菅江真澄
かすむこまかた
君が代はまさ木のかづら長かれと千歳を松の枝にかくらむ
二日 厄年祝(トシナホシ)に行かふ人とら道もさりあへず、雪もたひらになりぬ。上中(カミナカ)下みなうちあげしいろりのもとには、若
(ワカゼ)男どもあまた酒のみうたふに、たきたつる榾(ホダ)の火餤(ホノホ)たかだかともえて、火(ヒ)の散(コ)、火棚(ヒダナ)の煤(スス)に付て
ければ、鼻(ハナ)すれすれとて指もて、みな、おのが鼻をすりにすりぬ。しかすれば、火棚(ヒダナ)てふものの煤(スス)に、火埃(ヒボコリ)の付たるを
鎮(シヅメ)る咒(マジナヒ)なりといふ。うべならん火消ぬ。
三日 よべよりいたくふりぬ。今朝は若水汲(ムカフ)はてなりとて、此大雪(オホユキ)ふみ分(ワキ)てくみもて来(キ)けり。やをら年縄
(トシナハ)とりをさめて、けふは注連縄(トシナハ)ひきの祝言(イハヒ)とて小豆粥食(ク)ひ酒飲(ノミ)て、ひねもすうちあげあそぶ。四日、五日は風
吹つれど、
六日 あしたは春雨めきて、夕月ほの霞て出ぬ。琵琶法師来りぬ。是も慶長のむかしより三線(サミセム)にうつりて、猫の皮も紙張の撥面(バ
チメン)ニ化(カハ)りたるが多し。曽我(ソガ)、八嶋、尼公物語、湯殿山ノ本事(ホンジ)、あるは千代(チヨ)ほうこといふ女の戯ものがたりなンどの浄
瑠璃をかたれり。こたびは「むかし曽我也」声はり上て、「ちちぶ山おろす嵐のはげしくて、此身ちりなばははいかがせん」と、語り語りて月も入りぬ。明なば
とく出たたむとて枕とれば、ひましらみたり。
七日 ふたたびといひて千葉の家を出たり。高館の猫間(ネコマ)が淵(フチ)のふる蹟(アト)、梵字が池のあせたる跡(アト)、中尊寺にな
りぬ。此あたりに勅使清水といふあり。いにしへ按察使中納言顕隆卿ここにくだりおはして、此水めし給ひしといふ。文治のいくさに焼(ヤカレ)残りたる庫
(クラ)の内に、牛黄、犀角、象牙の笛、水牛ノ角、紺瑠璃ノ笏、黄金ノ沓、玉幡、黄金華鬘〔以玉餝之〕、蜀江錦、ぬひめなき帷、こがねの鶴、しろがねの燈
籠、南廷?(ナムテイハク)、なほくさぐさの物ぞ多かりける。そを右大将頼朝公わかちて、葛西ノ三郎清重、小栗ノ十郎重成なンどいふ人とらに此宝器(タカ
ラ)どもを給(タマ)はり(し=脱)事は『東鑑』をはじめ書(フミ)ごとに見えたり。そを見て御館(ミタチ)の栄えたりし世ぞしのばれたる。また『奥州征
伐記』二ノ巻に「文治三年云々、秀衡が病気の様子を尋ね給ふに、顔(オヒ)色老おとろへ最期近く相見えたれば、もはや相果申つらむと言上しける処に、奥州
より秀衡が使者として、由利ノ八郎惟平鎌倉に来る。鷲ノ羽千尻、矢根、駿馬三十匹、金作ノ太刀三振、砂金等進上す。これは秀衡がかたみのこころ也云々」と
見えたり。なほその篤(アツキ)厚事をおもふべし。かくて衣川の土橋をわたりて、やがて前沢の駅(ウマヤ)に出(イデ)て、霊桃寺の長老かねてねもごろに
ものし聞えたまへば、しばし物語して上ハ野の徳岡にいたりて村上が家(に=脱)やどる。
八日 けふは疫癘(ニヤミ)ノ神のあまくだります日とて、是避(コヲサケ)る祭リとて粢餅(シトギ)をつくりて、しる小豆(アヅキ)にかい
まぜ、そを烹(ニ)て神に奉り、人みな喰ふめり。荒神祭(アラガミマツ)リのよしにや、また吉田の疫神斉(ヤクジンサイ)、津嶋の御葦流(ミヨシナガシ)
の如(ゴト)に鎮疫斉(チムエキサイ)なンどおこなへる神事(ワザ)ありけるか。この九日、十日、十一日、十二日、十三日、十四日と日をふる雪に、ただ埋
