菅江真澄の
二十日夜祭見物記


ー現代語で「かすむ駒形」の二 十日夜祭の段を読むー



はじめに

菅江真澄(1754−1829)に、「かすむ駒形」という著作がある。この中に天明六年(1786)旧暦一月二十日の午後から翌朝にかけて、彼が毛越寺に 伝わる「二十日夜祭」を見物した時の詳細な記録がある。この時、菅江真澄は、三十二才であった。これを丁寧に読んでいると、二十日夜祭も、現在とではかな り違っていたことが分かる。一番の違いは、祭の時間の長さだ。何しろ、真澄が祭を終えて、宿に着く頃には、雌鳥が鳴く頃だったというから、夜明け近くまで 延々と祭が繰り広げられていたことになる。二十日夜祭は、夜を徹して行われる行事だった。見物人たちはしんしんと冷える堂内の寒さをどのように和らげたの であろう。祭の後の直会(なおらい)では、当然のように御神酒なども振る舞われた。奥州の人々は、この儀式を年頭に行うことで、正月で怠惰になった自身に 最後の怠惰を与え、厳しい日々の農作業に専心する気持ちを高めていたようなところがあった。きっと、二十日夜祭は、奥州に暮らす人々にとって、農耕の神で ある摩陀羅神(またらじん)に、五穀豊穣と家族の健康を祈願するというだけではなく、欠くべからざる年頭の楽しみであり、農事カレンダーの役割をも果たし ていた。菅江真澄自身の記述を現代語で味わいながら、二十日夜祭に込められた北国の人々の祈りの神髄のようにものに触れてみたいと思う。(佐藤弘弥 2007年1月吉日 記)

尚、この原文は当サイト「奥州デジタル文庫」 の「かすむ駒形」 で読むことができます。この日の記述は、 平泉の歴史についても詳しく書かれており、極めて重要な部分ですが、今回は敢えて二十日夜祭の部分のみを訳出した次第です。



延 年の舞 老女

幾百年親子子孫(おやここまご)と伝ゑ来し老女若女のなが歳思ほゆ ひろや

<訳文>


今日は、磐井郡平泉の里で行われる常行堂の摩多羅神の祭を見物するというので、宿(胆沢村)の主人良道に従って徳岡の上野を出たのであった。(中略)摩陀 羅神の御堂(常行堂)に入る。そこには宝冠の阿弥陀仏が座しておられた。この美しい仏の後ろには、秘仏として摩陀羅神が祀られていると言う。摩多羅神は、 比叡山にも鎮座している。実は天台の金比羅権現(こんぴらごんげん)の事を言うとの説や素盞鳥尊(すさのおのみこと)の事との説もある。

京都の太秦(うずまさ)の牛祭は、王の鼻の仮面を被って、竹の子などをいただき、牛に乗って、松明(たいまつ)などを振って、摩多羅神の御前を走るもの だ。また弘法大師に摩陀羅神の祭文(さいもん)があり、この事は『都名所図会』(みやこめいしょずえ)に詳しく紹介されている。

急に摩陀羅神の祭が始まった。まず、篠掛(すずかけ)の衣を着た優婆塞(うばそく)が現れ、「八雲たつ出雲八重垣つまごめにやへがきつくるその八重垣を」 と、古事記で素盞鳥尊(すさのおのみこと)が詠ったと言われる有名な歌を、太鼓を高く打ち鳴らしながら謡(うた)い、次ぎに「千代の神楽を捧げます」と謡 い、法螺(ほら)を吹いて、神へ様々なものをお供えをするのであった。

次に隆蔵寺の法印が、紅色の衣を着て、水晶の数珠(じゅず)を手にして、台の上に座って、多くの衆徒が見守るなかを優婆塞が入って来る。

読経の声が堂内に尊く響き、常行三昧(じょうじょうざんまい)といふ仏事が執り行われた。声明(しょうみょう)などが謡われ、阿弥陀経を読経しながら、僧 たちは立ち上がって、神の御前を廻って、次ぎに柳の牛王と言うものを長い竹の先に夾んで、捧げ持って神の御前を廻るのである。

