなところがある。宿坊の掛け軸やふすま絵はもちろんのこと欄間(らんま)や梁(はり)に至る まで、よく見ると文化財の指定を受けていないものでも「これは文化財だろう?」と言いたくなるようなものがざらにある。

6時少し前に行くと、大きなストーブがあって、勢いよく燃えてはいるが、何しろ高野山の1月の事である。底冷えがして、皆ストーブの方から席が埋まって いった。その数はざっと30名ほど、狭い堂内はそれでも冷え冷えとしている。薄暗い堂内いっぱいに、若い僧侶の読経の声が響き渡った。私はその声に揺蕩 (たゆた)うように身を委ねながら、寒いという現実から意識を遠ざけた。それから40分ばかり、一通り、作法に従って、理趣経から般若心経に至るまで、最 後には毛利家代々の慰霊までを勤め上げ、法話となった。

きっと若い僧侶も、1月の27日の早朝に、全国から集まった「世界遺産関係者」の気持ちに思うことがあったのだろう。7時の朝食ギリギリまで法話は続い た。

質素な朝食を頂くと、荷物は寺に預けて、小田原通りに出る。金剛峯寺、六時の鐘を過ぎ、蛇腹道を檀上伽藍に向かった。高野山の朝の空気は特別に美味い。清 々しいその空気を腹一杯に吸い込むと、遠くに木立の間から顔を覗かせる根本大塔が見えた。

朝日に映える根本大塔

朝日に映 える根本大塔
(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

高野山の天候は、やはり山岳であるから、さっき青空だったものが、俄にかき曇って大雨となることもある。逆に、いきなり雨が上がって太陽が顔を出すことも ある。年に150日は雨が降るという高野山は、まさに龍が住むところなのである。つづく

鐘楼と金堂(講堂)

鐘楼と金 堂
(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)


金剛三昧院

金剛三昧院の老桜と多宝塔

金剛三昧院 
老桜の先に見える北条政子奉納の多宝塔
(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

やすらけく吾子よ眠れと祈り込め北条政子興す古寺に立つ  ひろや


3 金剛三昧院と北条政子の愛惜

高野山に金剛三昧院という寺がある。 これまで縁がなく、今回2007年1月27日、初めて参詣することができた。金剛峯寺から奥の院に続く道を途中で右に折れて、三分ほどなだらかな道を登る と、左右に金剛三昧院の門柱が立っている。そこから更に100mばかりなだらかな坂道を行くと、白い塀に囲まれた山門に来る。入った瞬間、何かとても温か いものに包まれるような気がしてきた。

この寺は、あの北条政子(1157−1225)によって建てられたものである。建立のきっかけは、鎌倉三代目の将軍であった次男実朝の死であった。実朝の 冥福を祈るというその思いが、800年後の今日にも寺のそこかしこに染みこんでいるのを感じた。もちろん高野山は明治期まで女人禁制であるから、熊野参詣 に二度紀州に足を運んだものの、この寺に政子が訪れることは叶わなかった。もしかすると、高野山の政所であった慈尊院に詣で、そこから町石道を辿って女人 堂に至り、高野山をぐるりと廻る女人道を巡礼して、自らの建立したこの金剛三昧院を遠くから眺めたのだろうか。ともかく、政子は鎌倉から遙か離れた高野山 の地に救いを求めたのであった。

金剛三昧院 山門

金剛三昧院 山門
(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

一般的に、北条政子というと、夫の頼朝を尻に敷く猛女のイメージがある。「尼将軍」などという、政子にすれば実に有り難くない言われ方もする。 おそらく、中世の時代、政子や静に代表されるような、自分を主張するような女性がけっこういたのであるが、徳川の時代となると、女性たちは大奥に押し込め られていくような風潮になり、また頼朝贔屓の家康の思いもあったのか、鎌倉の女帝のイメージを付与された政子は、一身に嫌われ者の役割を担わされてきたの かもしれない。しかし歴史の真実を丹念に洗い直し、政子という女性の一生を考えた時、そこにはまったく別の優しい女性が浮かび上がってくるのである。

