菅江真澄
かすむこまかた



二十日 

けふは岩井ノ郡平泉ノ郷(サト)なる常行堂に摩多羅神の祭見ンとて、宿の良道なンどにいざなは れて徳岡の上野を出て、はや外(ト)は春めきたりなンど語らひもて行ク。遠かたの田ノ面の雪の中にここらたてならべたる鶴形(ツルガタ)は、まことにあさ るさまして、真鶴(マナツル)、黒鶴(ナベツル)、餌ばみ、立首なンど、みな生るがごとし。こは、去年の秋、稲刈りをへるやいなや此鶴形を立り。此鶴の始 めは、いつの世ならむ及川某といふ武士(サモラヒ)造りそめぬ。其後胤(スエ)なほありて、其及川の家に刻ミ彩リたるははかなきやうなれども、鶴の能ク飛 び下降(クダ)るといひ、また良工(ヨク)もの作る人の心をつくして造りたりとも、人は、めをおどろかしぬれど、鶴(トリ)の目は、そをよしともおもはざ りけるにや、及川が家の鶴形には、今も能く鶴の群れくだるといへり。鶴形はいといと大なるものにて、二ッならでは馬に負(オフ)せじとなむ。真鶴、白鶴、 黒鶴なンどさまざまに彩(イロドレ)り、此いろどることを、にごむと方言(イヘ)り。其にごみたる上へに大豆液(マメゴ)といふもの塗(ヒケ)ば、烈(ハ ゲ)しき雨風露霜、氷レる雪にさへ腐(クダ)さず残れり。田の畔に小柴さして射翳(マフシ)とし、その内に入りて鉄炮(ヒヤ)してうつといへり。秋は鶴形 いといと多く、今は鵠(クグヒ)〔白鳥をいふ也〕形、鴨形、雁形なンども作り出て、鳥もめづらからず、見あざむにや、むかしほど降りも来らざるよしを語 る。行行鶴象(ツルガタ)といふ事を、

  木々の枝は花とぞ見つるかた岨にのこれる雪もけふはかすみて

前沢ノ駅(胆沢郡前沢町)になれり。此あたりの家々に、水木の枝に蚕玉(マユダマ)とて、玉なす餅を、つらぬ き附て梁にたてり。勝軍木(カツノキ)ノ菊ノ削花を幾英(イクフサ)となく、某(ナニ)ノ木の枝ならん、それにひしひしととりさしたり。また、こと木の枝 をおし曲ヒて、青小竹(アヲシノ)の箭(ヤ)の三尺(ミサカ)ばかりなるを矧(ハギ)て、その弓の上■(弓+肅)(ウハハズ)より白麻(マシラヲ)を乱し 附て、艮門(ウシトラ)の方にはなたんさまして、削花の木の中つ枝に結ひ添へて門々たてり。こは十五日にしつる歳の祭ながら、いまはた残りける也。延喜式 に、御仏名とき、菊の削花なンど聞え、また正月門戸に削花挿むは、いといと古きためしにこそあらめ。かくて、鈴木常雄、けふの事かねて書(フミ)もてもの し聞えたれば、前沢の郷あたりにて出テ会(アハ)むといひしごと、常道といふ人をぐして、横路より雪ふみ分て来けり。まづ此年始てのた
いめなどありて常雄。

  かくてこそ猶うれしけれかねごともけふにたがはで逢ぞ楽しき

とあるに返し。

  玉づさにむすぶ言葉をしるべにてたがはぬすぢに逢ぞうれしき

道よりひむがしの方に名におふ大桜とてあり、枝四方八方(ヨモヤモ)うちたれ、雪をおびたり。木の太(フト) さは、十二人手をつらねて周回(メグル)といふ。そこに斉(マツ)りて不動明王ノ堂あり、家二三(フタツミツ)戸ありて村名も大桜とよぶ。いにしへ秀衡、 束稲(タバシネ)山に千本(チモト)の桜を植(ウエ)られし事あり、そのころのたねならむといへど、此大桜は千歳(チトセ)ふる木ならんと人々のいへり。

  こと木よりつもれる雪も大桜花も芳野のいくもに見む

と書て堂にさし入たり。かくて此処を出(デ)て、右の方に白鳥明神の塔の跡も雪にふり埋れ、白鳥ノ二郎行任が 名は世に人しれり。徳沢長根の雪の片岨に小松の群立(ムラタテ)るは、輝井ノ太郎が陣取し地也(トコロ)。また道の傍に雪に埋れし碑(エリシ)は、山田治 左衛門とて、新墾(ニヒバリ)にいさをありし男(ヲノコ)のゆえよしをしるせりといふ。そは百とせまりむかしの事となもいへる。瀬原ノ里に来けり、金命丸 といふ薬を売(ウ)る家あり。此里の艮(ウシトラ)の方に小松が館といふあり、そは、阿部ノ兄弟栖家(スミ)たる瀬原ノ柵ともいひ(し=脱)処といへり。 浅からずおもひそめしとよめる衣川を橋より渡る。此水むかしは艮に落て、今は東に流ぬ、そこを押切リといふ。いにしへは兵多くうち死し、あるは洪水(ミ ヅ)に流しといへり。其とき武蔵坊ばかり上に流れしといふは、北上川も衣川も一面(オシナメ)て流るれど、衣河の水にしたがひ、上の方、北ざまにながるる を寄手の見て、弁慶のみ上(ミナカミ)に流るは、もともあやしき事といひしとなむ。此衣川の源に、清浄が滝とていといと大なる滝あり、今そを障子がと訛 (アヤマ)りいふとなん。むかし慈覚円仁大師衣をあらひ、かたはらの木(に=脱)かけて乾(ホ)し給ひしよし、さりければ、それより滝を衣の滝、その流の 末を衣川といふといへり。順徳ノ帝「風冴る夜半に衣のせきもりはねられぬままに月や見るらむ」とよみ給ひしその関の古ル跡トは、鵜(ウ)の木(前沢町北上 川のほとり)といふ地(トコロ)に在り。今は来藻(コロモ)ノ里(サト)(胆沢郡衣川村)は卯の方にあたれり。むかし束稲山(タバシネヤマ)の麓に桜あま た植て、此桜の花の影上川〔北上川をいふ也〕の水にうつり散れば、雪の流るるがごとくいといとおもしろければ秀衡、北上川を桜川と名附られて芳野川にもを さをさ劣(オト)らざりしが、今は束稲山には桜一樹(ヒトモト)もなく、中尊寺の辺(ワタリ)を桜川とよびて、酒■(酉+古)亭(ウルヤドリ)、そをいへ るのみ。むかし貞任が舎弟(オトヲト)則任、命惜(ヲシミ)て死(シナ)ざりければ、その妻(ツマ)としは十八なるが、夫(ツマ)の勇(イサミ)なかいを いたくうらみて嬰児(ヲサナゴ)をいだきて、「いまぞしるなみだにぬるる衣川身は流すとも名をばながさじ」とて、衣川に飛入りしとなん語り伝ふ。『前太平 記』には、城内の二の堀に身を投しと見えたり。また阿倍ノ則任が居城(シロハ)衣川に在りて、一ノ城堀(ホリ)へも二ノ堀へもみな衣川の水を落したる地 (トコロ)也。巽(タツミ)の中(カタ)に、かごしものひとり秀たる山あり、そは岩井ノ郡ノ式ノ御神二社ノひとはしら■(にんべん+舞)草(マヒクサ)ノ 神鎮座(マセル)みね也。鈴木常雄。

