川村渇真の「知性の泉」

価値観の違いと、論理的思考との関係


 相手の主張を、どんなに詳しく説明してもらっても理解できないとき、価値観の違いを感じることがある。また、いくら議論しても意見が一致しないとき、その理由を「価値観が違うから」と結論付けることもある。こうした「価値観の違い」は、論理的思考とどのように関係するのだろうか。非常に面白いテーマなので、取り上げてみよう。

論理的思考の結果は、価値観の影響を受ける

 検討する課題の中には、検討する人の価値観に影響されるものもある。論理的思考方法を用いた場合も、同様だ。まず最初に、論理的思考方法を用いた検討での、価値観の影響を考えてみる。
 論理的思考方法を用いた作業には、事柄を評価したり、良し悪しを判断する工程が含まれる。こうした評価や判断では評価基準や判定基準を用いるが、この基準が問題となる。技術的な内容であれば、良し悪しが容易に決まりやすい。しかし、個人の好みや感覚に左右されやすい内容や、倫理的な内容だと、明確な基準を設定できない。
 たとえば、故意にではなくミスにより、社内の秘密情報を外部に漏らしたとする。この場合、どのような処分が適当であろうか。人によって意見が異なるだろう。他に、セクハラ行為の基準なども意見が分かれる。どんな行為なら許せて、どんな行為なら許せないのか、人によって許せる範囲が異なる。
 しかし、論理的思考方法を用いて思考作業を進めるときは、何らかの明確な基準を設定しなければならない。そうしないと、論理的な正しさを確保できないからだ。基準の設定では、どのようにして基準を決めるかが重要である。基準の作成にも論理的思考方法を用いるが、この話は後で取り上げよう。
 価値観に依存する基準の場合、かなり大事な特徴がある。基準を決めた人の価値観が、基準の内容に大きく影響する点だ。つまり、誰が決めたかで、基準の内容が大きく左右されるわけだ。また、各人の価値観は時間とともに変わるので、作成した時期によっても異なる。これらの点を考慮すると、作成者と作成時期の情報も、基準の内容と一緒に扱わなければならない。
 決める人によって影響を受けるので、そうならないように、基準の決め方も工夫する必要がある。この点でも、論理的思考方法が役立つ。これも後で取り上げよう。

各人の立場も、判断基準に影響を与える

 判定基準や判定結果に影響を与えるのは、個人の好みや価値観だけではない。各人の立場の方が、より大きな影響を与える。自分の立場を確保したり、立場で得するように、主張内容を決める人が多い。自分にとって都合の良い、判定基準や判定結果になることを期待して。
 この話は、実例を挙げると分かりやすい。セクハラの判断基準を決める際には、まず自分のことを考える。セクハラの多くは、女性に対して男性が行うので、女性はセクハラされた状況を考え、男性はセクハラで訴えられる状況を考える。すると、女性ならセクハラの基準を厳しく設定したいと思い、男性なら逆に基準を甘くしたいと思う(あくまで一般的な傾向であって、性別だけで必ずこう考えるとは限らない)。その思いが、判断基準の設定に影響を及ぼす。
 ここでは自分の立場と表現したが、もっと露骨な表現を用いるなら、私利私欲を優先するということだ。自分にとって利益がある結論を出させるために、評価や判断の基準を特定の方向へ誘導する行為である。
 私利私欲を優先する傾向は、個人の好みや価値観よりも強い。また、最終的には判断基準の案として意見を出すため、私利私欲を重視したのはどの部分か、好みや価値観で決めたのがどの部分か、通常は見分けにくい。
 両者を見分けることには意味がない。評価や判断の基準を作る際に、私利私欲が強く影響することを理解し、そうならないように対策を打つことが重要である。その意味で、この特徴を取り上げた。

