方言と地名の魔力  (第一稿)

 
序 これは民俗学の成果と手法を用いて、歴史の闇に分け入ろうとする実験的試みである。
 

  目 次

1.アグドという方言の意味について

2. アグド方言と悪路王伝説の符合について
 【1】様々な悪路王伝説
 【2】悪路王とはいったい誰なのか
 【3】悪路王を倒したのは、誰か?
 【4】2の結論 悪路王伝説のからくり

3.坂上田村麻呂伝説と毘沙門天像について
 【1】宗教としての坂上田村麻呂
 【2】東北に現存する毘沙門天像
 【3】3の結論 毘沙門天と悪路王

4.陸奥話記の阿久利川と現在の阿久戸の関係について
 
5.伊治呰麻呂の本拠地としての阿久戸周辺の研究
 
6.アクトをカカトとすることに関する意味とその方言文化圏の拡散と限界

7.アクト方言にみる方言と地名拡散の理論

8.結論


1.アグドという方言の意味について

東北の各地にアグド(あるいはアクト、アクド、アグド、)という不思議な方言がある。地名研究で聞き覚えのある所謂アクツ、アクタ、またアクト等のアク系の言葉に思われるが、この方言の意味が足の裏の端にあたる「かかと」を指すというから面白い。

そのアグド方言について東北各県の方言の分布を東北地方方言辞典(森下喜一著桜楓社昭和六二年刊)より整理し列記してみよう。

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○青森県南 →アグト

○秋田県 雄勝郡、平鹿郡、仙北郡、湯沢市→アクド、

 同   由利郡→アグト

 同   南秋田郡、河辺郡、秋田市、鹿角郡、山本郡、北秋田郡→アグド

○岩手  南部、伊達 →アクト、アグト、アグト、アグド、アゴド、カガド、

○宮城仙台→アクイ、アクイト、アクツ、アクト、アコツ、アジャラ

○同 県北→アクド、アグド、カガト

○山形全般→アグド

○福島会津→アクト

○同その他→アグト、アクド

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この地域以外では、

○新潟県西蒲原郡→アクト

 同  長岡市 →アクト

○長野県下水内郡豊田村→アクト

○富山県→アクトウラ(方言俗語語源辞典:校倉書房)

○愛知県尾張地方→アクト

(その他、現在調査中につき、判明次第掲載する)
このことについて知っている人は是非とも、
どんな細かいことでも教えてください

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ところでこのアグドの方言を考察する前に、アク系(アクタ、アクツ、アクト)の地名についてまず常識を押さえて置く必要がある。このアク系の地名でも、西日本、東日本、また特に東北に入ると、方言による訛りのせいか、微妙に変化しているようだ。西日本では言葉としてアクタと発音し、芥・芥田・飽田などと表記するようだ。いずれも低湿地を意味する地名である。「大言海」によれば、アは接頭語にあたり、クタは「腐(クタ)る」などと関係し、「水気をふくんでじくじくした地」のことだと説明している。

これが東日本中世期に移ると、アクツと発音し、阿久津・悪津・安久津・握津。圷などと表記するようになった。もちろん意味は同じで低湿地である。更にこのアク系の地名が東北に移ると、アクツがアクトとなり、阿久戸・阿久利・悪戸・安久戸・悪土・阿久登などと表記するようになった。つまりアクタという低湿地を意味する地名が東に移って来る過程でアクタ(西日本)→アクツ(東日本)→アクト(北関東から南東北にかけて)→アグド(東北全般)となってきたのである。

さて日本民俗学のルーツ柳田国男はアク系の言葉について、その著「地名の研究」でこのように言っている。

「自分の考えでは、アクツ、アクトはともにアクタの一方言である。(中略)けだしアクタに芥の字を当てるのは…とにかく古い時よりのことで、今人は塵芥の熟字を区別して考えないが、前者は陸上の細土で、後者は水中の沈殿を意味したのであろうか。洪水のたびごとに下流に搬出する沈土は、京畿附近では早くからこれに注目する者があって、これに就いて農村を設けるために低湿地をも辞せなかったものと見える。…アクタ・アクトは同語なることはこれでわかる。よって思うに阿久刀神(あくとしん)は「書記」の穴渡(あなのわたり)の悪神または柏渡(かしわのわたり)の悪神と同じく、要害の地に盤居(ばんきょ)して交通を阻害する国神(くにつかみ)一つであろう。…」

この柳田の説は、実にユニークで示唆に富むものだ。すなわち「アクト」という状況を擬人化し、しかもそれを国神(くにつかみ)としている。川が蛇行し、遊水池となってしまうものをまつろわぬ土着の神とみる見方は、古代の人間たちの自然観そのものだったかもしれない。確かに宮城県の県北の栗原郡志波姫町に、阿久戸という地名がある。この地域は、暴れ川である一迫川が蛇行し、しばしば洪水により遊水池となるような湿地帯である。国道四号線を挟んでその地の西方には、多賀城についで造られたとされる大和朝廷の政庁伊治城跡が(栗原郡築館町城野)すぐそこに見える。現在あまり人の訪れる所ではないが、知る人ぞ知る景勝地である。また宮城の登米郡東和町米谷(まいや)にも、悪戸原(現悪戸)という地名があるが、ここはかつて北上川が氾濫する低湿地で、度々氾濫し、住人を悩ませた場所と言われる。まさにこれらの場所は、アクト(泥土)の明神が住んでいると自然に考えられるような雰囲気の地域である。

次にやはり同じく柳田の著から「蝸牛考(かぎゅうこう)」を見てみよう。彼はその中でアクトの方言分布を説明している(岩波文庫版p118)。その文章を分かり易くまとめてみると次のようになる。

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○東北六県→アクト
○越後(新潟)、信州(長野)→アクト

