春の高野山探訪

−維那(ゆいな)の務めと正御影供のこと−
佐藤弘弥



高野山奥の院早朝・空海さんの朝食(あさげ)が御供所から御廟に運ばれる

(佐藤撮影 2006.4.18)

朝な夕な祈り祈りて千二百年岩座(い わくら)御座(おわ)す人尋ねけむ
 

1  奥の院 空海さんの朝食

高野山の奥の院は不思議な場所である。
ここには、およそ二キロの参道に沿って、二十万基とも二十五万基とも言われる墓石が延々と数珠繋ぎに立ち並び、その奥の奥の極みの巌窟(がんくつ)に、空海さんが座して おられる。かつてこの窟 (いわや)の上には、密教寺院に多く見られる多宝塔が建てられていが、現在は和の雰囲気のする簡素な檜皮葺の建物が立っているのみだ。ここは、高野山でも特別の聖地で、特に「御廟」(ごびょう)と呼ばれている。

一般的に言えば、奥の院 は、高野山を開創した弘法大師空海さんの眠る墓地である。しかし高野山において、空海さんは亡くなったわけではなく、「即身成仏」の秘法によって、その身そのままのお姿で窟の奥で禅定を続け ている・・・と信じられて いる。それを「空海入定信仰」という。「入定」とは、真言密教独特の言い回しで、「禅定」と同義である。すなわち、空海さんは、死んでここに葬られたのではなく、奥の院 で、衆生のために、修行を続けられている。つまり空海さんは、世界中の人々を救うために、一生懸命に岩間の陰で祈っておられるということになる。

更に不思議な のは、ここは空海さんが唐の都長安で国師と呼ばれていた恵果大阿闍梨から灌頂を授かって持ち帰った「真言密教」の信徒さんばかりが、眠っているところでは ないということだ。ありとあらゆる階層の人々、そして様々な宗派の人々がここには眠っている。皇族から貴族果ては名もなき庶民まで、宗教でいえば、浄土宗 の法然さんや親鸞さんなど、敵も味方もなく信長も彼を暗殺した光秀までもがこの中で眠っているのだ。これはいったいなにか。それが奥の院の奥深さであり、 空海さんその人の巾の広い心を表していると思う。つまり誰もが、この奥の院に永遠の眠りにつくことが許されているのである。

先ほどすでに触れたが、空海さんの大切な言葉に「即身成仏」というという言葉が ある。これをやさしく言えば、あの世ではなくこの世において救われ生きる人になるということである。つまり現世こそが空海さんにとってはもっとも大切なの である。いかに生きるか。それこそが、空海さんの説いた「即身成仏」という意味である。もっと言えば、この世において幸福となりなさい、という言い方もで きる。空海さんは、禅定しながら、世界の人々の幸福を祈りを、奥の院でじっと現世世界を見守り続けているのである。

そんな空海さんには、日に二度、食が供えられる。その役目を担う人は、維那(ゆ いな)さんと呼ばれ、特別な職業である。私は朝の六時に運ばれる儀式をみたが、それはそれは厳かな儀式であった。奥の院の台所で丹念に煮炊きされた供物 は、芥子色の僧衣を着た若きふたりによって担われて奥の院の拝殿に運ばれる。先頭に立つのは、維那職の僧侶である。御廟橋を過ぎ、燈籠堂へと続く長い参道 を越えて、階段を登り、御廟のある拝殿へと辿り着き、供物は決められた次第に則り、執り行われる。古い高野杉の方々では、小鳥たちが、空海さんの朝食(あ さげ)を祝うように、さえずっている。

朝食の儀は、わずか十分たらずの儀式であるが、これが千二百年の間、欠かさず継 続されてきたことに畏敬の念を感じざるを得ない。姿としては見えないが、空海さんは確かにそこにいる。そしてここを訪れる人々の空海さんへの思慕の情が、 そこかしこを風となって吹き渡っていくのを感じる。

ここには敵も味方もなく、生者も死者もない。それはどこか「天国も地獄もなく、 国境も宗教もない世界を想像してごらん」というジョン・レノンのイマジンのメッセージと符合するようにも思える。奥の院は、この地上でもっとも自由なとこ ろかもしれない。もちろん、しきたりや制約はある。しかし誰もが、夜昼となく、奥の院に来て、空海さんに祈りを捧げることは自由なのである。