  をりをりに来てこそしのべころも川ながれて遠きむかし語リを

また村上良道。

  春もまた浅き雪消の衣川きしの氷はとくるともなし

など、人のよめるを聞て、

  衣川いく世かさねしいにしへをおもひ渡れば袖ぬれにけり

人々の歌あまたあれど、ところせければ、みなかいもらしたり。いといとふり生(タテ)る一木は鈴木ノ三郎重家 が塚(ツカ)ノ松、また権ノ正兼房がしるしの石などあり。弁慶が壟松(つかまつ)を見て、人みな彳ミ歌よめるを聞て、

  松がねに苔こそ埋めむさしあぶみさすがに高き名やはかくるる

しかして中尊寺にまうでむとていたる。そもそも此中尊寺といふは、鎮守府ノ将軍陸奥ノ守奥羽両州ノ押領使従四 位上少将藤原ノ朝臣(アソミ)秀衡入道世に在りしころ、白河ノ関より外(ソト)が浜まで千本の率堵婆(ソトバ)をさして、そが中央にあたれりとて中尊寺と はいへるとなむ、真名(マホノナ)は弘台寿院といふ。鼻祖は円仁大師にて嘉祥三(八五〇)年に開(ヒラキ)給ひし御寺といへり。

ここに白山ノ神また日吉(ヒエ)ノ神をうつしまつりて、此二柱の御神山をまもらひ鎮座(シヅモリマセ)り。四 月(ウヅキ)ノ初午ノ日は白山神の祭にて、七歳男子(ナナツゴ)を馬に乗(ノセ)て粧ひたて、白兎(シロウサギ)の作り物あり。此白兎は従者(スンザ)に て、もろこしより神のぐし給ひしまねびといへり。此処(ココ)に斉奉(イツキマツ)る白山ノ神霊(カミ)は八十一(クク)隣姫(リヒメ)の神にはおましま さず、その韓神にてぞいまそかりける。其日は田楽、うば舞(マヒ)、さるがうなンどありて、賑(ニギハ)へるよし人の語る。経蔵に戸ひらかせて入れば、立 獅子(タチシシ)に乗(ノレ)る文殊師利菩薩(ボサチ)、獅子(シシ)の口索曳持(タヅナヒキモタ)るは浄明居士、また筺(ハコ)ささげ立るは善財童子、 また仏陀波利(ブチダハリ)、優■(門+眞)王(ウシムワウ)なンどの仏(ミホトケ)は、みな毘首羯摩が作(ツクレ)りといふ。うべも、めもあやに、あが 国にはもともまれ(な=脱)る御仏也けり。また釈迦仏(サカブチ)一世の経典(ミノリ)納経の始は、七十四代の帝鳥羽ノ院のみくらいにつかせ給ふとし、天 仁元(一一〇八)年戊子ノとし藤原ノ清衡寄附せり。世に名ある手(テ)かきの僧(ホフシ)を集めて、古キ寺々に在る経典を紺紙に金泥(コムデイ)してかか せ、また一ト行リは金泥(コガネ)、一ト行リは銀泥(シロガネ)の文字して書(カキ)たるあり。此経典(ソメガミ)巻たるはみな木瓜の紋(カタ)あり。そ が家のしるしにや。

また基衡納経はおなじ紺紙(ソメガミ)に、金泥(コガネ)の文字(モジ)ノ色ことにつややかに見えたり。此多 かる経典の中には、今し世にある一切経とは文字の多小、訳(ヤク)のかはれ(る=脱)もありといへり。また婆粉紙(バフムシ)とて黄色梵本(キナルヲリマ キ)の経あり、そは宋板(モロコシズリ)にして秀衡寄附のみのり也。此経筺(バコ)の文字はみな螺鈿(ラデム)をちりばめ、また唐櫃(カラウヅ)の内より 大蛇(ヲロチ)の歯(ハ)、水火ノ玉ひとつ、藕糸(グウシ)ノ袈裟(ケサ)なンどとうだしてぞ見せける。金色堂(コムジキダウ)、そは俗(ヨニ)光リ堂と いふ、扉(トビラ)もおしひらけり。こは天仁二(一一〇九)年己丑ノ春清衡ノ建立の堂にして、七宝荘厳(シチハウサウゴム)の巻柱(マキバシラ)、戸枚 (トビラ)の光リ、長押の螺鈿なンど、みなそのさま、からめける細工(タクミ)也。そが中に観世音菩薩、(左ニ)勢至菩薩、(右ニ)地蔵菩薩、三尊(ミハ シラ)のぼさち立給ふ。そが中の座(オマシ)の下には藤原清衡の棺(ヒトキ)あり、大治元(一一二六)年丙ノ午ノ七月十七日逝去(ミマカレリ)。左の菩薩 の下には基衡の棺(ヒトキ)を隠(カク)せり、保元二(一一五七)年丁ノ丑ノ三月十九日みまかれり。右ノ方のぼさちの下には秀衡入道の棺あり、文治三(一 一八七)年丁未の十二月廿八日みまかれり。また入道の棺に、和泉三郎忠衡が頸桶を後に内(イレ)たりといへり。その三代の人々の躯(ムクロ)には羊(ヒツ ジ)の脂肪(アブラ)を塗(ヌリ)て、巴牟耶(バムヤ)といふものもて棺に攻(ツメ)て、沙羅布(サラフ)といふ布(ノノ)にて上へを包み封(フムジ)た りといふ。