東京とその4周(関東?)→カカト

○甲州(山梨)→アコイ
○伊豆(静岡)→アックイ
○駿河(静岡)、遠州(静岡)、三河(愛知)→アクツ、アゴト

○美濃(岐阜)、尾張(愛知)→アクト、アクイト
○近江(滋賀)→オゴシ

西京(関西?)→キビス

○九州肥後阿蘇小国(熊本)、筑後久留米(福岡)→アド
○南島→アド、アドウ その両端にアクトを使う地域あり

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以上のことから、アク系の言葉が、東北に固有の言葉でないことははっきりしたと思う。ところがここでアクトをかかと表現する本拠地である東北と県境を接している関東においては、アクトをかかととする地域はない。栃木においては、アクトという音韻の言葉はあるが地名であって、かかとではない。関東においては、かかとはやはりかかとなのである。山梨においては、ややアクトに近いアコイという言い方をするが、他の地域ではない。これは大いなる疑問である。それに対して、かなり東北と離れた地域である愛知県でアクトにかかとの意味を付している地域があることは実に不思議なことである。

これからこれらの謎を考えて行くことにしよう。

まずどんな風にして東北では、かかとのことをアクトやアグドなどと呼称するようになったのであろう。私はここでひとつの仮説を立てたいと思う。そもそも人の足のかかというものは、最初に土を踏む所である。そこでアクト(低湿地)を踏む場所そのものを「かかと」と呼ぶようになったのではないだろうか。日本の神話時代を思い出してほしい。服属しない熊襲の王クマソタケルを滅ぼし、小碓命(ヲウスノミコト)は、敵の名である「タケル」を貰って、「ヤマトタケル」と名乗ったこともある。中国の古代では、異族を征服した場合、相手の首を取って、それを掲げて歩いて、その首の持つ霊力を貰ったという話もある。アクトという忌むべきものを「かかと」で踏みつけて征服し、その悪神の霊力を封じると同時に逆にそれを守護神として変化させようとそた結果、アクトという忌みべき言葉が、かかとの意味を兼ねてしまったのではあるまいか。
 

2. アグド方言と悪路王伝説の符合について

【1】様々な悪路王伝説

このアグド方言の分布と奇妙な一致を見せているものがある。それは所謂悪路王伝説というものである。この悪路王の伝説は、坂上田村麻呂伝説とセットで語り継がれてきた民間伝承である。それは以下の表の通り、東北各地に伝説伝承として語り継がれ、広く分布している。この「悪路」という異名をアクロと読むかそれともアクジと読むか論議もあるようだが、最近ではアクロと読ませるのが一般的なようである。推測するに悪路王伝説は、坂上田村麻呂を正義と見なす人々の間に広まった一種の悪人伝説である。もう少し分かりやすく言えば、悪路王伝説というものは、蝦夷の長である悪路王という人物を悪玉とみる人たちの間で語り継がれてきた怖い話であると同時にそれは田村麻呂という大和系の英雄を偶像化するためのプロパガンダ(文化宣伝)そのものではあるまいか。

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出典別悪路王伝説分類表

 
 
 
出典
原典の性格
と成立年代
人物名
根拠地
遠征地
終焉の地
吾妻鏡 正史1250年前後  悪路王・赤頭 田谷窟    
神道集
(所収の諏訪大明神絵詞)
諸国の神社縁起などを集めた説話集室町初期成立 安倍氏悪事の高丸      
元亭釈書
(げんこうしゃくしょ)
(所収の僧延鎮伝)
虎関師練著の仏教史書
1322年成立。30巻
高丸   清見関 神樂岡
津軽旧事記 郷土資料1550年前後 高丸 達谷窟 清見関 神樂丘
前々太平記 戦史風雑記1716年 高丸・悪路王 達谷窟 清見関 神樂岡
日本政記 頼山陽著(1780〜1832) 高麻呂   清見関  
人首村風土記
(ひとかべむらふどき)
寛政年間(1789〜1800)の郷土の風土記 大嶽丸とその息子人首丸     大盛山の麓山神社付近
人首村風土記@
(所収麓山神社由来)
同上
神社縁起
大嶽丸
その弟大武丸
その息子人首丸
    ○大嶽丸は鬼死骸村で討たれ、一迫鬼首村葬る。
○大武丸は大武丸は栗原郡大武村にて討たれる。
○その息子人首は大森山、麓山神社付近で討たれる
人首村風土記A
(所収の笠森稲荷由来)
同上
神社縁起
悪露王
その弟大武丸
その息子人首丸
    ○悪露王は鬼死骸村で討たれ。
○大武丸は大武丸は栗原郡大武村にて討たれる。
○その息子人首は大森山、山中で討たれる。
人首村風土記B
(所収の八咫鴉神社由来)
同上
神社縁起
悪露王
その弟大武丸
その息子人首丸
    同上
一ノ関地方の民話
(悪路王)
民間伝承集 悪路王 達谷窟 清見関  
秋田のむかし
(所収の房住山昔物語)
郷土伝承 阿計徒丸
(アクトマル)
阿計留丸
(アクロマル)
阿計志丸
(アクジマル)
日高山    日高山
青森ねぶたの由来
(ふるさとの伝説十巻地名・由来所収)
郷土伝承 悪路王 大鰐の阿闍羅山   大鰐の阿闍羅山

*この悪路王伝説についての皆様の地域での異説などがありましたらお知らせ下さい。
このことについて知っている人は是非とも、
どんな細かいことでも教えてください。
現在さらに調査中につき判明次第記載する。

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【2】悪路王とはいったい誰なのか

もちろんこの伝説は、東北各地に分散しているが、この伝説発祥の地と見なされているのが、平泉から少し栗駒山よりに入った所にある達谷(タッコクと読む)巖谷である。ここに西光寺という古い寺がある。この寺は坂上田村麻呂が、異敵の悪路王を倒した戦勝を記念し、延暦二十年に創建されたとされている。また御本尊は、毘沙門天で、京の鞍馬寺から百八体の毘沙門像を運んで祀ったものと社殿は伝えている。この付近の言い伝えによれば、元々この寺のあった場所には、蝦夷(えみし)の首領である悪路王が立て籠もっていた場所とされ、毘沙門堂の左方にある岩壁には高さにして7、8mの大仏(大日如来)が彫られている。