その日も、早朝、御廟の前に、ひとりの年老いた女性が、座り込んで、一心不乱に 祈りを捧げていた。
「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)、南無大師遍照金剛、南 無大師遍照金剛・・・。

唱えている真言の意味は、ああ、弘法さんの愛はこの地上の至るところに満ちあふ れている、そんなことであろうか。

私はこの女性の祈りにずっと耳を傾けた。何の変哲もない言葉の繰り返しである。 特にゆっくり、時にはやく、疲れたように、あるいは泣くように、また怒りを込めたように、たったひとつの「真言」を繰り返し、繰り返し念じている。けっし て美しい声というものではない。しかし私は、御廟の前にうずくまるようにして祈る姿に美しいものを観じたのである。

聞いた話によれば、地元の人々は、ふと空海さんに会いたくなることがあると、た とえ夜中であろうと、やってきて、祈りを捧げるというのである。確かに、いつでも奥の院は、開かれていて、光に満ちあふれている。御廟には、ロウソクの火 が絶えず、人は空海さんの懐に入ってざわめく心を静めることが叶うのである。

 朝食(あさげ)する弘法さんの傍らに声を限りに媼(おうな) の祈り
 高野なる窟の奥に御座します大師の心に触れむと歩く
 「南無大師遍照金剛」唱へつゝ祈る媼の声に聞き入る
 朝靄の御廟にひれ伏し祈りける媼の声の麗しきかな
 祈りとは形なきものしかれども祈りの後に静謐(せいひつ)は来ぬ
 
 


「正 御影供」の夜
(壇上伽藍にて 4月17日 佐藤撮影)

仄暗き壇上伽藍にすくと立つ大日如来の塔 の眩しさ

2 空海さんの復活祭?! 「正御影 供」

高野山の「旧正御影供」(しょうみえいく)に参加し た。、空海さんの魂に触れる思いがした。「旧正御影供」は、空海さんの命日に当たる旧3月21日の日に行われる供養祭である。「旧」は、新旧、年に二度あ る「正御影供」を区別するための「旧」。「正」は月例で行われる「御影供」ではなく、「正式の御影供」というほどの意味。「御影」は、空海さんの姿を描いた肖像のことであり、 「供」はもちろん供養のことである。したがって、正御影供は、空海の命日に行われる供養祭のことである。

ところが、高野山では、空海は「即身成仏」し、「奥の院で生けるお姿で座っておられる」と考えられている。これを「空海入定信仰」という。入定信仰は、空 海という人物の伝説化、神話化の過程で形成されたものであり、真言密教においては特別の意味を持つキーワードである。

現在、正御影供は、前述したように、新暦と旧暦の二回に渡って 執り行われる。今回私は、旧暦の正御影供に参加させていただいた。まず4月14日、私は参加できなかったが、奥の院一の橋の側にある三宝院で「平座理趣三 昧行」と「爪剥(つめむぎ)の酒の加持法」というものが行われた。これは例年、旧暦の3月17日に行われる習わしになっている。午前十時より、三宝院灌頂 道場にて、空海役の法印御坊や法縁者数名が招かれ、「平座理趣三昧」を修される。この時、「爪剥の酒の加持法」というものが行われる。早い話が、禅定に 入っている空海に労をねぎらうように酒が振る舞われるのである。地元では酒のことを「般若湯」(はんにゃとう)とも呼ぶようであるが、加持法として酒が振 る舞われるのも、いかにも真言密教という感じを受ける。

ここで祭壇に供えられる「爪剥(つめむぎ)の酒」であるが、起源は八十歳を越えて、高野山の政所となっていた九度山の慈尊院にやってきたと伝えられる空海 の母が、息子のために、白米の籾や栗の皮を一粒一粒自分の爪でもって丹誠込めて剥いで醸造したとの言い伝えによるものである。この役割が三宝院に定まった 理由は、三宝院が、女人高野と呼ばれる九度山の「慈尊院」に存在した坊とのことである。