まず吾妻鏡から比較的知られている静御前とのエピソード(文治二年四月八日)
がある。静が吉野山で、義経とはぐれた後に吉野の衆徒 によって捕縛され、鎌倉に護送されてきた時、静は義経の子供を孕んでいたのだが、頼朝は嫌がる静を無理矢理公衆の面前に引きずり出して、舞を舞わせたこと があった。その時、静は気丈にも義経を慕う歌を堂々と口ずさみながら鶴岡八幡宮の舞殿で舞ったのである。頼朝は頭に血が上って激怒する。それを気持ちは分 かると、真っ先に頼朝を諫め静をかばったのは、他ならぬ政子だった。静はその後、男子を産み、その子は取り上げられて、由比ヶ浜の浦に殺されてうち捨てら れた。その後、静は放免されるのであるが、ねんごろに傷心の静を慰め、身の回りの物や路銀を与えたのも、政子であった。また吾妻鏡(建保元年4月4日の 条)には、政子の枕辺に甲冑姿の法師が立ったのを、奥州の中尊寺金色堂に眠る藤原秀衡の霊と看過すると、直ちに陰陽師を呼び寄せ、廟堂である「金色堂が荒 れ果てていて、これを修復してほしい」との亡き秀衡のお告げとして、今日まで遺る鞘堂(さやどう)を金色堂を包むように造らせたこともあった。

多宝塔

多宝塔 
北条政子奉納の多宝塔
(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

やすらけく吾子よ眠れと女人道巡る政子の声風と吹く  ひろや

彼女の一生は、わが子との縁に恵まれない悲しい人生だった。長男頼家は修善寺に幽閉された挙げ句謀殺された。享年は23才である。次男実朝は、西行や定家 に認められるほど才能豊かな歌人であったが、三代将軍就任すると、兄頼家の息子の公暁(くぎょう)によって暗殺されてしまう。享年27才。長女大姫は、木 曾義仲の長男義高の元へ嫁いだものの義高は夫頼朝の命によって殺されてしまい、ひとり鎌倉に戻った彼女であったが、今度は父頼朝の政略によって公家の一条 家への再嫁話しが持ち上がる。深く心を傷つけられた大姫は、儚くも二十才の短い人生を終えてしまうのであった。次女乙姫(享年15才または17才と言われ る)もまた夫頼朝の死後、間もなくあの世に旅立ってしまい、政子は悲嘆にくれるばかりであった。政子はこうしたこともあって、深く仏教に帰依したのであろ う。

本堂

金剛三昧 院 本堂
運慶作 愛染明王蔵鎮座
(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

女人道辿る政子は今も尚「愛別離苦」の苦の坂をゆく   ひろや

金剛三昧院の奥に構える本堂には仏師運慶作のご本尊「愛染明王像」が安置されてい る。愛染明王は、人間の愛欲を浄化し覚りに導く明王と言われ、人々が仲よく和合することを願う「敬愛法」の本尊である。この愛染明王をご本尊としたことひ とつを考えても、権力に上り詰めながら、薄幸のまま次々とわが子を失った母政子の悲痛がひしひしと伝わってくるというものだ。瀟洒なイメージがする校倉造 りの経蔵は、檜皮葺の屋根が苔むし、堂の外に塗られた朱色がほどよく剥落し鄙びた美しさを醸し出している。ここには政子直筆の文書も遺されている。多宝塔 は、歳月を感じさせ、高野山の中でも指折りの風情を持つ建物である。多宝塔としては、新義真言宗の総本山根来寺の塔の次に古い建物と言う。またこの寺に は、樹齢にして四百年と言われる石楠花(しゃくなげ)があり、春の花の時期には、人で溢れかえるのである。私は樹皮に苔のある老桜の佇まいが気になった。 特に花の頃、奥に多宝塔を配置した風情が脳裏に湧き、桜の時期に是非来てみたいと思った。