さてこの悪路王であるが、吾妻鏡にもその伝説が載っている程で、その人物と並び長として「赤頭」と呼ばれる人物が併記されている。また義経記でも悪路王と比定される「高丸」と言う人物が登場するが、その人物にも同僚と思われる人物で「赤頭」なる人物がやはり現れる。このことは、およそ田村麻呂の遠征から四百年近い歳月が経過した後も、この悪路王と田村麻呂の伝説が、この地方の歴史として語り継がれ、その話が中央にも広く浸透し、能や文学などにも変化したと見るべきだろう。

今日伝説や伝承としてはかなり流布している感のある悪路王伝説であるが、もちろん正史にとは一切符合しない。この辺りの時代の正史としては「続日本紀(しょくにほんぎ)」や「日本後記」があるが、それによればこの悪路王と赤頭に比定しうる人物が確かに存在する。それは一般的に言えば、夷大墓公阿弖利為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)である。古代東北史の権威である高橋富雄氏もその著「胆沢城」(学生社刊昭和46年)で、次のように言っている。

「『悪路王』というのは何であろうか。わたしくしは、この名をアテルイ王の音写だと思っている。・・・アテルイ→アトロイ王から悪路王になったのだ、と考えている。もちろん「悪玉」となることによって、悪者の首領の意味にもなり、悪魔王ということにもなって、征夷の毘沙門王に対する敵役としてうってつけの名にされていった云々」でもそのように悪路王をアテルイに、また「赤頭」をモレに比定していいものなのか、いささか早計過ぎはしないかと思う次第である。

もう一人「悪路王候補を忘れてはいませんか」と声を大にして言いたい。

その人物とは、伊治公呰麻呂である。私がこの人物を悪路王と考えるかという根拠はそれは以下の通りである。
1.悪路王伝説における戦術の攻撃性。
2.地理的配置の符合。呰麻呂一族の墓と見なされる鳥矢崎古墳群(猿飛来はアイヌ語のサッピナイ。つまり水の枯れた川という意味のアイヌ語地名)と達谷窟が奥州街道の上街道としての松山道を通じて結ばれている事実。

3.阿久戸(アクト)という地名が、伊治城の目と鼻の先に存在すること。これを栗原地方の方言で言うそれを発音すると「アグド」となり、それを「悪路」と表記したのではという仮説。

まず第一の根拠から説明していく。この伝説の素形を考えていただきたい。つまりこの物語の骨子は、

蝦夷の長悪路王が、達谷より起こって、駿河の国、清見(現在の静岡県)まで攻め上っていったが、田村麻呂がその成敗に遣わされたと聞いて、慌てて奥州に逃げ帰る。そして最後には神樂岡という所で成敗される。”という至極単純な物語である。

私はこの物語における、悪路王の攻撃性に注目している。すなわち駿河の清見と言えば現在の静岡である。少なくとも蝦夷の国は古くから白河の関までと決まっていた。考え方によっては、これはあり得ない戯言のようにも思えてくる。

しかしギリシャのトロイ遺跡を発掘したシュリーマンの言葉を借りれば、神話や伝説には、一片の真実がある、とみなければならない。そこで仮に、この物語を真実と仮定した場合、静岡まで遠征できる人物とすれば、それは伊治呰麻呂以外には考えられなくなる。あの時の呰麻呂の勢いであれば、やれたはずだ。

「続日本紀」によれば、彼が反乱にまで至る原因を次のように説明している。
伊治呰麻呂、もとこれ夷俘の種なり、初め事によりて嫌を持つ。また牡鹿郡大領道嶋大楯、つねに呰麻呂を凌侮(りょうぶ)をもって遇す。呰麻呂深くこれを銜(ふく)む

これを意訳するとこのようになる。
呰麻呂は、元々蝦夷の出て、初めより天皇に従うのを嫌っていた。また牡鹿郡の大領である道嶋大楯は、同じ蝦夷の出にありながら、呰麻呂を侮蔑的な態度で接していた。これらのことを呰麻呂は、深く心に刻みつけていた」

そしていつしか呰麻呂の心の中にあった怒りと憎しみは、種子の如く成長し、ついには反乱として発芽する事となったのである。時に780年、呰麻呂はついに伊治城で恨み骨髄の同僚道島大楯を切り、さらに陸奥の最高権力者鞍察使紀広純を殺害してしまう。こうして蝦夷の血に目覚めた呰麻呂は鬼と化した。今の言葉で言えば、「ブチギレ」てしまったのである。

この時、呰麻呂は、囲みを解いて、大伴真綱とその部下?二百人を多賀城に逃がしてやる。どうして彼に情けを掛けたかは不明だが、ともかく、「多賀城を攻める」という言葉を伝えて、多賀城に返してやった。最後に多賀城の連中と堂々と勝負して、死華を咲かせようとしたのかもしれない。

さてこの時の逃がされた方の大伴真綱のショックもかなり大きかったようだ。伊治城から多賀城までのたった八十キロ道程を、二日もかかって多賀城に到着し、直ちに軍議を開いたようだが、多賀城全体の空気が一気に精神的パニックに追い込まれてしまった。いかに呰麻呂の勢いが強かったかがここからも伺える。

次にこの大伴真綱と石川浄足(きよたり)がついに夜の闇に紛れて逃亡するという事件が起きる。それに連れて々に他の兵達や周辺に植民させられていた百姓たちも逃亡してしまう。最後に多賀城に残った平氏は僅か百名足らずだったという話である。そして大伴真綱に話したように千名の軍勢を以て、呰麻呂が多賀城を襲う、多勢に無勢。あっという間に多賀城は破られて、火を放たれて、奥州の政庁である多賀城は、焼失してしまうのであった。

この時の呰麻呂の勢いを考えれば、日頃の恨みを正々堂々勝負によって決着つけようとしたところを卑怯にも逃げ去った大伴真綱や石川浄足を、鬼と化した呰麻呂は、遠く駿河の国清見まで追って行ったのかもしれない。そう思えるような恨みの強さのようなものが、この伊治の呰麻呂の乱にはあるような気がするのである。しかしどうした訳か、これ以後、正史から呰麻呂の消息はぷっつりと消えてしまう。消えるというよりは、おそらく歴史の闇に封印されてしまった可能性が高い。権力側からすればそれほどこの呰麻呂の乱の衝撃が大きかったのだろうか。

次に第二の根拠について説明する。

続く。
 
 

【3】悪路王を倒したのは、誰か?

