混沌の廃墟にて -150-

ネットの中の島々

1991-06-17 (最終更新: 1996-11-06)

[↑一覧] [新着] [ホームページ]


オンライン・コミュニケーションの黎明期に有名な伝説の一つは、ある小学生 が大学教授と対等に議論したというものである。BBS の上では誰でも身分、職業、 地位、年齢などを越えて対等であるという証拠として、この伝説は広く語り継が れている。

日常生活で身分・地位の壁に辟易している人々の中には、この伝説を信じて飛 び付いた人もいる。いまだにこの手の入門書には、現実にこういった世界がある のだと力説されている。だが、オンライン・コミュニケーションは夢の世界を実 現するのだと誇張する人々もいれば、「もう数年もネットに参加しているが、そ んな議論は一度も見たことがない」と、現実を顧みつつ苦笑する人々もいる。

「ネット」とは何か? 前に書いたかもしれないが、私の文章で「ネット」 という言葉が出てくる時は、その意味は単純ではない。SF 風に説明すれば、 ネットワークを経由することにより、全体として一つの意識を持った、いわ ば巨大な擬似生命体とも言うべき存在を指す。それはネットワークを通じた 個々の存在の集合体を、珊瑚のような複数の生命が共存しつつ形成している 一種の巨大なユニットのごとく見立てたものであり、それがあたかも巨大な 網であるようにも見えることや、その中身 (net) に注目したいという洒落っ 気のある表現である。しかし、ネットは SF ではなく、もはや現実の存在で ある。

ネットの参加者は相手が自分と同じような平凡な人間であると思い込む傾向が ある。ある意味では、小学生が大学教授と対話するというシーンは頻繁に実現し ている。実際に電子会議で発言したことのある人は、いちいち相手の身分を確認 してからコメントを書くことが極めてすくないことを体感する。コメントを付け た相手が一国の首相であるわけがないと誰もが信じているが、本当にそうなのか 確認することは非常に難しい。さながら仮面舞踏会である。運営側には会員のプ ライベートな情報は守秘する義務があるから、実際のところは分からない。対話 の相手はもしかすると宇宙人かもしれないし、5歳の子供かもしれない。事実、 5歳の子供に絡まれたようなコメントを付けられた経験のある人は少なくないは ずだ。(*1)

だが、ある意味では小学生が大学教授と対等に議論するという光景が絵空事で あるのも事実である。確かにオンライン・コミュニケーションは小学生が大学教 授と対等に対話する場を提供した。これは画期的なことである。しかし、メディ アがどんなに画期的であっても、それだけでは平凡な人々の対話は所詮平凡とい う壁を越えることはできない。夢見る人たちが忘れている現実がそこにある。ネ ットの参加者は、大学教授を相手に専門分野の議論を対等にする自信があるかど うか考えたことがないかもしれないが、こういう現実はむしろ考えない方がいい のだ。

結局、注目すべき点は「大学教授と対等に対話し得る小学生がいた」というこ とだったのだ。こんなことは滅多にないのである。

現実世界の電子会議がこの伝説に象徴されている。場があっても書ける人がい なければ何も生まれない。小学生どころか、立派な社会人でさえ、「何を書いて よいやらわかりません」ということがよくある。もっとひどい場合は発言するた めのコマンドの使い方がわからないという。「全くお話にならない」という常套 句は、文字通りこれを表現している。現実とはこんなものである。


5 月のプログラマーズフォーラムの様子を見ていて、

6月には様子が変わりだし、
7月には飛んでいってしまう
のではないかと思った(このまま行けば 8 月には…) (*2)。 5 月はとにかく異様の 一言に尽きる。表面的には全く分からなかったと思うのだが、メールのやりとり に翻弄されてしまい、コメントが書く時間がないのである。しかも、無理をして 書こうとするのだが、全く文章にならないのである。スランプとスケジュールの 失敗で大混乱の状況である。

一番大変だったのが、BPL の転載許可の手続きである。本当に参った。BPL に 含まれる sample というドキュメントには、NIFTY-Serve のメッセージが多数含 まれている。これを転載することについて、念のためニフティの許可を確認して おこうと思ったのが、ことの始まりだった。なかなか許可がもらえないのである。 (*3) 次のバージョンからは sample は外すつもりだ。別登録にしておけば、少なくと も BPL を転載する時に誰の許可を得る必要もないし、利用例のドキュメントのみ 更新することも簡単になるだろう。