火のもとさらずふみ見つつをれば、人の訪(ト)ひ来て、二月の木の股(マタ)さき、三月の蛙(カヘル)の目がくしとて零(フ)り、雪のはては涅槃(ネハ
ン)なりといひ諺(ナラハ)しさふらふ也なンど語りぬ。
十四日 けふは空晴て長閑なれば、雪ふみならし、わらまきちらし、莚しきて童あまた群れ集りて、笛吹、太鼓、銭太鼓、調拍子(テビラカネ)
にはやして鹿舞(カセギヲドリ)の真似(マネ)をし、また田植踊(タウエヲドリ)のまねして遊び、また箱の蓋(フタ)を頭に戴(イナダキ)て念仏舞(ヲド
リ)のさまをし、また剱舞(ケムバヒ)てふ事せり。けむばひは、けむまひを訛りていへる也。此剱舞(ケムマヒ)てふものは、いか目の仮面(オモテ)をかけ
袴着(キ)、■(タスキ)して髪ふりみだし、軍扇を持(モチ)、また太刀はき、つるぎをぬきて舞ふ。此剱■(ケムマヒ)を高館物化(タカダチモツケ)とも
いふ也。そはいにしへ、高館落城の後さまざまの亡霊あらはれし中に、さる恐(オソロ)しきもののあらはれしかば、そのあらぶる亡魂(ナキタマ)をとぶらひ
なごしめんとて、物化(モツケ)の姿(サマ)に身を餝りなして念仏をうたひて、盂蘭盆(ウラボム)会ごとに舞つる也。品こそかはれ、遠江ノ国の戈が谷(ガ
ケ)の念仏盆供養にひとし。それを、男童(ヲノワラハ)の春遊びにせしもあやしかりき。
十五日 けふは仏の別れ(涅槃会)なりといひて、寺々にまいる人いと多し。七八日もことなければ、きのふまで日記もせざる也。
廿一日 けふは時正也。近隣(チカドナリ)の翁の訪来(トヒキ)て、都は花の真盛(マサカリ)ならむ、一とせ京都(ミヤコ)の春にあひて、
嵐の山の花をきのふけふ見し事あり、何事も花のみやこ也とて去ぬ。数多杵(アマタギネ)てふものして餅搗(モチツキ)ざわめきわたりぬ。けふも祝ふ事あ
り。日暮(ヒクレ)れば某都某都(ナニイチクレイチ)とて両人(フタリ)相やどりせし盲瞽法師(メシヒノホフシ)、三絃(サミセム)あなぐりいでてひきた
つれば、童どもさし出て、浄瑠璃(ゾウルリ)なぢよにすべい、それやめて、むかしむかし語れといへば、何むかしがよからむといふに、いろりのはしに在りて
家室(イヘトジ)のいふ、琵琶に磨碓(スルス)でも語らねか。さらば語り申(モフ)さふ、聞きたまへや。「むかしむかし、どつとむかしの大(オホ)むか
し、ある家に美人(ヨキ)ひとり娘(ムスメ)が有(アツ)たとさ。そのうつくしき女(ムスメ)ほしさに、琵琶(ビハ)法師此家(ヤ)に泊りて其母にいふや
う、わが家には大牛の臥(ネタ)ほど黄金(カネ)持たり。その娘をわれにたうべ、一生の栄花見せんといへば母の云やう、さあらば、やよ、おもしろく琵琶ひ
き、八島にてもあくたまにても、よもすがらかたり給へ。明なば、むすめに米(ヨネ)おはせて法師にまいらせんといふを聞て、いとよき事とよろこび、夜ひと
夜いもねず、四緒(ヨツノヲ)もきれ撥面(バチメム)もさけよと語り明て、いざ娘を給へ、つれ行むといふ。先(マヅ)ものまいれ、娘に髪結(カミユハ)せ
化荘(粧)(ケハヒ)させんとて、磨碓(スルス)をこもづつみとして負せ、琵琶法師の手を引かせて大橋を渡る。娘は、あまり負たる俵の重(オモ)くさふら
ふ也、しばらく休らはせ給へと、休らひていふやう、いかにわがおやのさだめ給ふとも、目もなき人の妻となり、世にながらへて、うざねはかん〔うきめ見んと
