せいえつものがたり

 

−常陸坊海尊伝−



 


世の中は霰よの
笹の葉の上の
さらさらさつと降るよの
宗安小歌集
  

 

この戯曲を、俳優岩下浩に捧ぐ



 

序幕

 
第一幕
第二幕
第三幕

 


 


この物語は、逃げた男の物語である。
男の名は常陸坊海尊。
文治五年四月二八日、
海尊は藤原泰衡が
主君源義経公を襲撃する
という噂を耳にして、
仲間数人と共に、
高舘の城から近くの山に
お参りに行くと言い残し、
ついに帰っては来なかった。
その後、この人物の行方は
ようとして知れない。
いったいこの卑怯な男は、
その後どのような人生を送ったのか。

 
 
 

 
場面
 
      奥州平泉     
 

登場人物
 

      常陸坊海尊

      八尾(謎の女)

      清悦(海尊の息子、海尊と二役)

 

 

第一幕

 

【第一幕の要旨】

常陸坊海尊は、義経が泰衡に襲われるその日に、偶然察知した噂を耳にして、仲間数人と、義経の居城高舘を逃げ延びた。その時のいい訳は、栗駒山の奧宮に参拝にいくというものだった。彼が逃げた数時間後、泰衡の一党は十人足らずの義経主従をあっさりと攻め滅ぼして、義経の首を取ってしまう。逃げ延びた海尊一派は、泰衡の手勢の追手を恐れて、散り散りになって逃げた。

そんな時、海尊は山の中で行き倒れて、不思議な女(八尾)に助けられる。

第一幕は、そんな海尊が良心の呵責に苛まれ、うなされて目が覚める場面から展開していく。

海尊は、気の強い八尾に責められ、仕方なく自分の素性を明かしてしまう。
最初は遠慮がちだった海尊だったが、鬱積した不満の堰が切れて、義経主従(特に弁慶)への悪口雑言の限りを尽くす。
そして自分がいかに虐げられ、つまらない仕事ばかりをさせられて来たかを語る。
そのことによって何とか自分が逃げたことを正当化しようとする。
やがて夜は白々と明け、心地よい朝の光が射し込んでくる。
小鳥が鳴き初め、八尾に語ることで少しだけ癒された海尊の心には、かすかな生きる希望が湧いてくるのだった。

  
 
 

* * * * *









山奥の小屋 深夜

 

(舞台装置は、なるべく簡素にし、観客の想像力が最大限に働くようにする。小さな小屋が、ブナの森の中に建っている。小屋の前には、竹箒がと魚を捕るためか投網が掛かっている。小屋の中には、所帯じみた道具は一切なく、土間らしき奥に小さな水瓶と柄杓が無造作に置いてあるのみ。そばに大きな笈がそのあり、これは主人公海尊の持ち物らしい。)

(この幕では、常陸坊は、嫌らしいほど、弁慶や他の仲間に対する恨み言をしゃべる。つまり愚痴である。でも聞く方からすれば、それが何故か滑稽に感じられるから不思議である。それはおそらく誰もが、海尊と同じような恨みや劣等感を持ちながら、生きているためであろう。女(八尾)は、そんな海尊に母性的な愛を感じ、何とかこの男を助けたい、という気持となる。この幕では、八尾という女の正体は明かされない。単なる山姥なのか、それとも何か事情があって、こんな山奥に潜んでいるのか…。)

 

         暗 闇

         闇の中から、人を喰ったようないびきが聞こえてくる。

         いったいここはどこなのか、

         しばらく男のいびきは続く。

 

         突然、不興な音が入り、

         闇の中より、亡霊の低い声が響く。

         その声に男のいびきもかき消される。

         暗闇は続く…。

 

亡霊の声(地獄から聞こえるような声でゆっくりと)

     汝、己から逃げし者、闇の世を流離いて、何処へ

     汝、己から逃げし者、闇の世を流離いて、何処へ

 

男の声(寝言) いやだ、いやだ、死にたくない。死にたくない。

女の声(八尾) うるさいねー。

 

          我慢できずに寝床より起きあがる女(八尾)。

          そばの小窓を開けるとさっと月の光が、闇を切り裂く。

          月の青い光が男のいかつい顔と気の強そうな女の顔を浮かび上がらせる。

 

海尊  (寝言)
        ああー、助けてくれ、
    兄貴、俺が悪かった。
    ホントに悪かった。

八尾   …(あきれ顔で、じっと男を見ている)

海尊   兄貴!!…。
     (と、絶句し、目を覚ます。息が切れている。そばにいる女に驚いて、)
    お前は、誰だ?!

八尾   鬼さ!

海尊  オニ?(弱く)、
    オニ(強く)!
    鬼?(弱く)?
     何故鬼がここに?

八尾  冗談が通じないね。
     まだ寝ぼけているね。
     あたしは、鬼じゃなくて八尾。
     八に尾っぽで八尾さ。

海尊  鬼じゃなく、八尾?

八尾  まったくあきれた寝ぼけ男だ。
    もしあたしが鬼ならあんたはとうに骨になっているよ。
    
海尊  えっ(目が覚めたのか、驚いて飛び退く)

八尾  覚えていないのかい?ほんとに?
    あんたはね、うちの前で、行き倒れていたのさ。
   
海尊  俺が倒れていた…?