年を経て布もくちやれて、ふむじも解(トケ)ぬれど、此棺をひらけば、つめたる薬気(クスリ)はつとたちて、 つゆばかり眼(メ)に入りても盲瞽(メシヒ)となりとて、誰れひとり手やはふるる。また、なにのよしありてかひらかむや。清衡、基衡、秀衡三代の横刀(タ チ)あり、その飾(カザリ)なンどいふべうあらじ。建武二(一三三五)年乙亥の春野火かかりて、堂社僧房院々残りなく、四十七宇の洪鐘もみながら回禄(ヤ ケ)て、時の間に灰となりしとなむ。さりけれど此金色堂(ミタマヤ)のみ焼(ヤケ)のこり、また経堂も屋根のみ焼たれど内には事なう、いにしへを見るに足 れり。此光リ堂、経蔵のみまたくして、その外は御仏のみぞのこれる。また弁慶が九寸五分といふものあり、そは山賤のもたる山■(ナタ)てふもののごとく、 一尺二三寸のかねを厚(アツアツ)とうちのべたるものにて、劔柄(ツカ)は透(スカ)しにて、手をさし入レて握しものとおもはれたり。むかし京都(ミサ ト)にて、ある小寺の開帳のとき、某宝物の内に見し破石刀といふものありしが、その破石刀のさまに似たり。これもなかなか弁慶時代(トキヨ)のものにはあ らじ、いといとふるきものにこそあらめ。また康永二(一三四三)年と刻(エ)りたる洪鐘(カネ)ひとつあり。堂舎もみな、かりやとおぼしくて四阿両下(マ ヤアヅマヤ)めけるさまに作れり。弁財天女ノ堂に金光明最勝王経の曼茶羅十巻、みな金泥もてそのあらましを彩(イロドリ)かきたるは、めもあやに見えた り。堂舎僧房の在りし古跡(フルアト)を見めぐりて、物見とて杉のむら立(ダテ)る処にのぞめば、衣河は糸すぢのごとくみだれて加美(カミ)川の流に落た り。武蔵坊が流れたりし中の瀬といふも今は田畠となりぬ。

和泉が城、岸(キシ)の松、亀井の松、蓮台野なンど残ンノ雪に埋れたり。山口ノ堂に、武蔵坊が七道具負(ナナ ツダウグオ)ひもて立(タテ)る、六尺(ムサカ)まりに作りて、いといと近き世にすえたるを見て笑ふ人多し。九郎判官の館の跡高館といへるあり、武蔵坊が 館跡、その外の兵等が住しあとも、みな畠となり山賤の住家となりぬ。義経堂に登りてむとおもへど、雪のいと深ければ、ふたたびたらむ、はや日もかたぶき ぬ、いでとて、こよひの神事にいそぐ。道のかたはらの雪の中に八花形といふ処あり、そは国衡、隆衡が館ノ跡にて、外堀なンどは千町ノ田となれり。此あたり 雪いとふかし。小堂(ササヤカノダウ)あり、此堂の内(ウチ)に鉄塔(テツタフ)とて、いといと大なる鉄塔(クロガネノタフ)の、なから砕たるあり。そが 内(ナカ)に女の黒髪(カミ)いたく納めたり。いにしへ秀衡の室(ツマ)の、ぬけちりたるくろ髪をかく納められしものとて、今の世かけてしかぞせりける。 かくて摩多羅神の広前(ミマヘ)にぬかづく。いまだ人もここにいたらねば、今しばありて来らむとて、千葉某といふ人のもとに行なんとて人に いざなはれて行ぬ。

しかして此あたりを見わたす。慈覚円仁大師陸奥国修行(ミチノクスギヤウ)のとき、白毛(シロキケ)のちりこ ぼれたるをあやしみ此毛を踏越(フミコエ)て山に入り給ふに、白鹿にうちもたれて眠る老翁あり。こは、いかなる人にておはしけるかと円仁とはせ給ふに、我 は此山を守護(マモレ)る翁とて、鹿とともにかいけ(ち=脱)て見えず。円仁、こは此山をひらきて、賤山賤等(シヅヤマガツラ)がために仏法流布(ホトケ ノミヲシヘ)あれと神の造(ツゲ)給ふにやとかしこみ尊みて、薬師如来を安置(スエマツリ)て医王山毛越寺金剛王院といふ。天台宗にてあまたの堂舎、あま たの衆徒なンど甍(イラカ)をならべて栄えたりし山ながら、元亀三(一五七二)年の野火にたちまちやけて、今は礎のみぞ残れる。また嘉祥寺破壊(スタレ) こぼれたるときは、堀河院、鳥羽院の勅ありて、ふたたび興して藤原ノ基衡の建りといふ。また嘉祥寺におしならべて円隆寺といふも新(アラタ)に建立あり き。その時の勅使は左少弁富任ノ卿也。富任、三年(ミトセ)此平泉に住(スメ)り、その跡は勅使屋敷とて、今は島崎坊とて衆徒すめる也。また康元、正嘉の ころならむ、相模守時頼、最明寺して落飾(スケシ)たまひて、法ノ名を覚了房道崇と号(ナノリ)て国々めぐり給ひ、ここにもしばし杖を曳(ヒキ)とめられ しといふ庵の跡あり。また舞鶴(マヒヅル)が池も雪に翅(ツバサ)のふり埋れ、梵字が池、鈴沢(スズサハ)の池、柳の御所は、清衡、基衡の館の跡にして、 其むかし江刺ノ郡豊田ノ館をうつされて、豊田ノ御所とも云ひし(と=脱)なむ。又秀衡、基衡ノ館は伽羅楽(カララ)ノ御所といふを、人みな、からの御所と 呼(ヨベ)り。また泉ノ御所ともいへる、そは泉酒(イツミサケ)とて豊酒(トヨミキ)の涌(ワ)キたる事あり、酒は栄(サカエ)のよしをもて、居館(ヤカ タ)は泉ノ御所とも名附られつるものか、泉酒の涌出(ワキデ)し池の跡を今は泉崎といふ、また泉三郎忠衡も此処に住みて泉とはいへるならむ、和泉(ニギイ ツミ)のよしにはあらざるべし。また正月(ムツキ)のやらくろずりの唱歌(ウタ)に、「泉酒(イツミザケ)が涌クやら、古酒(フルサケ)の香(カ)がす る、妾持(ヲナメモチ)の殿(ト)のかな」また、今年酒が涌やら、去年(フル)酒ケの香がすると唱(ウタ)ふ処もありき。かたふかといふ処あり、そは片岡 ノ八郎弘常が館(ヤシキ)跡也。また鈴木ノ三郎重家が館ノ蹟(アト)は弘台寿院〔中尊寺の本号なり〕の山の西ノ麓に在り。また『円位上人選集抄』に誌(カ ケ)る、その尼寺の跡あり。

