菅江真澄全集・第十二巻
かすむこまがた 続
五日 あしたのま、雪ふりていたくさえたり。たからものひらきて見せ給ふ。藤太夫の翁のを もてひとつ、えみたるさまに作たり。をこやの前の面は、いかめにて、口は耳のあたりまでさき、むくちけげになるかたなり。鬼、たつ、をろじ、のなど歯あ り、古笈一つ、劔、弓一張かたへばかり竹を張たり、長六尺あまり也。世中にかまぼこといふ弓也。義家の君、十万張の弓を作り給ふ、其竹とり給ひし処あり。 其辺の坂を、今十万坂といふ。その弓ならん。かなたこなたに残たり。慈覚大師の持給ひし鈴(レイ)ひとつ、ことなるもの也、巨勢金岡のかきし十三仏、又、 五劫恩惟のあみだ仏、いかなる人や作りけん、いみじきみほとけ也。ほかほかは皆漏したり。あたり近き処を望めば、陣ヶ森、頼義、義家屯し給ひしところ、鐙 取(アブミトリ)といふ処あり、義家の君、いかがし給ひしやらん。あぶみ落し給ひて、こは忌むべきことならんとて、あまたの兵、力なふ思ひしに、大宅光任 落たる鐙をとりあげ、「はやいそけ落す鐙もとるものをなぜにとらまし貞任のくび」

君をはじめ、此歌を聞て、人々勇みて本いとげしといふ。此沼の古ぐいなど見ゆといふ。千谷沢といふは、信高かね洗ひてほしたるといふ。見返城といふ あり、金田の城落さんとて、寄せたれど、川水ふかくして得よせで、見返し見返しひきしぞきしところ也。今は見ヶ城といひて、淵の名に呼ぶ。翁沢の畳石とい ふあり、(高四尺五寸廻一丈四尺)那智熊野御社の西にあり、紀の国熊野に、石たたみといふ処ありけるを、 うつしたるにやあらんか。続古今入道大政大臣の歌に、紀の熊野ことを聞へたるは、

三熊野の神倉やまの石たたみ登りはてても猶いのるかなみそぎしみづは、鬼渡神のみたらし、髪長清水は、鈴鹿の前、もてあそび給ひし水也。営ヶ岡は、 田村のたむろのところ也。姉歯の松も、ささやかに見え、きのふ見しつくも橋、かたなばし、こは、いくさのころ、かたなをあつめて、橋を作りしといへり、つ くも橋のとなり也、みなはるけく見やられたり。

南は根白石嶽刈田の白石荒神山、こは、みな月のころのぼれば、はるかにのぞむ谷ぞこに、家あまたあるを、いかなる里としる人なし。又あやしの人に、 あふことありといへり、加美郡のうち也。西の方には、胆沢の駒形、此郡の駒形、尾をまじへたり、二迫の文字邑、不二にひとしき山は、をとが森、一迫鬼頭 (オニカウベ)、この山奥より、白黄土といふ土をとりて、よねをあはせて、辰のとしまで、餅飯となしてくらひしなど、花淵山、いみじき花、いろいろあれば しかいふ。蛇王ヶ嶽、かめわり坂、義経御女う子み給ふ処、かたきの国近く、みちのくまで、御声出し給ふなとて、武蔵坊が、笈川にいれ奉りて、いばりし給ふ 処を、尿前(シトマヒ)といひ、初めて御うぶ声聞し処を、鳴子(ナリコ)村といふといふ、越後の国にもかかるところあり。

東に本吉郡、田束根山、保呂羽権現、大田ヶ森、霞のなかよりあらはれたり。法印あないし給ひて、勝大寺にまうで、二王門のあと、(永承二年ころ建る)鈴鹿の森、すずかの前守仏、白山の社、豊原いせの神を祭り奉る、国見山、五色の池、閼伽の池、 法華寺のあと、竜蔵か巻、花田の巻、又花田の滝など見ありきて、論教坊といふ衆徒のやに入て、御寺のたから見る。鈴鹿前の面ひとつ、田村御笛、弘法大師御 請束、こがねの五股、紺紙金泥のほくえ経八巻、釈祐賢かくとしるせり、四社明神十六善神、西王母いとめでたし、翁の面長髪清水よりわき出たりといふ、慈覚 大師、陸奥三十三ヶ処、順礼の礼、納むる処を、定め給ひしは、廿三番法華寺に、となふは

