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相原友直小伝

はじめに

今から三百年程前に、奥州に相原友直という人物がいた。私はこの人物の名をその著書(平泉の歴史に関する本)から知った。素晴らしい本である。読み込むと、この本を書いた人物のことが、無性に知りたくなった。しかし現在市販されているものに、彼の生涯を記述しているものはない。そこで平泉郷土館主事千葉氏に電話をして、この人物の生涯を断片的に知ることができた。
 
こんなに素晴らしい仕事をしているのに、何故今この人物は、歴史の中に埋もれたままなのだろう。どうにかしてこの人物を歴史の表舞台に登場させようと思い、この人物の小伝を書くことにした。おそらく四年後の生誕三百年の年には、相原友直は、民俗学の柳田国男や宮本常一によって見いだされた菅江真澄のように、又ヘルベルト・ノーマンに見いだされた安藤昌益のように、日本史の中でも重要な歴史家の一人に数えられていることだろう。本物は必ず、誰かによって見いだされるものだ。さて読者諸兄はこの人物の生涯にどんな感慨を持つだろうか。

 

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【平泉三部作の作者・相原友直】

平泉三部作(「平泉実記」、「平泉旧蹟志」、「平泉雑記」)を書いた相原友直は、元禄十六年(1703)気仙郡高田村に、医師相原友常の長男として生まれた。父友常は、友直が幼き頃より、医術の素養だけではなく、漢文や書の手ほどきも含め、人間の幅を拡げるような英才教育を施した。又それに応えるように少年期の友直は、気仙郡今泉村金剛寺の宥譽法印より仏典及び儒学を学ぶなど、溢れるような向学心で勉学に励んだと伝えられる。

 

相原家の由来

相原家は代々仙台藩伊達家に仕える家系であった。その家伝によれば、陸奥国名取郡領主粟野大膳の一門にして名取七騎の一人に相原助左右衛門和泉という人物がおり、その人物が相原家の初代とされる。和泉の一子相原友久(相原家二代目)もまた、名取郡に在住し、伊達家に仕えていた。その後、相原家は、伊達正宗の命により、黒川郡に移る。

寛永十一年(1634)伊達宗清逝去の後、相原友久は、寛永十八年(1641)伊達兵部宗勝(伊達政宗公第十三子)に従って一ノ関城に家老職として赴任した。その時、弟相原善兵衛(一ノ関相原家初代)も共にこの地に住居を構えた。二人は最後まで、伊達宗勝に仕え、一ノ関で没した。一ノ関に移り住んだ相原善兵衛には長男友尚がおり、友尚は一ノ関相原家の二代目を継ぎ、やはり伊達宗勝に仕えていた。

その後、突然、寛文十一年(1671)に伊達家にお家騒動が起こり、相原家の主君伊達宗勝に嫌疑がかかり、土佐の長岡郡に配流されることとなった。その時、仙台家中にいた友尚は、謹慎のため一ノ関赤荻字笹谷に蟄居隠退した。友尚には四子があった。すなわち長男友信(赤荻村笹谷相原家代三代当主)、次男友常(気仙郡高田村相原家初代)、三男某(山三郎)、長女オヨシである。この次男友常が友直の父である。彼は高田村にあって、医を以て地元の人の健康を看つつ、塾を開いて書道を教えた。また彼は著名な儒学者でもあった。要するに友直は、高田村相原家の二代目としてこの世に生を受けたのであった。
 

相原友直の青年時代

父の薫陶を受けた友直少年は、父の跡を継ぐために、十八才で仙台に留学する。もちろん医学を学ぶためだが、そこで彼は伊達家に仕える儒学者佐久間洞巌(1653〜1736)と運命的な出会をし、儒学やその他の学問にも熱を入れるようになる。佐久間洞巌の著書には奥羽の地誌として著名な「奥羽観蹟聞老志」があり、後の友直の平泉三部作のお手本になった書物であった。

享保十二年(1727)二十五才になった友直は、京都に留学し、最新の医療と、近世儒学の学習に励む。また暦学、本草学、地誌等を興味の赴くままに吸収した。更に余暇を見つけては、神社仏閣など古都の名勝旧蹟を巡り見聞を広げていった。それは後に平泉三部作として開花することとなる。

京都にて二年半の研鑽を積み、最新の医術と学問を身につけた青年友直は、享保十四年(1729)仙台に帰り、即座に藩医員に登用される。その年に文筆の才を発揮して「医談資」という著作を著している。

