(天明六年)三月朔日 かんなりといふ処から、道七十あまりあるところに、世にことなる祭 りありといへば、いざとて見にまかるとて出たり。道いささか来れば、雨ふり出ぬ。雲雀のかなたこなたの山のあはひに聞えたり。菅江真澄全集・第十二巻
かすむこまがた 続
菅家、つくしに流れ(ママ)たいまつり給ふとき、御子の敦茂卿、この里になかされをましましし処、この梅、みやこのかたみとて、たねを求めて、うへ させ給ふなる。らんばいの杉といふは、なきがらを納め奉りて、しるしにうへたる、卵場の杉也といへり。此みたまを、新山権現と申奉ると、所の人のいへり、 ■(にんべん+舞)草(マフクサ)のをましは、雨雲につつまれて見えず。又梅のもとに、いにしへおもふ。
いくよよをふるえの梅の匂ふにそうへにしきみのをもかけにたつ
胆沢郡、姉躰、躰母、などいふ村名も、かかる名のいはれとある人いへり。一ノ関、有壁、栗原郡金生の里に入る。一ノ迫(ハダマ)、二ノ迫、三ノ迫と
よぶ処なり。此郡、七ツのみやしろ、表刀(ヲモト)の社は、一ノ迫成田村つるぎのみやと申奉る。和我神は、をなじはざま、萩沢むら、新山権現、志波姫神社
は、はざまといはぬ処の、高清水邑、香取御児社は、三ノ迫、筑館邑、又云ありかべ、雄鋭(ヲト)の神は、二ノ迫(ハザマ)、稲屋舗村、高松の八社権現な
り。遠流志別石神は、富村白山、又一迫鬼茶邑の荒湯といふ処の石の玉がきの内、又石越村、むかしは石小石村といへり。遠沢留石衛門のかきね中に、いしなご
産む石あるを、とも、あちこちといへり。駒形根神のをましは、雪いとしろくそびへて、つねにしら雲絶えずして、一めにしるし。日宮(ヒルノミヤ)と申奉る
は、祭れる神、大日霊尊(中)天常立、尊国狭立尊(左右)五
勝尊(中)、置瀬尊、彦火尊(左右)、いにしへ、五勝(今ハ奥州)雄勝(今ハ羽州)二郷のさかひの、駒形山のいたたき、
大日獄にとどまりまします。これを駒形峯大明神(オホアラカミ)、或は駒峯(コマカタケ)神日岳をさして、みやいどのといへば、のぼる人まれなり。みちの
くにに、ならぶままなく、秀たる岳也。西出羽国に跨り、ひんがし南北はみちのくに■(足+番)れり。みな月になりても雪きゆることなく、遠くこれを見れ
ば、まだらにして、ぶち駒の形のごとく、首尾脚蹄もまた、かねそなはれり。あるは立ち馬、あるは伏し馬のやうにあらはる。かかればとて、山をしかいへり、
おほ昔、日本武尊名づけ給ふとも、はた大日尊のまたの御名を午日(ムマヒル)尊と申せば、かくいふともへ(出で羽の国よ
りこのみたけをのそみては、まひるがたけといふなり)いり、其ゆへならん。午峰(ムマカタケ)、駒ヶ岳、駒形峯、駒形岳、栗駒山、いさはの
郡の、こまか岳をも、栗駒山といふ。いかがあらん。此岳と、尾のつづきたるにやあらん。かく二た処に名あり。ところの人の言ひくせとて、かかるみたけを、
こまがたけ、をこまが岳、大岳といふ。里の宮といふは、沼倉といふ村にあり。いにしへは、吾勝郷といひ、今は、三ヶ迫庄といふ。もろ人の、頂にのぼること
のかたければ、ここにうつし奉るといふ。はるかに拝し奉りて、此夕、金田の里(今金成といふ所あり)にと
まる。
三日 けふのいはひとて、桃酒、ははこのもち、くへとてをさめ持出たり。雨もはれたれば、