八尾  呆れた男だ。自分の事が分かっていないようだ。
     助けてやったのがそもそもの誤りだった。

海尊  (記憶の糸をたぐり寄せながら)
     俺は、山の中をさまよい、腹が減った。
     腹が減って、腹が減って、やっとたどり着いた小屋の前で…目を回した。
     仰向けになり、雲を見ていた…それから記憶がない…。

八尾   あんたはね、水をしこたま飲むと、また倒れて動かなくなった。
      それから三日三晩、眠ったまま、今夜になったという訳さ。

海尊  そうか、そうか、それは済まぬ。申し訳なかった。

八尾  済まぬは、いいさ。
     それより、うなされていたようだけどいったい何があったんだい。

海尊  いや、その…。おっかねー夢を見たのさ。

八尾  そうじゃないよ。
     あんたが寝言で言っていた「兄貴」ってのはいったい誰なんだ。
     こっちは夢の内容を知りたいのさ。

海尊  それは…。

八尾  ああじれったいね。あんたも男だろう。
     さっさと吐いちまにな。
     こっちはあんたの命の恩人だよ。

海尊 (蝌の泣くような小声で)
     実は、儂(わし)は…。

八尾  聞こえないよ。何だって。

海尊  (息を潜め、少々どもりながら)
      ヒ・タ・チ・ボ・ウ・カ・カイソンと申す者。

八尾  (大声で)
      ヒタチボウカイソン?知らないね。何処の男だい。

海尊  (口に手を当てて)
      しー、静に!!

八尾   でっかいなりをして、情けない男だ。
      大体こんな山奥に誰も来やしないよ。
      熊も逃げるような顔をしているくせにさー。

海尊   熊はひどい。
      儂(わし)はそんな顔はしとらんぞ。

八尾   ワシもタカもあるかい。
      第一、儂なんて、流行らない言葉なんか使わないで、
      男は俺で通しな。
      その方がよっぽど今らしくっていいや。

海尊  まったく口の悪い女だ。

八尾  口の悪さは生まれつきだよ。
     だけど心根は誰より優しいからね。

海尊  自分で言ってりゃー世話ないね。

八尾  ところでヒタチボウって名乗るからには一応坊さんってことか?

海尊  (偉そうに)いかにも。

八尾  武蔵坊なら、知っているが、ヒタチボウって何かうそ臭い名前だね。

海尊  うそとはなんだ。
     武蔵坊を知っていて、常陸坊を知らんとは、なんたる世間知らず。

八尾  世の中が嫌で嫌で世を捨てた私だ。
     いちいちあんたの名前だかなんだか知らないが覚えてなんかいられないね。
    (急に声を変えて)
     でもちょいと、武蔵坊弁慶って坊さん、いい男なんだってね。
     あたしゃ、一目でもいいからあの方をこの目で見たかったねー。

海尊  (下品に)
     へへー、武蔵坊がいい男だって、とんでもない。
     悪党も悪党、大悪党。
     この世にあれ以上の悪党はいないね。
     第一口が臭い。
     腐った魚の臭いがする。

八尾  あんた随分と知った口をきくねー。
     ひがんじゃってさー。
     あんたみたいな出来損ないの熊公が、
     天下の色男弁慶様の悪口を言いすぎると、ホントにバチが当たるよ。

海尊  (弱気になり独り言のように)
     バチ、おおバチか、
     確かに、平気で化けて出て、ゴンと一発殴られないとも限らない…。

八尾  何を訳の分からないことを言ってるんだ。
     あたしゃーねー、
     あの義経様に最後の最後まで忠義を尽くした弁慶様というお方に惚れてんだ。
     今時、どこにあんな貧乏クジをひいてまで
    殿様のやっかいを最後の最後までみる者がいる。
     この世にはもう男はいない。サムライもいない。
     いるのはあんたみたいな出来損ないのデクの坊ばっかし。
     カスを掴むのはもうこりごり。
     色恋も、あのような殿方がいてこそ出来ようというもの…。

海尊  何を抜かしあがる。
     第一お前のようなおとこ女を好きになる男はいまい。
     第一うるさくて仕様がない。
     助けられた手前遠慮していたが、この際だはっきり言わしてもらうよ。
     おしゃべりな女は大嫌いなんだよ、俺は。
     それからもう一つはっきり言っておこう。
     弁慶兄貴は、お前が考えているような男じゃない。

八尾  えー?今なんて言った。
     弁慶兄貴とかなんとか、言ったかい?

海尊  (まずいと言った苦い顔で)
     …そ、それは兄貴は、兄貴だから、し、仕方ない。

八尾  すると…あんたはもしかして、
     あの高舘から逃げたという噂のバカ家来かい。
     えーそんなんだろう。
     義経様を置き去りにしたという裏切り者のバカ家来、
     犬畜生にも劣るクズサムライ、
     命惜しんで汚物と化した最低の男。

海尊  (開き直って)
     いかにも俺はその最低の男よ。
     だがなー、世間はまったくわかちゃいない。
     俺は命が惜しくて逃げたんじゃない。
     生き方が違ったのよ。生き方が。

八尾  このクズが開き直ったわね。
     あんた弁慶様の弟分なんでしょう。
     兄さんは立派に役割を果たして亡くなっているのよ。
     しかも最後まで義経様ご一家を守って、
    立ち往生までしたというじゅないの。
     死んでも主君を守る心がけに比べてあんたはなにさ。