もし仮に呰麻呂がその後、生きていて、反乱軍を影で指揮していたとしても、私は坂上田村麻呂と呰麻呂が戦場において戦ったようには思えない。年代が違い過ぎる。呰麻呂の乱が起きた780年、その時、田村麻呂は弱冠23歳の若者であったし、奥州に彼が遠征したという記録もない。田村麻呂がはじめて奥州に行くことになる可能性があるのは793年に大伴弟麻呂が征東大使になりその副大使になった時からである。したがってこの間、呰麻呂の乱が起こってから、既に丸十三年が経っており、呰麻呂は他の将軍との戦で戦死していると考えるのが自然のような気がする。つまり今日の田村麻呂英雄伝説は、何人かの将軍達の戦功を、一人田村麻呂に集合することで確立した英雄物語であり、それはちょうど記紀神話の中のヤマトタケルの物語に通じるものがある。

では次に呰麻呂の乱の推移とともに、呰麻呂の生死について推理してみたい。その推理が、理にかなったのものであれば、呰麻呂=悪路王説もより一層信憑性を増すはずである。その前にまず、「「続日本紀」の中の呰麻呂に関する記述を列挙しておこう。
 

呰麻呂が正史「続日本紀」に登場するのは、以外にも以下の四回(初見からわずか五年間)しかない。

1. 777年十二月十四日 宝亀八年(辛卯)…授位
初め陸奥鎮守府将軍朝臣広純言さく「紫波村の賊(あた)、蟻のごとく結びて毒をほしいいままにす。出羽国の軍(いくさ)、これと相戦ひて敗れ退く。是に、近江介従五位上佐伯宿禰久良麻呂を鎮守権副将軍として出羽国を鎮めしむ」とまうす。是に至りて、正五位下勲五等紀朝臣広純に従四位下勲四等を授く。従五位上勲七等佐伯宿禰久良麻呂に正五位下勲五等。外正六位上吉弥候伊佐西古・第二等伊治公呰麻呂に並に外従五位下。勲六等百済王俊哲に勲五等。

2. 778年六月二十五日 宝亀九年(庚子)…授位
陸奥・出羽の国司已下、征戦して功有る者二千二百六十七人に爵(しゃく)を賜ふ。按察使正五位下勲五等紀朝臣広純に従四位下勲四等を授く。鎮守権副将軍従五位上勲七等佐伯宿禰久良麻呂に正五位下勲五等。外正六位上吉弥候伊佐西古・第二等伊治公呰麻呂に並に外従五位下。そのほかは各(おのおの)差有り。(略)

3. 780年三月二十二日 宝亀十一年(丁亥)…反乱
陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂反く。徒衆(づしゅ)を率て按察使参議従四位下紀朝臣広純を伊治城に殺せり。(略)

4. 781年一月一日 天応元年(辛酉)…弘仁天皇が改元の詔(みことのり)
…もし百姓、呰麻呂らが為にあざむかれて、よく賊(あた)を棄てて来る者あらば、復三年を給へ。その軍(いくさ)に従ひて陸奥・出羽に入る諸国の百姓、久し兵役に疲(う)みて、多くの家の産(なりはひ)をあ破れり。当戸の今年の田租(たちから=税金)を免(ゆる)すべし。もし種子なくは、所司、量(はか)り貸せ。(略)

この呰麻呂についての記述は、どう考えても少なすぎる。大体正史というのであれば、この呰麻呂の乱の顛末を記しなければ、話にならない。これはいったいどしたことか。呰麻呂が蝦夷の出ということで差別でもあるのか。それとも他の理由があるのであろうか。

次には、いよいよ「続日本紀」の記述に沿って、呰麻呂の乱の推移と彼の生死について、考えていくことにしよう。 
 

780年 3月22日 伊治城において、呰麻呂、藤原広純を殺し、反乱を起こす。
〃 〃 3月2?日 呰麻呂多賀城に攻め上る。
〃 〃 3月28日 天皇、藤原継縄を征東大使、大伴益立と紀古佐美を征東副使に任ず
〃 〃 3月29日 天皇、大伴真綱を陸奥鎮守副将軍に、安倍家麻呂を鎮狄将軍に、
大伴益立を陸奥守に任ず。
 

22日から数えて、6日目に奈良の都まで、呰麻呂反乱の知らせが届いたことになる。これは昔の交通手段を考えれば異様なほど早い。その素早い対応を見るだけで、朝廷側の衝撃の強さが分かろうと言うものだ。 

 

780年 4月 4日 征東副使の大伴益立従四位下授かる。
〃 〃 5月11日 天皇勅す。俘囚が叛逆ている。俘囚を良く諭し、刺激するな。
〃 〃 5月14日 天皇勅す。戦の備えを欠いてはならない。板東、能登、越中、越後に注意を喚起。
〃 〃 5月16日 天皇勅す。「日を定めて大軍を結集し、賊を誅殺せよ」、と檄を飛ばす。
 

呰麻呂は、益々勢力を保っているようだ。5月14日の勅については、呰麻呂が都に攻め上がって来る、という噂が立って、それに対応した反応かも知れない。  

 

780年 6月 8日 百済王俊哲に陸奥鎮守副将軍を、多治比真人宇佐美に陸奥介を授ける。
〃 〃 6月28日 天皇勅す。「征東副使の大伴益立に2ヶ月経っても賊を討てないのはどうしたことか」
と不満を漏らす。
 

この時点でも、呰麻呂の乱は、収まっていないことは明白のようである。  

 

780年 7月21日 征東使、都に甲(かぶと)一千領を求む。すぐに調達して送りつける。
〃 〃 7月22日 征東使、同じく綿入れ上着四千領を求む。すぐに調達して送りつける。
〃 〃 8月23日 鎮狄将軍の安倍家麻呂言上してくる。朝廷に帰順した出羽の俘囚たちが
「秋田城は永久に放棄されるのか?と心配しています」と。
〃 〃 同  日 天皇が勅す。「逆賊を討つために、板東から兵士を徴発し、
九月五日までに多賀城に集結させよ」
〃 〃 9月23日 従四位の藤原朝臣小黒麻呂、正四位を授け、併せて持節征東大使に任命さる。

