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相原友直小伝

 

平泉実記

相原友直著

平泉実記序
                                                                   (巷間)          (しふ)
東鑑者、実録也、可以鑑焉、可以證焉、近世坊中、所梓布之埜史、
                (とる)
虚実混淆者、為彼書不能拾其醜也、豈不爽快乎、余嘗游磐井、

而覧平泉達谷之古、聞郷導之處説、證于彼誕妄者、殆過半、
                       (しかず)
其宜哉、如是輩也、其目書於国字、則如讀東鑑、亦難之、
(いわんや)(をや
況於旁捜広索乎、彼聞余讀、而請惠之、於是譯東鑑伐泰衡之事、
                         (ひえき)         (のこす)
且輯諸書発見之説、及採伝聞口碑、而裨益之、著平泉実記五巻貽之、
      (うらむ)     (せんろう)
應其需、唯憾窮僻乏載藉、煎陋疎捜、猟顧不免、
(しゅじゅ)(そしり)   (ぜいろん)(アラバ)(さんほ)(キニセヨ)
侏儒)観場之議乎、若其贅論脱説請 後君子刪補而全備焉、

寛延辛未歳 春社日

陸奥気仙郡 相原友直書

 

凡例

一、此書、通編頼朝卿泰衡征伐の事を書といへとも、近来平泉の事を載るの書誕妄(たんもう)にわたる者多きが故に、今是を訂し実に帰して旧蹟をたずぬるのたよりとせんと欲す、故(かるがゆえ)に、諸書散出の説をあつめ、伝聞村老(でんぶんそんろう)の談をえらま(ば)ず、証すべきものを録す、且帝号干支をもらさずして考索の労をはぶくものなり、国府鎮守府の説、田村・頼義・義家・賊徒追討の事、義経の履歴書等の事、諸書に著しき所也といへとも、旧蹟の來由に係るものハ、其大概を附録して参看(さんかん)に備ふ、其源をもとめんと欲せば、別に全書に就てこれを考べし、

此書、東鑑の後に記す者を前に移し、始に有所を末に書するあり、たとへば厚加志合戦(あつかしかっせん)の條に、雷雨霹靂(へきれき)とのミ記して雷のおちたる事ハ二十五巻・二十七巻に出、また頼朝卿平泉に於て無量光院順禮の事のミを記して、中尊寺順禮の事は末に於て考べし、毛越寺の事ハ脱漏に出たり 斯(かくの)ことくの類挙て記しかたし、今これを一所にあつむ。見者東鑑の全編をよミて余が漫(みだ)りに一言を加へざるをしるべし、

 

平泉実記巻之一

目録
 

陸奥国国府・鎮守府

藤原秀衡家系

源義経最後並秀衡病死

附(つけたり)源義経経歴

泰衡追討

宣旨延引(えんいん)征伐御用意
 

 

陸奥國國府鎭守府

夫(それ)陸奥ハ、豊葦原(とよあしはら)の東奥にして東山道(とうさんどう)に属し、西は出羽、南ハ下野・常陸の封境(ほうきょう)、東北海ハ蝦夷(えぞ)に隣(とな)れり、むかし出羽の國を分つといへとも、猶五十四郡にして、其廣大なる事諸國に冠たり、多賀の國府壺碑(つぼのいしぶミ)に京を去こと一千五百里、蝦夷國界を去こと一百二十里といへり、此國邊要の中の最(さい)たるが故に、夷賊(いぞく)ややもすれば王化に叛きて宸襟(しんきん)をなやまし奉れりとかや、

人皇(にんおう)第十二主

景行(けいこう)天皇の四十年庚戌歳蝦夷蜂起しけれハ、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)を征夷大将軍となし給ひ、吉備武彦命・大伴武日命(たけひのみこと)を左右の将軍とし、駿河の國よりはしめて賊徒を追討あり、陸奥の國に攻入、ことごとく夷賊を誅伐(ちゅうばつ)し給ふ、此後蝦夷ハ、王化にしたかふともあり、又叛くことも有となん、三十八代

齋明(さいめい)天皇の四年戊午(つちのえうまの)歳蝦夷蜂起す、阿部比羅夫(あべのひらぶ)将軍の勅をかうふり、船軍(ふないくさ)をひきいてこれを平らげ、大いに勝利を得て政所(まんどころ)を置て帰京す、四十三代