海尊  兄貴はなあ、格好を付けるのが大好きなだけよ。
     立ち往生したというが、おそらく誰かが下で支えていたはずだ。
     きっと喜三太だろう。
     あいつも損な役回りばかりさせられる男だからな。
     もし俺がいたら、きっとその役さ。
     後ろで兄貴の太い腿を支えさせられて死ぬ思いをしたに違いない。
     おお、そう考えると、ここにいて正解だったかもしれぬ。
     あの兄貴のでっかい身体に押しつぶされて圧死しかねない。
     おお、聞いただけでまっぴらだ。

八尾  あんたそれ本音だね。何て根性曲がりなんだ。
     いいじゃないか。
     弁慶様だって、義経様を支えて、支えて、
     義経様に花を持たせて死んだんじゃない。

海尊  とんでもない。兄貴はみんな計算ずくさ。
     昔こんなことがあった。
     安宅の関でのことだが、関守の前で思いっきり義経様を殴った夜のことだ。
     兄貴は俺にこっそり「海尊、今日は少し私情が入ってしまった…」
     こういったんだぜ。分かるかいお前にこの意味がさー?

八尾  …わからないよ。

海尊  (にやっとて棒を振り下ろす仕草をしながら)
     つまり義経様に日頃の恨みを晴らしたのよ…。

八尾  そんな馬鹿な。あり得ないことだわ。
      あんた話を作っているね。

海尊  ホントだよ。ウソなんかじゃない。
     兄貴はそのぐらいのことは、平気でやれる悪党さ。
     あの時の兄貴の顔は本気だった。
     今だから言えるが、兄貴はいつも自分が一番じゃないと我慢ならない人だった。
     よく聞かされたもんよ。
     「何で俺が継信や忠信の後なんだ。そのうち殿に俺の存在価値を認めさせる」ってね。
     そうよ兄貴はいつもひがんでいた。
     でも仕方ないだろう。
     継信様や忠信様は、ほれ秀衡の殿様の直の家来。
     育ちが違うわな。
     物も良く知っているし、第一義経様と同じで、
     優男(やさおとこ)だもんな。
     それと比べりゃー、俺も兄貴も大損よ。
     この通りの強面(こわもて)だしなあ。
     おおそうだ。こんなことがあった。
     これを聞けばきっとお前も兄貴がどんな男か分かるはずだ。
   
     義経様が、鎌倉殿に疎まれて、追われる身となった。
     「とりあえず、四国九州の地へ、一旦兵を引いて、態勢を立て直そう」
     義経様は、そう申された。
     義経様は、戦の神の化身だ。
     あの人の後をついておれば大丈夫。
     あのお方の前にいると、不思議な感覚になる。
     負けるという感覚が消えてしまう・・・。
     きっと今回もまたあっという間に不利な形勢を覆して、
     鎌倉殿をやっつけてしまわれるだろう。
     誰もがそう思った。
     ところがどうだ。
     我々の舟は、この世ならぬ大風に阻まれて難破してしまった。
     そこへ敵が押し寄せてきた。
       兄貴は、ここぞとばかりに殿の御前に進み出て、
     「かくかく戦いましょう」
     と、進言申されると、殿は渋い顔をなさった。
   
     そこへ忠信様が参られて、
     「ここは、この方が宜しかろう。ついては私めが先陣を賜りまする」
     と、言われると、
     殿の顔は花が咲いたように明るくなられて、
     「忠信見事その策で参ろう。先陣を頼む」と、言われた。
     あの時の兄貴の顔に、俺は憎しみをみた。
     それは殿に対するものではなく、自分が認められない悔しさが、
     あのような兄貴の怖い顔を作ったのだ。
   
     兄貴は、よっぽど悔しかったらしく、振り向きざまに、
     「おい海尊、すぐ来い。俺の言う通りにしろ」と、言って俺を睨んだ。
     ただ恐ろしくて小舟を一艘海中に投げ出すと、
     長刀やら熊手やらを積めという。
     その舟に二人で乗ると、兄貴は「海尊漕げ」と叫んだ。
     わざと殿に聞こえるようにだ。
     俺は夢中で櫂を握りしめ、そして力一杯に漕いだ。
     「右だ。左だ」と、兄貴に言われるまましばらく行くと、
     「よーし海尊ここでいい。熊手をよこせ」と言われた。
     兄貴は、その大きな手で熊手を掴むと敵の舟に乗り移り、
     獣のような声を上げて、長刀を振るった。
     そばで見ていて怖いくらいだ。
     何しろその兄貴の勢いに敵は戦意をなくして、
     また一人また一人と、海に飛び込んでは溺れていくではないか。
      そいつらが俺の小舟にすがりつくんもで、
      俺も仕方なく櫂で殴って何人か海に沈めてやった。
   
     遠くから、
     「弁慶、無茶するな。無益な殺生するでない」という殿の声がした。
     そこで見かねた俺が、
     「兄貴、殿が無益な殺生はするなと、言われてますが…」と、言うと、
     兄貴は、目を剥いて怒って、
     「うるさい。つべこべ言うな。ここで慈悲を言ってもはじまらぬ。
     戦には戦の勢いというものがある。今更殿の言うことよう聞けぬ」
     と、完全に命令無視を決め込んでしまった。
     俺は見ていられなかった。針の筵(むしろ)よ。
     どちらの命令を聞いて良いか思案した挙げ句、
     その場で、時の過ぎるのを待ったという始末。
     大体兄貴は、一旦切れたら何をしでかすか分からぬお人。
     だからいつも俺は兄貴から逃げたくて逃げたくて仕方がなかったのだ。

八尾  だから、今回は良い機会と、
     敵を前にして、高舘の殿を置き去りにしたって訳なの?