また花立山といふ山あり、そは基衡の妻(ツマ)、某(ソレ)ノ年(トシ)の四月(ウヅキ)二十日に身まかり、 此室(ヲミナ)もろもろ花を好(スケリ)とて、其日にあらゆる花を彩作(イロドリ)りて此山(に=脱)さして、室(ヲミナ)のなきがらをその花立山に埋 (カクシ)てけるよし。基衡の室(ツマ)は阿倍ノ宗任ノ女(ムスメ)にして、和歌(ウタ)にも志シふかかりける人にや、木草花をになうめで給ひしといふ。 今も四月廿日には僧(ホフシ)あまた出て、かりに葬(ホフリ)のさまして、目をすり掌を合せ数珠(ズズ)をすり幡を立(テ)、宝蓋(テムガイ)、宝螺(ホ ラ)、梵唄(ボムバイ)をうたふ。是を四月の哭祭(ナキマツリ)といふ、もともあやしき祭也。むかしはこの哭(ナキ)祭の日は、知るしら ず、僧等(ホフシラ)とともに経をうたひ金鼓(コムグ)を鳴らし、あるは、その声どよむまで、よよと哭(ナキ)しといひつたふ。また忠信、次信が館跡は、 高館の下なる地(トコロ)の岨めける処也。義経の御館(ミタチ)は高館とて、いといと高き処に在りて、その乱ノ世に九郎判官、これまでとて怨(エムジ)た る一章(ヒトマキ)を口に含(フフミ)て御妻子(オホムメコ)ともにさしつらぬき、その太刀もて腹かき切リ給ひしは文治五年閏四月廿九日、御年卅三、法名 (ノチノチ)通山源公大居士と彫(エリ)て、霊牌は衣川邑の雲際寺にをさむる也。

また『清悦物語』高館落のくだりに「判官、兼房をめして今は生害あるべしと仰らるるに兼房つつ しみて申上るは、身方残らず討死と聞かせ給ひて御前ム様も、御両人の公達もただいま御生害なし給ふと申シ上れば、義経、今は心やすしと仰られて、御坪の内 の岩に御腰をめされて、金念刀(コムネムタウ)にて御腹十文字にぞきらせ給ひける。兼房、御諚なればとて、御前にさふらふとすすみ寄リて御首をうちとり奉 りて、兼房も腹十文字にかつさばき五臓を■(爪+國)(ツカミ)て取出して、義経の御首をわが腹の内におしかくし、おのが衣を以て巻てぞ息絶たる。清悦、 常陸、近習二人して御所に火をかけて一時のうちに煙とぞなし奉りたるは、文治五(一一八九)年閏四月廿八日より同晦日まで三日三夜の戦ひにて、高館の御所 落城せり。其時衣川の流血の色に染めて、三日四日水の色を見ざりし」と見えたり。

また『上編義経蝦夷軍談』高館落のくだりに「義経も権頭兼房が別れにいとど涙にむせび給へど も、とても落べき気色の見えざれば云々。杉ノ目ノ太郎行信は義経ノ顔面(カホニ)能ク似たればとて御姓名を犯(ヲカシ)奉り、義経の御身に替りて大将とな る。常陸坊海存も存る子細のさふらへばとて城に残りて一軍し、趾より追付奉らむ云々。高館に押寄(ヨ)せ勝負を決むと、文治五年閏四月廿九日泰衡が舎弟本 吉ノ冠者高衡を大将とし、長崎ノ太郎佐光、同次郎俊光、照井ノ太郎高春等三万余騎を三手に分け、衣川の高館におし寄る。城中にはかねて覚悟云々。早や行信 は自害しければ、兼房即時に介錯し、首を錦の直乗(垂)におしつつみ座上に直し、其身も腹十文字にかき切れば海存又是を介錯し、其まま処々に火をぞかけた りける。煙にまぎれて、常陸坊は跡方もなく落行ける」同五巻「泰衡攻泉三郎忠衡」くだりに「去程に日本奥州には、泰衡が舎弟泉三郎忠衡は義経に志気(ココ ロザシ)深く、勅命をさみせしなンどかねて叡聞に達し、違勅の罪に依て急ぎ忠衡を誅すべきよし、過にし文治五年六月七日鎌倉の飛脚奥州に到着せり。同キ十 三日には泰衡が使者として、一族新田(ニヒダ)ノ冠者高衡、義経の首を黒漆の櫃に入れ美酒に浸し、下人二人に荷せ、腰越の浦まで参着し此由を言上す。是に 依て、首実検として和田ノ太郎義盛、梶原ノ平三影時、各鎧直垂を着し甲冑の郎徒廿騎相具し、腰越に来て首実検を遂にける。〔東鑑に此首分明ならず云々とあ り〕是に依て腰越へ御使を下され、泰衡、義経が首を討て送らる条神妙也。就て泉三郎忠衡、よしつねに無二の忠志を尽(ツクセ)しよし、違勅の者安穏なる事 を得むや、急ぎ忠衡を誅せらるべし。然らずンば泰衡もともに違勅の名を得られむか。是頼朝が計らひに非ず、勅命の趣キ斯の如くなり。此旨皈て泰衡に申べし と仰遣はされ御暇を給はりける。新田(ニヒダ)ノ冠者高衡、夜を日に継で奥州に馳せ皈り右の趣を演しかば、泰衡、国衡、表には、こはいかにと仰天の体なり しが忍びやかに忠衡の方へ人をつかはし右の次第を語ければ此上は御辺の方へも討手の勢を差向べし、自害せし体にもてなし高館殿の御跡を慕ひ、父が遺言の通 り、蝦夷に渡り命を全くせらるべしと云送り、同廿六日、勅命なれば、是非に及ばず忠衡を誅すべしとて、勾当八秀実を討手の大将として其勢八十余騎にて泉の 屋(ヤ)に押寄せて、閧を作って攻たりける。館の中にも忠衡が郎徒ども、ここをせんとぞ戦ひける。此泉の屋(ヤ)は無量光院に程近し。折ふし夜に入て館に 火のかかりければ、終に無量光院にも火移らんとす。

