平泉舊蹟志
相原友直著
<達谷窟>
一、達谷窟、岩井郡達谷村に有り、東鑑には、田谷窟と書けり、中尊寺より未申の方奥道十二里、東鑑に、田谷窟は、田村麻呂・利仁の将軍綸命を奉り、征夷の時賊王悪路王並に赤頭等塞を構るの岩室なり、其岩洞が前途はこゝに至て十餘日にして外が濱に隣る、坂上将軍此窟の前に於て、九間四面の精舎を建立し、鞍馬寺を模し多門天の像を安置し、西光寺と號して水田を寄附す、寄文曰、
東限北上河、南限岩井河、西限寫生岩屋、北限牛木長峯者、東西三十餘里、南北廿里、と云へり、
一、毘沙門堂、別當眞鏡山西光寺廣照院と號す、天台宗東叡山の末寺、妻帯なり、國主より寺領を寄附せらる、毘沙門天の像、昔は百八體有りしと云ふ、今残る所三十體、長八尺より三四尺まで、慈覚大師の作、秘佛一體來持吉祥天女・善尼師童子、何れも古佛なり、昔の窟今猶残れり、是則悪路王・赤頭等が住める所なり、岩壁の高さ八九丈餘、截り断たるがごとし、堂は窟の内に造り込たる掛造なり、高三丈餘、桁行八間、梁間七間なり、田村麻呂創立の後、C衡・基衡・秀衡の建立も多く堂塔も数多有しが、百四代後土御門帝延徳二年庚戌、野火の餘啗にて堂塔・二王門等悉く炎上す、今の堂は其後の建立なり、大日像、堂内に安す、堂炎上の後爰に移す、八尺堂趾、昔八尺八方の堂に、恵心僧都作れる観音を安置せしと云ふ、手懸松、岩窟の上高十仞餘の所に、偃たる松有り、往昔、悪路王手を此松にかけて、官軍を窺たる故に名づくと云へり、愚按するに、悪路か時の松は枯て、世植繼たるなるへし、不動堂趾、姫侍が瀧の本尊智證大師の作、基衡建立なり、辨材天堂、本堂の前蝦蟆池の中島にたつ、本尊慈角覚の作、十五童子は近世の造立なり、池の形蝦蟆に似たり、紅楓木、寺前に在り葉九裂なり、俗九葉のもみぢと云ふ、岩大佛、高三丈餘の大日なり、窟の西の断崖に在り、源頼義ユハツを以て彫付給ふと云へり、又義家とも云ふ、愚按するに、ユハツを以て岩面に書付けたりしを、其後ほり付たるべし、其造工ユハツの及ぶ所にあらず、講堂趾、窟の南に在り、昔薬師並に十二神将を安置す、鐘樓、髪掛石、窟の北十餘町に在り、大石高三丈ほど上は古木有り、
昔賊徒等掠めとる所の女の鬘を採て此岩に懸たりと云ふ、姫侍が瀧、鬘岩の北山町餘瀧有る道の傍なり、昔中納言某卿の女子を、悪路王奪ひとりぬ、父母窟に在る事を尋ねきゝて、潜に文を女子に遣す、女子はかりごとをめぐらし、櫻野に伴ひ出て遊びたわむれ、酒をすゝめて醉しむ、此時都より尋ね下りたる者を、瀧のもとに隠れ居らしむることをしらずして悪路は醉臥たりける隙を伺ひ、姫は彼の迎ひの者と遁れ出て、都に歸へりのぼりぬ、故に此瀧を姫侍が瀧と云ふなり、二王門趾、櫻野の西、西光寺の東南なり、昔堂塔數多ありし時、此所に二王門あり、来迎橋、瀧の南に在り、昔姫都にのぼることを佛にいのり、佛の来迎に依て都に歸へれりと云て、此所の名とす、
一、山王社趾、愛宮社、稲荷宮、十王堂、聖徳太子堂、無量壽院、日光權現、神明宮趾、日月石、此二所、共に昔は毛越寺の地なりしが、寛永十八年より達谷村の分となる、東鑑には、田村麻呂・利仁二人の名を挙ぐ、悪路王・赤頭を伐て達谷窟丸攻破ると云ふ、王代一覧には、田村麻呂蝦夷高丸並に悪路王を殺し、達谷窟を攻破ると云ふ、元享釋書延鎮傅には、田村将軍、高丸を討殺すと云ふ、羅山翁神社考上に同じ、義経記には、坂上田村麻呂はあくしの高丸を討ち、藤原利仁は赤頭四郎を討と云へり、百将傅抄には、藤原利仁は、高丸達谷が窟に楯こもる、是を討て其窟を攻破ると云ふ、七武者書には田村鎮東夷之虐、利仁屠高丸窟と云へり、