海尊  まあ、結果的には、そういうことになるかな…。
     俺だってけっこういろいろと心の葛藤はあったんだ・・・。

八尾  何さ、開き直って、だったら、はじめっから、
     義経様の家来なんかになるべきじゃなかったんじゃないの。

海尊  そうかもしれぬ。へへー、そうだよな…。
     大体俺は、ただの樵(きこり)のせがれよ。
     吉野の山奥で生まれた。
     子供の頃に身体が大きいのを見そめられ、比叡山の僧兵にさせられちまった。
     何しろ、13にして今と同じ身体があった。
     もちろん喧嘩や騒動で負けた記憶はない。
     杉の木を引かせたら、その辺のやせ馬にも負けなかった。
     たまたま、その俺の姿を、叡山の契胤(けいいん)法眼が見たらしい。
     「なかなか頼もしい子じゃ、こんな子を捜しておった。
     どうだ小僧、腹一杯飯がくえるぞ」
     契胤(けいいん)様のその一言にすっかり騙されてしまった。

     おっとうも、たんまりと銀子を貰って、二つ返事で俺を手放しあがった。
     何てことはない。
     おっとうは、大飯ぐらいの俺を、体よく追っ払ったのよ。
     そうさ、俺は口減らしされたんだ…。
     だから平家だ、源氏だ、何だって、難しいことは俺には分からない。
     ただその時は、腹一杯飯が食いたかっただけだ。
     ところが僧兵になってみると、とんでもない運命が待っていた…。

        (と、言いながら、辺りを見回して様子をうかがう)

八尾  何だよ。じれったいね。早く話しておくれ、その先をさあ。

海尊  喉が乾いた。酒など所望したい。

八尾  何気取ってんだよー。
     樵のせがれがー。
     酒なんかないよ。
     さあ、喉が乾いたら、水でも飲みな。
 
     (立って水瓶から水を汲んで来る)

海尊  (一息に飲み干して)
    …ひぃー生き返るようだ、もう一杯。

八尾  (もうという表情で再度汲んで渡す)
     さあ。

海尊  (一気に飲む)
     ひぃー。

八尾  ひぃー。はいいから、続きだよ、続き。

海尊  おお、そうだった。どこまで話したっけ。

八尾  比叡山に行く所からだよ。

海尊  そうそう。俺は叡山の僧兵となって、晴れて山法師となったのよ。
     ところがだ。ところがな…。

八尾  ところがなんだよ。じれったい。
     そうやって話を今作ってるんじゃないだろうね。

海尊  とんでもない。ところがさあ、そこにいたのよ。兄貴がさあ…。

八尾  弁慶様?

海尊  その通り。俺も腕っ節には、自信があったんだが、
     何しろ兄貴は、六尺の俺が見上げるような大男。
     俺も自分を大虎だと思っていたが、
     兄貴を一目見た瞬間に、こいつは叶わない。
     猫になろうと思ったね。まったく兄貴の前じゃ、
     子猫の振りして逃げるしかないような気がしてさあ。

八尾  あんたが子猫。あはははー。(胃が飛び出るような大笑い)

海尊  何がそんなに可笑しい。

八尾  だってあんた。どう見たって、
     憎たらしいクマ公か、
     イボイノシシじゃないの。
     可笑しいわよ。何が子猫よ。
  
      (と、まだ笑っている)

海尊  (信じてくれという顔で)
     いや、それは弁慶兄貴の顔を見ていないからそうなるのさ。
     一度会わせたかったな。見たら俺が言っていることが、
    大げさでないことが分かるはずだ。

     もし仮にクマと兄貴がふいに道ばたでばったり遭ったって、
     間違いなく、クマが驚いて逃げると思うよ。
     それほど兄貴の顔には険がある。
     とにかく怖くて、でかい。
     手なんか俺のモモくらいはある。
     おまけに性格が凶暴ときている。
     兄貴はまったくの怪物さ。

      (その時、ドンと大きな音がする。
          何かが落ちたような音。慌てて飛び上がる海尊。)

     何だ?誰か来たかのか?追っ手か?