いへる事也〕よりは今死なんとて、負ひ来つる台磨碓(シタスルス)をほかしこめば、淵(フチ)の音高う聞えたり。女は岩蔭(イハカゲ)にかくれて息(イ
キ)もつかずして居たり。かの琵琶法師ひとりごとして云やう、あはれ夫婦(ウバオチ)とならむよき女也(ムスメ)と聞て、からうじて貰(モラ)ひ来りしも
のをとて、声をあげてよよとなき、われもともにと、その大淵に飛込(コミ)て身はふちに沈(シヅ)み、琵琶と磨臼(スルス)はうき流て、しがらみにかかり
たり。それをもて琵琶と磨臼の諺(タトヘ)あり。とつひんはらり」と語りぬ。
廿二日 六日入(前沢町川岸場)にいたる。明なば、あるじ常雄、仙台にとみなる事とてたびだち、畠中ノ忠雄がりとひ、松島にも行かまくなン
どかたりぬ。うまのはなむけとて人々酒飲む。
言の葉の色をりそへてひろはなむまがきが嶋の梅の花貝
花の波こゆてふころもきさらぎの末の松山たのしからまし
と書てあるじに贈る。また行道といふ人もぐして行ければ此行道にも、
言の葉も今ひとしほの色そはむ帰さのつとをまつしまのうら
かくてくれたり。
廿三日 つとめて常雄、こまの荷鞍の旅よそひして、行道をいざなひて行ぬ。旅立の跡寿(アトフキ)とてまた盃とおりぬ。此人々の語るを聞ケ
ば、此ほど白鳥村(前沢町)にて狢(ウジナ)の仕態(シワザ)にや、家のうちとに銭を雨のごとくふらせ、さまざまあやしきことあり。また母体(モタヒ)
(前沢町)の観音堂の、ううと呻吟音(ウメクコエ)し、また鳴動(ナリウゴカ)せり。これも貉(ウジナ)のなす事にやなンどあやしみてかたりぬ。そは、い
にしへもさる事あり。『文徳天皇実録』の中に、天安元(八五七)年のころ六月六日、参河ノ国の庁院のひんがしの庫振リ動シ事見えたり。またそのおなじとし
(六月三日)、「在陸奥極楽寺預定額寺充燈分並修理料稲千束墾田十町」云々と見えたり、その寺、極楽寺はいづこならむかし。けふもくれたり。
廿四日 けふ村上良知のもとに行とて、童にみちあないさせて、かたらひつつ行に、此ころふりし春雪とともに去年の真雪(サネユキ)も消え
て、道のぬかりて、ありきつらしとて芝生に腰うちかけて休らふに、兎ひとつ飛出(トビデ)てはせ行を見て童の云ク、むかし田螺(タツブ)が歌をかけたり、
「旭さすこうかの山の柴かぢり耳がながくてをかしかりけり」とよみたれば兎、「やぶしたのちりちり河のごみかぶりしりがよぢれてをかしかりけり」と返歌せ
しなどかたりもて、午の貝吹くころ徳岡につきたり。
廿五日 あしたより空うらうらと長閑なるに、鶯のこえだに聞ぬなンど、うたものがたりのふみどもくり返し見つつ、そが中に、「ふる里に行人
あらばことづてむけふうぐひすのはつ音ききつと」源兼澄卿のよみ給ひしは、正月ノ二日逢坂にてと聞え給ひしをなンど語りつつ、
鶯のはつ音も花もにほはぬに春はなかばも過んとすらむ
けふはなめて、菅神に手酬(タフケ)奉らむ梅さへ咲かでをろがみ奉る也。三四日、ことなければ日記もかかず暮たり。
三十日 忠功寺なる玄指といふ僧(ホフシ)、去年の霜月身まかれり。けふなんその百日斉忌(モモカノトフラヒ)とて法(ノリ)のわざある
に、
遠ざかる日数もももの花かづらかけてやよひの空に手向む
良道の歌に、
冬がれの梢の霜とかれし身もつるのはやしの花やしのばむ
きさらぎもけふにはつれば、あすのやよひは、ことふみにしるす。
2002.10.29
2002.10.29 Hsato