元明(げんみょう)天皇の和銅五年壬子(みずのえね)九月、西北(にしきた)の方を分ちて出羽の國をおき給ふ、四十四代

元正(げんしょう)天皇の養老二年戊午(つちのえうま)七月、はじめて按察使(あぜち)を置て、陸奥・出羽両國の事を監察せしむ、四十五代

聖武(しょうむ)天皇の神亀元年甲子(きのえね)國府の外にはじめて鎮守府を置、大野東人をして東海・東山の節度使鎭守府将軍とし、東國に下し給ふ、凡鎭守府将軍にハ、副将軍・軍監・軍曹・{仗(けんじょう)等を副らる、鎮守将軍ハ 神功皇后三韓征伐ノ時、カノ地ニオキ玉フヲ以テ始トス、日本ニオイテ府ヲオキ将軍ヲ任シ玉フハ此時以テ始トス、是國廣く、且皇都に遠くして蝦夷の幾度々なりけれハ、國府ハ宮城郡にあり、多賀の國府(こくぶ)といふ、吏韓(りかん)の才ある人國司の任を蒙り、此に在て信夫(しのぶ)郡より南方の諸郡の租税(ねんぐ)を以て國府の公廨(くがい)に充、鎭守府ハ膽澤郡にあり、按スルニ、壺碑ノ文並ニ陸奥宮城郡風土記等ヲ考ルニ、神亀元年始テオキタマヘル鎭守府ハ多賀城ナルコト分明ナリ、武略の器をそなふるの人此に居て五千人の兵をおき不虞(ふぐ)をふせぐの備とし、葛田(かつた)郡より北方の諸郡の稻穀を以て鎭守府の兵糧(ひょうろう)に宛、國府と相並ひて一國の事をわかち行ひける、しかるに中古以来ハ陸奥の國司たる者おほくは、鎭守府将軍を兼、一人にて一國の事務を兼行ひ、四ヶ年を以て任限とせしといへり、

 

藤原秀衡家系

奥州の住人鎭守府将軍從五位上藤原秀衡の家系を考正すに、天兒屋根命(あまつこやねのみこと)二十二代の後胤大織冠鎌足公(たいしょくかんかまたりこう)より四代の孫正二位河邊左大臣魚名公(かわべのさだいじんうおなこう)の五男伊豫守從四位下藤成卿、其嫡男に下野權守從四位上豊澤、其嫡男に下野大掾(だいじょう)從五位上村雄、其嫡男は鎭守府将軍武藏守從四位下田原藤太秀郷(ひでさと)也、秀郷の子五人有て子孫多く繁衍(はんえん)す、嫡男ハ鎭守府将軍于時(ゆきとき)、其嫡男将軍太郎于C(ゆききよ)、其嫡子に下野守從五位下正ョ、其嫡男に下総の國の住人五郡大太夫ョ遠、其嫡子亘理(わたり)權太夫經Cは秀衡が曾祖父(そうそふ)也、奥州に住して同國の住人安倍ョ時が女を娶(めと)りて妻とす、しかるに七十代後冷泉院の永承六年辛卯(ひのとのう)の秋、安倍ョ時、同子息厨川(くりやかわ)二郎貞任、其弟鳥海(とりのうみの)三郎宗任(むねとう)等叛逆を企しはじめより、經Cも彼等に興(くみ)して源ョ義将軍と十二ヶ年の對陣の内に度々合戦し、同御宇康平五年壬寅(みつのえとら)九月のたたかひに厨川の棚に於て平大夫國妙(くにたえ)に生捕られ、終に貞任と同じくョ義将軍に誅せられ、其戦ひに出羽の國山北(せんぼく)の住人C原武則ハョ義の味方に参り、軍功あるに依て 奏聞し給ひ、鎭守府将軍從五位下に敍す、世に是を前九年の合戦といへり、第五巻ヲ参看スヘシ、經Cが妻ハ貞任が妹也けるが、經C誅せらるるの後、C原武則是を迎ひて妻となす。其懐中に男子(なんし)あり、武則我子と成りて養育す、則秀衡が祖父C衡是也、其後かの母が腹に二人の子あり、将軍三郎C原武衡(たけひら)、弟を同四郎家衡といふ、武衡・家衡ハC衡にハ異種同母の弟也、武則死して後武衡、家衡とC衡と争論の事ありて兄弟不和におよふ、しかるに七十二代

白河院永保二年壬戌(みずのえいぬ)の頃、源義家朝臣鎭守府将軍陸奥守に任せられ、奥州に下向し給ふ、C衡は義家にしたかひ奉る、武衡・家衡ハ、義家に叛き、山北金澤の棚にたてこもり合戦止時なし、此時C衡ハ一族を引具し義家の味方と成、一方の大将となる、斯く城中ハ猶つよく寄手(よせて)ハ多く討れけれバ、義家ハ御弟義光並にC衡と評議し給ひ、合戦を止て城をかこみ年月をおくりけれハ、城中次第に兵粮盡て士卒ミな飢に及ひ、寛治五年辛未(かのとのひつじ)十一年十四日遂に落城して、武衡・家衡をはじめ同類ことごく誅戮(ちゅりく)せられ、両国平均したりける、此戦ひも永保二年より寛治五年まて十が年におよぶといへとも、世に後三年の合戦といへり第五巻ヲ参考スヘシ、かくて義家将軍ハ寛治六年壬申(みずのえさる)歸洛の時 奏聞し給ひ、C衡を出羽・陸奥の押領使として鎭守府将軍を兼しめ、膽澤・和賀・江刺・稗拔・志和・岩手の六郡を管領せしむ、江刺郡豊田といふ所に今江刺郡餅田村ニ舊跡アリ居館をかまへ、陸奥・出羽両国の政務をつがさとり、奥御館(おくのみたち)と稱して七十三代