八尾 (笑いながら)
     何慌ててるのよ。
     きっと弁慶様が怒っているのよ。
     あんまりあんたが言いたい放題だからねー。

海尊  えー (と絶句して、苦虫を噛みしめたような自信のない顔になる)

八尾  冗談よ。こんな所に、追っ手も弁慶様も来るわけないじゃないの。
     風でつっかえ棒が倒れただけよ。情けないね。男のくせに。

海尊  おお…。カ・ゼ、そうだ。そうだ。風だ。

     (誤魔化して、急に元の調子に戻って)
     あの兄貴が切れたら、殿だって手を焼くんだからな…。
     兄貴は俺より八つ上だった。
     俺はどうしようもなくて、弟分になるしかなかった。
     早い話が、使いっ走りよ。ありとあらゆることをさせられた。
   
     神輿を担いで、京の町へ強訴に繰り出した時など、兄貴が先頭で、
    俺は必ずその後ろに付く。
     生意気な役人どもが来ると、兄貴は一番手柄を立てたくて、
     すぐに長刀を振るって蹴散らすんだが、最後には歳の若い者だけが、
     あの重い神輿を担がされて死ぬ思いを何度もしたよ。

     でも兄貴は、こっちのことなんかお構いなしで、
     「神輿が遅い。早く来い。景気を付けろ」と叫ぶ。
     少しでも足が滑ったら、命だって危ない。
     気が付いたら、
    叡山の飛びきりでかい神輿をたった四人で担いでいる時だってあった。
     遅いと言っては長刀の柄で殴られる。
     これが逃げたくならずにいられますかってんだ。
     えー、へたすりゃ、神輿の下敷きになって死ぬ所だぜ。

八尾  でも死ななかった訳でしょう。こうして生きてるんだから。

海尊  お前も冷たい女だね。幼気(いたいけ)な少年僧が、苦労しているんだよ。
     少し位の同情してくれたって、いいだろうに。
   
     食事時だって、俺はぴったり兄貴の横よ。
     「お前はまだ小さいから、これはいるまい。」
     そう言って、山鳥の肉を取られたこともある。
     いや山鳥だけじゃない。
     鮎も鯉もブリも鯛も、うまいものが出た時は、
     必ず兄貴のあの太い腕が俺のお膳に伸びてくる。

八尾  言えばいいじゃないの。「それは駄目です」って。

海尊  お前は本当に分かってないね。
     だから一度兄貴を見れば分かるっていうの。
     とても逆らえるような雰囲気じゃない。
     一度こうと決めたら、兄貴は必ずそうする人。
     それが善だろうが悪だろうが、たいした問題ではない。
     問題にするのは、自分が一番に目立ちたい。
     そのことだけよ。
     俺は兄貴のそんな所に、どうしてもついていけなかったんだ…。

八尾  だったらそこから逃げればよかったじゃないの。
     比叡山をね。断然下りるべきよ。

海尊  (そうだろう、という顔で)
     逃げたさ。一目さんで逃げたさ。
     あんな兄貴はまっぴらと、朝方こっそりと逃げたのよ。
     でも逃げながら…考えた。
   
     「まてよ、このまま吉野の実家に戻れば、
    兄貴がきっと連れ戻しに来るに違いない。
     絶対兄貴に分からない場所、兄貴が絶対来れない場所に行くしかない」と。

     そう思って、色々考えて、俺は園城寺に向かった。

八尾  園城寺って、大津の?近いじゃない、比叡山から。

海尊  その通り。だけど叡山と園城寺は、距離は近いが敵と味方。
     同じ天台門下でありながら、犬猿の仲だ。
     そこに目を付けた。ここなら流石の兄貴も見当がつくまいと思ってね。
     第一、簡単に叡山の山法師が入って来るわけはない。
     俺は覚悟を決めて、正門より「頼もう」って、堂々と入門しようとした。
     散々に叡山の回し者ではないかと、疑われたが、
    何もかも正直にぶちまけてみた。

      「俺には難しい学問の話は分からない。
     源氏だ、平家だっていうこともどうでもいい。
     ただ自分が平穏に暮らせる場所が欲しい」って言ったら、
     物わかりのいい円年という年増の人物がいてね。
  
      「天台の基本に叶っている。心の平穏こそ道理」とか何とか、
     小難しいことを言って、俺を散々褒めてくれた挙げ句に、
      「特別に入門を許す」と言ってくれた。
     あの時は、うれしかった。
     いっぺんにこう、
    世の中の花が目の前で一斉に開いたようなそんな気分だったなあ。

八尾  それは確かにうれしいね。誰だって、
    自分を認めてくれる人はありがたいよね。

海尊  それが端から見りゃ、
    逃げたってことになるかもしれないが、俺はいつも俺よ。
     分かるだろう。この気持ち。
     それで分からなきゃー、勝手にしろって感じだね。

八尾  (少し同情的な目で海尊を見る。)…。

海尊  しばらくの間、本当に平穏な時があった。
     俺が十六から十八になるまで日々は、
    いまでも一番輝いていた時期だったと思う。
     俺は円年様が大好きだった。
     それまで無知だった俺に、読み書きを教えてくれて、
    叡山にいる時とは、まるで別世界だった。
     叡山では、身体が人より大きいばっかりに、
    強訴、強訴と、その先兵役ばっかりさせられた。
      おまけに弁慶の兄貴みたいなおっかねー先輩がいて、
    とにかく地獄のような毎日だった。
     俺は円年様に会って、はじめて読み書きの面白さを知った。
     常陸坊海尊という名も円年様が付けてくださった。
     武蔵の国よりさらに北にある常陸の国にあやかって常陸坊。
     そして琵琶湖の海は尊しで海尊となった。
    あの頃は本当に楽しかったなあ…。