議論で劣勢になると、価値観の違いを持ち出す

 結論がなかなか出ない議論の場では、価値観の違いが別な目的で使われる。かなり悪い使い方だが、これを知っておくことも大切なので、紹介しておこう。
 議論を進めていくうちに、片方の主張が優勢に傾く場合がある。劣勢に立たされた方は、必死で反論しなければならない。しかし、反論できる要素を見付けられない場合は、どうなるだろうか。適切に議論されているとき、劣勢に陥るのには、それだけの理由があるのが普通だ。主張がもともと劣っているから、劣勢に傾いただけのことである。
 議論をそのまま続けたら、結論は目に見えている。劣勢な側が負けるに決まっているのだ。マトモな人であれば、劣っている主張が間違いだと認めるしかない。それが、潔い行為である。
 しかし、劣勢に陥った人の中には、自分の主張が間違いだと、絶対に認めたくない人もいる。負けること自体が嫌いだったり、自分のメンツを何よりも優先するような人だ。こんな人は、負けを認めたくないために、価値観の違いを持ち出すことがある。「主張が異なるのは、価値観に違いがあるからで、どうしようもない」と。「価値観に違い」の代わりに「文化の違い」が使われることもある。
 この使い方の目的は、自分にとって都合の悪い結論を出させないことにある。結論が出ない状態のまま議論を終わらせ、悪い結論の決定を避ける方法だ。つまり、劣勢になった議論から逃げる方法といえる。
 この方法を認めてしまうと、劣勢になったら必ず逃げられるので、対立しているどんな課題でも結論など出ない。議論の意味を無効にするため、かなりコセイ行為である。しかし、意外に多く使われている。

価値観にも良し悪しがある

 続いて、ここまでの話で触れなかった、価値観の中身について考えてみよう。議論に一番関係する、価値観の良し悪しについてだ。
 個人ごとに異なる価値観の内容は、本人以外に影響を及ぼさないなら、何でも構わない。しかし、他人や社会に影響を及ぼす価値観なら、悪い内容だと認めることはできない。他人に殺しても悪くないといった、社会で明らかに認められない価値観は、議論の中でも認めることができない。
 実際には、相当ひどい価値観を持ち出す人はまずいない。持っている価値観が世間で認められるかどうかは、自分で分かっている人がほどんどだからだ。そのため、価値観の特徴を弱めた形で主張することが多い。弱めて主張する場合でも、あまり詳しくは説明したがらない。説明が詳しくなるほど、世間に認められない箇所が明らかになりやすいためだ。
 議論の中では、参加者が自分の価値観の中身自体を出すことはない。議論の課題に関係した内容を、自分の価値観に照らし合わせて判断し、判断した結果を議論の場に出す。このような形なので、議論の場においては、価値観自体ではなく、価値観で判断した結果を評価することになる。
 価値観で判断した結果であっても、価値観の特徴は出る。たとえば、女性を差別する意識があるなら、男女平等を実現できる基準に反対するとか、女性を排除しやすい基準を出すといった形で。こうした基準は、平等を本当に実現するのか評価することで、悪い特徴を見付けられる。また、スローガンだけ平等をうたい、出した基準には不平等な要素が含まれている場合もある。これも、スローガンと基準との整合性を検査することで、矛盾点を指摘できる。
 どのような内容が悪いかは、地域や時代によって変わる。だとしても、出された基準内容について、本当に実現できるかや矛盾点を調べれば、地域や時代に応じた悪い基準を見付けられる。

価値観に関わる問題点は、論理的思考方法で解消する

 ここまでの話で、価値観の違いに関係する問題点が明らかになった。その中には、価値観の違いには直接関係しないものの、価値観の違いと見分けが付かない問題点もあった。整理すると、次のようになる。

価値観の違いや基準作成に関わる問題点
・評価基準や判断基準の作成に関して
  ・作成した基準は、作成者の価値観に依存する
  ・自分の私利私欲を優先して、基準を作る
  ・悪い価値観で、基準を作る
・議論を邪魔する方法に関して
  ・価値観の違いを理由に、結論を決定させない