経蔵

金剛三昧院 経蔵
北条政子直筆の文書収蔵
(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

北条政子の母の愛を思いながら、実朝に注がれた政子の愛の深さが偲ばれた。おそらく、この寺に入って、母の腕の中にいるような心地よさを感じたのは、政子 の思いが未だこの寺を包んでいるからだろう。

世に「実朝忌」というものがある。これは実朝が暗殺された1月27日(旧暦)を忘れぬように故人を偲ぶ日で、俳句においては春の季 語ともなっている。今は毎年2月27日に催されるのであるが、私が初めてこの寺に訪れた日が、新暦とは言え、2007年1月27日というのも、不思議な巡 り合わせを思わずにはいられなかった。


実朝の母の造りし古寺に来て深き悲しみひしひしとくる ひろや



奥の院の地蔵仏

奥の院の御地蔵様

奥の院 参道
そこかしこ
にお 地蔵さんが居る

(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

生きる我死せる我あり奥の院地蔵仏に込められしもの ひ ろや



4 奥の院の地蔵仏に想う

金剛三昧院を後にして、御殿川に沿って西に続く小田原通りを行く。やがて奥の院の一の橋に辿り着く。この橋を渡ると、別世界となる。ここには富める人から 貧 しい人まで、日本中のあらゆる階層の人々が、静かに眠るところである。その奥には、今だ生けるがごとき姿で禅定に入っていると信じられている御廟がある。 一の橋から御廟まではおよそ2キロの道程である。

奥の院は、巨大なお墓である。杉木立の巨木が狭い参道の両脇に並び、奥の院の御廟に向かって延々と続く。杉木立は昼でも暗く、かつて生者だった人々が石と なって、無言のまま立っている。ふと道端を見ると、そこかしこに小さな石の地蔵仏が立ったり、坐ったり、横になったり、あるいは杉の根元に寄りかかるよう に並んでいる。大抵は赤の前掛けをしているが、色は様々である。二体一対のものが多いのも特徴だ。道祖神と関係があるようなイメージもある。それよりも、 私は「こけし」と似ているなと感じた。

同 御地蔵様

奥の院 参道
高野まきとお地蔵さん

(2007年1月27日 佐藤弘弥撮影)

この地蔵、子を亡くしたる父母が吾子を浄土と祈りたる石 ひ ろや

「こけし」は「子消し」ともされ、昔子供を人工流産(まびきと言った)せざるを得なかったり、あるいは不慮の事故や病で亡くなったわが子の霊を弔うため に、作られたものである。特に昔は、医療の不備もあり、大人になる前に、他界する子供たちが多くいた。親たちは、その子の哀れな境遇を愛おしむようにし て、地蔵仏を作り、骨や遺髪などとと共に、高野山まで担ぎ上げて、奉納をしたものだろう。体を壊して自分で高野山にこれない人たちは、高野聖(こうやひじ り)と言われる僧侶に思いを託して、、亡くなった身内の骨や小さな地蔵仏をこの奥の院に奉納したものと考えられる。

高野聖たちは、日本中を回り、高野山の功徳を熱っぽく語り、奥の院と地方を往来したのである。この奥の院の周辺には、高野聖たちが庵を結び、宿坊を建てて いて、中世の頃には、奥の院の参道の至るところから、線香の臭いと、経を唱える声が響いていたということである。参道のそこかしこに並ぶ地蔵仏は古いもの だが、毎年新しい前掛けに般若心経や念仏を書き入れ、先祖代々大切に守ってきたものを、次の代に伝える人もいるのだろう。日本人の素朴な宗教観が、この地 蔵仏の佇まいの中に顕れていて、とても美しいものだと感じた。



奥の院 空海の膳

空海に毎日二度運ばれる膳の儀式

奥の院 無明橋前 
生きる空海には毎日二度膳が運ばれる

(2007年1月27日 午前10時45分頃 佐藤弘弥撮影)