     円年様は妻帯されていて、(照れながら)青井様という娘さんがいた。
     俺より確か五つほど歳下だったが、いつしかこの娘に惚れていた。
     はじめて女の人を見て、胸が熱くなった。
     ある夜、琵琶湖に上がる満月を見に行こうと誘った。
     しかし青井様は現れなかった。
     それでも俺はどきどきしながら、半時ばかり円年様の門口で待った。
     そしたらふいに円年様が現れて、
     「今日の逢い引き許すまじ。時節を待て海尊」
     と、分かったような分からないような言葉で諭された。
     俺はどうしようもない恥ずかしいような気持ちになって、
     一目さんで琵琶湖までかけると、思いっきり飛び込んでいた。

     今考えれば、あれもいい思い出だった。
     楽しかった。俺は円年様も青井様も大好きだった。
     いつまでもこんな一生が続けばいいとも思った。
     ところが運命はいたずら者だ。

     俺が青春を楽しんでいると、突然兄貴は、雷のように俺の前に現れた。

八尾  どうして弁慶様が来るのよ?
     叡山と園城寺は、喧嘩してたんでしょう。?

海尊  それが来た。園城寺を叩きにね。
     丁度昼ごろだった。誰かの襲来を知らせる鐘が鳴った。
     慌てて身繕いを整えて正門の前に駆けつけると、いた。
     一番見たくなかった男がいた。五百騎の山法師の先頭に兄貴がいた。

     「やいやい三井寺の生臭坊主ども、さあ出て来い。
     叡山の武蔵坊がお前らの根性を叩き直しにきた。
     さあ意地があるなら、姿を見せろ」
     と、叫んでいる。
     ぞっとした。何でこうなるのだろう。
     当然こっちも血気盛んな男はゴロゴロしている。
     デブの満兆という命知らずが、兄貴の前に進み出て、

     「無礼なことを抜かすな。
     天台の正当をかけてこの満兆が勝負してくれる。
     武蔵坊とやら、後で吠え面をかくなよ」
     と、大見得を切った。兄貴は、腹の底から小馬鹿にして、
     「やいやい、ふぐ坊主。お前の毒は俺がさっぱり抜いて食ってやる。さあ来い」
     と、長刀を地面に突き刺すと、両手を大きく拡げた。
     俺は行くな、と思った。
     きっと組み付いた瞬間に頭から地面に叩き付けられて殺される、と思った。
     案の定、殺されはしなかったが、
     三間ばかり放り投げられて、ふぐが大の字にのびてしまった。

        兄貴はその勢いで、ますます園城寺を挑発するものだから、
        仲間は完全に頭に血が上って、一斉に山法師の群に飛びかかっていった。
        仕方がないから、俺も兄貴に見つからぬように、
        身を小さくして、群衆の中になだれ込むしかなかった。

     流石に兄貴は、強い、叡山の僧は強い。
     つくづくそう思った。
     仲間達は、あっという間にねじ伏せられてしまった。

     こうなったら一目さんで逃げるしかない。
     この海尊自慢ではないが、逃げ足では人に負ける気はしない。

     ところがあの日は、まったく運が悪かった。
     目の前の敷石につまずいて頭を打ってしまった。
     大きなたんこぶにツバをくれて起きあがろうとした時、
     聞き覚えのあるあの声が聞こえた。

  「お前は、ムカデか?」、ムカデってのは俺のあだ名よ。
   兄貴に付けられた。なんだか分からないが、
  「逃げ足が早いから、お前はムカデだ」
   と、言われて、それからムカデと言われるようになった。

   常陸坊海尊といういい名前になって、
   すっかり忘れていた昔の嫌な思い出が、滝のようにどっと押し寄せてきた。

  「はい。兄貴」と俺は、完全に猫の声になっていた。
  兄貴は怒るかと思ったら、意外にも、

  「いや、会いたかったぞ、ムカデ、ここにいたとは、とんと見当が付かなかった。
  お主の実家にも文を出して見たが、それ以来音沙汰がないと言うし、
  心配していたのだ。この親不孝者が。」
  と、その表情に険はなかった。
  声は相変わらず大きいが、どこかにやっとしている。
  いつもと違って、少し人が変わったというか、余裕のようなものを感じた。
  もうこなったら、思いっきり猫になってやる、そう思って、

  「いや、俺も兄貴にはお会いしたかったです。
  ホントに、俺も常陸坊海尊と名を変えました。
  どうです。兄貴の武蔵にあやかって、付けました」
  と、言った。すると兄貴は、感心したように、

  「ほう、いい名ではないか」と言った。
  まったく予想外の反応だった。
  俺は調子に乗って、

  「ええ、そうでしょう。この琵琶湖は尊いで、
  海・尊とした訳で、へへへ」と、やると、
  「さあ立て、海尊これから三井寺の釣り鐘を貰っていく。

  今日の戦利品としてな、二度と叡山に逆ら えぬようにな」と、言う。
  正直俺は兄貴が何をしようとしているのか分からなかった。

  すると兄貴は大きなオノを持ってきて、
  釣り鐘のそばまで行くと、力一杯お堂ごと釣り鐘をなぎ倒してしまった。
  「ごーん」という地獄から聞こえてくるような響きを残して、鐘は地に落ちた。
  兄貴は急ぎ釣り鐘の鎖をはずすと、太い縄をぐるぐる巻にして、