某所でハンドルをころころ変える人がいて、ちょっと気になった。「ハンドル 変えたんですね」というコメントが付いていたから、他の人も気になったのだと 思う。

ハンドルについての議論は、実名でなければ絶対に発言できない銀河通信が、 どこか抜けていて一番面白い。私はハンドルだけで発言しなければならないとい う強制力が働いているので、ここでは発言できない。特に発言が義務付けられて いるわけではないから、不自由することはない。発言しないだけの話である。実 際、ハンドルだけで発言できる FPRG のための文章を作る時間が足りない程だか ら、他の理由で発言できないという状況は大いに助かる。:-)

最近、UNIX 絡みのちょっとした疑問があったので、FUNIX で質問しようと思 ったことがあったが、結局できなかった。実名参加を強く要望しているから である。義務とは言わずとも、強い要望という雰囲気は極めて高い壁である ため、どうしても発言することをためらってしまう。FUNIX は FWS 時代から 入会していたこともあり、思いひとしおなので残念だが、今や私は完璧な ROM になっている。

実名要望の理由は、テープ回覧時の混乱を防ぐため、とのことである。それ だけの理由なら、テープ回覧希望者だけ実名を併記すればすむのだから、他 にも理由があるのかもしれない。これに関して質問しようと思ったこともあ ったが、ROM していた方がずっと楽なので、そうなっている。

実名といえば、最近もう一つ気になっているのは、FMIDI にある「音楽情報 科学」の会議である。

実は、コンピュータによる音楽創作はライフワークのつもりである。今もこ つこつと研究を重ねているが、仕事と FPRG 保守の合間の作業なので、なか なか成果に致らない。音楽理論やコンピュータミュージックに関しては、も う十年来付き合っている。自分なりの理論も持っていて、同じような考え方 は、まだこの世界では見たことがないのが自慢である。

これだけのこだわりを持ちながら、「音楽情報科学」で発言していない理由 は、この会議が実名での参加を強く要請しているからだ。ただ、このテーマ には常人以上のこだわる性格なので、場合によっては要請を無視してでも発 言したいと思っている。その結果、思わぬ(確信犯?)トラブルになるかも しれないが、今はまだ強制力の方が強いので ROM の状態である。

「ライフワーク」なんて大上段に構えるならいざしらず、何となく感じたこ とを書いてみようか程度に思っている人が、実名なら差障りがあるので止め ておこう、と思うことはないのだろうか、と余計なことも空想する。私の FUNIX でのふるまいが、そうだったように。議論する時に、実名で述べられた意見 でなければ聞く価値が無いと思っている人が多いことは事実である。逆に私 のように、「実名を添えなければ述べられないような意見には価値がない」 と考える人は皆無に近い。

なお、FMIDI が実名を要請しているわけではなく、この会議が junet へのポー ティングを想定していて、相手文化に合わせるという特別な配慮があっての 要請である。たとえ発言を制限することになるにせよ、相手の環境に合わせ るという判断は、むしろ評価してよい。

さて、NIFTY-Serve には他のフォーラムの運営に関して関与しないと不文律 があるので :-) 念のために補足する。私は、FUNIX や FMIDI の会議が実名 参加を希望しているので、「私は発言しない」という個人的な判断の結果を 述べているだけであって、例えば FUNIX がハンドルだけの参加を認めるべき だとか、または認めて欲しいとかいった主張は一切行っていないことを、特 に強調しておきたい。FUNIX や FMIDI がどのような運営を行うかは、FPRG の運営を FPRG のスタッフが判断して実行するのと同じくらい自由なのだ。

最近は CI というのも珍しくなくなってしまった。CI を語る時代はもう過ぎた とも言われる。CI の最大の目的はカスタマーへのイメージ作りである。TOTO や オムロンのように、俗称が固定化するような場合はリスクはないのだが、今まで のイメージがある程度固定している場合に、それを捨て去るような名称変更を正 当化するためには、それ以上の効果が得られる前提が必要である。同一性は必ず しも必然ではないと思うのだが、一応社会的には重視されているので、それを撤 回するには、強烈な印象を焼き付けるというメリットが捨てがたいという条件が 必要になるのだ。

だが、ハンドルというのは非常に軽視されている場合が多い。印象に残るハン ドルを持っている人は数少ない。そのような人でも、文章力があればまだいい。 私の場合は率直に言って、文章そのものよりハンドルに助けられて目立っている 割合が大きい。考えてみれば、どんなに名文であれども、それが読まれなければ 全くお話にならないのである。そのための手段を選ぶ余裕があればいいのだが。