幾たひもあゆみをはらふほくえ寺にたたまろかれといのるわか身を

廿六番照山観音には、

むかしより参る道者はなんえんし皆仏道のあるをたよりに

こはいにしへの札処、今の三十三処は、名取の老女の告ありて、めぐりそめたる処也。廿二番勝大寺、

もうけすもきへはうせへき罪とかのおもきちかひを頼む身なれは

かかる物語果ててより、とだてにかへる。

六日 雪いたくふり来て、信高の植たる、柏の、庭をおほふ枝も真白につもりたり。あるじの 量海法師のいろは、七とせのいみにあたりけるとて、あまたのうばそくあつまりて、法の行ひありければ、かたはらにありて、

見し人も苔のしたにやしのふらん雫にぬるる花のこずえを

七日 ふたたびといひて出たつに、山よりいづる瓦のやぶれ、木の葉石、箭の根石などつとに せよとて給ふ。法印、藤太夫のふる跡ありけるかたまで、送らんとて、畑邑にいたる。ふる寺のあと、鶏山、こがねの雄り、雌りを埋しといふ、にはとり坂など 聞へたり、平泉などにひとし。笹の倉といふ処は、金蔵の跡、山のかた岨を、金山沢といふは、炭焼し処、今も炭のちりたる、土より出つる。かなやまばらは、 住家のむかし也、こがねの御酒の器埋しところを、すずが峯といふ、銭沼といふ処は、平泉にぜにはこぶ牛たをれふしたる処、一盃水といふは、むかしのあづま 路にて、義経平泉にいり給ふ時、兵らのみしといふ。崩ヶ沢というは、瓦焼たる処也、御寺に書たるは、常福寺殿安児長楽居士、徳雄院智眼貞恵大姉、すなはち 常福寺といふ塔の腰といふ処に、五輪ふたつあり、これならん。藤太夫、をこやのまへ、のしるしなりけり、二つのなかにいしぶみをすへたり、記したるは、

(此処碑文記せられあらず)

鶏山の麓ならん、にはとり坂をこへて、ふたたびといひて別れて、日ぐれは、あか坂という所にとまる。

八日 すさのをの神の社ありけるにまうづれば、瑠璃妻女稲田姫のをましもあり、みち聊か歩 みて、ぜんあみといふ処につく。あるじの翁あないして、稗貫の館、鏡山富任の弁のやのあと、景色の洞(秀衡世にありし比 花かざりし処也)梵字箇池の中島は、無量光院とて、宇治の平等院をうつして、秀衡の建給ふといふ。みづから四壁に観経のこころをえかき、扉 には、狩するかたをかひ給ひし、丈六のあみだふち、三重の宝塔、みな灰となりしあと、なべて、雨そそぎの石は、田の中に埋れながらあらわれたり。つくれる 山、滝落したる処、このころ無量光院の法師、助公と聞えしは、泰衡をしたひ、東をうらみ奉るのこと聞えたれば、めしとられて、景時にとはせたまへば、『此 四代がほどまで、あが寺をはじめ、いみじく帰依し給ひしを、長月三日泰衡きられ給ひて、十三日空くもりて名におふかげも見へざれば、とかなしう侍りてよみ て侍る』とて、口ながら奉る。