しかし翌享保十五年(1730)高田村の父が病に伏したとの知らせを受けて、いさぎよく藩医員を辞して故郷高田村に帰省した。懸命に治療を施した友直だったが、その甲斐なく、最愛の父友常は同年六月二十七日に卒去した。享年は六十六才であった。

最新の医療技術を身につけた友直に、仙台藩からは、再び仙台に戻るような招請があった。しかし友直は、きっぱりとその招請を断り、父の跡を継いで、故郷の地域医療に携わる道を選んだ。実直で温厚しかも何に対しても興味津々な態度で深く研究する友直を地元の人々は、「温直にして好学・博聞強記の先生」と評した。

 

友直の呼称にみえる信念

彼は自らで和三益と号した。これは論語の中の「益者三友」から採られている。孔子の云う三友とは、「友直・友諒・友多聞」である。すなわち「有益な友が三種類ある。正直な人、誠心な人、もの知りな人である。そんな人を友とすれば益が多い」。最初の「友直」という言葉が、自分の名前と同じ字である点が実に面白い。おそらく遊び心も手伝っての選択だろう。次に友直は、同じく論語の中の「君子三畏」から「三畏」を選び自らの呼称とした。三畏とは、君子には三つの畏れるべき戒めがあり、それは「天命」と「大人(有徳の先輩や目上の人)」と「聖人」である。また嘯倣軒(しゅうほうけん)とも号しており、この名については、平泉旧蹟志跋で中で「予山水の癖有りてあまねく勝地佳境を尋ね遊ぶ」と述べており、この自分の性情を端的に表したのではないかと思われる。

 

友直の仕事

こうして友直は、医の道だけではなく、自らの心の赴くままに生き、旅をして、自らの文筆の才を開花させていった。享保四年(1747)友直四十五才の時、「塩釜巡覧記」(仙台叢書第二巻収録)を書き上げた。寛延四年(1751)四十八才にして、代表作となる「平泉実記」全五巻を完成。宝暦八年(1758)、五十五才の時、「松島巡覧記」(仙台叢書第二巻収録)を書き始め、この書は安永七年(1778)、二十年後に上製した。五十八才宝暦十年に、「平泉旧蹟志」(仙台叢書第一巻収録)を記す。翌年宝暦十一年、五十九才の時気仙郡内二十四ヶ村の詳細な風土記、書名「気仙風土記」((仙台叢書第四巻収録)を書き上げた。

明和四年(1767)八十四才で逝去した母小川氏(オトラ)の野辺送りを済ませると、友直は急に家族が恋しくなったのか、安永二年(1773)、父の生まれ故郷である一ノ関(磐井郡赤荻字笹谷)の本家の当主となっていた長男友義のもとに身を寄せる。この時、友直も七十一才の老人となっていた。しかし文筆意欲は衰えず、この年「平泉雑記」五巻(仙台叢書第三巻収録)を完成。その他の著作としては、延享四年(45才)より書き進められ安永七年(1778)に完成した、「仙台名所附記」と「増広仙台領名所記」がある。

また現在書名のみを残す友直未詳の著書として、「医談資」「宝暦荒年録」「秘法集」「方法抜粋」「南宗房物語」がある。

 

友直の晩年

天明二年(1782)三月廿一日、好く生きた奥州の華相原友直は、磐井郡赤荻字笹谷の長男の継いだ本家で、その生涯を閉じた。享年八十才。

戒名は、遷善友直居士、と至ってシンプルである。

またその辞世の歌は、親思いの友直らしく、

  かそいろの恵もたへぬ老の身の

      本来し我に帰る楽しき

と、実に明るく、屈託がない。真夏に出会ったそよ風のような清々しさだ。

奥州の歴史家、相原友直翁、何と豊かで爽やかな生涯であったことだろう。

平成十一年九月十五日

                                          佐藤 弘弥

 

注:かそいろ(父母、清色と表記し、両親のこと)

(辞世の訳:両親の深い愛という恵みを受けてこのように良き人生を送り、老いのみとなった。何と素晴らしい人生だったことだろう。もうじきお迎えも来るだろうが、それとて、本来の自分に還るだけのこと、楽 しいではないか)

 

尚、この「相原友直小伝」を書くにあたって、「山目公民館学習テキスト資料12 郷土の隠れた先覚者 相原友直」(監修 小林 正 執筆責任者 金野俊彦)平成六年十月二十五日)を参考にさせていただいた。


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