姉歯の松見んとて出たり。沢辺といふ里の八幡のみやしろを、右にをがみて、迫川といふを橋より渡りて、梨子崎といふむらあり。神通山妙用寺(禅林)の前に、小さき土橋あるを、さののびは橋といふ(山王社ありし処にて、し
かいふ立たる石をびは石と云也)、いにしへ、琶琶捨たるふることあり、しらかみの翁竹の枝に扶られて、足などは蹉蛇蹉蛇として田の面ながめ
たるに問へば、其松こそ、むかしに枯れたりそれを伐りて、ここなる八幡の宮に、納め奉るを、あたりの人々、わらばやみのいゆる薬なれば、みなけづりもて行
とて、かんぬしのうばそく、明楽院(大村といふ村也)の屋に、はこのうちにひめたりといふ。いでその処に
いかんとて、「都のつとに、いざといはましを、あねはの松の人ならば」といくたびもずんじかへして、おもふこころをいふ。
都人いさてふこともなかなかに絶えてあねはのまつそひさしき
此の松のことは、用明天皇の御時、気仙の郡高田という処より、たれのむすめならん、都に行とて、此里にて死たり。其しるしに植たる松を、又妹都へ行 とて、あがあねのはか松なりとて、いたくなきて行がてに、なみだをぬくひしふところ紙の、ここらありとて、今紙下坂(カミヨリ)といふゆへやあいけん。そ が姉のはか松とも、又松浦佐用姫のあね、うつみしともいへり。又義経、かみの郡に掛りて、いちの関を越へて、宮城野の原、つつぢが岡、ちかのしほがま、 松ヶ浦島と申、名所名所見給ひて、三日横道にて候、かなよりの地蔵堂、瓶破山を越ては、昔、出羽郡司か娘、小野小町と申者の、すみ候ける、玉造むろの里と も申ところ、又小町が、関寺に候ける時、業平中将吾妻へくだり給ひけるに妹のあねはがもとへ、文かきて、ことづてしに、中将くだり給ひて、あねはを尋ねた まへば、空しくなりて年久しくなりぬと申せば、あねはがしるしはなきかと仰せられければ、ある人、墓にうへたる松をこそ、あねはの松とは申候へと申けれ ば、中将あねはが墓に行て、松の根にふみを埋めて、よみ給ひける歌
栗原やあねはの松のひとならは都のつとにいさといはましものを
とよみ給ひける。名木を御覧じては、松山ひとつ越めれば、秀衡かたち近く候、とも書たり。又、まちまちにいへりける、いにしへ、みやこより、松護山 龕倉寺といふ御寺を、建給ひしなどいひ伝へたり。祐誉(タカ)のいへらく、
かくはかりとしてつもりぬる我よりも姉歯の松は老ぬらんかし
秀能朝臣は
くりはらや姉歯のまつをきそひても都はいつとしらぬ袖かな
と聞え給ひぬ、まつふたもと立たり。今は、なしざき村のしめし処といへり、此松はいにしへのまつのたねこぼりて、生ひそめしといふ。こと松にかはり て、まま三ツ葉の落葉ひろふことありなど、いにしへのはいまちにや、宿などいふめるところの聞えたり。かなたはかの女のためなる、龕倉寺のありし処也。又 あねは村に、雀ヶ池といふ所侍る。こなたへとて、星のめくりに、ささやかなる祠に、いぐしなどさしたる下たに、ちいさき埋れのこりたる井あり、是なりとい ふ、義経、この水をくみて、硯に流して、家日記などし給ひしといへり、すずりの池ならんといへり。義経の腰かけ石といふなるは、御ころも、すずかけなど、 かけ給ひしと、翁おしへたり。あねはのまつをながめ、くりはら寺に入給ひしことなど、聞えたればにや。翁にわかれて、おなしすぢをかんなりにかへりて、道 いささか行ば、をばさま村なり。