愚按するに、征夷大将軍従四位上坂上田村麻呂は、人皇五十代桓武帝御宇の人にして、夷賊征伐は延暦二十年なり、鎮守府将軍藤原利仁は、人皇六十代 醍醐帝延喜年中、夷賊誅伐す、延暦二十年より延喜年中まで百餘年なり、然るに、田村も高丸を打と云ひ、又利仁も高丸を伐と云ふ、諸書の説紛々として疑なき能はず、請う後人正説を考えてこれを一に歸すべきなり、
一、平泉舊跡方角里數、予此書を著して、方角間數を記さず、然るに、近年山の目の大槻清雄、悉く方角間數を書して、以て後世の遺忘に備ふ、其志深切なりと謂ふべし、予即ち請うて此書の末に附して同志の人に示す、其間數里數は、圓隆寺池の南、南大門の入口、東南の角の礎石より、四方四隅に渡り始むと知るべきなり、
一、金堂間圓隆寺と號す、子の五分間數六十五間三天、 ○鐘樓亥の八分、四十八間、 ○鼓樓丑の二分、四十八間、 ○文珠樓子の五分、五十二間、 ○辨天子の一分、二十八間、 ○大黒天子の八分、二十八間、 ○嘉祥寺亥の二分、七十三間三尺、 ○講堂亥の九分、八十間、 ○經蔵亥の三分、五十八間五尺、 ○常行堂丑の四分、七十四間、 ○法華堂丑の五分、六十七間、 ○聖山塔卯の一分、五十二間、 ○池中島辨天堂子の九分、一町三十五間、 ○獨鈷水子の四分、一町五十九間、 ○日光社丑の六分、四町三十間、 ○千手観音堂子の七分、四町二十五間、 ○鈴懸森子の三分、十八町、 ○金鶏山子の八分、六町五十間、 ○金峰山北方鎮守、子の九分、五町四十五間、 ○新熊野北方鎮守、丑の五分、五町二十間、 ○義経館丑の二分、八町、 ○大阿彌陀堂観自在王院と號す、丑の七分、二町五間、 ○小阿彌陀堂丑の九分、二町十五間、 ○基衡室墓丑の八分、二町三十間、 ○阿彌陀堂楼堂寅の六分、二町二十五間、 ○貴船社丑の九分、四町十五間、 ○梵字池新御堂無量光院と號す、俗怯をしみん堂といふ、丑の九分、七町、 ○三重寶塔寅の一分、七町二十間、 ○新御堂鐘楼寅の一分、七町二十間、 ○猫摩淵寅の三分、八町二十五間、 ○柳御所丑の九分、八町三十間、 ○日吉白山社東方鎭守、寅の四分、五町二十八間、 ○泉酒跡寅の九分、七町八間、 ○伽羅御所寅の七分、七町二十八間、 ○舞鶴池銕塔寅七分、一町五十間、 ○普賢堂寅七分、二町、 ○五重塔卯の五分、一町四十三間、 ○時太鼓卯辰の間、一町二十五間、 ○車宿卯の六分、五十五間、 ○粧坂(けわいざか)巳の二分、四十一間、 ○正八幡社巳の六分、一町二十五間、 ○國衡屋敷巳の三分、一町五十間、 ○隆衡屋敷巳の九分、二町五十二間、 ○兒が澤午の五分、二町、 ○祇園社南方鎭守、巳の七分、十一町廿六間、 ○王子諸社巳の六分十一町五十四間、 ○春日社午の九分、六町二十六間、 ○勅使屋敷未の二分、九町三十間、 ○薬師堂午の七分、十町六間、 ○諏訪社未の八分、二十町四十間、 ○鏡山伊豆権現未の三分、十町二十六間、 ○吉祥堂未の三分、六町十間、 ○不動堂午未の分、七町廿八間、 ○西明堂未の八分、一町十七間、 ○櫻清水白山社未の五分、九町四十六間、 ○北野天神社南方鎭守、八町五十六間、 ○大日堂未の九分、八町四十八間、 ○慈覚堂未の九分、八町四十六間、 ○稲荷社西方鎭守申の六分、五町二十間、 ○文珠堂申の六分、三町二間、 ○薩摩堂申の四分、一町四十間、 ○鐘楼申の四分、一町四十二間、 ○鐘が嶽亥の六分、十六町、
中尊寺經藏は、天仁元年、金色堂は、堂二年己丑の歳、C衡朝臣建立す、今安永八年己亥に至て、六百七十一年の星霜を經て猶残る、其外の堂社は、建武四年丁丑の歳、悉く焼亡して後漸々營む所なり、然りといへども、昔の半にも足らざる故に舊跡詳ならず、其地相隔たらざるを以て、今方角間町を記さず、又義經朝臣の家臣等が舊跡は、山下にあつて或は松或は石塔をしるしとす、是も又其地隔つこと遠からざれば、今此に記さず、既に此書の中に、其所を載すが故なり、
中尊寺薬樹王院 北本澄江 訂正
<達谷窟終>
最終更新日 1999.11.30 Hsato