 

本格的な征討作戦が始まった様子が伺える。天皇に檄を飛ばされて、征東使も必死になっているはずだ。出羽の防御も手薄になっており、朝廷側の兵力が、まさに多賀城から伊治城の周辺に立てこもっていると思われる呰麻呂等の反乱軍に集中的に向けられていることが分かる。天皇としては、九月、すなわち東北が寒くならないうちの決着を望んでいるように思われる。この時点でも呰麻呂は確実に生きており、東北各地の蝦夷たちと連絡を取りつつ、抵抗を続けているようだ。

ここで気になることが一つある。九月の戦いがどうなったかは記述がないので分からないが、新たな征東大使として藤原小黒麻呂が任命されたことである。彼は藤原房前(ふささき)の孫にして、鳥養の息子にあたる人物である。

 

780年 10月29日 天皇勅す。「いつ伊治城を回復するのか?」掃討作戦遅延の苛立ち。

 

光仁天皇の、苛立ちを考えると、この時点では、呰麻呂を捉えたり、掃討したということはまず考えられない。 

 

780年 12月10日 征東使奏上。「二千の兵で、鷲倉、楯倉、石沢、柳沢の五道を攻め取りました云々」
〃 〃 同  日 天皇勅す。「出羽国大室塞も賊の要害とか、警戒を怠らず、防御を固めよ」
 

出羽の国からやってくる賊に、征東軍は明らかに悩まされている様子だ。征東軍の駐屯地は、はっきりしないが、多賀城から北に位置する桃生城や新田柵、玉造柵などが考えられる。また藤原広純が、死の寸前まで造ろうしていた覚べつ城の比定地も気になるところだ。これまで覚べつ城は、伊治城よりも少なくても、北に位置し、現在の一ノ関という意見が多かった。しかし古川の宮沢遺跡の発掘が進むにつれて、俄にこの宮沢遺跡=覚べつ城説が信憑性を持って語られるようになってきた。呰麻呂の乱前後の続日本紀を見ても明らかなように、出羽方面から蝦夷が攻めてくることが多い。だからこそ覚べつ城は、是非とも必要だったのだろう。そうするとおそらく出羽の賊たちは、羽後街道をへて、現在の鳴子を通り、呰麻呂の占拠する伊治方面に押し寄せてきたはずだ。反乱軍を率いる呰麻呂にすれば、おそらく栗駒山越え(羽後伎街道)をして雄勝に抜けて、出羽の蝦夷達と共に、征東軍を挟み討ちにする作戦だったのかもしれない。ともかくこの時点でも、呰麻呂は生存していたように思われる。

 

780年 12月27日 陸奥鎮守副将軍百済王俊哲言上。「賊に囲まれ、敗北寸前、桃生、白河などの
十一の社に祈った所、囲みを破り兵士を死なせずに済みました。これらの神社を、
弊社の列に加えられますように。

 

さてこうして瞬く間に宝亀十一年(780年)という年は暮れを迎えた。冬になり、散発的な戦いはあったにせよ、戦は小休止に入ったはずである。

 

781年 1月 1日 天皇が詔(みことのり)を発す。「伊治呰麻呂に欺かれた者でそこから抜け出てきた
ものには租税を三年免除する。蝦夷征伐で兵役のため、生活が破たんした者には田租
を免除し、種籾を与える云々」
 

呰麻呂の乱が、いかに国全体に深刻な打撃を与えたかが分かる記述だ。しかも光仁天皇は、はっきりと呰麻呂と名指ししている。この呰麻呂の所から抜け出てきた者には租税を免除というせっぱ詰まった懐柔策の中に、光仁天皇自身の焦りが感じられ、呰麻呂がまだ生存していることの確率は極めて高いと思われる。 

 

781年 1月10日 藤原小黒麻呂陸奥按察使に兼任登用される。
〃 〃 4月 3日 弘仁天皇皇位を山部親王(桓武帝)に譲る。「風の病に悩まされ、余命幾ばくもない。
皇位を譲って、休養したいと思う云々」(詔)
 

弘仁天皇は、陸奥の呰麻呂の乱に悩まされ、遂に体調を崩して、皇位を降りることとなった。この時の詔には、その無念がよく表現されている。故に呰麻呂はまだ存命している可能性は大である。本当ならば、呰麻呂の乱を自分の代で平定し、息子に皇位を引継たかったはずだが、遂にその願いは実現しなかったようだ。
 

781年 5月27日 紀古佐美が陸奥守に任命される。
781年 6月 1日 桓武天皇小黒麻呂らに勅す。(下の通り)
 

この小黒麻呂への詔(みことのり)は、重要なので以下に掲載する。

「天皇は詔を申された。”去る5月24日の奏状に詳しく陸奥の情勢を知った。それにしても夷俘(いふ)というもの時にハチのごとく群がり、時にアリのごとく集まり、騒乱の主犯となっている。こちらが攻めれば、たちまち山奥深くに逃亡し、攻めないと思えば、こちらの城塞を侵し物をを掠め取っていく。しかも賊の頭の伊佐西古や八十嶋、乙代(おとしろ)らは、一騎当千の強者である。彼らは行方を山野にくらまし、時を待って、こちらの隙を伺っている様子だが、我が軍の力を怖れてか、一向に姿を現さず、狼藉を振るおうとして来ない。そこに来て、未だに我が将軍らは、その賊の頭の一つの首も切らずして、征東軍を解散させてしまった。既に事は終わって、今さらこれを如何ともし難い。それにこれまでの奏状によれば、賊四千人のうちで、討ち取った賊の首級(くび)は僅かに七十人余りに過ぎず、まだまだ数多くの賊が逃げている。それにも関わらず、我が軍の将軍らは、戦勝を報告しますなどと申して、急いで都に向かうことを請うのであろうか。例え、どのような前例があろうとも、朕(ちん)は、彼らが都に入ることを許すつもりはない。まず副使内蔵忌寸全成(またなり)と多朝臣犬養のうちの一人が、駅馬車に乗って上京し、すみやかに戦の委細を報告し、後の沙汰を待て”(佐藤訳)」