道祖神と名のりたる幡さしたる神あり。をがみ奉れば、おのはしめいくらもならべたり。小迫山正太寺に行ば、田楽の編笠あま たおし立て、みさきをはらふさぶらひいならび、ほこいくすぢもさしたり、七八にやあらん。ちごいだかれて、牡丹のつくり花もちたるが、いたかれて二人たて り。是を「獅子愛し」といふといふ。試楽するにや、笛、法螺、銅鑼、しらべもあはさでならす、やがて、此み寺の(今は勝 大寺と書くといふ)前より、神輿(ミコシ)わたらせ給ふ、いつくしくみさきをはらひ、御旗、みほこ、はなぶしの神、法螺、銅鑼、獅子愛し、 にぎて持、獅子笛ふき、太鼓、吹流、赤旗、朱なる扇の的とて、大さ五尺斗り串九尺あまりなるを持行、弓、長刀二たふり、田村の君、鈴鹿の前、御幣、御面の 器、御榊のしで、みこし、別当、勝大寺の尊師、馬上六人、ひとりは頼朝君、後藤兵衛実元、畑山庄司二郎重忠、和田義盛、千葉彦太郎茂氏、奈須与市宗高也、 なべて鳥帽子ひたたれ、大口、春風にふかれて随ふ。かくて、白山権現のお前にをろし奉るに、みあへ奉り、又観世音の御堂にも、もの奉り、いと高き芝生のう へに、曲りたる烏帽子の、いたたきに卍字書きたるをかむりて幣、念球、黒衣に七条かけて、「夫当来天明丙午年、青陽朝者上豊坂、夕ニ者豊坂下り、天二ハ金 花ひらき、地二ハ銀の茎(クク)たちみのり、天地相応ず。以立実命時、当山そのかみの衆徒の旧跡、俗土の諸衆、今はた一心清浄の誠をいにし、抽三業相応懇 志辱竜蔵大権現の御宝前に於て、幣帛礼奠を捧奉る」と唱ふ。此かけたる面は、をき沢てふ処より浮分さるといふ。田村の御女もてあそび給ひしといふ、西ひん がし、北みなみ、あめつちをかみて面をとりて芝生よりくだれば、本妻(モトメ)、妄女(ウラメ)とて、二人馬にのり出で、もとめはしらかみ、うらめは黒髪 をみたして、にらまひたり。もとめ白物いたしてけはひす、あたりの人にしろいものうちかく、かかりし人は、やまふなしとて、よろこびあへり。かがみをいた し、右の手、左の手に見つ。又しろいものいたしてにほひし、あたりにちらす。やがて、くしけづれば、うらめもとめに、かみゆふ。二人馬より下りて、かの、 祝詞いひし法師のあとより、もとめ、うらめ扇もてうちあふ。はては此法師をもうちけり、法師又もとめうらめをうちぬ。たがへに此法師をあらそひて、烏帽子 をとれば、法師、もとめ、うらめのかつらをとりて、三人ながら、まろきかしらになりていりたり。おほむかし、白山の神、白竜とあらはれて、いとうつくしき わらばへの、すがたになりをましまして、此山にすまふとし給ひしを、花田か巻といふ池より、たつたひとつ出て、老いたる女となり、竜蔵が巻といふ処より は、わかき女なり出て、此神にこころとられたるやうして、あらそひ追やらふを、神はいみじういかりて、二ツのたつを、ふたたびいで来ぬやうをしめして、そ の池に入給ふ。今花田池、竜蔵が池とてあり、このことまねたるの祭りとはいへど、ゆへあることにや。
又芝のうへに、長刀にて二人舞ふ、津の国天王寺にては、子僧の舞なるを、ここにてはかくする、笛の音も、たむらたいじたむらたいじと吹けるよし、見 る人のいへり。