むかしにもならざる夜半のしるしにはこよひの月はくもりぬるかな

景時ほめて申しかば、ことゆへなしとやおぼしけん、御感あさからで、かへりてたまものありて、せめのがれたりとなん。坂芝山といふ処あり、是なら ん、円位上人の書給ひしふみに、すぎぬるころ、陸奥平泉郡■(てへん+列)(レツ)(一本に柳の里となり、ここも今は田 となる)といふ里に、しばし住侍りし時、さかしば山といふ山あり。里をはなれて、十余町、川のはたに、高一丈あまりなる石塔を立たり。其ゆ へを尋ぬるに、ある人の申ししは、「なか頃、此里に猛将あり、其女子なりけるもの、法華経よみたく侍りけるが、教べきものなしと、朝夕なげきけるが、ある 時、天井の上に声ありて、汝経をもとめて前におけ、われここに居ておしへん」といふ。あやしく思ひながら、経を得てまへに置けるに、天井のうへにて教侍 り、八日といふに、みな習い給ひぬ。其時天井を見るに、白くされたる苔生たる首に、舌生たる人のごとくなるあり、此しら首の教侍るにこそと、あなかちに尋 ければ、「われはこれ、延暦寺のむかしの住侶、慈慧大師の首也。なんじが志を感じて来りておしへ侍る。いそぎ我を、坂芝山に送れと、なくなく此山に納て、 かくの如く塔婆を立たり、この女は尼になりて、庵をむすひて侍りしが、この二十余年に往生もて侍る」といふ。

山のおくに口三間斗なる屋の、形ばかり残れり、この女の名字、其姓も、其名流も尋たく、年月も考たく侍りしかども、群々知れる人なく、しるすにをよ ばず。此処は、無下情なき里にて、廿余回の前の不思議をもたしかにしらざりけると書給ひしも、此山のことにこそあらめ。又五串村に、骨(ホネ)寺といふあ り。いかなる寺にて、いかなる人の、ほねを埋しといふことをしらず。東鑑には、古津天良とかいたり、今は本寺(ホンテラ)といひ誤る也。是をも慈恵大師の 髑髏の物語にまじへてかたれり。猫間が淵といふは、加美川のへた、今は田畠となりぬ。中島に、ねこまが扇に似たる石ありしゆへとも、又扇の前という女房の しづみたるとも、ねこまというは、うらめにて、うはなりのふるまひに、此ふちに入たるとも里人のいへり。翁、金鶏山をゆびさしてまことやこの山こそ、うら をもとなく、筑たてたる山也、むかしより伝ふる歌は、

朝日さす夕日かかやく木のもとにうるしまん盃こかね億置く

又金億々ともいへり、よみし木はかれてなし。はるけき末の子にあたへむとて、秀衡の埋み給ふ也、又外かにかかるところありといへど、知る人なし。苔 なめらかなる石仏に、金堂円隆寺と記したり。いにしへは九条関白の御手の額をかけ、間毎間毎にをしたる色紙形は、参議教長の書給ひて、いみじくめでたかり しも、毛越寺堂塔(四十余字)禅房(五百有余)みな基衡 の建給ひしを、つれなき元亀野火なりけるよなどいひもて、ちいさき森の中に入ば、三尺あまりの石に、前鎮守府将軍基衡室安倍宗任女墓、仁平壬申年四月二十 日、こは、あとをたづねて、享保十五年にたてたりといふ。

そこを出て、やぶれたる石のぼさちあり、これのみいにしへをしのぶにたれり、そのかたはらに、ふせるがことき石に書いたりけるは、「夏草や兵ともか 夢のあと」はせをの翁のわけけんしるしあり。柳のもとに、泉酒の涌出でしところといふあり。

むかしたれくみしいつみのあとしるくいまもかすみのいろに流れて

天喜五年の春、鎮守府にてましましける、頼義のうし再びいくさをいだして、六月五日、鎮守府をたちて、衣川にいたり給ふを聞て、頼時が弟良昭兵をひ いて戦ふ。つはものいきつき、渇をくるしみたるを見たまひて、はるけく岩清水を拝みて、弓筈(ユハツ)にて岩根を穿給へば、■(さんずい+豊)泉湧出た り、其流の加美河に落入たるといふ、それより北上川といふと云ふは、前太平記などに聞へたり。しかはあれど、なんぶの植清水のこと、むべならんを、このい づみ酒のことに引たり。

