内談義のこと

高野山と空海へのオマージュ


ー高野山と西行ー

佐藤弘弥

高野山 根本大塔

高 野山 根本大塔
2005年7月15日 佐藤撮影 西塔脇から

【美しきもの 其の一 根本大塔と地主神】

心のすさみきった人間を象徴するようなニュースを見るにつけて、美しいものがむしょうに見たくなった。

その時、心にふと浮かんだのが、高野山壇上伽藍の美しい景色であった。高野山は空海が考える密教世界(曼荼羅)の具現化と一般には考えられている。

しかし実は、そうとばかりは言えない。高野山には開創者空海によって仕掛けられた日本文化の精髄(せいずい)ともいうべき暗喩(メタファー)が隠されてい る・・・。

空海は高野山を開く時、今「壇上伽藍」と呼ばれる一角に、まず最初に神域を結界(聖域として区画を切ること)した。空海は高野山の地の神様である丹生津姫 とその息子の高野明神の二神のお社を建設してこれをお祀りしたのである。

今でも壇上の西端にはそのお社が美しい姿で並んでいる。そしてその前には、山王院という遙拝所(拝殿)が設けられている。

神仏混交という日本文化の根幹に関わる考え方がある。空海は密教の大天才と言われているが、実は日本文化を基盤において、その上に密教の体系を構築したの である。何も新しい密教を絶対として古き伝統の神を排除したのではない。

日本の文化の根底には、神と仏の文化があやなす縄のようにして存在する。これは聖徳太子が唱えた「和」の伝統を空海が受け継いだという意味がある。連綿と 伝わっている日本精神が高野山にはひっそりと息づいている。壇上伽藍の美しい佇まいを見ながら、浮き世の醜い喧騒を少しばかり脳裏の遠くに押しやった気が した。


空海の造りし美社(みやしろ)想ひつつ俗世の煩 ひ水と流せり


高野山 金剛峯寺

高野山 金剛 峯寺
2005年7月15 日 佐藤撮影 内談義の朝

【美しきもの 其の二 西行の心を伝える「内談義」】

「内談義」(うちだんぎ)という儀式が高野山に伝わっている。例年七月半ば、季節は初夏であるが、その儀式は氷が張りつめるような厳粛な空気の中で執り行 われる。

内談義の由来は、西行法師(1118−1190)が、高野山内の紛争(本寺派と伝法院派)を鎮めるために、はじめたと言われている。高野山諸堂建立記によ れば、西行は亀裂の入った高野山をひとつにするために、壇上伽藍に、自ら先頭に立って蓮華乗院を移築し、ついにこの蓮華乗院の中に、双方の学僧たちを集め て、空海の最高傑作「秘密曼荼羅十住心論」の論議を行ったとされる。内談義が象徴していることは、学のあり方である。もっと云えば学とか問答とは、喧嘩で はない。真摯に互いの違いを認め合い、互いの相違を認め合いながら学問的に競い合うことである。ここにも、聖徳太子が唱和し、空海が受け継いだ「和」の思 想が受け継がれていることを強く感じる。

西行法師は、現在の和歌山県那賀郡打田町で「田仲の庄」の領主の家の長男として生まれた。名を佐藤義清と云った。先祖はあの平将門の乱を鎮めた藤原秀郷で ある。父佐藤庸清は、豊かな資金力を背景に、若き息子を鳥羽上皇の身辺警護任を務める「北面の武士」として送り込んだ。父はおそらく息子の出世に大いなる 名誉を感じていたに違いない。しかし西行は、23歳の時、突如として妻子を振り捨てて、出家をしてしまう。その原因は歴史の謎となっている。ある者は、や んごとなき女性との道ならぬ恋があったのではといい。ある者はその説をエスカレートさせて女院との不倫が背後にあったというが、直なところ、確証はない。

ともかく、西行は、すべてを捨て去って、遊行僧となり、日本第一の国民歌人と呼ばれるようになった。出家以降、西行は三十年以上にも渡って高野山に庵を設 け修行に励んだとされる。この西行について、仏教民俗学の五来重氏は、「高野聖」ではなかったか、との説を出しておられる。