 祈りとは想ふことかな空海が生き生き生きて我らを見つと  ひろや

5 奥の院 空海の膳
奥の院の二の橋を渡る頃、時間は午前10時28分を差し掛けていた。地蔵仏 を撮っていて、時を忘れてしまっていた。10時半になると、奥の院の御供所(ごくうしょ)の前にある「嘗試地蔵尊」(あじみじぞうそん)から、空海に膳が 運ばれることになっている。

もう時間がない。私はカメラなどを抱えながら、小走りになって嘗試地蔵の小さな堂の前に辿り着いた。すでに大勢の人が、カメラやビデオなどを抱えながら、 今や遅しと、膳の運ばれるのを待ちかまえていた。

「嘗試地蔵尊」の「あじみ」とは、文字通り「味を試す」ことであり、謂われは、「奥の院堂塔興廃記」によれば、空海の弟子であった「愛慢」と「愛語」とい う二人が、「土佐から空海のお供をしてきたということで「土佐の国御厨ノ明神」(とさのくにのみくりやのみょうじん)と言われるようになったということで ある。

またこの膳の奉仕が始まったのは、高野山が栄えるきっかけとなった藤原道長(968−1027)が高野山に参詣した治安3年(1023)年以来のことだそ うだ。

膳は日に二度、奥の院の空海の御廟前にある拝殿(礼堂)に運ばれる。かつては朝の4時と6時であったが、今は時代に合わせて、それぞれ朝の6時と10時半 になっている。この膳を運ぶ職にある人は、特に「維那」(ゆいな)と尊敬を込めて呼ばれる。現在、この職をしているのは、仏教民俗学の学者でもある「日野 西眞定師」(1924ー )である。何度かお会いし、高野山と奥の院のことについてご教授をいただいているが、その深い見識と慈愛に満ちた眼差しは、世間 が生き仏と称するように、お会いするだけで、自然に頭が下がるようなお人である。

私自身、この朝の膳の儀式を拝見するのは3度目であるが、前回二度については、先達を務めたのは、日野西師ではなかった。今日は先生が役をされるというの で、何としても拝見したかったのである。密かに胸の高鳴りを覚えた。それでもなかなか日野西師は現れない。ますます人が人を呼んで、奥の院の無明橋まで人 が溢れかえる有様だった。同行二人のお遍路姿の団体もいれば、駆け付けた観光客風の人もいる。銘々、手を合わせ、それぞれの感慨と祈りをもって、手を合わ せている。師の登場を急かすように経を唱える者もいる。

時間にして10時45分頃、やがて維那さんが橙色の僧衣に、頭には白いストール風の布を頭に乗せ、厳かに登場された。嘗試地蔵の前に止まり、真言を唱え始 める。その真言は「おん・かかか・びさんまえい・そわか」である。これを七度唱える。これが「嘗試の儀礼」である。

この空海に対する膳の奉仕は、「奥院勤行之事」(おくのいんごんぎょうのこと)という指示書によって、微に入り細にわたって決まっているのだという。話し によれば、朝には拝殿正面に顔を洗う水と手ぬぐいも用意され、朝の膳が終わると、その後にはお菓子を付けて抹茶があげられたりもするようである。


奥の院の無明橋(御廟橋)

奥の院 拝殿 無明橋から 
維那(ゆいな)が膳を運ぶ

(2007年1月27日 午前10時45分頃 佐藤弘弥撮影)

無明なる我を恥じ入る思いもて玉川越ゆる覚り得んとて   ひろや

さて嘗試地蔵の前には、日野西師の他に、若い僧が二人、現れ白木の平たい箱に天秤棒を通して、維那の後について、無明橋を渡り、拝殿に向かうのである。

日野西師は、道が人の群れによって塞がれているのを見て、「道を開けるように」と指示された。すると見物人たちは、たちまち左右に道を開け、維那の後に 従って拝殿を目指すのである。



奥の院 玉川の板卒塔婆 無明橋から 

(2007年1月27日 午前10時45分頃 佐藤弘弥撮影)