寺僧等も爰を詮と防ぎけりるほどに、漸として打消しけり。此寺は故秀衡入道菩薩所の為に建立ありし霊地にて、 宇治の平等院を■し、扉には秀衡自ラ狩猟の体を画キ金銀を螻めたり。火も既に静りければ勾当八秀実泉の屋を点検するに、忠衡を始め郎従ども自害と見えて、 死骸悉く焼損じて其形分明ならざりしとなり云々」「忠衡密渡蝦夷」といふくだりに「其夜泉三郎忠衡は、郎徒共に暫く防キ矢を射させて後は館に火をかけ、自 害の体にもてなし裏道より遁れ出て終蝦夷にこころざし、津軽ノ深浦へとぞ落行ける。頃は六月廿日余り、深浦の港は兼て秋田ノ次郎が謀ひにて、交易渡海船一 艘此港に泊して松前蝦夷の安否を聞居たりしが、忠衡は姿をやつし、主従十人余り買人(アキビト)の体に見せ、羽州秋田の者なるが、平泉へ商売の為に久しく 滞留し此度松前へ渡海せん為と偽り、此船にこそ来りつれ。又忠衡がはからひにて、義経の御台所、姫君のいまだ四歳になり給へるを抱き、思ひ思ひに姿をかへ 深浦の辺に忍びおはせしが忠衡介抱し奉り増尾十郎権頭兼房が一子、増尾三郎兼邑とて少年十六歳なりけるが、御台、姫君の御先途を見届け奉らむと高館の城を 忍び出、泉三郎が方に隠れ住みしが、此度御供にぞまいりける。其外秋田が郎徒、並に船頭、水主、梶取合三十余人、六月廿九日の黎明に深浦の港を出帆せし が、折しも心に叶ふ追風なかりしかば、小泊といふ処に数日泊して順風を相待しに、松前船一艘此港に着岸しける。如何なる船やらむと思へば、秋田次郎尚勝が 郎徒松前の者を従へ、蝦夷の白紙鼻より来りし船なり。忠衡主従、御台をはじめみなみな大に悦び、急ぎ郎徒に遇ひて様子を聞クに、義経主従恙なく松前に着岸 し、夫より今は端(クチ)蝦夷白紙鼻といふ処におはしける云々」と見え、また「海存、尚勝帰于日本」といふくだりに、「既に義経、上(カミ)の国に凱陣し 給ひければ、亀井、鈴木を始めとし伊勢三郎も仮墨太(カメダ)〔今云亀田〕より来り、志夫舎理(シブシヤリ)の勝軍を祝しける。

常陸坊海存は義経に向て、某儀は是より御暇を給はるべし。いまだ学業熟し申さず候(サフラ)へば駒形嶽に皈 り、彼異人が教しごとく仙道に入て再び神通を得ば、いよいよ君を守リ奉るべしと、諸大将にも懇にいとま乞をぞなしける。義経も、此度汝が来る功にあらずン ば志夫舎理(シブシヤリ)の大敵を討取ル事難からむと、いとど名残を惜み給へども、元より留る気色なければ御暇をたまはり、又々渡り来るべし、我も此嶋を 従へなば巡り会ふべき折こそあらめと、日本渡海の船など下知し給ひければ秋田ノ次郎尚勝進み出て、某も君に従ひ奉り、君の武徳を以て年来ノ仇敵丹呂印(タ ムロイム)を討し事、日来の本望何事か是に如(シカ)ん。然る上は一ト先本国に立皈り妻子にも遇ひ、重て再び此地に渡り、尚も兵糧運漕は某沙汰し申べしと 義経に懇に暇乞し、常陸坊海存、並に松前の安呂由(アムロエ)と共に同船し、上ノ国の海浜より本国へぞ出帆しける。係りし後は松前より上ノ国までの通路自 由にして、蝦夷の人民太平をぞ謡ひける云々」と見えたり。〔按ルに、上ノ国に太平山あり、また天河(アマノカハ)といふ港川あり、それを今マ浦人天河(テ ンガ)太平といふはいにしへの諺にや〕しかして上の国にて嶋麿君誕生あり。また秋田ノ次郎尚勝一とせまり本国に在りて、こたびは妻もろとも松前へ渡りぬ。 其物語に云、「秋田次郎尚勝は、常陸坊海存と共に過にし六月の末に松前を出帆し、海上難なく日本の地へ着ければ常陸坊と別々になり、商人の姿に身をやつし 本国秋田に帰りしが、頃は日本建久二年鎌倉の武威盛にして、過にし文治五年八月には、奥州に頼朝自ラ軍兵をひいて御館(ミタチ)を攻め給ふ。厚加志山(ア ツカシヤマ)〔真澄按、重槲山にして、柏木などいといと茂きを厚しといふ。

此地青葉山の近きに在り〕に合戦あり、終に御館(ミタチ)ノ泰衡は家人河田ノ次(郎=脱)が為に討れ給ふ。奥 州も鎌倉殿の有(ウ)となりし事を聞キ涙を流しける。されど本国秋田は静にして渡海も自由なりければ、密に兵糧の為米穀を積て蝦夷に送り、又蝦夷の産物云 々など本国へ積のぼせ交易日頃に十倍云々なンど見え、また奥蝦夷未曾久(ミソク)は蒙古と合戦度々に及びしが、程(ホド)なく義経諸軍勢を催し、前後八年 の間に未曾久の乱を静め蝦夷を一統し、太平の政行れける云々。秋田次郎尚勝も後は松前にいたり住み、義経も後に未曾久に住み給ひ末はもろこしに至り給ひし 事とおもはれたり。さりけれ(ど=脱)御家人身方、みな命をまたくし蝦夷国を治めたまひし。うべも、平家の入水せし人々の末今も処々に在るを見て、その世 ぞしのばれたる」此平泉の金堂、講堂、法華堂、南大門、大阿弥陀堂、小阿弥陀堂、慈覚大師堂、無量光院、白山社、日吉社、祇園ノ社、天神ノ社、熊野十二所 ノ社、金峯山、鏡山、隆蔵寺、伊豆権現ノ社、護摩堂なンどかぞふるいとまなき其甍々(ソノイラカイラカ)も、ただ礎を見るのみ、いとどその世ぞしのばれた り。また金鶏山(キムケイサム)といふ山あり、そは清衡の時世ならむか、黄金(コガネ)の鶏雌雄二翼(ニハトリメヲフタツ)を鋳(イ)させて、埋みおかれ しよしをもて金鶏山とはいへり。ここにうたふ「旭さす夕日輝(カガヤ)く木の下(モト)に、漆千盃(ウルシセムバイ)こがね億置(オクオク)」といへる は、此金鶏山をさしていふといへれど、此歌はいにしへの童謡ならむか。

出羽、陸奥に、いささかの違(タガ)ひはあれど処々に在り。かかるふる所、かなたこなたと見ありき千葉氏の家 (モト)にいたり、日のくらぐらになりて宿を出る。此あたりの事は『吾妻鑑』にみなしるし給へど、つばらかにはえしも聞えず。しかして摩陀羅神ノ御堂(ミ ダウ)に入りぬ。宝冠ノ阿弥陀仏ませり、此みほとけの後裡(ウシロ)の方に此御神を秘斉奉(ヒメイツキマツレ)り。摩多羅神は比叡(ヒエ)ノ山にも座(マ セ)り。まことは天台の金比羅(コムピラノカミ)権現の御事をまをし、また素盞鳥尊ともまをし奉る也。また太秦(ウヅマサ)の牛祭(ウシマツリ)とて王の 鼻の仮面(オモテ)をかがふり、たかうななどをいなだき牛に乗り、手火炬(タヒマツ)うちふりて摩多羅神の御前をはしる。また弘法大師の祭文あり、此事 『都名所図会』につばらか也。