以上の事が終わると、例の優婆塞が再び登場し、法螺を吹き、太鼓を打てば、神前に捧げた様々なお供えものを壇から下ろして、堂内に円をなしていた衆徒の前 に置く。すると衆徒たちは、これをいただき、御神酒(おみき)なども配られる。しばらくしてこの直会(なおらい)が終わると、衆徒がひとり前に来て立ち声 を張り上げて、「上所(しょうどこ)、下所(げどころ)、一和尚(いちわじょう)、二和尚(にわじょう)、三和尚(さんわじょう)、その次々(そのつぎつ ぎ)の下立新人(げりゅうしんにゅう)まで、穀部屋(こくべや)へ、入給(イリタマエ)と申せ」と、大変長々と伸ばして呼ぶのである。


これを喚立(よびだて)と言って、中老の役目である。御仏の脇の方より、承仕(しょうじ)と呼ばれる者が一人出て来て、「上所、下所、一和尚、二和尚、三 和尚、その次々の下立新人まで、こくべやへいらひたへと申ス」と、言うのをを聞いて、ここに集まっている祭見物人の中から、「瓠鎗(ふくべやり)で突かれ るのが痛い、痒いと申すな」と小さな声で真似をすれば、周囲から大声で、どよめきが起こり、しばらく笑い声が絶えなかった。

そして急に「田楽舞」が、始まったのであった。高足(たかあし)、腰鼓(くれつづみ)などとは、姿が変わっていて、ここで舞う田楽の小法師たちは、胡桃の 木の皮で編んだ大笠の端っこに弊(シデ=白い紙で作った神に捧げるもの)を付けたものを被り、山吹色の衣に袴をはいて、桶(おけ)のフタのような薄い太鼓 を胸元に抱えて、三人で舞うのである。

これは竿に登り、何度も飛び上がって、今よく見る焼豆腐がするようなワザはしなかった。鳥帽子に弊(しで)を取り付けた者が出て来る。これを「してでん」 (シテ出んか?)と言う。

物の上手のことを、もっぱら仕手(シテ)と言うが、仕手は、本来「師手」のことである。能にも師手(シテ)と脇(ワキ)がある。『源平盛衰記』に、「知康 は、屈強)の「してで」いの上手にて、つづみの判官と異名によびけり」とあるのも、この師手弟(シテテイ)の意味で使われているのである。

小鼓、銅拍子(どうびょうし)、笛、編竹(ささら)などで、囃し立てて、何度も堂内を廻って踊りが終わると、多くの衆徒が太鼓を打って、 「そよや、みゆ、ぜんぜれ、ぜんが、さんざら、くんずる、ろをや、しもぞろや、やらすは、そんぞろろに、とうりのみやこから、こころなんど、つづくよな」 と謡うのである。

これを唐拍子(からびょうし)と言うらしいが、とても、聞き分けられない難しいものだ。この唐拍子が終わると、弊を掛けた鳥帽子を付けた若法師が、ひとり ひとり踊る。地元の人は、これを「兎飛(うさびばね)」と言うようである。この曲が終わると、黒い仮面を付けた、うら若い衆徒が現れて、見たこともないよ うな格好で、ふざけた様子で入って来る。その様は、能か狂言のようで、合間合間にこのような戯れをするのである。

次ぎに三冬(さんとう)の冠と言って、笏(ねぎ)のようなものを三カ所立てる様子は、熱田神宮の正月十一日の「べろべろ祭」で、兆鼓(ふりつづみ)を振る 神人(こうにん)の冠のようなものを頭に乗せ、白衣を清らかに着こなし、王の鼻の面を被って、左の袖に水晶の数珠を掛け、鳩の杖をついて、右手に白幣(し らにぎて=御幣束)を持ち、桑の弓、蓬(よもぎ)の矢を背負って、祝詞(のりと)を立って唱える。しかしこれが秘めた声のために少しも聞き取れない。そこ にまた例の小法師が多く現れて、鈴をうち振って、戯れ唄を唱いながら賑やかに入って来る。

次に老女の面をつけた者が登場する。老女は神の御前にひれ伏し手を合わせてこれを拝み、それが終わると、髪を整える真似などをして、立ち上がると、よろけ て倒れ、老ぼれてしまったよう

な仕草で踊る。これをを「老嫗舞」(うばまい)と言うのである。老嫗舞に入ると若小法師は、妊娠した女性の真似をして周囲で戯れる。

やがて厚い若女の面に、水干(すいかん)を付けた舞手が現れる。みだれあしの絵を縫い取った精巧な柄の袴を着て、手には鈴と扇を持って舞う。これを「坂東 舞」と言うのだそうだ。

つづく



2007.01.21  佐藤弘弥

義経伝説ホーム

義経エッセイ