かの人は玉 川映る満月に恋でもせしか流石西行 ひろや

無明橋まで行くと、どこからか、ここからは撮影はできませんと声がした。以前は撮影許可をもらっていたが、今回はそのような準備をしていなかったので、橋 の袂で、拝殿に向かう一行を静かに見送ったのである。そこから玉川を見ると、キラキラと光ものがある。それは祈りによって投げ入れられたコインであった。 その先には、無数の板卒塔婆が堰のようにして並んでいる。

その時、ふと西行法師のあの歌が浮かんできた。

こと となく君恋渡る橋の上に争ふものは月の影のみ
(大意:何となく、奥の院の橋の上で月を見ていたあの時のことが思い出されて、貴方を 恋しく想いました。橋の上で色々な論争もしましたが、今は川面に映る丸い月だけが私の前にあるのです。)

それに対する返しの歌がある。
思い やる心は見えで橋の上に争ひけりな月の影のみ
(大意:どうでしょうか。あの時には、私には貴方さまの私を思いやる心は少しも見えま せんでした。橋の上での諍いが思い出されます。ですが、言い争うのはもう止めましょう。貴方さまの心には、お月さまがだけが気に「懸」かっているのでしょ うから?)

この歌は男女の恋の歌のようにも見える。確かにこの二首は、名句とまでは言えないが、日本最大の墓所という奥の院のイメージを一変させるような 艶めかしさと生命力に満ちあふれた歌である。場面を現代とすれば、十分あり得る話しだ。まず二人の男女が、 満月が煌々と奥の院を照らす中を、奥の院の無明橋までやってくる。そこで、ふとしたきっかけで、橋の上か、橋の袂で諍(いさか)いが起こる。男は玉川に映 る月が気になってしょうがない。そこで男は、月に目をやりながら、「月が見てますからもう止しましょう」と言う。女の方は「あなたは私の話しより、月の方 が好きなのでしょう」などと言って、プイと横を向き、スタスタと宿に帰ってしまう。後には玉川に映る月と男が残される・・・。そん なストーリーだ。こうなると不遜な話しだが、奥の院は、男女が恋のさや当てをする日比谷公園か北の丸公園のようなところにも思えて くるのである。

もちろん西行法師の頃、男女がこの奥の院にやってくることはあり得ない。
当時は女人禁制の高野山である。実 はこの歌のやり取りは、西行法師と今は京都に住んでいる先輩僧西住上人との間で取り交わされたものである。おそらく、西行が、先輩僧に対し、聖地という場 違いな場所で論争(あるいは判者のいない歌合のようなものか?)になってしまったことを詫びる気持ちで送った歌と思われる。しかも西行がそれを恋の歌にし てにして送ったところが面白い。それにしても、恋の歌にして先輩僧に送る西行も西行ならば、それを受け女性らしいたおやかな筆致で返す西住上人という人物 の器量もすごいものだ。これが当時の日本人の心の豊かさとも受け取れるのである。

そんな八百数十年前の無明橋でのエピソードを思いながら、私は橋を渡り、空海への膳の奉仕が行われようとする拝殿に向かったので あった。

奥の院 玉川の流れ

奥の院 玉川の精妙なる流れ 

(20064月18日 午前6時頃 佐藤弘弥撮影)

さ らさらと乙女の柔き髪のごと高野流るるせせらぎの音 ひろや
 

拝殿で、維那は、膳を正面の空海の御廟に正対するように供え、座に就いて、三十分以上に渡って、経や真言を唱和するのである。最後まで、この模様を見続け る人は、ほとんどいない。私は、ほの暗い拝殿で行われる神秘の儀式にすっかり身を委ねて拝み続けた。やがて、儀式が終わると、本当に雲が晴れたような清々 しい気持ちになった。拝殿の入口を出たところで、私が小さく「ご苦労様でございました。」と頭を下げると、
一瞬、日 野西師は、こちらに眼差しを向けられたが、高野山の歴史や民俗について講義される学者の顔とは別人のようであった。何だか私は御仏そのものに出会ったよう な気分になってしまった。


2007.01.28-   佐藤弘弥

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