堀河院の嘉保年中豊田館を岩井郡平泉に移し、三十餘年の間國務おこたることなく、且多くの堂社伽藍を建立し、佛餉・燈油を寄附し、吾朝はは延暦寺・園城寺・東大寺・興福寺震旦の天台山にいたるまて、寺毎に千僧を供養し、臨終の年俄に逆善を修し、百ヶ日にあたる結願のとき、一病なくして合掌佛名を唱へて眠るがことく往生す、時に大治元年丙午(ひのえうま)七月十七日也、其子御館基衡父の譲を受て陸奥・出羽に一萬餘の村有、両國の押領使として鎭守府将軍を兼、國務をつかさとる事三十餘年、又佛像・寺院を建立す、保元二年丁丑(ひのとのうし)三月十九日に卒す、其子御館秀衡父没して後、両國を管領し、十七萬騎の貫首(かんじゅ)と成、公田の貢ならびに納宦封家(のうかんほうか)の諸済物おこたることなく、又父祖の跡をつぎ、おほくの佛像・伽藍を建立す、京都千本釋迦堂モ秀衡ノ建立也、秀衡コレヲ建立シ、如珠上人ヲ請ストイヘリ八十代

高倉院の嘉應二年己丑(つちのとのうし)五月廿五日、鎭守府将軍に任じ、從五位下に敍す、八十一代

安徳天皇養和元年辛丑(ひのとのうし)八月十三日、頼朝を追討すへきのよし 宣旨頼朝追討ノ宣旨ノコト東鑑巻之二、盛衰記巻之三十七ニ見エタリを下され、同月二五日、陸奥守に任し、従五位上に叙せらる、是平家の執奏によつて也、しかるに秀衡おもてにハ是を領掌するといへとも、祖父このかた源家よりの荷恩(かおん)わするべきにあらされバ、更に心底にはうけがはさるが故に遂に追悼の儀ハなかりける、さてまた子供は嫡男西城戸(にしきどノ)太郎国衡、二男泉冠者泰衡、一説に伊達次郎、三男泉三郎忠衡、四男本吉(もとよし)冠者隆衡、五男出羽冠者通衡一説山北五郎利衡ト云、按ズルに五男ノコト東鑑ニハ見ズ、也、二男泰衡を家督に定め、その外親族所従にいたるまで過分の領地をあておこなひ、宦祿父祖にこえ栄耀(えよう)身にあまり、威を東国にふるひける、

按スルニ、基衡カ妻ハ鳥海(とりのうみの)三郎宗任カ女ナリ、○秀衡ガ妻ハ近江ノ国住人佐々木源三秀義カ姨女(おば)ナリ、後妻ハ前(さきの)民部少輔基成ガ息女ニテ泰衡・忠衡ガ母ナリ、コレ東鑑ノ説なり、義経記ニ西城戸太郎ハ嫡子ナレトモ男ノ十五ヨリウチニテマウケタル子ハ嫡子ニハ立ヌコトトテ当腹ノ二男泰衡ヲ家督トナスト云々、又或説ニ一男国衡ハ二男泰衡カ為ニハ庶兄成か故ニ泰衡ヲ以テ家督相続ストイヘリ、○東鑑ニ憐愍(れんびん)ヲ加フベキノ旨奥州ノ總奉行葛西清重・伊澤家景ニ頼朝卿ヨリオホセ下サル、文治五年ヨリ七年以後ナリ、

 

附(つけたり)

藤原氏平泉家系(―――脱ナラン―――)

左大臣魚名公五男

藤成従四位下伊勢守―――豊澤従五位上下野權守―――村雄下野大掾 河内守従五位下―――秀郷従四位下 武蔵守 鎮守府将軍 世人俵藤太号――― 千時田原太郎 相模介 鎮守府将軍―――千C将軍太郎―――正頼従五位下下野守―――頼遠五郡大太夫下総国住人―――經C亘理權太夫―――C衡鎮守府将軍住奥御館―――基衡平泉 陸奥・出羽押領使 鎮守府将軍―――秀衡従三位上 鎮守府将軍 陸奥守 出羽押領使―――泰衡泉冠者