この詔は、陸奥の呰麻呂の反乱の最高責任者である小黒麻呂ら征東軍に対する不審である。この詔の中にある五月二十四日の報告によって、桓武天皇は一向に進まないとしかみえない賊の鎮圧に業を煮やしている。

そこへすでに勝手に陸奥で征東軍を解散した将軍たちが、都に入ることを許して貰おうという情報が入って、桓武天皇は、不信感を募らせているのであろう。その不満を最高責任者である小黒麻呂にぶつけて、いきなりの征東軍の上京を許さなかった訳である。この文の中では、蝦夷の4人の賊長(伊佐西古、諸侯、八十島、乙代)が記載されているが、肝心の呰麻呂は記されていない。さて呰麻呂はこの時点でどうなっているのだろう。

この中で五月二十七日に、天皇が紀古佐美を陸奥守に就任させたのは、二十四日の報告の中で、紀古佐美に特別な功績が何かあって、それを認めてのことであろう。

 
 

781年 7月10日 小黒麻呂が、民部卿に任ぜられ陸奥按察使と兼務する事になった。
 

この任官は実に、不思議な感じがする。小黒麻呂は、先に(六月一日)、天皇に大目玉を食らったばかりではないか。この間、僅か40日余りで上京が急に変わったようだ。もしかしたら、この間に天皇を納得させ得るような手柄を立てた可能性がある…。

次に、そこから45日間が過ぎて、もっと驚くべき記事が突然飛び出してくる。
 
 

781年 8月25日 小黒麻呂征伐の事を終了し上京。正三位を授く。
 

この原文の記述は次のように実にあっけないものだ。

「陸奥按察使正四位下藤原朝臣小黒麻呂、征伐事畢入朝。特授正三位」。6月1日の詔からこの日までの約三ヶ月の間に呰麻呂の乱が平定されたことになるわけだが、反乱に対する見せしめの為にも、詳しい記述があってしかりなのに、それがないのは、よくよく書け得ない事情があったとみるべきではあるまいか。それは例えば、呰麻呂らの蝦夷の首領たちとの政治的軍事的妥協が成立して、協定のようなものが作られたかもしれない。ともかく公表できない何かがあったのは確かである。仮に反乱軍と妥協が成立し、軍事境界線のようなものが一時的にせよ決められ、蝦夷のための解放区のような地域があったとしても不思議はない。とすれば呰麻呂は、この時点でも、生きていた可能性がある。その大きな証拠が呰麻呂一族の埋葬地とされる猿飛来の鳥矢崎古墳群かもしれない。もしも征伐された一族であれば、あれほどのものが、現在残っているはずはない。その時点で、破壊され盗掘され、影も形も無くなるか、寺社にでも変化させられていたはずである。
 
 

781年 9月22日 征東軍の功労者、紀古佐美、百済王俊哲、内蔵忌寸全成、
多朝臣犬養らに征夷労を労い叙位叙勲を授ける。
〃 〃 9月26日 征東副使大伴益立、蝦夷征討任務遂行のミスを指摘され、従四位下を剥奪される。
 

信賞必罰叙位叙勲で出世する者あれば、一方ではその責任を問われて、転落する者もある。この記述(9月26日)を訳すと以下のようになる。

「初め征東副使大伴益立には、出立する前に、従四位を授けた。にもかかわらず、戦においてしばしば攻め時を誤って駐屯するばかりで、前に進むことなく、いたずらに軍費を浪費して日時を思いの外費やしてしまった。そこで改めて、大使の藤原朝臣小黒麻呂を遣わした。陸奥に入ると、たちまち兵を前進させて、失ていた城柵を回復した。したがってここに桓武天皇は、詔を発し、益立が侵攻しなかったことをお責めになり、その従四位を奪われた。(佐藤訳)」この降格人事に関しては、藤原氏の大伴氏追い落としの一環という見方がある。
 
 

781年 12月01日 陸奥守正五位上の内蔵忌寸全成が鎮守府将軍を兼任。
〃 〃 12月23日 弘仁天皇崩御(73歳)。小黒麻呂、御装束司の一人に任ぜられる。
782年 01月06日 小黒麻呂が誄(しのびごと=追討の言葉)を奏上する。
弘仁天皇に天宗高紹(あまむねたかつぐ)天皇の諡を贈る。
〃 〃 01月11日 因幡国守従五位下氷上真人川継朝廷を覆えそうと謀反を画策して捕縛。
伊豆へ配流。

呰麻呂の起こした乱で、かなりの精神的な打撃を被った光仁天皇が、遂に亡くなった。それに対して、桓武天皇は、詔によって、公務を怠らぬこと。喪服の着用は六ヶ月に限り実行するなど、混乱した国内を引き締める発言を行う。またこの弘仁天皇の葬礼に関して、小黒麻呂が重要な職を任されていることに注目したい。
 
 

782年 02月03日 民部卿正三位小黒麻呂を陸奥按察使を兼務。
 〃 〃 05月3日 陸奥の人外従初位下の安倍信夫臣東麻呂が軍粮(糧)を献上して外従五位下を授く。
 〃 〃 05月12日 陸奥に兵乱あり、奧郡の百姓が集まらず、調(税)の三年間を免除す。

相変わらず、陸奥での混乱は続いているようだ。その為、国府、多賀城の朝廷軍は、張りつめた気分でいるはずである。同時に食糧も十分ではなく、信夫の俘囚の安倍東麻呂という人物が、授位しているのはよく分かる気がする。また状況の混乱のため、柵戸たちが、陸奥に帰って来ていないことも分かる。その上での、小黒麻呂の再度の陸奥按察使登用であろう。
 
 