  「この釣り鐘は、この武蔵坊が貰っていく。
  やい三井寺の生臭坊主ども、叡山に二度と逆らうではないぞ」
  と、言うが早いか、
  遠巻きに見ている園城寺の仲間に見えるように、釣り鐘を引き出した。
  そして俺に小声で、

  「よし、ムカデ、奴らに見えないようにこっちへ来い」
  と、俺を園城寺の仲間の見えない側に引き寄せると、
  「さあ、引け、力一杯引け」と言った。

  もちろん俺は、園城寺の仲間に自分を見られたくない一身で、
  小山のような釣り鐘を必至で引いた。
  これは兄貴一流の大見得よ。
  これで相手が絶対逆らえない雰囲気を作ってしまう。
  いつもそうだ。よく考えると、心憎いばかりの計算がそこにはある。

  きっと園城寺の仲間は、驚いたと思うよ。
  だって牛車に乗せても、牛が値を上げるような大きく思い釣り鐘を、
  一人でしかも地べたを引いていくのだからね。
  お陰でこっちは、汗だくだくの死ぬ思いだった。
  ホントになんでこうなってしまうんだろう。
  運命を恨んだね。
  しばらく行くと兄貴は、

  「もういいぞ。誰も見ていない。ご苦労だったな。
  今日の本当の戦利品は、海尊お前だったな」
  と、大きく笑うんだ。

  ああ俺の楽しい人生もこれで終わりか。俺の夢は絶たれた。
  もうあの円年様にも青井殿にも二度と会うことは叶わない。
  そんなことを思いながら、再び叡山の山門を辿っていった。
  こんなに近い距離にありながら、しかも同じ天台の仲間が、
  遠い遠い彼方にあることを考えて愕然とした。

  どうして仲良く出来ないのだろう。
  お釈迦様がいて最澄様がいて、ここまでは同じ流れがあったのに、
  どうして宗派が別々になってしまうのか。
  若い俺にはさっぱり分からなかった。

  夏の陽はすっかり西に傾いて、琵琶湖に反射して眩しく光っていた。
  俺はあの日の心に湧いた疑問に未だに解答を見いだせないでいる。

  その夜は、戦勝祝いの酒盛りがあった。
  俺は兄貴の取りなしで、逃亡の罪を免れたばかりか、
  今日の叡山の勝利に貢献したとして、契胤様よりお褒めの言葉をいただいた。
  実に苦い言葉だった。ウソじゃない。
  あの時は、目の前に円年様や仲間の顔が浮かんだ。
  俺は完全に裏切り者だ。
  今頃、大津の仲間は、俺のことを噂しているに違いない。
  「寝返った男」、「叡山の冠者」、あるいは「逃亡者」と…。
  でもこう説明すれば分かるように、
  俺はいつも逃げたくて逃げていた訳ではないのだ。

 
(次第に夜が明けてきたようだ。明るい日が次第に差し始める。
 外で小鳥のさえずりがはじまっている。)
      宴も終わり、兄貴が俺の耳元でささやいた。
  
     「海尊、お主を男と見込んで話したいことがある」
     と、真剣な顔で言われた。
     確かに兄貴が、俺のことを「海尊」と呼び、「男と見込んで」とはっきり言った。
     嬉しかった。当たり前だろう。
     ずっと牛馬のように扱って来られた俺が、
     「男として」認められたのだから。(半分鳴き声で)     兄貴は、僧門の奥にある六畳ほどの質素な部屋にずっと住んでいる。
  明かりをつけると、兄貴は今まで見たこともないような表情で言った。

  「海尊、俺ははじめて男というものを見た」
  俺は照れた。
  恥ずかしかった。
  てっきり俺のことを褒めてくれているものとばかり、思っていたから、

  「兄貴そんなに言われると、何かくすぐったいよ。
  俺は何もしていない、みんな兄貴がやったこと、
  それに俺は以前兄貴の前から、黙って消えた男だしね…」

  兄貴はしばらくきょとんとしていたが、

  「海尊、違う俺はお前の事を言っているのではない。
  誤解するな。
  俺はな、最近、(急にかしこまって)ウシワカ様という人にお会いした。
  これがお前より、確か一つか二つ歳下のお方だと思うが、実にいい男だ」
  と、言った。

  俺はてっきり兄貴も男色に走ったと勘違いして、
    「兄貴、そんなに好きなのか?そのお方が」と言うと、
   「ああ一生を託せるお方だ。
   あんな堂々と、自分の将来の夢を語る男を俺ははじめて見た。
  どこからあのような強い信念が湧いてくるのだろう。不思議なくらいだ」
  俺には兄貴の存在の方がよっぽど不思議だ。そこで、

   「いや、でも兄貴、もう一度考えた方がいいかもね」
   「お前はまるで男というものが分かっていない。
   男というものは夢がなくてはならない。
   信念がなければならない。
   そしてその夢や信念を実現するためには、知力と財力がなければならない。
   そのうちのどれを欠いても、男は男にはなれない」

   どうやら兄貴が男色に走っていないことが分かって、正直ほっとした。
   それでも兄貴は、以前とは明らかに変わっていた。
   単に目つきが変わったばかりではない。
   兄貴はウシワカという人物に会ったかなにかで
  理屈っぽくなってしまったようだ。
   でもその方が凶暴一辺倒の怖い兄貴よりはずっといいに決まっている。