やをら神祭(マツリ)はじまれり。まづ篠掛(スズカケ)衣着(キ)たる優婆塞出(デ)て、「八雲たつ出雲八重 垣つまごめにやへがきつくるその八重垣を」と太鼓百々(ツヅミトウトウ)うち鳴(ナラ)して謡(ウタ)ひ、また「千代の神楽を奉う」とうたひ、宝螺吹たて 神供くさぐさそなへ奉りて、隆蔵寺の法印紅色(クレナキ)の欝多羅僧に、みなすいさう(水晶)の念珠(ズズ)をつまぐり、浜床(ハマユカ)の上に座(ノボ リ)あまたの衆徒(スト)居ならびて、優婆塞は入りぬ。御誦経(ミズキヤウ)の声尊く常行三昧といふ事をおこなひ、梵唄(ボムバイ)なンどもうたひはつれ ば、阿弥陀経を誦(ヨミ)つつ立て神の御前をおしめぐり、また柳の牛王といふものを長き丈のうれに夾(ハサミ)て、ささげもてめぐれり。此事終(ハツ)れ ば、れいの優婆塞出(イデ)キて法螺を吹キ太鼓(ツヅミ)うてば、もろもろの神供(ヒモロギ)をおろし、円居(マドキ)しける衆徒(ホフシ)の前に居(ス エ)るをいなだき、神酒(ミキ)たうばりなンど、やや此直会はてて、衆徒ひとりすすみ立てこわづくりして、「上所(シヤウドコ)、下所(ゲドコロ)、一和 尚(イチワジヤウ)、二和尚(ニワジヤウ)、三和尚(サンワジヤウ)、其次々(ソノツギツギ)の下立新人(ゲリフシムニフ)まで穀部屋(コクベヤ)へ入給 (イラヒタヘ)と申(マヲセ)」と、いと長やかによばふ。是を喚立(ヨビタテ)と云ひて中老の役(ワザ)也。御仏(ミホトケ)の脇方(カタハラ)より承仕 とて衆徒一ト人リ出て、「上所、下所、一和尚、二和尚、三和尚、そのつぎづぎのげりふ、しむにふまで、こくべやへいらひたへと申ス」と、いらふを聞(キ イ)て、ここら群(ム)れ集(アツマ)る祭見の中より、「瓠鎗(フクベヤリ)で突(ツク)といふが痛(イタ)い痒(カユ)いと申スな」と小ごえに真似すれ ば、大ごえにて、どよめき笑ふ事久し。やをら田楽はじまりぬ。高足(タカアシ)、腰鼓(クレツヅミ)なンどせしとは姿(サマ)かはりて、此処(ココ)に舞 ふ田楽の小法師等(ラ)は、胡桃木(クルミノキ)の膜皮(シラカハ)もて編たる大笠の、軒に垂(シデ)とりかけたるをかがふりて、山吹色の袖テ広ロ衣に袴 着て、桶の蓋の如(ゴト)なるいといと薄き太鼓を胸にかかへて、此三人が舞(マ)ふ。こは■(サヲ)に登(ノボ)り飛(ト)び飛び躍(ヲドリ)て、今見 る、焼豆腐さませし曲(ワザ)はせざりけり。鳥帽子にしでとり掛たるが出たり、是をしてでんといふ。物の上手をもはら仕手(シテ)といふは師手也、能(ノ ウ)なンどに師手(シテ)、脇(ワキ)あり。『盛衰記』に、知康はくぎやう(屈強)のしてでいの上手にて、つづみの判官と異名によびけりと見えたるも、師 手弟(シテテイ)の義なるにやといへり。小鼓(ツヅミ)、銅■子(ドビヤウシ)、笛、編竹(ササラ)に、はやしたて、めぐりめぐりて踊りはつれば、あまた の衆徒太鼓うちて、
「そよや、みゆ、ぜんぜれ、ぜんが、さんざら、くんずる、ろをや、しもぞろや、やらすは、そんぞろろに、とうりのみ やこから、こころなんど、つづくよな」とうたふ。

是を唐拍子(カラホウシ)とて、えしもそれとは聞キわくまじかりき事ども也。此からほうし終(ヲヘヌ)れば、 しで掛ヶ鳥帽子ひきれたる、わかほふし、ひとりひとり踊りぬ。里人是を「兎飛(ウサギバネ)」といふ。此曲はつれば黒き仮面(オモテ)かけて、うらわかき 衆徒出て、あらぬふりして、うち戯れて入ぬ。そのさま能(サルガウ)の狂言(ワザヲギマヒ)のごとく、間(アハヒアハヒ)にかかる戯をのみなし、また三冬 (サムトウ)の冠とて、笏のごときものを三ところに立(タチ)たるそのさま、熱田ノ社の正月(ムツキ)ノ十一日のべろべろ祭に、兆鼓(フリツツミ)ふる神 人(カウニム)の冠のごときかうぶりをいただき、白衣清げに着なし、王(ワウ)ノ鼻(ハナ)の面(オモテ)をかがふりて、左ンの袖(ソデ)に水精(スイサ ウ)の数珠(ズズ)掛け鳩(ハト)ノ杖(ツエ)を衝(ツキ)て、右ギに白幣(シラニギテ)を持(モチ)、桑の弓、蓬の箭をおひて祝詞(ノリト)立ながらと なふ、ひめたる事とてつゆも聞えず。また、れいの小法師あまた出て鈴うちふりて、たはぶれ唄(ウタ)うたひ、ざわめかしてはせ入りぬ。