判官館にのぼる。この丸、本丸など、すす竹生ひしげり、かひわきて坂をのぼれば、もる男にやあらん、鍵もて扉をひらけば、義経のみすがたを木にて作 り奉る。御たけ三尺あまり、竜かしらの甲きて、右にから扇を持、左にくさずりをおさえて、あぐらにかかり給ふは、いきてやおはしますかとおぼふ。此きみ都 を出給ふときは、義経を義行と書かへ、みちのくにては、義顕となのりて、一条今出川の、久我殿の御姫みやを具してここに住給ひし、又河越太郎が娘を具し給 うとも、大納言時忠卿の御娘をぐし給ふとも、まちまちにいへり。ほろび給ふのとき、御女子に、しぬべきやうをいひ送り給ひて、身まかり給ふと聞給ひて、か たなにつらぬいて、いき絶給ひしかば、海尊と清悦と、はからひて、此館に火をかけて焼たりといふ。此の清悦といふは、あやしき人にあひて、にんかんといふ 魚をくひて、五百歳のことぶきをたもちたりといふ。三人たうひしといふ、いまひとりは、ひたち坊ならんか。このこと清悦物語といふものに見へたり。義経の 雑色に、喜三太清悦(キヨエミ)といふものありしが、老て法師となりて、清悦といひたるにやあらん。ある人のものがたりに、にんかんというは鮭の腹のなか にある、人の形に似たるもの、たまさかにあることあれど、とり捨るなどいへり。杉目行詰といふものの、口に文をふくませて、鎌倉をあざむき奉るを、和田義 盛、梶原景時あらたむ、景時いかでや、うたがひをおこさでやあらん。又火にやかされて、かたちかわりしにや、あとをくらまし、蝦夷が島に、むさしと共にわ たり給ふともいへり。かのうら国に行給ひしといふは、義行といふ人わたりしとあればにや。義経世をしのび給ふとて、義行とあらため給ひしを、いかなればと て、人しらぬから国まで、義行と呼ばれ給はむこといぶかし。江刺郡伊手邑に、源休館といふあり。義経住給ひしといふ。かかることはいかならんと、あないの 翁うたがへるもおかし。

物見といふ所は、加美川の高峯にて、長部(ヲサベ)山の頂に、手のさしとどくべう思ひたり。此山は、都のひんがし山をうつして、この麓三十里余りに 桜を植へ、其花ちり流るるとて、桜川とよびしといふ。又此山も卯月さつきに、雪残りてまだらなれば、駒形嶺といふは、あやまれるならんか。又いねをつかね たる、おもかげあれば、束稲(タハシネ)山といふ也。

琵琶の柵のふる跡はいつこならん、翁は知らさりける、西行上人の文に云、「十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、小雪ふり嵐はげしく、ことの外 にあれたりけり。いつしか衣川見まほしくて、まかりむかひて見けり。川のきしにつきて、衣川の城見まはしたり。ことがらやうかはりて、物越に見るここちし にけり。汀氷りて、とりわけさむければ、

とりわきてこころもしみてさえ渡るころも川見に来たるけふしも」

またをなし文に、「陸奥のくに、平泉にむかひて、たばしね山と申山の侍り、こと木はすくなきやうに、桜のかきり見へて花の咲きたるを見てよめる、

聞もせすたはしね山の桜花よしののほかにかかるへしとは

奥になほ人見ぬ花の散らぬあれやたづね越ゆらん山ほとときす」

翁にわかれて衣河にいたる。琵琶の柵は、貞任すみて、門前に桜あまた、植えたりしといへり。其桜ならんいとふりたる桜あり。今けんだんさくらとい ふ。検断したるさぶらひや住みけん。花さかばふたたびと、こころにちきりたり。円位法師、松近川といふことを、

衣川汀によりてたつ浪はきしのまつかねあらふなりけりこの松はかれたり。ありしところは、道遠ければゆかじ。西行上人平泉に、とし月をへ給ふと聞へ しは、秀衡にゆかりあるゆへにやあらん。庵のあとなどありといへり、日もくれなんいざとてくれば、さと風吹て、山沢ひとつにどよめいて、なりさはげば、い とどいにしへのことしのばれて、涙落しぬ。