正御影供の前日の夜に行われるのが、「御逮夜」(おたいや)である。これは簡単に言えば、前夜祭である。

今回、私はここから拝ませていただいたのである。
4月17日、六時頃、ゆっくりと日は西の弁天岳の彼方に沈んで、壇上伽藍の周囲が祭の喧騒で賑わってくる。会場となる御影堂の周囲には、花壇が設けられ、 めいめい持ち寄った花を花壇に捧げられる。壇上のいたるところには、ロウソクが灯され、堂塔や拝殿の前には、かがり火が焚かれる。

夜七時頃になると、講堂(金堂)には朱色の毛氈が敷かれ、空海さんを讃える和讃がそこに座った信徒たちによって唱和される。舞も奉納される。すっかりと辺 りが暗くなる夜八時、空海役の法印さんがやってきて、御影堂に着座する。やがて僧侶たちによって、空海さんを囲みながら、理趣経が唱えられる。それが終わ ると、一年に一度この夜だけ、御影堂に入室することが許される。信者が静かに御堂の中に入り、御大師様と一体になるのである。最近では、壇上伽藍のすべて の堂塔ならびに地主神、天野、高野明神の拝殿などが開放されるようになった。日本中から集まった信徒や空海さんを愛する人々は、これらを廻って手を合わせ るようになった。

御影堂は、空海さんが、日頃高野山の職務をとっていたところで、後に弟子が描いた空海の肖像が掲げられていたことから、「御影」を掲げる「堂」ということ で、名付けられた高野山の中でも、奥の院と並んでもっとも重要な聖域なのである。

人々は、光に包まれながら、空海という人物の懐に抱かれる喜びに満たされ、次の朝八時から開かれる「正御影供」の祭を迎えるのである。

仄暗き壇上伽藍にすくと立つ大日如来の塔の眩しさ
御影堂開け放ちたる戸の奥の光のなかに御大師 様見ゆ
かすれ字で同行二人と書写したるお遍路さんの 頭陀袋かな
花抱へ大師の堂に集ひくる人の瞳にかがり火燃 ゆる
生き生きて山野を廻り海越へて辿り着きたり高 野へ大 師



復活した空海壇上伽藍へ
(正御影供 4月18日 佐藤撮影)

奥の院、壇上伽藍飛龍 ごと正御影供の行列は往く

3  正御影供 復活した空海さんを拝 む

その日、4月18日、午後八時、快晴の高野山。奥の院の御供所に参集した僧侶た ちは、金棒を持ったふたりの町衆を先導役に奥の院拝殿に向かう。殿(しんがり)は、駕籠に乗った空海役の法印さんである。介添え役の若い僧侶が後ろから付 き従う。参道には、信徒さんたちが列を作って一行を迎える。目の前を一行が通る時には、合掌をしながら、尊敬の眼差しで一礼をする。信徒さんたちも、法印 さんに付き従って、御廟橋を渡り、拝殿の前に伸びる参道から階段を登り、数万の燈籠で満ちあふれた拝殿(燈籠堂)に入るのである。

中央壇の奥には、空海さんの御廟がある。そこに30数名の僧侶たちが座し、御廟 に正対した形で、空海役の法印さんが座る。やがて理趣経が読誦され供養の儀が開始される。左右の壇では、護摩木が焚かれる。壇の前には、信徒のための祈願 所が設えられ、ひとりひとり銘々御廟に向かって合掌と礼拝を繰り返していく。この法要は、古式に則る形で、延々と続く。最後は、僧侶たちが、法印さんを囲 むようにして、経を読誦しながら、中央壇を数度廻って終了となる。時刻はすでに10時半近くになっていた。

法要は無事終了し、拝殿内に満願を達成した安堵感のような空気が充満する。法印 さんは、来た時とは逆に、駕籠に乗り、先頭を切って、ゆっくりと拝殿を後にする。つまりこの正御影供の法要によって、甦った空海さんは、入定した時とは、 逆の道を辿って、普段生活をしていた壇上伽藍の御影堂へと向かうことになる。

一旦、奥の院の御供所に入り、再び駕籠に乗って金剛峯寺に入り、休息をした後、 新しい僧衣に着替えて、蛇腹道から壇上伽藍に至るのがそれまでの習わしであった。しかし数年前から、奥の院の参道からメインストリートである小田原通りを 通る道順はショートカットされているようだ。本来の道を甦った空海さんが意気揚々と西に向かう姿を期待していただけに、正直なところ、少しばかりがっかり した。

午後一時、金剛峯寺の奥の控えで休息を取った法印さんは、緋色の僧衣に着替え て、輿に乗り、蛇腹道を通り、壇上伽藍に向かった。まさに長々とした法印さんの行列は、天と地を行き交う飛龍のようであった。

 奥の院、壇上伽藍飛龍ごと正御影供の行列は往く

正御影供で復活した空海?!