○清衡子息

(長男国衡西城戸太郎、次男泰衡泉冠者、三男忠衡泉三郎四男高衡元吉冠者、五男通衡出羽押領使)

 

按スルニ大系圖ニ藤成ヲ伊與守トス、豊澤ハ少掾(しょうじょう)備前守從四位上トス、村雄從五位上トス、秀郷或ハ日ク、鎭守府将軍ニアラズ、不見将軍補任、非説ト云々トアリ、經C亘理權守トモイヘリ、C衡權太夫トモアリ、鎭守府将軍ノ五字ナシ、弟ニ經元ト云者有、基衡鎭守府将軍ト云ズ、家Cヲ基衡カ弟トス、其弟ニ正衡ト云者アリ、C綱ヲ亘十郎ト云、俊衡ガ法名ヲ蓮阿ト云、師衡カ兄ニ兼衡アリ、弟ニ義衡ナシ、師衡ガ子ニ山ノ聖圓(しょうえん)アリ、秀衡死スル年九十二トイヘリ、忠衡ヲ泉冠者ト云、高衡ヲ本吉(もとよし)三郎出羽押領使トイヘリ、通衡ヲモ泉冠者ト云、其弟ニ錦戸太郎ョ衡、文治五・二・十五、泰衡誅之トイヘリ、又按ズルニ泰衡子アリ、東鑑ニ泰衡ガ幼息(ようそく)ノ在所(ありか)ヲシロシメサレ、是ヲ尋進ズベシ、彼カ名字若公(わかぎみ)ト御同名タリト云リ、若公ハ萬壽君(まんじゅぎみ)ノ事也、後ニョ家ト號ス、

 

 

源義經最期秀衡病死

 義經履歴

爰にョ朝卿ハ治承四年の秋、伊豆相模より義兵をおこしてより以来(このかた)、木曾も平家も誅伐し給ひて後、平家追討の中義經自専(じせん)の志あるをとかめ給ふ、義經はョ朝の勘気をこうむり、八十二代

後鳥羽院の文治元年乙巳(きのとのみ)十一月、都を出て大物(だいもつ)の浦にて風にあふてのち、奈良・吉野・多武峯、其外ここかしこにかくれ居給ひけるが、國々に宣旨を下され、且鎌倉よりきひしく捜し索(もとめ)られ、同三年の二月妻室男女盛衰記ニ、義經ハ吉埜ヨリ年来ノ妻ノ局、河越太郎重ョガ娘バカリヲ相具シテ、奥州ヘ下レリト云リ、又義經記ニハ、北方ハ久我(こが)大臣殿ノ姫、乳母夫(めのと)ハ小山十郎兼房ナリケルヲ相具シテクタレリトイヘリ、並に郎從等を相具し、山伏兒童の姿と成て伊勢・美濃等の國をへて北陸道より奥州におもむき、平泉に至りて秀衡をョ給ふ、秀衡は民部少輔基成朝臣を居住せしめし衣川の別館に入まいらせてもてなしけれバ、義經も暫く安堵の思をなし給ひ、相伴ふ郎從等も休息をぞしたりける、然るに義經奥州に下向の事鎌倉に風聞あるによつて、則ョ朝卿より京都へ奏せられけるハ、秀衡入道義經を扶持し叛逆を企るの聞あるの間、厳密に尋たまふべきの旨、文治三年の春の頃、申登されけるによつて、其後京都よりも義經をからめ進ずべきのよし、廳の御下文を秀衡に下さる、ョ朝よりも雑色を添らる、秀衡は此時義經並に郎從等を介抱するといへとも、京都・鎌倉ヘハ是を隠し、無異心の旨を返答しける、彼使者ならびに雑色(ぞうしき)ハ平泉を發足し、九月四日、鎌倉に参著す、ョ朝平泉の形勢(ありさま)を雑色にたづね給ふ所に、既に叛逆の用意候のよし申上るによつて、此趣を言上令んが為に彼雑色を則京都に登せらる、

按ズルニ、或説ニョ朝卿ハ秀衡ガ義經ヲ介抱スルヲ憤リ、直ニ奥州ニ向ヒ、秀衡・義經共ニ征伐スベシトテ、文治三年四月十五日、義盛・景時ニ仰セテ五畿七道ノ軍勢二十六満餘騎、先陣ハ畠山重忠・宇都宮父子三人・千葉新介・佐竹六郎義良、其外常州・野州ノ國人ヲ召集、其勢十萬餘騎白河關ニ著陣ス、ョ朝ハ下野國宇都宮ニヒカヘテ、白河ノ一左右(いつそう)ヲ聞タマフ、偖(さて)又秀衡ハ此事ヲ聞テ義經ヲ大将トシ、子供三人ヲ副将軍トシ、十二萬餘騎ヲサシ向ラル、平泉ヲ進發シテ厚加志山ニ陣ヲ取、義經ハ、國衡・泰衡等ヲ此所ニ残置、自ラ六萬餘騎ヲ引率シテ白河ニ馳向、ヒソカニ重忠等ガ陣ノ後ノ高峯ニ登リ、敵陣ヲ見オロシ火ヲ懸タリケレバ、重忠ガ三萬餘騎一戦ニモ及バスシテ敗北ス、義經ハ勝鯨波(かちどき)アゲテ厚加志山ノ陣ニ引退ク、ョ朝ハ初ノ合戦ヲ仕損ジテ、人ヲツカハシ白河ヲ見セシムルニ、敵兵一人モ居ザレバ義經ガアランホドハ、奥州征伐ハ叶マシトテ鎌倉ニ引カヘスト云リ、