次はひさまひとて、扇してもふ、こは延暦のはじめ、みちのくになる、霧機山に住し悪路王、百九拾万人のぬす人をあつめて、鉄のしろひめ垣を作り、籠 りて国郡を乱し、あがたを犯し、世中さわがしければ、勅給はりて、紀古佐美を副将軍として、池田真牧阿部黒縄をさしてくだし給ふ。をなし十三年の比也、白 川の関のほとりにて、両大将の御いくさやぶれたれば、夷いよよちからをえて、いせのくにまで兵をひいて、かしこき御玉かきのうちをも、きたなき火をはなち ておとろかせ奉る。かかるゆへにや、真牧黒縄をはなたれ給ふ。あくるとし、坂上田村のうし、十万騎の兵を給はりて、むかはせ給ひて、世に恐ろしき悪路王 を、大鏑にていころし給ひて、都にかへらせ給ふ。
二十年にいたりて、悪路王が子高丸 ふたたびおこりて、九十万の兵をあつめて、するかの国、清見が関までのぼるに、いそぎ田村麻呂むかはせ給ひ、み
ちのくの胆沢郡、栗原郡、磐井郡、江刺郡なりけり。此夷らをたいらぐることを、此社にいのり給ひて、かへりもふしのとき、みかぐらなど奉り給ふとなん、其
笛やぶりながら残りぬ。此舞は、田村の君と、鈴鹿の前とをまねたると也。衆徒居ならびて声おもしろく「青陽哉春来者(サウヤウヤハルクレバ)、はるくれ
ば、柳桜をこきまぜて、よりまぜて、都は春のけしきなるもの、桜はちる、梅はちる、桜は中絶へて、なかたえて、はなめつらしや、昨日けふかな、きのふけふ
かな、茂り殿、しげりとの、薄がもとにこそ、けいけいほろりと雉子は囀る、きじはさへづる、信濃なる、しなのなる、徳者が繁能(ハンノウ)家に繁納会に、
繁能家に、請(ウク)るしら露、きのふけふかな、うくるしらつゆ」といひはてて、
扇を右左に■を、ひろふとて、とる人、うえへをしたにをりかさなる。是をとりて納れば、やの女子うむに、めやすしといふ。ひとりあら駒にのり出て「いかに
人々きこしめせ、八島だんの浦において、ぐえんじ平家のたたかひにて候」といひてしぞき、又馬をかへして、「かく申なにがしは、後藤兵衛実元にて候」とい
ひて入ぬ。又馬六つにのり出て畠山庄司重忠の詞、「あれあれごらんさふらひ、沖の平家のかたより、みなぐれなるの扇をいだされ候は、あれは源氏に射よと
の、はかりごとにて候、たれにも仰付、いさせられべく候」頼朝の詞、(かりに義経のまねをし給ひし也)「た
れや候」和田義盛進みて、「さん候千葉之介、人多しとは申せども、奈須与市宗高こそ、せいに小ひように候へども、かけ鳥などを仕るには、三ツに二ツととど
まるじんにて候、かのじんに仰付いさせられべく候」頼朝のことばして、「其むねをいはるべく候」義盛再びのことば、「いかに与市うけたまるか、君よりの御
じやうには、あの扇を一箭射て、国々の諸大臣に、見物させうとの仰にて候」宗高、「仰はさやうにさふらへども、浪のうへのふんのもの、いかでか仕るべう
候」実元、「御じやうそむくべくさふらはば、とくとくかまくらへ、かへられべく候」与市、「御じようそむきがたく候間、一矢仕るべく候」といひて、紅の扇
立しかた近くよりて、陣笠きたる男、弓前わたせば、いただきて、南無正八幡大菩薩、別しては、那須のゆぜん大明神、しかるべしうもさふらはば、あの扇を一
矢、いさせまたはるべく候」とてはなつ。よこさまに行てけり、此射はづしたる年は、なりわひよからじなどいへり。六人馬とくはしらせて、楽屋にさりぬ。か
の立たる扇をうばはんとて、引合あらそふ。是をとりえたるかたの、むら里もいみじきさいはひにあふとて、ひこしろひてはしる。此はての祭は、頼朝泰衡きら