松風の音にひかれて思ひやるひはのしからみかかるむかしを

いにしへここに、衣川殿といふありて、河登麻といへる娘ありけるを、世の人ころも川のむすめと、河登麻の名を袈裟御前とよぶ。源の渡といふ人の妻に なりぬ。此女のかたち世になふめてたければ、遠藤武者盛遠、この女をあさからず恋したふ。つまある身なればとて、したかはざるを、いなとのたまはば、母を さしころさんといふ、女せんすべなふ、さあらば、あが男のゆあみして、ふしたらんを、此たそがれ時の、おほおほしきまぎれに、たよりもとめてきりたまへ、 さすればかかれる雲なふして、此身をまかせ奉らんと。盛遠よろこびて、くるるを待てしのび入て、ふしたる枕をかけてきりてけり。いそぎしそくしてこれを見 れば、渡ならで、安登麻なりけり。盛遠おどろいて、かかるみさほの女はあらじ、あたら女をなさけなふとて、いたくくひて、其血かたなにて、髪をきりて十八 のとし、すけして名を文覚といひて、女のなきがら埋し処に、つかをつきて恋塚といへり。文覚上人の塚は、……(欠行)又法国に、遠藤なにかしは、その末に こそありけれと、人のいへり。

義家のきみ、大かぶらひきしぼりて、『衣の館はほころひにけり』とのたまへば、宗任とりあへず、「としをへし糸の乱れのかなしさよ」と答ふを聞て、 箭を放つことをとどめ給ふとなん。月を見る見るくとて、おもひつつけたり。

谷川の水もをほろのかけ見へて山路はこのめ春の夜の月かなたこなたの山のもゆるは、うど、わらびとらん料に、山賤のしけるといふ、此夕。むくろぎと いう村にとまる。

十日 かみ川のきしをつたひて、いとひろき野中に出たり、鶴形を馬につけて行あり。又しろ きも、くろきも、たちくひえはみなど、いくつもならべてさしたり。そのかたはらに、まふしなど引まはしたり。霞のうちにはるはると見やられたるは、まこと のあさりかとおもふ。六日入にいたる。

十一日 徳岡に行、みちふみあやまちて、田の中をわたりてくれば、いとよき梅の咲たるやあ れば、しばしやすらはんとて、木の根にしりうたけすれば、あるじするにやあらん。あまた、にもちいいくはすとて、いたくしひすしなどして、あなはらくちと て、くふべくもあらねば、ただ是ひとつをおたちにせん、いれたまへといふを、いづこにかたうひ侍らんとて、かどのとまで、飯げ持出て、にぐるを、やらじと 追めぐる、見し人のわらへば、なし給ひそ。ひんがし山の、なにがしの堂の、いもいの日は、いものこひとます、あづきひとまず、しらよねひとます、くわでや はあらぬことさへ、侍るにといへり。くにところぶりこそ、かはるがはるおかしけれ。

十二日 あしたより、しづけく雨ふりて、けふもくれたり。

十三日 ゆさふりつかた、ないしたり、七日、八日にやあらん、日ひとひのうちに、よたび、 五たびの奈江したりといへど、ふるはざるかたありしにや、しらぬ人多し。

十四日 庭のやり水、手あらふ水などに、うすらひありて、いたくさへたり。かかれば、此里 の花は、はるのうちに見んことは、かたかるべし。

十五日 良知と共に、前沢のうまやに行、山かげなるところに、いさは大林の村里しめたる、 樫山伊勢守の守、五郎九郎の館の跡、花の木あまた立たれど、いつ咲き出べくも見えざりけり、夕になりて、遠かたの山々に、火をはなちたるは、紅葉、つつ じ、などに、夕日さしそへたるここちせられたり。こよひは、霊桃寺の御寺にいねたり。

十六日 からすのねぐらはなるるころ、曙見んとて、さうじあけたれば、いと高き処にて、の こるかたなふ見やられたり。月の残たるかげに、たばしね山の、のこんの雪、かみ川のながれうちかすみたり。あけそめて、横雲ひとすぢ引たるは、えもいはむ かたなし。花のあらばいかがあらん。

たはしねの花のむかしやいかならんみねもふもともかすむあけぼの

午ひとつ斗、ちかとなり山に、野火かかりて、すはあやまたんとて、処の名しるしたる幡おしたて、鎌棒やうのもの、杉のさえだを手ごとに持てはしる、 ほどなふけちたり。此夕安平なにがしのぬしのかりに、月のかたふくまで在りて、み寺にかへる。