按スルニ、此ノゴトク三十六萬騎ノ大軍ヲ發スルコト小事ニアラズ、何ゾコレヲ東鑑ニ洩シテ載サルヤ、且一戦ニ利アラザルニヨツテ大軍ヲ空シク引退クコト、頼朝豈カクノゴトク輕卒ノ軍法ヲナサンヤ、ソノ誕妄ナルコト論ズルニ足ズ、

しかるに秀衡日比(ひごろ)重病ニ羅(かか)リ、既に頼少く覚けれハ、子息泰衡以下(いげ)を召集て遺言しけるハ、我死して後ハ義經を大将軍と仰ぎ、陸奥・出羽の國務を任せたてまつり、何事も御下知を背くべからずとて、文治三年丁未(ひのとのひつじ)十月廿九日、遂に卒去せられける、義經記ニ、文治四年十月廿一日ニ死スト云ハアヤマリナリ、死スル年九十二トイフ、斯て泰衡ハ父が遺蹟(ゆいせき)をうけつぎ陸奥・出羽の押領使と成、六郡を管領し、十七萬騎の貫首とぞ成りにける、同四年戊申(つちのえさる)三月廿二日、義經を召捕進すべきのよし、宣旨並に院の廳の御下文を泰衡に下さる、宦史生(くわんのししやう)國光院廳宦景弘(かげひろ)是を持て同四月奥州に下向す、泰衡此旨を領掌し、尋進ずべきのよし請文を捧るといへども、事延引におよびけれバ、同十一月重ねて 宣旨ならびに 院廳の御下文を相添られ、宦史生守康是を帯して下向す、以上ノ 宣旨御下文東鑒巻之八ニ出、其上、頼朝よりも義經を誅戮すべきよし使者を下されける、同五年二月廿五日、重ねて鎌倉より泰衡が動静(ありさま)を窺しめんが爲に雑色里長(ざっしきさとなか)を平泉に下さる、同廿六日、去年下さるる所の守康奥州より歸て鎌倉に逗留し、頼朝に言上申けるハ、泰衡ハ義經の在所露顯するの間、早々召進ずべきのよし、請文の言に載るの旨を演(のべ)にける、頼朝ハ聞給ひ、泰衡が心中猶はかりがたし、堅く義經に同意するが故に先に

勅諚に背て是を召進せず、しかるに今一旦の害を逃れんが爲に其趣を請(うけて)文に載るといへとも、大略謀言なるべしとぞ仰ける、斯て泰衡ハ頼朝の威を畏れ

勅命にしたがひて父が遺言をハ用ず、同五年己酉(つちのとのとり)閏四月晦日、義經記四月廿九日ト云ハアヤマリ也、從兵數萬騎と共に衣川館に押寄る、義經記ニ長崎太郎・同二郎・照井太郎高春等三萬餘騎ニテ押ヨスルト云リ、一説ニ長崎太郎、名ハ佐光(すけみつ)ト云、義經も家人伊勢三郎義盛・片岡八郎弘經・鈴木三郎重家・同弟亀井六郎重C・小山權頭兼房・鷲尾三郎義久・備前平四郎成春・武蔵坊弁慶・雑色喜三太一説ニ名ハC悦と云、等をもつてふせかしむ、按スルニ、義經ノ郎從ノ討死スルモノ義經記の説ニシテ、東鑒ニ載ズトイヘトモ、平泉ニオイテ郎從ノ墓ナラビニ討死ノ舊蹟等今ニノコレルアリ、故ニ今其姓名ヲ載セルモノナリ、○義經記ニ、常陸坊ヲハジメトシリテ殘リ十一人ノ者トモ、今朝ヨリ近キアタリノ山寺ヲ拜ミニ出ケルガ、ソノ儘歸ズシテ失ニケリ、いつれも最期の軍なれば身命を惜ず相戦ひ、或ハ討死し、或ハ自殺したりける、義經ハ持佛堂にひきこもり、御臺所(みだいどころ)ハ二十二歳、女子(にょし)の四歳なりけるを害して、其身も自害給ひける、行年三十一歳なり、