御影堂 法印御坊の横顔
(正御影供 4月18日 佐藤撮影)

御影堂に空海座して経 唱ふ影の浮かびてありがたきかな

4  空海のなかに垣間見える和の思想


午後一時十五分過ぎ、正御影供の祭は佳境に入る。空海役の法印さんが、生前執務を執っていたとされる壇上伽藍、御影堂に戻ったのだ。法印さんは、内陣に設 えられた畳台の上にゆっくりと腰を下ろす。その瞬間、法印さんがまさしく空海その人に見えた。私は言葉にならぬ強い感動を覚えた。

言うならば「正御影供」という祭の中で、空海は、擬似的に復活を遂げたのである。おそらく、空海の入定信仰は、このような祭を通して誕生したものと思われ る。もちろんその背景には、空海という大人物に対する深い尊敬の念があったことはいうまでもない。それを象徴するように、復活を遂げ輿に乗って、壇上伽藍 に戻ってくる空海役の法印さんに向かい、御影堂の周囲を取り囲んだ人々から熱い視線が注がれていた。

御影堂の中では、空海さんを讃える「讃」が唱えられ、ゆったりと鉢がつかれる。生花の献花があり、祭文が唱和される。それでも高野山の儀式はこの正御影供 に限らず思いの外に静である。それは大きな音を出す太鼓や笛などの楽器を使用してはならない、という開創以来の山内の戒めが今なお働いているためだろう。 人々は厳かに流れる僧侶たちの声にたゆたうように、身を委ねているようだった。ゆっくりと行が進み、鈴が鳴らされると、僧侶たちが、法印さんの周囲を回り はじめる。少し間があって、僧侶たちは、御堂の周囲に集まった人々に向かって「散華」(さんげ)をはじめる。散華は、紙で作った花に見立てたカードを投げ る儀式であるが、この散華の儀は、高野山で始まったものであるという話を聞いたことがある。この散華の「華」のカードは縁起物であり、民衆は競ってこれを 拾いあう。最後には、御影堂の周囲に飾られた生花も人々に配られる。

祭はこうして終わる。祭が終わると、法印さんは、再び輿に乗って、元来た道を戻って行く・・・。

私は、祭の最中、内陣に座っておられる法印さんをじっとみていた。そして空海という人物の素顔というものを考えた。空海という人は、一筋縄では捉えられな い奥の深さがある。例えば理趣経(りしゅきょう)というものが、あらゆる人間の欲望の肯定の教えのように受け取られて、思わぬ邪教がこの教典を通して生ま れたりした。ところが一方では、高野山は女人禁制などの厳しい戒律によって、禁欲的な修行道場として開かれた聖地でもある。この落差はいったいなんであろ う。人間的欲望の全肯定と禁欲的な修行の場の両立は可能だろうか。

さらに不思議なこともある。一般的に空海という人物は、真言密教の大家と目されているが、空海がこの高野山を開こうとして、最初に行ったことは、この周辺 の地の神霊である女神「天野明神」とその息子と言われる「高野明神」をこの壇上伽藍の最西部に祀ったことである。真言密教と日本古来の神霊の共存は、やが て神仏混淆の先がけとなり、日本人の宗教観を決定付けたのである。空海のまったく相矛盾するものを、受け入れてしまう巾のある思考法を聖徳太子以来の「和 の思想」と考えることは可能だろうか・・・。
 



正御影供 御影堂前に参集した若い学僧たち
(正御影供 4月18日 佐藤撮影)