んとて、此処に来給ひて、此山の観世音、ならびては、白山にいのりて、衆徒の長なる、教実坊といふをあないにて、平泉に向ひ、御本いのことく、泰衡をうち
てのち、そのため法楽の祭りなれば、八島の軍見ぬ人に、頼朝のきみも、義経のわざをして奉りたるを、今の世まで、衆徒(スト)のしわざとはなれりといへ
り。例の芝の上にて、田楽を奏して奉る。花笠をきて、ささら三人、太鼓三人、いつ色の紙のにぎて二本、こは十五のほうしとて、堪能の衆徒のしわざ也、後醍
醐天皇の御ときならんか、かかること田楽を弄ふことはやりければ、相模入道、新座、本座の田楽をよび、むねとのたいめいに田楽法師、ひとりひとりあつけ
て、是はたれがしどのの、かれはなにがしどののと、きららに粧りて、いみじく興をさかせて、すへすへには、直垂大口を、ときて投げしなど、むかしはきやう
あることにてしたれど、いまはかかることも、背き見な見なす人多し。
是仕了へぬれば、花笠を、やぶりもてわたるは、わが身のまもりにすとて、あらそひてとる。む月の七日の夕、みずきやうありて、亥のとき斗り、桑の木
の小弓に、よもぎの矢ひきて、四つのくま、あめつちを射て、勝の木のけづり花を■れは、人々ひろふ。又鬼やらひとて、銅鑼をならし、法螺を吹て、御堂のく
まくま、板じきなどうちならし、ふみならすなど、過にし祭のものがたりを、見し人らいいかへる。この夜は、さはべなりける、宇佐八幡の御社(葛西なにがしの、いのりし神、近きころここにうつす)の別当、教覚院の屋にとて、かねてものしたれば、其処にと
て、日くれて入ぬ。
四日 姉歯の橋あり、処しらでかへりたれば、再び尋ねんとて、あねはの松につく、をもしろ
く、鶯の鳴たるは、此年はじめて聞たり。
ふる里の人にかたらんくり原やあねはの松のうくひすのこえ
かく、長明のことのはもゆかしく、しはらくありて、
めつらしなあねはのまつの春風にさそはれてなく鶯の声ある人の云、さののびは橋にあらす、浅野といふ名なり、細声などいふ処、鷹の羽清水とて、いと よきなかれも侍るとて別たれば、きのふ見し翁、をさなき子をかかへて、「こはいかがしてふたたびは来給ひし、いろなき松を」とわらふ。「あねはのはしはい つこならん」翁「姉歯邑に年久しく住ならへど、さなんめる処はあらじ」といふ。やをら、村中に出て、細き川に、二たあゆみに足らぬ土の橋ありけり、水こし 河といふ。川ぎしの屋に入て、ものいへば、あるじの女をきな、われをさなきころより、此はしを、あねはの橋といふと聞伝へ侍るとて、あらぬふること、ひい てかたるもおかし。夫木のうたに、
朽ぬらんあねはの橋もあさなあさなうら風吹てさむきはまべに
むかしは、此あたりに浪やうちけんなど、おもひやられたり。
今も世にとひこそわたれ栗原やあねはの橋のくちぬ名のみを
たかのはし水に来けり、羽の中すぢのごとく、水なかれて、右左に苔なめらかにむして、たかの尾羽ひとつ、ふせるがことし、そがしたたり落る処に、い くひの柳枝えだ青し、
狩人のむすびやしけん鷹の羽のみよりになるる青柳のいと
富邑に入たり。稲倉ヶ森、森山権現、この下つかたに、蝦夷の嶋人、かくれ居たるいは穴あり。うちに、みほとけのかたち八つあり、かたいなど集ると て、穴埋みてより、いま二三あらはれおまします。