按スルニ、義經平泉高舘ニ於テ自害ノコト、東鑑ノ説ニシテ盛衰記・義經記モ亦コレニ同ジ、然ルニ近代出ル所ノ諸書ニ、或ハ平泉ヲノカレテ蝦夷へオチ行、カノ地ニテ終ルトイヒ、或ハ蝦夷(えぞ)ヨリ金國ヘ渡ルトモイヘリ、是ミナ怪異牽強ノ妄説、信ズルニタラズ、故ニ今コレヲトラズ、 泰衡ハ、則飛脚を以て此趣を鎌倉に達す、其飛脚五月廿二日に鎌倉に到著す、首ハ追て進すへしと也、鎌倉にハ其比(そのころ)鶴が岡の塔建立ありて、六月九日其供養なりけれハ、義經の首左右なく鎌倉に持参すへからず、途中に逗留すべしとて、六月七日鎌倉よりも飛脚を奥州に下さる、泰衡ハ新田冠者高衡を使者として、義經の首をおくる、墨漆の櫃(ひつ)に入、美酒を以てひたし、僕從二人に荷擔(かたん)せしむ、これを見る者雙涙袂をうるほさずといふことなし、鎌倉のよりの仰なれば熊と延引して、六月十三日腰越の浦に至りて此むねを鎌倉に言上しければ、則和田太郎義盛・梶原平三景時おのおの甲直垂を著し、甲冑の郎從二十騎を相具し、腰越に来りて首實檢をぞ遂にける、或説ニ、首ハ相州白幡ノ里ニウツシ、白旗大明神ト崇ムト云リ、又泰衡ハ同腹の弟なりける泉三郎忠衡、義經に同意しけるによつて、同六月廿六日彼が館に押寄て忠衡をも誅しける、宣下の旨あるに依て也、或説ニ、泰衡カ忠衡ヲ誅セシハ、文治五年ノ春ニシテ、義經ヲ討サル以前ノコト也トイフハアヤマリナリ、

 

附 源義經履歴

伊予守従五位下源朝臣義經ハ源義朝の六男也、コレ東鑑ノ説ナリ、女子ヲ除キテイヘリ、平治物語ニ九男ト云、義經記ニハ八男トイヘリ、平治元年に誕生す、幼名を牛若丸といふ、母ハ常盤なり、はじめ九條院の雑仕にて、後義朝の妾(しょう)となる、栄暦元年、義朝死して後義經ハ二歳にして弧(みなしご)となる、常盤ハ清盛の妾となりて子供の命を助け、其後清盛に荒られ、一條大蔵卿長成の室となる、義經も長成の扶持による、七歳の秋、出家になさんと鞍馬山に登す、紗那王丸とあらたむ、成人するにしたがひ、出家の志ハなく、父の仇(あだ)を復し、先祖の恥を雪(すすか)んことを心がく、16歳の三月、密に三條吉次季春(すえはる)と共に都を出て、路次にて自ら元服して、九郎義經と名乗て奥州に下向し秀衡をたのミ平泉館に逗留す、 十八歳の春、平泉より潜に京へ上り、鬼一法眼にしたがひ、兵術をまなび、其後奥州に下る、

治承四年二十二歳の秋、頼朝義兵をおこすと聞く、同十月平泉を進発し相州におもむく、秀衡、佐藤継信・同忠信を従がはしむ、駿河の國黄瀬川の宿にて、はじめて頼朝に対面す、 元歴元年正月、木曽義仲の悪逆をしつめん為に、頼朝名代として範頼・義經に数萬騎(すまんぎ)を相添上洛せしむ、吉家遂に滅ぶ、同年二月、範頼・義經に軍勢を従ひ、平家の討手に向ハしむ、義經まず三草(みくさ)山にて敵をやぶり、夫より一ノ谷へ発向し、範頼ハ追手より攻、義經は搦手(からめて)より攻るといへとも敗れざる所に、義經城の後の山鵯越(ひよどりごえ)よりせめかかり、放火けれハ、平家の一族郎従おほく討れて残少に成て、讃岐の八嶋におもむく、範頼、義經ハ帰洛し、暫く在京す、八月、義經左衛門少尉に任じ、九月、従五位下に叙し、検非違使判官(ほうがん)と号し、都を守護す、

文治元年二月、摂州渡邊にて兵船を揃ひ、景時逆櫓(さかろ)の争論有り、義經兵船(ひょうせん)五艘にて大風波を凌き、屋嶋に押渡りて平家を攻破り、屋島の内裏を燒拂ふ、平家長門をさして引退く、

三月、義經赤間か關に至りて、平家と合戦す、平家敗軍して二位禅尼寳剣を持、按察使局(あぜちのつぼね)