十七日 曙はきのふよりもおかし、けふもここらの山々に、野火のうつりたるを見つつ、徳岡 にくれて来けり。

十八日 鳥海胤次の賀とて、花有喜色といふこころをよめといへれば、

よろこひの色にさくらのはなさけり猶いくはるも人や見るらむ

十九日 朝霜すさまじく、木毎におきて、やや咲いでん梅の、つぼみたるなどをとろへたり。

去年の秋菊のたち枝におきそめし霜にひらけぬ梅のはつ花

廿日 大原といふ所にいかんとて、遠近の山のかすみておもしろければ、あらぬかたに山ふみ ありきて、陽の森とやらんいへる山かげを行ば、板子沢といふ処にいみじき滝あり。そがうへに流るる水のさま、水といふ文字を、安らかにかき流したるごとく に、おかしき山川なり。此たきのめでたさに

行水の文字のすかたになかれてはきしにかずかく滝のしらいと

霊桃寺のうしろに出で、あるじの尊師に、しばらくもの語して、相知りたる人とともに、日くれて、藤巻川といふ河の、丸木橋をたとたと渡りて、

花の浪よるかけてふむ丸木橋ふちまき川の名さへにほへる

麻生といへる処の、鈴木なにがしがやにとまる。

廿一日 朝といづれば、色よき梅を、紙のふくろにさし入てもて行を、あはれ一もとのめぐみ あれやと、垣ねさしのぞきていふを、此花持たるさるかたより、何がしとののやに送り給へば、いかがにやあらん。さはゆへ、ささやかなるは、わがこ(ママ) してとて、もとつ枝折わけて、かきねの中にさし入て過るを見て、

一と枝の春を見よとて梅のはなこころあるしの送るなるらん

霞のなかに、きぎすのほろほろ鳴けるかたを見れば、栗駒の雪いとふかし。

栗狛の山に朝たつ雉子よりもわれをはかりにおもひけるかな

といふ歌を、おもひ出してすんず、かみ川のへたをつたひて、常雄のやにつく。あるじきさらぎの末つかた、おほやけにめされて、いみじくさちなること を、むくひ給ふければ、ありかたきかしこまりとて、よろこびとなへくる人に、あるじして酒のませける。人々そのこころをいひしうた、あまたあれど、みなも らしたり、あるじの云、

うれしさの袖にあまりてたらちおの世にしあらはともるなみたかな

われにもいへと、聞へたればいふ、

ときをえて春のめくみにさくら花こころひらける宿のたのしさ

廿二日 けふも、ここらの人あつまりて、あしたよりくるるまで、ものくひ、酒のみ、さるか ううたひ、はた女なども、えひしれて、手をうちうちうたうたふを聞バ、『いのちながかれまつがね枕、苔をふとんしきしまの』かかるひとふしは、今の世のこ とがらともおぼへず、いとおかし。

ちりうせぬ松かね枕とりどりにちよのためしをうたふもろ人

廿三日 けふも人あつまりて、酒のみて、はてはては、ひぢを曲て枕をし、とに出てたくりし てふしたるもあり。

廿四日 おととひの雨いたくふりて、又岳々の雪けぬるにや、北上の水まして、舟もこぎわづ らひて、ややつきぬ。母躰の里を過きて、山路越くば、小枝といふ村あり、鶯を聞つつ休らひて、

山かけの梅のさかりもしられけりさとのこえだにつたふうくひす

田河津にいたりて、為信をとふらふ。あるじ、こはゆくりなく、このとしはじめてこそあれなどいひて

けふいくかとひこん人を松の葉のかはらぬいろを見るそうれしき

春なから花もにほはぬ奥山に尋れ来にける人そうれしき

かくなん聞へたる返し、

松のはのかはらぬやとも春とへはいま一しほのいろをこそ見れ

花もまた咲かぬ春の山里に人のこころの色そ匂へる

川底の窟とて、おもしろき処あれば見に、あるじともに行ば、小河のきしなる処に、いくばくの高きいはねに穴あり。入て見ればいとひろし。その中に も、水ほそくながれて、うへには、鍾乳石たるひのごとくかかりて蝙蝠すめり。又そが中に穴あり。其ふかさしる人なし。たまたま松ともして入ても、小川など あるかたより、みな帰りくといへり。こなたも、日かげはさせどほのぐらし。世にめでたきところなりけり。いはやのとに、橋二つわたしたる。うへなる処に は、やがて咲べう桃の木たてりたるに、ふとおもひ出たり。