栗原邑、白馬山栗原寺、いにしへ、義経入給ひし処、又泰衡のさぶらひ腹きりたる処也、医作山上品寺の池の中に、片葉のあし、つのくみわたれり。そや まといふ処、ひとつ越て、大荒木邑に、鈴木三郎の館のあと、尼我山喜泉院は、鈴木三郎の妻、その子三河守ともろとも、はりまの国より移り住めり。平泉ほろ びては、御台尼となりて行ひ居り、髪あらひの清水、かみなげし水、尼が森など見えたり。母の身まかり給ひてより、三河守は再ひ、はりまにかへり給ふとい ふ。猿飛来(サツヒライ)といふ村あり。頼義の御館あと、又青雲権現といふ社あり、もかさの神也。いつのころにかありけん、駒ヶ岳よりふりたるましら、御 前に飛来りて、魔成下海冷といふ文字書たる、短冊を落したりと、里人のいへり。伊勢するかの館のあと、ねもごろにをしへたり。此神にささけたるうた、
こころざす人やたのまは青雲のかかるねかひを神やうくらん
又あが子、むまごのためとて、老人まうでたるを見て、
よし老のかしらの雪はつもるともとくとくいのれ青雲の神
黒谷邑の田の中に、鎮守府将軍平貞盛の嫡孫、諸陵(モロカト)助正度の古館あり、寛弘の人といふ。鳥沢といふなる村の、山入に、たいどうの桜といふ あり、そのゆへをとふに、ある人云、「諸門親王と申奉るが、此国におもむき給ひし頃、大堂ありけるほとりに、御旅やかたを定め給ひ、南殿の桜をはじめ、い ろいろうへさせ給ひて、都のかたみとなかめ給ひし。又大堂もたて給ひしやらん。亦大同のころ実(ミ)ばへたり。あめよりふりしなどいふ。この花はさて子な ともならず、こと枝にもうつらず、花しべもひとつふたつ也。卯月のはじめ、苗代みぼし侍るころ咲侍る。此里の人、身まかりて、焔魔王宮に入ば、まづ大同の 桜を見しかと、とはせ給ふ、見たる人には、くさくさの罪をゆるし給ふと、いひならし侍ると、えまひして語る。
平形村に、つくり橋あり、江浦草(ツクモ)といふ草かりて、入て渡たりとも、いくさの頃、つくぼう、さすまたといふものを、あみてわたいたるともい ふなり。文治のころ、源頼朝きみ、泰衡うち給はんとて、此橋渡り給ふとき、くし給ふ梶原景高、戯歌ひとつ奉る。
陸奥のせいはみかたにつくも橋、わたしてかけん泰衡が首
かくなん聞えたり。又玉造郡のほとりなる、いはて山のとなりにも聞えたれど、ここに、江浦草(ツクモ)山信楽寺といふ、真言の寺の池あり、たんご桜
とて、いみじき清水のもとに立たり。
立たる石の面に、正応六年二月二十日と記して、右左には、石刀現宿帰真密方敬白と書たり、いかなるゆへかあらん。十三本長根といふ処ありいにしへの道也、
塚十三あるは、いくさのはた十三本をさしたる処也。虚空蔵菩さちの御堂のほりのあと、又ねまり地蔵など、残りたりと処の人のいふ也此あたりにねずの檀とい
ふあり、いと高き処なり。泰衡のたたかひの頃、頼朝ねずの番人をすへて、守り給ふ処なり。
やまひらの館ならん。埋門といふふるあとあり。過にし大荒木にも、頼朝のふるあとありといへり。ある人の物語に、三迫中野といふ処に、玉の井といふ あるは、日本武尊都にかへり給ふの時、御鞭をさし給ひしより、ながるるといひ伝ふ。をなじはざまに、赤児(アカチゴ)邑といふあり、あるきみあまたの舞子 めし給ふとき、春風といひし舞子を、いみじくめて給ひて、あさゆふ御そばはなち給ふことなきを、ほかの舞子らそねみ腹立ちて、ぶすといふもの、食ひ物に入 て殺したり、其ちご紅の衣をこのみしゆへ、そのつかある村なればとて、あかちごといふ。