 これらの問題を解消するのに、論理的思考方法が役立つ。評価基準や判断基準を作る際にも、論理的思考を利用できるからだ。評価基準を例にして説明しよう。論理的思考方法を用いた評価方法の作り方では、評価の目的を最初に明らかにする。続けて、評価目的から評価基準を求め、さらに評価基準ごとの評価方法を作る。このとき、評価目的と評価基準、評価基準と評価方法で、内容の整合性を検査する。加えて、途中の段階まで含めた形で評価方法作りを公表し、第三者がレビューできる状況を整える。ここまでやると、評価目的に合わない評価基準や評価方法の採用は相当に難しい。この方法で、「自分の私利私欲を優先して、基準を作る」問題点と「悪い価値観で、基準を作る」問題点は解消できる。
 残りの「作成した基準は、作成者の価値観に依存する」問題点は、評価目的を作る際に工夫して対処する。評価目的の中に「社会や業界に認められる評価」を含める。そうなると、評価基準の参加者だけの価値観では決められなくなる。少なくとも社会の平均的な価値観や評価基準を調べる必要性が生じ、その結果を無視できなくなる。
 評価方法を作る際の議論でも、途中で出された事柄の内容は、必要に応じて検査する。矛盾がないか、引用した内容は事実か、データが正しいかなどだ。こうすることで、悪い価値観や私利私欲による意図的な誘導を防げる。
 議論を邪魔する行為である「価値観の違いを理由に、結論を決定させない」問題点は、論理的思考方法に基づいた議論手法の採用で解消する。こちらも、議論目的を最初に明らかにしてから、最適な議論工程(議論の流れ)を求める。途中の議論内容を作成物の形で残すため、最後の段階で逃げるのは難しい。
 もし逃げた場合でも、残った参加者だけで最後まで議論を続け、途中の作成物まで含めて公表すればよい。途中も含んだ作成物では、議論内容が論理的に整理されているので、主張の優劣が明確に出てしまう。
 最後の手段として、価値観の違いを理由にして逃げる方法の存在を、関係者に説明する選択肢も残っている。議論手法による作成物を公表しているので、そんな状況になることもないだろうが。
 自分の期待する方向へ結論を導きたい人は、判断基準の作成以外でも、いろいろな箇所で誘導しようとする。しかし、論理的思考方法から生まれた議論手法は、途中の工程でも作成物を残し、工程間での整合性を検査するため、そうした誘導が非常にやりづらい。結果として、議論の質が高くなり、悪い価値観や私利私欲の影響を受けにくい。
 以上のように、論理的思考方法と評価技術や議論手法を用いれば、価値観の違いに関わる問題点を、かなり解消できる。もちろん、議論の内容や結果の質も高まる。

残った価値観の違いへは、選択枝を増やして対応

 上記の問題点を解消した後には、悪い価値観が取り除かれた、価値観の違いだけが残る。この違いに関しても、論理的思考方法を用いて対応する。
 残った価値観の違いは、許される価値観といえる。そのため、できるだけ価値観を認める方向で、課題を検討した方がよい。通常は、選択枝を増やすことで対応する。複数の選択枝の中から、価値観に合ったものを選べるように。
 論理的思考方法の強化要素の中に、「解決方法の上手な設計術」がある。その一部に、選択枝を増やす設計術が含まれている。これを用いて、課題の目的を達成できる範囲内で、可能な限り多くの選択枝を設計すればよい。
 選択枝の提供方法は何種類かある。もっとも単純なのは、数個の選択枝の中から、自分の価値観に一番近いものを選ぶ方式だ。設計が簡単という利点があるものの、選択枝が狭い欠点を合わせ持つ。逆に、選択枝として一番自由度が広いのは、複数の要素やオプションを自由に組み合わせて選べる方式。ただし、設計するのは非常に難しい。どの要素やオプションを選んでも、課題目的を確保する必要があるからだ。通常は、この2つの方式の中間で設計する。数個の選択枝と、それに何種類かのオプションを加える方式で。
 どの部分で選択枝を提供するかは、課題によって異なる。新しい教育内容を作る課題であれば、教育内容だけでなく、教育方法、教育場所などが選択枝の対象として考えられる。これは非常に広い例で、通常はもっと狭い。
 選択枝の設計では、平等という視点も欠かせない。特定の選択枝だけが大きく得する(または損する)となれば、自由な選択が実現できない。完全な平等は無理でも、できる限り等しくなるように、オプションなどの組合せ方に制限を設ける。もちろん、制限の理由も明確に示して。
 以上のように工夫を組み合わせることで、価値観の違いを重視した選択枝が提供できる。もう1つ、大切な点がある。世の中の多くの人が、許される価値観に関しては、価値観の違いを認める意識を持たなければならない。これは、主に政策と教育で実現する。