老女の面(オモテ)をかけてきぬかづき、神の御前に蹲りてくしけづるまねをし、神を拝礼(ヲロガミ)、たちよ ろぼひたふ(倒)れ、ぼけぼけしきさましける、是を「老嫗舞(ウバマヒ)」といふ。うばまひ入ればまた若小法師、産婦(コウメル)まねしてたはぶる。しか して若女の温顔ノ仮面(オモテ)に、水干にみだれあしの画(カタ)ぬひたるに精好の袴着て、鈴と扇とをもて舞ふ、是を「坂東舞」といへり。また祢宜(ネ ギ)とて布衣、鳥帽子にて二尺(フタサカ)まりの竹の尖(ウレ)にわらをわがねむすびつけて、是を持て此舞ふ前に踞(ウヅクマ)る。坂東舞をへて法師の顔 に附髪(ツケガミ)ゆひて、わがどちは、ものしらぬものなれど、あまたの人を笑(ワラ)はせて来(ク)べしと楽屋よりたのまれて出たり。人のわらへば我が 役はすむ也、いざ笑ひてよといへば、人みな大ごえをあげてわらひどよめけば、さらば、よしや世中とて入りぬ。小法師二人、児装束(チゴサウゾク)に扇をさ しかざしてこえたかく、「王母がむかしの花の友、桃花の酒をややすらむ、さうまん是を伝へて、今が我に至るまで、栄花の袖をひる返す」と、返し返しうたひ て入ぬ。またたはぶれ事はじまり、出来(イデコ)出来唄(ウタ)うたはんにといへど、とみにもいでこざりければ、やよやよと呼べどさらに人ひとりもいでね ば、おのれひとり唄(ウタ)うたひてはせ入ぬ。

かくて京殿といふが出(イテ)ぬ。「吾(ワレ)は都堀川の辺リに住む左少弁富任とはわが事也、たいしやう(太 上)きんしう(今上)二代〔堀河院鳥羽院〕の勅願でんかのめい、くいやうのしやうちなり、青竜、白馬〔青竜寺白馬寺〕の旧法(キウハフ)をつたへて」と、 いとながやかにとなへて、「いかに有吉(アリヨシ)やさふらふらむ、小人衆徒の前にて、らんぶの一トさしも、げざむ(見参)入よ、なうありよし」「有吉詞 ほふ、ひえのやまは三千坊、坂本は六ヶ所、大津の浦は七浦八浦九浦十浦、粟(アハ)田口、かぢむろ、つちうてば、てへてへこはいかに」と、太鼓の小撥(ホ ソバチ)の如(ヤウ)なるものを左右の手に持て舞ふ。「みやこをいでて街道はるばると、日数経て、あづまの旅にも成(ナ)りぬれば、京をしのぶのすりごろ も、松山越えて衣河、そのごむぜむ(御前)こそ恋しけれ。いかに、あれに見ゆるはありよしか、はつと申たれば、口の小(チヒサ)き木銚子にて、清(スミキ ツ)たる濁酒(ニゴリザケ)を給(タマ)ふ、此ごんぜんこそ恋しけれ。

十二一重のきぬのつまをとり、立出させ給ふ御すがた、げにもらうたげなる風情して、一首はかうぞあそばされけ る。「朗(サニ)る夜の月にあやめは見えにけるひく袖あらばともになびかむ」「この有吉は、つきほろけたる、うす檜皮(ヒハダ)のをのこにてはさふらへど も、やがて歌の御返事を申ス、これ咳病(ガイビヤウ)ここちにて」とて、かの小撥(ホソバチ)の如(ゴトキ)ものもて己(オノ)が黒半仮面(クロキワレオ モテ)の鼻うちおさへて、鼻声になりて、「わがとのの東くだりのよなよなに御前(ゴムゼム)ありよし月をながめむ」「いざせんな、あらおもしろや」有吉は 富任の従者(ズサ)なり。富任扇の本末(モトスエ)をとりて、「しら玉椿八千代経てん」とうたひ舞(マヘ)ば、有吉も舞ふ。又「心解(トケ)たる」と富任 がうたへば有吉声おかしう、「氷とけたるゥ」と、鳥帽子をうちふり打ふりもて舞ひ、富任、有吉も入れば、また戯(タハフ)るるわかほふし、えひごえに歌う たふ。やをら、たばふれほうしの入れば「延年」といふ詠曲(ウタヒモノ)あり、そは「をみなへし」、「姨捨山」、「とどめ鳥」、「そとわ小町」也。二年 (フタトセ)に、この中の四曲(ヨサシ)を舞ふ式(タメシ)也。

此度は女郎花、姨捨山を舞(マ)ふ也。をみなへしを舞ふ。「是はもろこしのごかん(後漢)のめいてい(明帝) の御代に、かぶむと申ス老人にてさふらふ也」と老翁(オヂ)、老嫗両人出(ウバフタリデ)て、己(オノ)がむすめの死(ミマカリ)し事をなげき、塚にをみ なへし、おしこぐさの生たるを記念(カタミ)の色と見つつ、涙に袖をぬらしたるさま也。また「姨捨山」を舞ふ。いといと恐(オソ)ろしく、むくつけき男 (ヲノコ)の仮面(オモテ)かけ、髪ひげわわけたるが出(イデ)ぬ。またおなじさまに女の仮面(オモテ)に、髪は、おどろと乱レたる狂女の姿して出たり。 その女の詞に、「旅の人に、ものとひまいらせたくさふらふ」男いらへて「いかにさふらふぞ」女「原部山(ハラベヤマ)にかかりて善光寺へは、いづくをまい りさふらふ」男「あら多(オホ)の人や、なにのもの見か、さふらふぞ」女「あのわらはべなにを申ス。なに、あの男、ものぐるひの女こそ、幼少五ツのとし親 におくれ、伯母(ヲバ)に養育(イヤウイク)せられて人と成(ナ)りさふらひしが、女がとかう憎(ニク)むよて、八旬(ハチジユン)に余る老母を腹部山 (ハラベヤマ)へ捨置(ステオ)き、やかん(野干)の食(ジキ)となすによて、その怨霊(ヲリヤウ)にて、かやうにくるふなれ」こは、男も女もものにくる ふさま也。男「姨捨山とはさふらふらむ、おもひもよらぬはらべやまかな」なンど、互(トモ)にものあらがひして、やがて諏訪のみやにいたりしとうたひて、 「おもしろき社檀につきてさふらふ、宮人をもまたばやとおもひさふらふ」やをら宮奴(ミヤツコ)も出来てくさぐさのものがたりをして、宮奴、神をすすしめ 鈴ふれば、神鈴(ミスズ)の音のおもしろからぬよと、ものぐるひの女うたひて、またうたふ。「秋の野に、すだく鈴虫、業平の小鷹狩リ、みよりたかの鈴なら ば、それは神にもいやまさん」と、うたひうたひて、はてぬ。さるがうなンども、かかる俳優(ワサヲキ)よりやはしまりけむかし。御燈(ミトモシ)なンども なから消行キ鶏(トリ)もいくたびか鳴ぬ。戯れ小法師も衆徒も酔(エヒ)て謡曲(サルガウ)うたひ、また順礼唄を聞つつここをたちづるとき、鈴木常雄。