をなし迫の、有賀村八幡の御社は、頼義きみ、義家のきみ、貞任うちて胆沢の郡より、斐野城にうつり給ひて、御とし越給ひてのむ月、義家公廿五の、御 としいはひあり、是を国のふりにて、としなをしとて、里の人々、御賀申あぐとて、めでたくうたひたるを、いみじくよろこび給ひて、村の名を有ル賀と呼び給 ひて、此御社にまうで、弓箭を納め給ふより、御賀ノ八幡とも申奉る。弓立の杉、矢立の杉といふありしを、伐りたるよしをいふ。同邑に、御田鳥(ミタトリ) 箱清水といふあり。藤原秀衡きみ、此社まうでの時、手あらひ給ひ、また箱に入て、館にもて帰り給ふよりいへり。御田鳥のうちに、平泉といふ処あるは、秀衡 の仮屋たて給ひて、あるとある社にまうで給ふたる処なれば、言ひ伝ふとなん。
若柳里の新井山八幡、金田八幡、御賀八幡、みな義家建給ひて、三迫の三八幡と唱へ奉る。岩ヶ崎村、陸奥の七つの観世音、又鶴の丸館(葛西の家なる士富沢日向直景居也)、東館(トタテ)といふ処にをましある金田八幡にぬさ奉りて、こよひは御社の別 当、清浄院量海法印のもとにとまる。吾勝郷(アカツノ)、三迫の県といひし処なり。
桓武の御代に、屯し給ふとき、そのあたりより、里の子、ここらのこがねを、ほり出して奉るを、めで給ひて、金田のさととつけ給ふつ(ママ)。そが後 は、金田の庄といひて、あまたのむらむらにわかつ、ここを金田のもと郷と定めたり。
田村麻呂、夷をたひらげ給ひてのち、鬼渡の社、てらし山の観音、照山南円寺を建給ひしといへり。ふるあとのこりぬ。頼義、義家かまへ給ひて、金田城 と名をいひ、すなはち、康平五年、この御社をいとなみ給ひしといふ。その頃、大外記博士(従五位下)周防 守清原成隆、中原清房、菅原公成、藤原正弘、これを清中菅藤の四の子といへり、みないのりのことを、つかうまつりて、加輿丁となりて、みこしをかかげ、先 づやはたの御神を、さいたてて、いくさし給ひしとなん。成隆は、此社の祝となし給ひて、代々その末なり。寛治七年のころ、藤原清衡、八幡宮に、つかさあま たそへ、八幡山金田寺を創し、別当のそくに任し、南円寺のすへ寺とさためて、天台の僧たちをすませ、閻浮檀金のあみだふちをたて、八幡の本地仏と崇め奉 り、保安元年に、八幡のみかたちを奉る、運慶の作るといふ。
七十六代近衛院の御時、康治のころほひとかや、藤太といふ炭焼の男あり、そのころ都に、三条道高の御ひめみや、をこやの前といひて、かたちにけな ふ、見る人、身の毛いよたつばかりにわたらせ給ふ、われすぐせによりて、かかる見にくきかたちに生れたり、いかがしてか、人に見ゆべきことかあらんとて、 清水寺につやして、あがつまとなる人やあらん、又さることなくば、とにもかくにもなし給へとて、きぬ引かづきてふし給ふ、夢に、あつまのはてなる、みちの 国なる栗原郡あかつの里をたづねよ、炭焼の藤太といふものあり、其男にめなし、とくとくすむべしと見へて仏告給ふを、よろこびひそかに都をしのび出て、た だひとところ此里につき給ふが、日くれはてて、たとるたとる、人のをしへしをあないに、たづね給ふに、と高き処、すみがまのほかげにやあらん、又ともし火 にやあらん、ひかりをしるべに、小川ひとつ渡りて、やをらつき給ふ、今其流れを、つまかげわたり給ひしとて、小裾川といふ、藤太おどろき、かかるきたなき 住家にとて、すむべくも見えざれど、しかじかのこととのたまへば、ともに住めり。