二〇〇五年七月一五日、高野山の金剛峯寺で、恒例の内談義が開催された。

早朝から金剛峯寺の山門は、塵ひとつないほど掃き清められている。午前九時、金剛峯寺中門の門前には手水が添えられ、ここをくぐる者は、手に水を注ぎ、心 を虚しくして、門をくぐる。秀吉が寄進したといわれる本堂が巨大な鳳凰が天に羽ばたくように聳えている。

一瞬、安土桃山様式の建築物(金剛峯寺)の豪奢な甍に目を奪われた。本殿に通じる長い参道の右脇には「安立所」(あんりゅうじょ)が設えられている。そこ は朱色の大傘が立ち、「読師」と呼ばれる墨染め僧衣に白い袈裟を着けた僧侶と稚児姿の童子が烏帽子の緒を凛々しく締めて、本殿広間上座に置かれた香炉への 火取りの合図を待っている。香炉の置かれた机の背後には、この儀式一切を仕切る学頭席が設けられ、学頭がやっくるのを今や遅しと待っている。

「お役人お揃いですか」と、やや小さく学僧の声。香炉への火取り役の僧侶だ。
「揃いました」と大きな声が本殿いっぱいに響き渡る。
それを待って学頭が席に着き、香炉に火が入れ、一連の「御論議」と呼ばれる問答が開始される。

問答は、密教の教典などから取られたお題が、問者と答者との間で丁々発止で繰り広げられ、その後にその談義に対して、「読書」と「学頭」が順に評を述べ る。西行の時代には、談義のお題は、アドリブでなされたとされるが、現在は残念ながら、古い台本に従って声明のような抑揚の古文調で問答が本堂中を声の シャワーで満たすのである。これを聞いていると、直ちに意味は理解できないのだが、何とも言えない心地よい気持になってくる。

やがて初夏の日の光が高野山の中天に懸かる頃、内談義の儀は終わる。

西行が「内談義」を開催した「和」の心に想いを馳せながら、にじみ出た汗が、高野山の涼風で乾かされるのを感じた。


 学とはな互ひの立場認めつつ差異を埋めるこころなりけり


勧学院脇から見る根本大塔

根本 大塔 勧学院脇から
2005年7月15 日 佐藤撮影

【美しきもの 其の三 奥の院の静けさ】

高野山には、ふたつの聖域がある。ひとつは中門から入って金堂(講堂)根本大塔などの伽藍が拡がっている壇上伽藍と呼ばれる区域。もうひとつは、一の橋か ら中の橋、御廟橋、そして空海の御廟(墓)と約二キロに渡って続く奥の院である。高野杉と呼ばれる杉の木立がどこまでも続く奥の院の道を歩くだけで、心の なかにある神仏に対する畏敬の念は否応なく、わき上がってくる。周辺には、およそ二十万とも二十五万ともいわれる墓標が立っている。これほどの規模の霊場 というものは世界に類例がないもので、山岳霊場高野山の面目躍如の感がある。

いったい空海は、どんな考えをもって、このふたつの聖域を持つ山岳霊場高野山を開いたのか。空海は、弘仁7年(816)6月19日、 嵯峨天皇にこのような内容の文を奏上した。

「(前 略)中国の五台山には修行僧が肩を並べて国のため、民のために修行に励んでおります。残念なのは我が国において、入定修行に相応しい場所がありません。こ の空海が少年の頃、山水を歩き回っていたことがありました。その時、紀伊の国の伊都郡に高野という地がありました。四面が高峰に囲まれ、人跡未踏の勝地で あります。この地を修行の場所として、一院を建立し、国のため、民のために励みたいと思います。願わくば、この勝地を開くことをご承知いただければ、この 空海昼夜怠ることなく修業に励みたく存じ上げます。沙門空海 謹んで申しあげます。」(佐藤意訳)