先帝安徳を抱き、海に入りて没す、建禮門院ハ生捕たてまつる、宗盛・清宗等生捕となる、其外のこらず一族海に入て死す、

神璽ハうかひけるによつて、内侍所と共に四月都に還幸なしたてまつる、義經共奉して京に歸る、

○頼朝、義經を勘気せらる、是義經武勇すぐれ、其心剛にして、謀略もよく勝利のミ多し、平家の滅亡ハミな義經の軍功なるによつて、自負の志萌(きざ)し諸士の意(こころ)にも違ひ、頼朝の旨に合(かな)はさる事多きが故也、五月、義經京都より亀井六郎清重を使者として、起請文をととのへ鎌倉に奉るといへども、頼朝許容なし、

同月、義經は宗盛・清宗を召具し鎌倉に下向するといへとも、義經鎌倉に入事を許されず、酒匂(さかわ)・腰越の邊に数日をおくり、異心なきの旨、欸状をささくるといへども、頼朝許なく、六月、京にかへり登る、宗盛父子を相具す、又梶原か讒言(ざんげん)故に勘気せられしともいへり、都にかへりて後、八月、

禁裡より伊豫守に任じ、京都を守護せしむ、

十月、頼朝ハ義經を討んが為に、土佐房昌俊を上洛せしむるといへども、却て義經にころさる、

十一月、義經叔父備前守行家と共に頼朝追討の院宣をしひて申請(もうしうけ)、前中将時實・侍従良成・伊豆右衛門尉有綱・堀弥太郎景光・佐藤四郎兵衛尉忠信・伊勢三郎義盛・片岡八郎弘經・弁慶法師以下(いげ)、彼是の勢二百騎計(ばかり)を引率し、都を出、四國に趣かんと、摂津國大物の浦より船を出す所に、大風にあひ、散々に成て陸(くが)に上り、義經に相従ふ者僅に四人、有綱・景光・弁慶・妾女静也、それより奈良・吉野・多武峯(とうみね)方々にかくれ居る、

同月、ョ朝 奏して、義經・行家追討の

院宣をたまハり、尋求しむれども見出さす、ョ朝ミつから誅伐せんと出馬す、既に都をおつると聞て、黄瀬川よりかへらる、

同三年の春、義經奥州へ下られける、義經後京極良經公ニ同名ナルニヨツテ、勘気ノ後京都ニオイテ義行トアラタメラル、其後ヨクユクノ訓(よみ)ニテサカシ得サルカトテ、又義顯ト改メラル、

 

 

泰衡追討

宣旨延引征伐御用意

去程にョ朝卿ハ泰衡に仰て義經を誅せしむるといへとも、鬱憤猶止事なく、泰衡日比義經をかくしおくのミならす、度々の院宣ならひに鎌倉よりも数度の使節を下されしをも不肯(うけがわず)して、事延引におよぶの條、叛逆にも過たり、不誅バあるべからすとて、文治五年己酉(つちのとのとり)の春の頃、義經存命の内より滅亡の今に至るまて、泰衡追討の宣旨をたまハるべし、と度々京都へ奏聞せられける、都よりハ泰衡追討の事、連々御沙汰を歴(へ)らるるの所に、關東の鬱憤もたしかたしといへとも、此儀に於てハ

朝家の御大事也、殊に今年ハ造太神宮の上棟といひ、南都東大寺の造營といひ、既に義經を誅するの上ハ、當年ハ猶豫すへきの旨

朝廷の御沙汰のよし、京都の守護一條右兵衛督能保(よしやす)卿ョ朝同腹之姉婿也、よりの消息、同六月廿四日、鎌倉に到来するといへとも、同廿五日、又以泰衡追討の宣旨をたまハるべきのよしおしかへし、

奏せられて後、諸國に觸られ、軍勢を催されけれバ、國々の軍士等手勢を引具し、我も我もと日々に鎌倉に馳集り、己に一千人に及ひける、和田義盛ハ侍所の別當、梶原景時ハ侍所の所司なれバ、彼両人ハ前圖書允(さきのずしよのじよう)を執筆として、一々に士卒の交名(きょうみょう)を注しける、扨亦宣旨延引におよびぬる。其内に國々の軍勢雲霞のことくにあつまり、鎌倉に充満しなけれバ、頼朝ハ大庭平太景能を召る、景能は武家の古老にして兵法の故実に通達しけるゆえ、此度宣旨なくして征伐せられんこと一決しがたく、其理否を問たつねられんが為也、頼朝景能に問給ふは、今度泰衡追討の事

奏聞をとぐるの所に今に於て 勅許なし、なまじひに諸國に相觸、已(すで)に御家人を召集、此事いかが計らふへきやと仰ける、景能申けるは、軍中聞将軍之令、不聞天子之詔(みことのり)といへり、既に