  見るになほしのばれぞする此寺のありしむかしのすがたばかりは

とありしを聞て、

  夜もすがら聞くも尊しこえごえにうたふも舞ふものりのためしを

千葉氏の家に帰り来てしばしとてふしぬれば、ひましらみたり。

廿一日 
人々、よべのこうじにやあらむ、いぎたなうひるになりて起つれば、手あらひものくふうちに坏と りいそぎぬれば、好キ人ははやさしむかひ、いなふねのいなにはあらで、最上川といふ白をを挙(オホサカヅキ(ママ)アグル)もあり。■(サスナベ)のいと いと大なるをもてつぎめぐれば、えひにえひて、御殿(ゴデム)、隼(ハヤブサ)、三ヶ(ミカ)の瀬とつぎ給へなンど、なほ最上河のあらせの波を酒に譬(ナ ズラヘ)て濁(ニゴレ)る酒を飲(ノム)べくあらんなンど、下戸の並居(イナラブ)を見て、賢しとものいふよりはとて、ひたのみにのみぬ。床の上に鳥足の 文字かかりたるはなにならんと見れば、「心静酌春酒」といへることなり。あなおもしろし、をりにあへり。是を題とあれば、

  山まゆもえめるばかりの長閑さにむかふもあかぬ春のさかづき

また常雄。

  たのしさよこころのどけき春の日にあかでぞめぐる千代の盃

村上良道。

  春風の吹もしづけき此屋戸にあかでぞくまんちよのさかづき

かくて長き日もくれたり。


廿二日 
人々出たたむといへば空くもりたり。雪ならむとて、けふも、あるじめくなり。なによけむとて鮭 (サケ)の散子(ハララゴ)、鮭(サケ)ノ鮓(スシ)、くろがら、あか魚、とりならべて海遠き山郷(ヤマザト)はこころにまかせじ、此氷頭(ヒヅ)鱠にて 一ツまいらせたくといへばまた飲(ノミ)て、価なき宝といふとも、このひと杯(ツキ)のにごれる酒にはなンど、はやうた唄ふここちにえひぬ。常雄、顔はあ したより夕日のてれるがごとにて、
  をりにふれて思ひぞ出むもろともに今をむかしの余所にしのばば
とあるのを見て、その筆をかりて、その紙のはしに、

  おもひ出て袖やぬらさむもろともにいまをむかしの余所にしのびて

けふも、ひねもす酒宴(ウタゲ)のみにてくれたり。


廿三日 
天気(テケ)よければ出たつ人々をここに別れて、我(オノレ)ひとり止りて、此あたりのふるき ところどころ見てむといへば、なほ、いつまでもありてなンど懇(ネモゴロ)にいへり。

廿四日 廿五日 
雪ふれれば出たたず。あるじの翁ノいへらく、いつも花の内は雪のふれるもの也といへり。十五日 の削花、また皮木(クロギ)の稗穂(ヒエボ)、削木(アカキ)の粟穂(アハホ)、また麻(アサ)からなンどを庭の雪に正月尽(ムツキミソカ)まで餝(カザ リ)立れば、しか、花のうちとはいへるなり。

廿六日 
空晴て長閑也。けふなむ達谷村(平泉町)にいたりて山王の窟見んとて、千葉某あないして深雪 (ミユキ)ふみしだき、かついたりぬ。いといと高き窟(イハヤド)の内に堂を作り掛(カケ)たり。よこたふ梯(ハシゴ)はるばると登れば内間ひろげ也。真 鏡山西光寺とて坂上ノ将軍田村麿の建立にて、百八体の毘沙門天を安置(スエマツリ)、鞍馬寺を■(ウツ)したる処といへり。そのいにしへ赤頭(アカガシ ラ)、達谷(タカヤ)なンどいふもの此窟(イハヤド)に籠(コモレ)るを、此君うち平(ムケ)給ひし(と=脱)いふ。大なる円相(マロガタ)の裡(ウチ) にささやかなる田村将軍ノ霊像(ミガタ)をすえまつる、そが右の方には、もろこしの軍扇をもたまへり。正月二日(イニシフツカ)の夜は手火炬(タヒマツ) を投合(ナゲアハ)ふ祭あれば、板鋪、柱みな■(火+焦)(コゲ)たり。此むつきの二日の火祭を追儺(オニヤラヒ)といふ、そのため、しか、ところどころ むかしより焦(ヤカエ)たりといへり。百体八躯(モモマリヤハシラ)の毘沙門天王も、としふりこぼれて、今、はつかばかり残れるをすり(修理)して十体 (トハシラ)ばかりたてる也。蛇歯(ヲロチノハ)、鬼(オニ)ノ牙(キバ)などの宝物(ミタカラ)あり、中尊寺に見しものにひとしかりき。梯子(ハシゴ) 下来(オリキ)ぬ。五尺(イツサカ)ばかり高く、鼻垂(ハナタレ)大仏とて岩面(イハヅラ)に刻(エリ)たり。こは源義家将軍弓の上■(ウハハズ)もて彫 (カキ)給ふよし、某仏(ナニホトケ)の頭(ミグシ)にやといへり。姫待が滝といふあり、また、かづら石といふあり。此滝のもとに達谷(タカヤ)麿身を潜 (ヒソミ)て、女の来るを捕(ト)りて蔓(カツラ)もてつなぎ、この岩に縛(ユハエ)おきたるよし。また、葉室中納言某ノ卿の御娘をも捕りしものがたりあ り。此処(ココ)に九葉の楓(モミヂ)と(て=脱)尖(トガリ)九ツありて、秋はことにやよけむ楓樹(カヘデ)ありとて、やや日影に解(トケ)わたる雪か き分て朽葉拾ふ。また崩山(クヅレヤマ)といひ五郎櫃(ゴロビツ)森ともいふ山あり、いかなるよしの名なるにや、知るてふ人もなし。五串(イツクシ)の滝 なンど見べき処いといと多かれど、雪消(ケ)なばふたふたびとて千葉の家に帰る。

廿八(七)日 
毛越寺のふる蹟見なんとて田の畔づたひして、礎の跡なンどにいにしへをしのぶ。


廿八日 

毛越寺の衆徒某二人、日吉(ヒエ)ノ山に登り戒檀ふみにとて旅立ければ、此法師たちに、故郷に 書(フミ)たのむとて、

  ふる里を夢にしのぶのすり衣おもひみだれて見ぬ夜半ぞなき

と、そのふみにかき入れたり。


廿九日 
けふもとし越なりとて家々の門餝り、窓てふ窓のあるごとに、あらたに、しりぐへ縄ひきはえ、し でかけて、とし忌(ミ)せり。此月は小にて、けふ正月(ムツキ)は極(ハツ)る也。
 

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2002.10.24
2002.10.29  Hsato