ハンドルを変更する理由は多々あるだろう。例えば他の会員に迷惑になるよう な発言をしてしまった場合には、ハンドルと悪行が対応付けられてしまうため、 その後の行動が束縛される。これは自業自得であるが。そこで、ハンドルを変更 して前科から逃れようとする場合がある。このケースが最もよくない。なぜなら、 ハンドルを変更しても、その人がその人であることは変わらないからである。行 動が変わらなければ意味がないのだ。ひどい場合には、また迷惑をばらまいて、 ハンドルを転々と変える結果になりかねない。また、ID がそのままでハンドルだ け変えたりしたら必ずばれるため、かえって非難されることになる。ハンドルが そのままでその後の態度を改めた方が、ずっといいのである。

他の人とハンドルが衝突したので変更を強いられる場合もある。これは私に言 わせれば衝突するようなハンドルにする方が悪い。多くの場合、衝突するような ハンドルは、それ自体が没個性的であり、目立たず、ありふれていて、従ってそ れを選択した時点で既にアイデンティティを放棄したと言えよう。目立とうとい う意識があるのにハンドルが衝突してしまった人は、どこか工夫が足りないので ある。

が、場合によっては、衝突承知でありふれたハンドルを選択することもある。 没個性も個性という発想である。Hide とか hiro というハンドルを使っている人 はNIFTY-Serveだけでも少なくとも数百人いると思われるが、このようなハンドル はかえって保護色の役割を果たしているのかもしれない。このハンドルの作り方 は簡単だ。自分の名前の最初の漢字の読みを、ローマ字で表記すればいいのであ る。日本人の名前自体、衝突率の高いものの上に、同音異字が多いことを承知で、 さらに1文字だけを使うのだから、衝突しない方がおかしい。その他にも、kazu、 say、HAL、nobu、nao など、探せば衝突するケースがありきたりなので、むしろ 衝突しない方がかえって珍しい位だ。

しかし、FPRG の SYSOP、SUBSYSOP に限れば、無茶苦茶ユニークで、ちょっと 衝突しそうにないようなハンドルである。NIFTY-Serve の中でもこれは自慢でき るだろう。


SYSOPの性格という危険因子を温存しながら、今までに廃止された幾多のフォー ラムを乗り越えて未だ FPRG が健在であるように見えることは、恐るべき偶然と しか言いようがない。なお、NIFTY-Serve では廃止という表現は用いられず、 「発展的解消」と言うようである。発展して分裂するならわかるが、発展して解 消するというのは、ない方がいい状態になる、とでも言いたいのだろうか?

FPRG の一番の特徴は、明確なテーマがないということである。ソフトウェア技 術者が考えていることなら、どんなテーマでもいいのである。プログラミングに 関する話題を扱ったフォーラムは FPRG が設立される前に既にいくつかあった。 しかし、プロだけが集まるという前提の場はなかった。そこに目を付けて、「プ ロのソフトウェア技術者がソフトウェアにこだわらずに、広範な問題について議 論できる場」という目的を看板に始まったのが FPRG である。

普通なら「ソフトウェア」中心に話題を進める所だが、当時は他のフォーラム でもソフトウェアの話題が分散して討議されていたし、他のフォーラムと話題が 重複しないように、と、非常に念入りに念を押されたので、できるだけソフトウ ェア以外のテーマを引っ張り込むことに苦心した。多分、今もテーマが重複する 複数のフォーラムが存在することを、ニフティは嫌っているはずである。

この結果、「結婚について」「残業」「転職」などの話題を積極的に盛り上げ てきたし、知的所有権の議論や、「フリーソフトウェアという呼び方を広めよう」 といった訳のわからない運動も提案した。幸い、これらは無関心なテーマではな く、むしろ実際にプログラマーの関心が高い共通の話題の一部である。

また、自然にプログラミングに関する話題も多くなるが、これは会員の性質か ら考えて当然の状況なので、全くのなりゆきにまかせている。


また話を逸らそう。「フリーソフトウェア」という呼び方は、かなり広まった ようである。私があれこれ主張したというのが原因というよりは、たまたまマス コミ等がそういう傾向に流れたのと一致した、という感じだが、この際それはど うでもいい。

どうして著作権が主張されているソフトウェアを PDS と呼ぶような結果になっ てしまったのだろうか。黎明期のネットワーカー達が原因の一端を担っているこ とは否めない。この方面でいちはやく発行された月刊雑誌が NETWORKER である。 この本が、PDS という言葉を急激に広める役割を少なからず受け持ったことは間 違いない。そして、記事の中ではあたかも PDS = パソコン通信 Download 可能 Software であるかのごとく、著作権の有無を無視して PDS という呼称が使われ ていた。その当時、ネットワーキングに関する雑誌はこれしかなかったのである。