年一度開かれたりし御 影堂に若き学僧集ひ来る春

5  17条 憲法と曼荼羅

空海役の法印さんは、御影堂を出て講堂(金堂)を左に折れ、やがて胎蔵曼荼羅を 象徴すると言われる根本大塔をかすめ、蛇腹道の彼方に消えて行った。この間、私はずっと考えていた。いったい空海とはどんな人だったのか。そこでふと浮か んだのが、「聖徳太子」の名であった。「ショウトクタイシ」と「コウボウダイシ」、音も似ている。不思議な偶然であるが、和の思想の元祖ともいうべき聖徳 太子(574-622)は、空海(の生まれる丁度200年前に生まれている。

周知のように、聖徳太子は、女帝である推古天皇の摂政となり、あの憲法十七条や 冠位十二階などの政策を立案し国家のグランドデザインを作り上げた大政治家である。彼は遣隋使を派遣し、隋に派遣した。特に607年の遣隋使には、「日出 るところの天子、日の没するところの天子に致す」と当時の世界屈指の大国隋の皇帝煬帝(ようだい)に対等の立場を思わせる文(外交文書)を送り激怒させた こともある。また仏教を擁護し、自らも仏教の研究書なども著した熱心な仏教徒でもあり、この仏法によって、日本人の心を教え諭し、日本を世界の一等国にし ようとした。

聖徳太子は、48歳の若さで亡くなり、一族もまた断絶の憂き目をみた。しかし民 衆は、聖徳太子を熱狂的に支持し、民衆はこの人物を神格化した。それが日本各地に残る「太子信仰」というものである。

民俗学の教えるところによれば、この「太子信仰」は、空海への「大師信仰」と交 じって習合し、「太子」と「大師」の区別が曖昧になっているということである。確かに各地に残る「太子堂」の地名や「太子講」、「大師講」などは、あまり 厳密に分かれているようには思われない。それと優れた天才的な能力をもった人物という点でも、聖徳太子と空海は十二分に比肩しうる才能の持ち主であった。

私は、そこでこの太子信仰と大師信仰がひとつになるには、何かもうひとつ、大き な類似点があるのではないかと考えた。それが「和の思想」(和の精神)というものではないかというのが、私の視点である。

ところで聖徳太子は、十七条の憲法の冒頭で、まず和の精神を高らかに唱えた。 「和をもって貴しとなす」そして「忤(さから)うことなきを宗とせよ」と続けた。聖徳太子の時代、国は分裂しかけていた。そこで聖徳太子は、「和」を強調 し、仲良くすることの大切さを説いたのである。

さらに「人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし」と続ける。党 とは、人の属するグループのことで、一族や家族のことを指すのだろう。人はみなそんなグループのエゴによって支配され、行動を規定されている。だからこと の本質を理解するまでに達する者は少ないのである。

そして人は時に「あるいは君父に順わず」また「隣里(りんり)に違(たが)う」 ことになる。これが国あるいは共同体内部の乱れとなって、憂いの元になるのである。

そこで再び「和」が説かれ、第一条が終わる。「しかれども、上(かみ)和(やわ ら)ぎ、下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」

これを現代語訳にすれば、もしも権力にある者が「和の精神」を持って民衆に接 し、民衆もまた「睦みの精神」持って応えれば、問題が起こっても、事は自然に解決に向かうはずである。どんなことでも解決しないということはない。」(佐 藤訳)

この一条を貫いているのはたったひとつ「和の思想」である。梅原猛氏は、第一条 のみではなく、17条憲法が、「円環的構造」をもっていて、最後の17条が一条と結びつくという説を唱えている。(「聖徳太子 U 憲法十七条」小学館  1981刊)

そこで最後の十七条を現代語で読めば、このようになる。
「問題は、独り独断で決めようとせず、必ず多くの人々と論議を尽くして決めるよ うにしなさい。小さな問題なら必ずしも多くの人との合意はなくてもよい。しかし大事なことにおいて議論することを避けては、過ちを犯すことを疑わねばなら ない。したがって、多くの人で弁舌を尽くして議論すれば、最後に理にかなった合意の言葉も得られるのである。」(佐藤訳)