ある日藤太の妻、よね買ひたまへといひて、砂金一包をわたす。いざとて、姉歯の市に行ける。水鳥の集りたるを見て、此かねをつぶてにして、とらんと て投たりければ、鳥みなたちて、こがねは水にしづみたり。そこを金うち沼といふ。やに帰りてかたる。女いみじき宝をといへば、かかるものは炭焼山に多しと いふに、めをいさなひて見れば、あまたのこがね満てり。これをとりて、家とみ栄へたり。又みやこのつとにもしたりければ、うへいみじと見たまひて、藤太夫 とよび給ひ、金田の長者とよび給ふ、久安三年、むらの名を金成(カンナリ)といふ。久寿二年、照山の観音を荘厳し、南円寺を興して、大照山深沢寺といひ、 金田八幡を、ふたたびいとなみ、金生寺といひしは、金田寺のこと也。藤太夫のめ、紀の国みくま野の神をいのり、朝夕まうである夜、橘三ツを、神より給ふと 夢見て、はらみたり。やがて、三ツ子をうむ、名を橘次、橘内、橘六といへり、藤太夫身まかりてより、三人ながら、こなたに移りたり。藤太夫、をこやの前の 古る塚は、はた村といふところにありといへり。橘次が住みし処を、東館(トタテ)といひ、橘内が居りし処を、南館といひ、橘六があとを、西館といひし、此 二ツは今畑となりぬ。かんなりの里の市たつは、昔姉歯の市の、ここにうつりし也。その処に通ふを、橘次橋といひし、今は橘前の橋というなり。
橘次信高、こがねをもちて都に行て、母のゆかりあれば、三条のほとりにやどり求めて、こがねをあきなふより、金売橘次といひ、又三条の橘次と人のい へり。橘次かへるさに、九郎判官義経、いまだ牛若丸と聞え給ふころ、鞍馬山に住給ひしを、承安四年のころ、いざなひ奉りて、姉歯の松を見、栗原寺にまうで て、この橘次か館につき給ひて、奥なる秀衡のかりに入給ひしといへり。信高のはらからみな秀衡に仕へて、金田となのりき、牛若丸多門天、(木像御長三寸三分)定朝の作りたる、くらま山開き給ひし妙沢のかき給ひし不動尊、鎧通のつるぎ、かかる器を、八幡 の社に納め給ふ、今に残れり。義経文治二年の比、都をしぞきて、ふたたび陸奥にいたり、此橘次が館にて、うらぶれをやすらひ給ひて、平泉におもむき給ふ。 御館のあと、橘次の住し処も、又衣川の辺に在り、同五年八月、泰衡の亡ひ給ひて、長月のころ、頼朝の仰をうけて、豊前介実俊、国なかのふるあとをあらたむ るとて、神成邑書(ママ)とかへ給ひ、即ち神成寺と記し給ひし処なるを、延文元年領し給ふ。
足利大崎、斯波左京太夫源家兼のきみ、郡県あらためのとき、金成邑と書給ひ、寺の名もなをし、永和二年のころ、探題大崎左京太夫詮持あらためのと
き、天台の僧徒をはなち、宥義といへる、修験者に照山観音、鬼渡社、橘次の建し、三熊野の宮をまもらせ給ふ。宥義の遠つおやは、大外記博士成隆なりけり。
験者となりて、出羽の羽黒山へ登りしは、康暦二年七月也。三迫の大先たちとなりたる、応永廿年九月七日、金成、三田鳥赤児、藤渡戸、末野、有壁、処を霞
(ママ)に賜し処を、あるじの法印、かたり給ふ。くさぐさなることは、みなかいもらしたり。
2002.10.29
2002.11.15 Hsato