例えば、今から3年前の NETWORKER 6月号の「PDS ウォッチング」というコー ナーを見ると、著作権が放棄されているかどうか疑問を感じるものも多く、中に は pkarc のように明らかに pubilc domain でないものも含まれている。この頃 は、とにかく電話回線を通じてダウンロードできるソフトウェアを何でもかんで も PDS という言葉一つで表現していたのだ。

ところが、不思議なことだが、現在「フリーソフトウェア」という表現が最も 定着している雑誌は NETWORKER やアスキーなのである。この劇的な変化は一体何 が原因なのかわからないが、ネットワーカー自体の運動の成果も、もしかしたら あるかもしれない。

インターフェース 1991-6 に GNU プロジェクトの特集がある。この中が、引地 信之氏が、フリーソフトウェアという言葉について一般的な定義はまだ確定して いないと述べられている。これだけを見ると一見もっともらしく読めるが、その 後で p.120「誤解2」のあたりを見れば、GNU ソフトウェアがフリーソフトウェア の一種であることは誤解であるような表現が見られる。「フリーソフトウェア」 という言葉が一般的に定義され確定されていないのに、GNU ソフトウェアがフリー ソフトウェアの一種ではない、という判断を行うのは矛盾している。

ではフリーソフトウェアとは何か? 引地氏は次のように述べている。

注意してほしい点は、GPL あるいは GNU ソフトウェアの中でいっている「フ リー・ソフトウェア」は一般にいわれるものと若干違います。コピーが自由 なソフトウェアという意味です。

(CQ出版社、インターフェース、'91-6、p.117 左段上)

一般的な定義が確定していないと書く一方で、一般にいわれるものと若干違う と評する意図が私にはますます理解できない。しかし、もっと理解できないのは、 上の文章そのものである。コピーが自由なソフトウェアということなら、全く一 般に「フリーソフトウェア」といわれているものと同じだと思うのだが。

と書くと、「フリーソフトウェアとは、無料のソフトウェアではないのか?」 と反論する方も中にはいらっしゃると思う。これについては、 「混沌の廃墟にて-143- シェアウェアの光と影」 に詳しく書いたので参考にしていただきたい。 再度簡単に述べておくと、私の言っているフリーソフトウェアというのは、文字 通り「自由なソフトウェア」のことである。具体的に分類すると、シェアウェア、 PDS、そして著作権が留保されている無料ソフトウェアの3種類があり、いずれも ある程度の条件の下で、自由に複製することができるという特徴を持っている。

「ある程度の条件」に注意してほしい。シェアウエアの制限事項は、気に入っ た時の寄付を「強く要望」することである。:-) 無料のソフトウェアの中にも制 限事項がある場合は多い。指定されたドキュメントを必ず配布するという条件は ポピュラーであり、この要望はおそらく著作権の正当な主張である。GNU の C コ ンパイラのように、それでコンパイルしたバイナリをライセンス販売することが できないという制限もある。販売すること自体が問題ではなく、コピーを禁止す ることが問題なのであるが、これは GNU C コンパイラの魅力を著しく低下させて いるので、しばしば議論の対象となる。利用者の立場から考えれば、例えば、GNU Emacs を使って書いた小説を出版する時には誰でも無料でコピーできるようにし ろと言っているようなものだからである。(*4)

誰か、GNU C でリンクできるような PDS のランタイムルーチンを書こうという 人はいないのだろうか。:-)


補足

この回のタイトルは、確か同名の小説があったようなので付けた記憶がある。

(*1) 相手が5才というのは流石に希である。しかし、どうも相手の主張が子供じみてい ると思ったら中学生、高校生だった、というケースは何度か見かけた。中学生で も、しっかりした議論ができる人もいる。しかし、割合は少ないだろう。

(*2) S&Gの「四月になれば彼女は」を意識している。そのまま行けば、8月には死 ななければならない。

(*3) 許可できないというのではない。無視されているのか、内部組織の決裁機構に問 題あるのか、いずれかである。だから、何か月か経過してから「構いません」と いう返事が来ることがある。来ないこともある。

(*4) この問題は改善されていたと思う。GNUのホームページ…って何処だっけ?


        COMPUTING AT CHAOS RUINS -150-
        1991-06-17, NIFTY-Serve FPROG mes(12)-120
        FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
        (C) Phinloda 1991, 1996