梅原猛氏の十七条憲法=円環的構造説は、実に魅力的だ。何故なら、十七条憲法 が、空海の言う宇宙の森羅万象を具現する「曼荼羅」に見えてくるからである。真言密教の説く、「真言」は、単純に言えば、「本質を突く、真実の言葉」とい うことである。つまり聖徳太子の説く「和」というものが、単に和(なご)むという意味の「和」ではなく、実は円相をした「輪」(リング)にも通じ、人と人 の対立を除く永続的に除こうとする「和の精神」を意味し、密教の曼荼羅の思想というものに連なっていると考えるようになったのである。




正御影供の夜 根本大塔
(正御影供 4月17日 佐藤撮影)
大塔は加持の炎のごとくして暗き闇夜の道標(し るべ)なりけり

6 日本文化の心髄に触れる

曼荼羅(mandara)とは、そもそもサンスクリット語の「円」のことであ る。もっと厳密に言えばマンダ(manda)は「中心」や「心髄」を意味し、ラ(la)は「所有」を意味する接尾語とされる。真言密教の「大日経」では、 これを「曼荼(マンダ)は心髄を、羅(ラ)は円満を」表すと解釈される。そこから「悟り」の状態を示す言葉ともなる。

もしも十七条の憲法が円環的構造を持ち、その中心には「和の精神」があり、十七 条すべてにその精神が充満しているとすれば、それはまさに聖徳太子の曼荼羅そのものであり、これは十七条憲法に円環的構造を見た梅原猛氏の歴史的発見かも しれない。聖徳太子は、鋭く対立していた神を擁護する勢力と仏を護持しようとする勢力の狭間にあって、自らは仏教の信奉者でありながら、その対立を避ける ために腐心し、ついに十七条憲法の精神に辿り着いたのである。

そして聖徳太子より二百年後の世に生まれた空海もまた同じく神と仏の対立の中にあって両者の対立を埋めようとした。空海が曼荼羅の具現としての高野山壇上 伽藍を結界(区画)し、一番最初に行ったことは、地元の神である女神とその息子の男神の社であった。これは決して偶然ではない。空海は彼なりに和の精神に 辿り着き、対立するもの、あるいは近い将来においてぶつかり合うであろう火種を、祭儀と礼儀を尽くして、振り払ったのである。空海は、高野山を開に当たっ て、七日七夜に渡って「結界の法」を営んだということである。おそらく教典を読誦し、加持の法を修し、この高野山の地が未来永劫に渡って、素晴らしい聖な る地となることを、地元の神を信奉する人々に対しても示したのであろう。


一見すると高野山というところは、真言密教の聖地というイメージがある。しかし よく見ると、空海その人の人柄が満ちあふれた祈りの都市であることが明らかになる。現在の大門は、朱色で仁王門の造りである。しかしこれもかつては鳥居で あったと言われている。それほどの許容範囲というか幅があったのである。

今日私たちは、とかく宗教対立というと武力によって混乱が内乱に発展するような 悲惨な状況を目の当たりにしているために、ある種の先入観で、見てしまいがちだ。しかし少なくても、聖徳太子や空海の取り組みを現実に検討するうちに、そ れを避ける思想が昔から存在していたということを知ることができる。これを私は「和の思想」ではないかと思うのである。

ところで、松尾芭蕉は、「笈の小文」(1687)という俳文の中でこう記してい る。  「西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その道を貫くものは一つなり。」

この言葉を借りるならば、「聖徳太子における、弘法大師における、その道を貫く ものは一つなり」と言うことも言えるであろう。これは多神教の特性と言ってしまえばお仕舞いだが、インドにも中国にもない極めて日本的な対立を避ける方便 であると思ったのである。

いつの間にか、正御影供の祭への参加から、内面への旅に出ている自分に気づい た。暗い夜空向かって聳える根本大塔を思い出しながら、高野山の至るところに浮遊する空海という人物の魂の一端に触れたような気がした。さらにその奥に聖 徳太子の精神が連なっているとしたら、空海をそして聖徳太子を通底する日本文化というものは、何と奥深いものであろうか。

大塔は加持の炎のごとくして暗き闇夜の道 標(しるべ)なりけり
幾度燃へ失せしと言ゑど大塔は甦りたり鳳凰のごと




2006.4.28-5.09  Hsato

義経伝説
義経思いつきエッセイ