782年 05月20日 陸奥より言上。「鹿島の神に祈り、賊を討ったので、功労者に褒美と官位を願う」
勲五等と封二等を授ける。外従五位下の栄井宿禰道形に従五位下に昇進。
 〃 〃 06月17日 春日太夫従三位の大伴家持に陸奥按察使兼務。
外従五位下の入間広成陸奥介に任ず。
外従五位下の安倍墨縄を鎮守府副将軍に任ず。

とりあえず、陸奥の乱は収まったかに見える。この頃から、鹿島神社に対する信仰が根強かったのだろう。この事実によって、陸奥の長官達は総入れ替えとなる。そして問題の大伴益立の一族の長である家持が激務の按察使に就任することになる。この時、家持は、六十五歳であった。彼の国府多賀城行きがあったかなかったかは意見の分かれるところだが、高齢の彼が、呰麻呂の乱は収まった(?)とはいえ、混乱の陸奥に赴任させられるのは、どう考えてもおかしい。まあ、氷上川継の謀反に連座したとして一度官位を奪われているので、その辺りの事情が、この人事に反映していることは十分に考えられる。
 

 まとめ

以上のことを総合して考えると、以上の事が考えられる。

呰麻呂は、少なくとも、781年5月24日の間までは、生きていた。その根拠は、桓武天皇の781年6月1日の詔にある文章「今将軍等、未斬一級、先解軍士(未だに我が将軍らは、その賊の頭の一つの首も切らずして、征東軍を解散させてしまった。」という箇所である。では何故、賊の頭(かしら)を斬らずに征東軍を解散したかと言えば、外交交渉に長けた小黒麻呂が、反乱軍と停戦交渉の上で何らかの政治的妥協が成立したということであろう。一人の賊の頭の首級も取れずに、帰京したことに憤激している桓武天皇であったが、小黒麻呂の事情説明を聞くうちに、その政治的な解決という手法を受け入れたのであろう。しかしそれは朝廷軍にも屈辱的な部分が在るため、正史上には、記せなかったとみるべきではあるまいか。

では、その政治的な妥協の内容はどんなことが想像できるであろう。

1.呰麻呂の引退と配流。
2.ある一定の範囲を、蝦夷の国(解放区、あるいは居留地的な特別の地域)として一定条件下で認める。

しかしもちろんこれはあくまでも、政治的な妥協であるから、朝廷側と陸奥の蝦夷側では、それぞれに思惑を残しているから、当然混乱の火種は、すぐに発火するような危険な状態であることに変わりはない。そこで決定的な人物として現れるのが、坂上田村麻呂と、呰麻呂の意志を継ぐ男である阿弖流為なのである。

だからこの章の私の結論は、呰麻呂の政治生命を葬ったのは按察使の小黒麻呂の政治手腕であるが、結局、彼自身は、殺されず、隠居もしくは引退という形で、天寿を全うしたのではないかということである。このあっけない結論の意味するところは、結局当時最強のアメリカ軍を向こうにまわして抵抗し抜いたベトナム戦争時のベトナムの民と同じようなものだ。すなわち、「このままでは先祖伝来の土地が、他の民族に陵辱されてしまう・・・」という蝦夷たちの止むに止まれぬ心情を背景とした危機感が、関東近在から訳も分からず連れて行かれた俄編成の朝廷軍のそれを、遙かに上回っていたということである。

そこで次に問題になるのは、罰せられ殺されてもいない呰麻呂が、後の世に悪路王という大悪党に仕立てられて行くかということである。その問題は、次節において論じることとしよう。
 
 

【4】2の結論 悪路王伝説のからくり
 

3.坂上田村麻呂伝説と毘沙門天像について

【1】宗教としての坂上田村麻呂

東北には、坂上田村麻呂が創建したとする寺社がすこぶる多い。当然中には当然本人が立ち寄り、戦勝を祈願し、あるいはその大願成就樹を感謝した寺社もあるだろうが、明らかに後世の人間達が、田村麻呂の威光を何らかの意図をもって、創作したと思われるものもかなり多いのである。つまり坂上田村麻呂は、後世の人間により脚色されているということだ。

そして彼はいつしか奥州の守護神として毘沙門天の化身として祀られるようになったのである。周知のように毘沙門天(Vaisravana)は多聞天とも言い。ヒンズー教における財宝の神クーベラ(Kubera)の別名である。四天王の内でも最も由緒正しき神とされ、夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)らの衆を率いて北方を守護する善神にして武神である。七福神の一人に数えられ。吉祥天はその妻、あるいは妹と見なされている。もちろんいつの頃から坂上田村麻呂が、毘沙門天の化身であるという風評が生まれのかは定かではない。しかしそれが伝説として東北を全体に拡散し、更に全国にまで喧伝されるように至ったことは否定しようのない事実である。

そもそも東北に坂上田村麻呂が遠征することになる直接の原因は、780年3月22日、起こった伊治呰麻呂の乱以降続いていた東北の蝦夷(えみし)達の度重なる反乱であった。この東北の蝦夷達の動乱は、802年8月13日に大墓公阿弖流為と盤具公母礼という二人蝦夷の首長が、河内国杜山にて処刑されるまで続いた。その間、何と22年と5ケ月に渡る長期に及んだ。この中で奥州征服作戦の最大の功労者が坂上田村麻呂であり、ヤマトタケル伝説と同じく多くの同類の将軍達の武勲が田村麻呂に集中的に結集されより凄みのある大人物として伝説化したものであることは疑いの余地がない。

伝説は取りあえず一旦棚上げにして、正史から話をはじめよう。六国史の「日本後記」の断片を収集し編集した「類聚国史」や「日本紀略」の記述によればに田村麻呂が、実際に東北に遠征したのは、793年(延暦12年)2月21日からである。時に田村麻呂36歳であった。伊治呰麻呂の反乱以来既に13年の月日が流れており、正史には呰麻呂の消息を伝える記事は全くない。