空海は上奏文のなかで「入定」という言葉を使用している。真言密教で「入定」という場合、特別な意味合いになる。それは「空海 入定伝説」というものから来る意味合いの転換である。本来「入定」とは「禅定」と同じ意味を持ち、座禅をして、三昧(無我の境地)の心境に至ることを意味 する。上の文の中で空海が記している「入定」もまたそのことだ。ところが今日の一般に考えられる「入定」は、空海が奥の院の御廟において、即身成仏をし、 禅定に入っていることを意味するのである。もっと分かり易く云えば空海は奥の院で生きているということなのである。座禅修業をして無我の心境になる入定な る言葉が、何故に空海の死とすり替えられて生きると同義語にされてしまったのか。その辺りに山岳宗教都市高野山隆盛の秘密がありそうだ。

ともかく、高野山奥の院において空海は、その身そのままの姿で禅定に入っていると信じられている。そのため、今でも、空海には日に二度、お膳が供えられ る。寺伝によれば、この習慣は、藤原道長が高野詣を行った治安元年(1023)から継続されているとのことである。ざっと考えれば、千年に渡って空海は朝 に夕なに食をはんでいることになる。もちろん亡くなった人が生きていることはない。しかし空海が入定している奥の院は、この「空海入定伝説」によって、日 本人の琴線に触れる特別の聖地(霊場)になるに至ったのである。云うならば、高野山は日本人の魂の故郷のようなものであろうか。


御廟橋の袂から

御廟橋の袂から
玉川に立てられた板卒塔婆
2005 年4月 佐藤撮影

古来より日本には、山岳信仰(狭義の意味では「山中他界信仰)というものがある。これは山には神が宿り、祖先の御霊もまた山に帰ってゆくという体系化され ない素朴な自然への信仰である。若い頃、空海自身が山岳修行者として、日本中の高山を歩いていたという話がある。その時に高野山にも訪れていたのであろ う。このことからも、空海が高野山を開いた背景には、最新の宗教である密教を導入しようとする意図と同じくらい、彼の中に存在する山岳信仰というものが働 いていたことを感じるのである。

つまり空海は、ふたつの思いがあって、この高野山を開いたのであろう。第一には、俗世の塵に浸食されることのない聖域を設けて、その地で密教修行の根本道 場を起こしたいという思い。第二には高野山を自分の死に場所にするという思いである。先に、空海の死後、「入定」という意味が、転換されて、空海が生きて いるという「入定伝説」を生んだことを説明した。おそらく、空海入定伝説は、空海自身が意図したことではなかったと思われる。

人の気持ちというものは面白い。空海の死後、空海と共に高野山で眠りたい。あるいは自分の肉親や祖霊を空海の眠る高野山奥の院という霊場に納めたいという 思いが、貴賤を問わず、高野山奥の院に、どんどんと身内の骨や髪の毛を運ぶことようになった。高野山には、「骨(こつ)のぼり」という風習がある。これは 先祖の骨を竹筒に入れて、高野山の奥の院に納めるというものである。


奥の院 御廟橋から

奥の院 御廟橋 から燈籠堂(拝殿)を拝む
2005年4月佐藤撮影

鎌倉時代には、密教の僧侶だけではなく、念仏を唱えれば、極楽往生できると説く浄土宗の僧侶までが、奥の院周辺に小さな庵を結んで、念仏を唱和する声が四 六時中途絶えることはなかったほどだったという。彼らは「高野聖」(こうやひじり)と呼ばれ、日本中を遊行し、高野山という空海の眠る霊場のありがたさを 説いて廻った。こうして高野山は罪穢れを抜く天下の山岳霊場としてのイメージを獲得したのである。

高い杉木立に囲まれた二キロに及ぶ高野山の奥の院の参道を歩いていると、確かに空海の息づかいが伝わってくる。その昔、あの平清盛が、奥の院で空海に会っ たという伝説がある。それにしても、この荘厳な静けさはいったいなんだろう。中国の長安という世界一の都市に留学した空海は、最新の密教を日本に伝えなが らも、日本古来の山岳信仰を忘れなかった。いやむしろ根本大塔に象徴される壇上伽藍の対局にある奥の院の墨絵のようなイメージこそ、空海が意図した暗喩 (メタファー)ではなかったかと思えてきた・・・。

密やかに流れる川にかかる橋渡りつ しのぶ空海の夢



2006.1.28 佐藤弘弥

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