奏聞を遂らるゝの上ハあながちに

勅許をまたるべからず、随て泰衡ハ累代御家人の遺跡(ゆいせき)を受嗣者也、綸旨を下されずといへども、誅伐したまハん事何の御遠慮か候べき、就中軍参の諸士等数日を費すの條、却て人の煩(わずらい)也、早々発向し給ふべし、と言上す、頼朝ハ是を聞たちまちに疑心を披(ひら)き給ひ、景能が其道に明なるを感じ給ひて、則御厩(うまや)の馬に鞍置てそたまハりける、小山父郎朝光是を牽(ひき)て庭上にたつ、景能縁の上にあり、朝光差縄のはしを取て景能が前になければ、景能ハ居なから是を受取て、其後郎従にわたしける、頼朝入御(にゅうぎょ)の後、景能ハ朝光を招き申けるは、我老耄(ろうもう)といひ、保元の合戦の時、疵(きず)を被るの後、行歩進退自由ならず、今馬を拝領するといへとも、庭上に下かたきのところに、差縄を投らるゝ事思へバ、其志値千金也と謝したりける、頼朝も朝光が所為(しわざ)を感じ給ひけるとなん、扨(さて)亦此度追討の御祈一方ならず、所ゝ神社仏閣に於て御立願御奉弊あり、社司等・僧等は仰を蒙り丹誠を抽(ぬき)んて、敵の調伏を祈ける、亦此度の御用意として先日千葉介常胤に仰けるハ、新に旗一流をとゝのへ献上すべし。絹ハ小山兵衛尉朝政進ずへしと也、是朝政が先祖田原藤太秀郷朝敵将門をたやすく亡したる吉例によつて也、旗の寸法は古入道将軍頼義朝臣

勅をこうむり、厨川二郎貞任・鳥海三郎宗任を征伐の時の例にしたがひ、其丈一丈ニ尺二幅(ふたはば)に、伊勢太神宮・八幡大菩薩と白糸をもつて上に縫、下にハ山鳩二羽相對して縫せらる、是先祖の吉例にしたがひ、且治承四年ョ朝卿出陣のはしめ、常胤軍勢を引率し加勢し奉りしよりこのかた、諸國を平均し給ふ佳例也とぞ聞えける、右の御旗常胤ととのひ奉りけれバ、則三浦介義澄を御使者として、鶴岡の宮寺に於て、七ヶ日加持すべきよしにて別當坊へつかハさる、又下河邊庄司行平ハ、仰によつて紺地の錦の甲(よろい)直垂上下を獻ず、御前に持参し、櫃の蓋を開きて奉りけれバ、ョ朝はこれを見給ひ、笠標(しるし)の簡(ふだ)袖に附るは尋常(よのつね)の事也、しかるに今胄(かぶと)の後に付たるハいかなる故ぞ、と問たまふ、行平こたへ申て曰く、是其が嚢祖(のうそ)秀郷朝臣の佳例(かれい)にて候、夫兵の戦場に望む、先登(さきがけ)を以て本意とす、先登に進の時其姓名を名乗るを以て、敵ハ其人をしる、我家ハ此簡の後より見て其人をしるべき也、但し袖に付て奉るへきや否、仰にまかせたてまつるへく候、かくのごとき物を調じ獻する時ハ、家の様(ためし)を用ゆることハ故實にて候、と言上しけれバ、ョ朝是を感じ給ふ、七月十二日にかさねて飛脚を京都に登せらる、御消息に曰く、奥州の泰衡追討すべきよし、先達て言上し畢ぬ、定て宣旨をなし下されんと令存の間、軍士を催し集め、既に数日をおくり候、又宦使をもつて宣旨を下されハ、延引におよぶべく候の間、左兵衛督能保に仰て、彼飛脚を以て下したまハるへきのよし、言上せらる、然るに去月下旬登せられたる飛脚ならひに一條能保卿よりも、後藤新兵衛尉基Cを使者として一同に、七月十六日に鎌倉に下著して言上申けるは、泰衡追討の宣旨の事、攝政三守丞以下度々の沙汰を歴らる、しかるに義經先達て滅亡するの上、又以て泰衡追討の儀におよびなハ、天下の大事たるへき之間、今年ハ其儀を止まり、明年征伐あるへきのよし、去る七日宣旨を下さるるの旨を伸にける、ョ朝は是を聞給ひ、頗る御気色を損し給ひけるが、此上ハたとへ宣旨を下されずといふとも、既に一決を遂るの上、ことに多くの軍士等を召集て後、此儀を止るに於てハ、許多(あまた)の費おほく士民を悩ますの條、明年を待つへからす、面々其用意あるへしとそ仰ける、

 

平泉實記巻之一


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相原友直小伝

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最終更新日 1999.9.20 Hsato