  「いや兄貴は、すごい、立派だ。すごく大人になった。
  その人物、えーとその、牛若様って、いったいどんな人なんだい?」

   (辺りを見回しながら、海尊は弁慶になりきって声を抑えながら熱く語る)

   「源氏の御曹司よ、義朝公の忘れ形見。
  父君が平治の乱で亡くなられたが、母君の機転で運良く死罪を免れた。
  そこで鞍馬寺の稚児となって、様々な学問を身につけ、
  兵術も学び、着々と父君と源氏一党の汚名を雪ぐ機会をじっと待って居られる。
  実に聡明で熱のあるお方だ。
  俺はあんな人物が、この世にいるなんて今の今まで知らなかった。
  この人の為なら、地の果てまで行っても、本望だと思った。
  分かるかこの俺の気持ちがよー。
  はじめて俺が男に惚れた瞬間だ」 

八尾  いや、いい話だね。
     やっぱり弁慶様は、あたしが考えているような男の人だ。
     いみじくもあんたがさっきから、
     悪党・悪党と弁慶様のことを言っていたが、違ったじゃないの。
     男はねー。若い時には、手が付けられない位やんちゃな方がいいのよ。
     馬の喩えであるでしょう。ほら?

海尊  無事これ名馬?

八尾   違う…。
    名馬は、これ皆悍馬(かんば)より出ず、とか何とか。

海尊  悍馬?

八尾  要するに暴れ馬よ。
    名馬というものは、暴れ馬から出るって喩え。

海尊  へー知らなかった。
     兄貴の場合、馬というよりはクマだけどね。

八尾  またはじまった。クマはあんたでしょう。

海尊  確かに兄貴は、牛若様と会ってから、がらりと人生が変わったと言っていた。

    (弁慶の声で)
       「海尊。実はその牛若様が、密かに奥州に下ることになった。
       俺はそのお供をしたいと思っているのよ。
        どうだ。すごいだろう。お前も来い。」
       俺は答えようがないので、
       「兄貴、何でまた奥州なんどへ、いくんだい。
       別に鞍馬の山と叡山で十分策が打てるってもんじゃないのかい」
        「バカ。お前は情勢というものが分かっておらん。
        清盛公がどのようなお方か。まるで計算に入っていない。
        いいか清盛公は、牛若様にとっては義朝公の仇で、
        母君が命を掛けた交渉の挙げ句、
        三人の息子たちは僧侶に致しますとのお約束をされて、
        命がつながったのだ。
        それにどのように三人の息子達が成長されているか、
        じっと見て居られるはず。
        もしも妙な噂がたったら、牛若様のお命だって危うくなる」

        なるほど確かにそうだ。
        兄貴の考えは実に明快だった。
        兄貴は続けた。

       「奥州にはなあ、藤原秀衡という殿がおる。
      このお方は源氏に恩のあるお方で、
      牛若様のことをお聞きすると、大変かわいそうに思われて、
      是非奥州で牛若様をお迎えしたいと申して居るそうだ。
      実は海尊、奥州の都平泉にはなあ、
      京の都にも劣らない文化が花開いているんだ。
      それに黄金の産地でな。
      全てを黄金で設えた金色堂というお堂まであるという。
      また馬の産地で、馬術を用いた騎馬の兵法も大昔より伝わっておると聞く。
      いいか海尊。夢を実現するにはなあ、夢と信念の他に知力と財力がいるのよ。
      秀衡殿は清盛殿も一目おかれるほどの大人物。
    信ずるにたると牛若様が惚れている」
   
     後は何が何か分からないままことが進んで、
     兄貴と俺は奥州に下る牛若様の一行にくっついていたって訳だ。
     まったくそこに俺の意志はなかった。

八尾   でもあんたが、牛若様、いや義経様に同行したのは、間違いじゃない。
     大人になった弁慶様に従って当然よ。
     素晴らしい男の出会いじゃないの。
     どこに不満があるっていうの。

海尊  いや不満…じゃあ、ないかもしれないが、何というか、俺は自分で、
     自分の人生を決めてみたかっただけさ。
     それが悪いか…。
     自分の人生を自分で決めるという単純なことがさ。

八尾  もちろん悪いことではないよ。
     でもね。どんな人だって自分だけで自分の人生を決めて進める人はいない。
     たとえさっきの牛若様だって、
     自分で奥州行きを決めたようになっているけど、
     そもそも義朝様という父君を持って生まれてきたという運命から、
     逃れることはできないのよ。
     はっきり言って牛若様だって、自分で決めた道のように見えて、
     実は与えられた運命の中で
    精一杯背伸をして生きていることでしかないのよ。

海尊  俺は樵のせがれ。背伸びさえも許されない。

八尾  そんなことはない。それは絶対にあんたの思い違いよ。
     義経様や弁慶様のような素晴らしい男達に出会える人なんて、
     世の中に何人いると思って、
     そんなことを言ったら、あんた、本当に罰が当たるよ。
     考えてごらん。

海尊  (決まり悪そうに)まあ、確かに…。

八尾  素直になりな。男は素直が一番。そしたら、朝飯を焚いて上げるよ。

海尊  ああ…。

 

(第一幕了)

 

 

 

 

 



 

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最終更新日:1999/10/26 HSato