価値観が違っても普遍的なのが論理的思考

 ここまで、価値観の違いが議論に及ぼす影響と、それを防ぐために論理的思考方法が役立つことを解説した。この内容は、価値観の違いと論理的思考との関係でもある。しかし、もう1つだけ、説明しなければならないことがある。それは、価値観が異なる人の対話と、論理的思考との関係だ。
 価値観が異なる人同士が議論するとき、共通の基盤が何もなければ、話がマトモに通じない。議論に役立つという条件で、共通の基盤を考えたとき、論理的な思考ぐらいしか思い浮かばない。論理的な思考というのは、論理を基盤にして物事を考える方法である。論理が基盤となるなら、矛盾している点なども指摘でき、良し悪しの判断が明確になりやすい。また、良し悪しを判断するだけでなく、判断できない点や範囲も示せる。
 論理的思考が優れているのは、論理を判定する部分に関しては、価値観に影響されない点だ。価値観に影響されるのは、評価や判定の基準の中身であって、基準を用いた評価や判定の結果は論理で決まるため、価値観の影響を受けない。価値観の違いに関係しない普遍的なものといえる。この特徴があるからこそ、どんな価値観を持つ人でも利用でき、共通の基盤として役立つ。
 ただし、この話には1つだけ例外がある。論理的な思考に価値がないと主張する価値観には、まったく通じない。論理的を否定する価値観なので、数学まで否定することになる。実際には、このような価値観はまず出てこない。社会が長い年月を経ることで、数学などの理系学問の価値が理解され、それを通じて論理的な思考の価値が認められるからだ。

 もう1つ大事なのは、「論理的に思考しよう」と言うだけでは、論理的な思考を実現できないことである。論理的思考の中身を細かく規定し、実際に作業できるレベルの内容に仕上げなければ、論理的に思考できない。そんな状況を改善する目的で作ったものが、論理的思考方法だ。
 論理的思考方法は、文系領域において論理を構築する道具であり、理系学問の数学に相当する(詳しい話は「文系および理系の視点と、論理的思考との関係」を参照)。数学ほどの完璧さは持ってないものの、それに近付くように工夫してある。思考目的に合った思考工程を求めて、工程ごとの作成物を残し、関係する作成物で整合性を検査する。工程ごとの作成物は、事柄の一覧表と詳細内容に分かれ、全体と詳細を分けて記述することで、正しく理解するのを手助けする。
 思考途中で評価や調査が必要なら、それぞれ専用の技術である各種支援技術を用いる。こちらも、複数の工程に分かれていて、構成ごとに作成物を残し、整合性を検査できる。こうした設計思想は、論理的思考方法や各種支援技術の全体に及んでいる。
 設計の狙いは、文系領域の検討内容を、数学に近い形で扱えるようにすることだ。数学と完全に同じレベルは無理だが、可能な限り近づくように、様々な工夫を含めてある。

 価値観が異なる相手との共通基盤として、論理的思考方法を利用するためには、論理的思考方法の中身を、誰もが認めなければならない。多くの人が認めることを目指し、論理的思考方法の詳細内容を全員で共有すべきだ。質の高い議論を行うための共通の財産として。その上で、中身を改良し続けながら、完璧さを少しずつ高めていけばよい。

(2002年12月28日:作成)
(2002年12月29日:残った価値観の違いへの対応を追加)


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