但し、類聚国史の792年一月十一日の記述に、この頃の陸奥の動勢を伝える箇所がある。それによれば、斯波(しわ=志波)の蝦夷である阿奴志己(アヌシコ)が陸奥国史に帰順を願い出てきたというものである。しかし、伊治の連中がいるためどうしようもないので、伊治の連中を何とかして欲しいという訴えである。このことは呰麻呂の消息は知れないが、伊治村(宮城県栗原郡築館町から志波姫町阿久戸、栗駒町尾松にかけての周辺)は、権力の真空地帯(もしかしたら解放区のような地域)があった可能性もあるように思われる。792年と言えば、紀古佐美率いる5万の朝廷軍が歴史的な大敗を阿弖流為と母礼率いる蝦夷軍に喫した789年の後であり、依然として、伊治周辺が両軍のせめぎ合う地域だったことは注目に値する記述である。

ただこの現実の田村麻呂と悪路王伝説の上の田村麻呂との相違については、是非とも抑えておく必要がある。つまり伝説では、悪路王が駿河国の瀬見の関まで攻めて行ったことにたっており、悪路王は、そこで田村麻呂が出陣することを聞いて、恐れをなして、都に攻め上る?のを中止して、奥州に逃げ帰ったことになっているが、これは明らかに違っている。既に奥州では、さっき見たようにおそらく伊治付近に解放区のような地域は合ったかも知れないが、都に攻め上るような軍勢も資金もなかったと見るべきで、これはあくまでも誇張である。では何故そのような誇張が起きたのかと言えば、二つのことが考えられるであろう。つまりひとつは、田村麻呂の英雄伝説をより大きく形成するためのデフォルメであり、もうひとつは、悪路王にシンパシーを感じる蝦夷の末裔の人たちの感傷である。まあどちらにしても、田村麻呂伝説は、一種の宗教として征服者にも被征服者の側にも受けいられるものとして、機能したことは疑うべくもない現実である。
 

【2】東北に現存する毘沙門天像

さて次に、毘沙門天を安置してある東北の寺をスケッチしてみよう。まず何と言っても岩手県平泉達谷窟(たっこういわや:西光寺)「百八体毘沙門天」である。これはもちろん悪路王伝説発祥の地であり、田村麻呂が京都の鞍馬寺より勧請してきたものとされ、現在は焼失によって27体の像しかないが、清水寺同様、舞台造りになっている堂に入ると、暗くてよく見えないが、線香の臭いが充満し、その中で色々な表情をした毘沙門天がこちらをじっと見ている。まさに異様な霊気のようなようなものを感じる場所である。

次に宮城県角田市にある福応寺の毘沙門天三尊像である。これは運慶作と伝えられるもので中央に邪鬼をカカトに敷いた形で毘沙門天がどっしりと構えている。

さらに北上市立花にある北上市立博物館に安置されている毘沙門天立像である。これは奥州藤原氏二代基衡が、かつての極楽寺の北の坊にあたる立花毘沙門堂(満福寺)に寄進したものと伝えられている像高102cmほどの像であるが、カカトに邪鬼を組み敷いて。正面をしっかりと見据えている迫力ある仏像である。

当の極楽寺は胆沢城の真北約10キロの位置にある由緒ある寺である。この極楽寺には、かつて、二丈八尺というから八m弱の巨大な兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)が祀られていたとされる。この兜跋の意味であるが、チベットから伝わってきた流行の毘沙門天像のことである。この兜跋毘沙門天の特長は、とにかく巨大なことが特徴であり、足の下に邪鬼を組み敷く替わりに、可憐な地天女(じてんにょ)がその肩に乗っていることだ。地天女とは、読んで地の如く、地面の女神様であり、この姿は地面からまさに、地天女の肩に乗って、地面から出現した瞬間を表すものだとされる。さて通常の毘沙門天像では、鬼は足の下に組み敷かれていたが、兜跋毘沙門天像になると、左右に手をX印にした格好で藍婆(らんば)、毘藍婆(びらんば)という善神となって分かれ、その巨大な毘沙門天に付き従っているように見えるものである。

この兜跋毘沙門天でもっとも有名なものは、岩手県東和町にある成島毘沙門堂にある兜跋毘沙門天立像である。その高さは4.7mで現存のものでは日本最大と言われるものである。この像の右手には、阿弥陀如来像が安置されているが、実はこの阿弥陀如来像の安置した年号と施主の名が、その体内にあった墨書から明らかとなった。その安置した年号は承徳二年というから1098年であり、施主は「坂上最延」なる人物であった。1098年という年は、坂上田村麻呂が、征夷大将軍として陸奥に下向して三百年目の記念すべき日に当たりこのあたりも何か意味があるようにも感じられる。また最延というからには、天台宗の僧侶の可能性が高いし、しかも、その坂上という姓から、田村麻呂縁の人だった可能性もある。

さらに成島び兜跋毘沙門天ほどの大きさはないが、江刺市の藤里毘沙門堂にも、この兜跋毘沙門天(像高2.3m)が祀られている。このお堂には、もう一体の毘沙門天像が祀られているがこれは下に邪鬼を組み敷いた通常の形の毘沙門天像である。

もう一つ宮城の松島の五大堂に有名な伝説があるので、紹介しておこう。この松島五大堂は、陸奥の朝廷側の政庁であるが、その鬼門に当たるのが松島である。ここに蝦夷征伐を祈願し、田村麻呂が毘沙門天を祀ったというのである。後に慈覚大師がここに天台宗延福寺を開山し、五大堂には、慈覚大師が手彫りの五大明王を彫って安置し、田村麻呂の毘沙門天像は、別の島に飛び去ってしまったという話である。

もちろんこれ以外にも東北を中心として多くの田村麻呂による毘沙門天勧請伝説はあるはずだが、ここで割愛させていただく。この章で抑えておかなければならない大事なポイントは、田村麻呂の蝦夷征伐伝説と、現実の田村麻呂の行動の矛盾である。
 
【3】結論 毘沙門天と悪路王

続く
 

4.陸奥話記の阿久利川と現在の阿久戸の関係について
 

5.伊治呰麻呂の本拠地としての阿久戸周辺の研究
 

6.アクトをカカトとすることに関する意味とその方言文化圏の拡散と限界

7.アクト方言にみる方言と地名拡散の理論

8.結論
 

佐藤



 

 

 

 

 

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