もろこしにさくてふ桃のはなかつらかかるいはやに人やわけけむ

廿五日 馬やとひくれば、いと高やかなる山のかたそはに、いかめしき厳ありけるをとへば、 馬ひく男、こひちといふ処に侍るといらふるを聞て、

いくはくのこひちつもりてここにいましら雲かかる山となりけん

おしまきといへる川へたをめぐり、やかたわたりえたり。又田つらをつたへば

春ふかみ山田の面に苗代をおしまき川やまかすなるらむあら山中に、小屋作りて、かね吹といふやあり。たたらの音うたふ声を聞つつ、駒とく過れば、か へり見て、

山いくへかさなる奥にまかね吹くけふりもかすむ春の遠かた

やま川の濁りて行は、砂かねをとりけるゆへとなん。摺沢といふこなたに、かのにごれる水を、矢ながれといふは、昔世中しつかならざるころ、かなたこ なた、射かくる箭なかれしなど、馬引とどめつつかたる。ほどなく大原につく。芳賀慶明(ヨシアキラ)てふ人のかりをとふ、すなはちここといへば、

宿しめしあるしゆかしくとひよればまづ袖匂ふ梅の春かせ

あるじのかへし、

すみあれし草の庵の軒ちかく花の香さそふ春風そふく

廿六日 朝霜いたく置たるに、室根山かすみて、そことわかるべくもあらざる中に、鶯の鳴た り。

うちはふきおのか羽風に梅か枝のあさ霜はらふ鶯のこえ

廿七日 あたり見ありけば、童あつまりて、くいぜのをきものを、手ごとに持て、つちにうち いる。是をつくしうちといへり。かかるわらば遊びは、国国に多し。家あたらしくつくり、かやふきをさめし祭りとて、かますといふものに、餅入てうちまきた るを、わらばへ集りてひろふ。たくみのをさならん、ちいさき鎌を造りて、やねの六ところにさしたり。此夕より雨ふる、夜うち更るまでなにくれと語る。

ふる雨の音もしつけくおもふとち夜のまといにものかたりして

廿八日 よべよりをやみなふ雨ふる。きのふの奈江は、雨のふらん料にこそなどいひあへり。 あるじ慶明、過たる日よみしとて、かいつけて見せける、

山里にさすか住うき柴の戸にとふはうれしき鶯のこえかへし、

鶯の声をしるへにたづねえし花のありかにあかすかたりぬ

廿九日 けふをかきりに、春の暮れ行といふめれど、いまだ花もさかぬに、つれなふ日数みぢ かく過ぬることよと、なげきわびぬ。いざ春の余波の山見てんとて、あるじとともに、ふるたてにのぼる。いにしへ、大原飛騨守宣広とかや聞へししがらみのあ となる、したつかたに、杉のしけりたるあはひ、はつはなさくら、枝さし出したるはいとよし。こなたの御社は、■(にんべん+舞)草の神をうつし奉る。しば しと草の上に休らひて、

むかし人宿のすみれのうすくこく芝生にましる色そのこれる

いまいくかありて、花やさかりならんと待たれて、

けふといへはいつこも春のくれはとりあやしや花の色も見なくに

屋にかへれば、時のまに、はやち吹てむろね山かきくもりて、神はいたくなりて、雨はいにいてふりぬ

長鋏矩衫游子顔 行車載筆度衣関 風前弄笛花閑蕗
石上顕詩人未還 千里鯉出碧海郡 三年客夢金■山
勧君買酒只応酔 如此春光不易攀

といへるからうたのすえなる、攀の字をとりて、くりかへしあかぬなかめのはなかつら、みちのく山に心をそひく、

又見耳といふ人の句に、

はなの名残こよひのあらしおもふにそ
 
 

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2002.11.15
2002.11.19  Hsato