川村渇真の「知性の泉」

論理的思考で重要なのは思考の道筋


ディベートの採用は、検討しないで選択した結果

 論理的思考は、広く捉えると様々な要素が含まれる。その中でもっとも重要なのが、思考の道筋だ。それを説明するために、題材としてディベートの評価を取り上げてみよう。ディベートを選んだのは、「議論の能力を身に付ける方法としてディベートが優れている」と、世の中で間違った認識をされているのに加え、その間違いを“明確に指摘できる”からだ。

 まず、ディベートを採用した人の思考過程を少し考えてみよう。いろいろなサイトでの意見を読むと、議論の能力を磨くための方法(または道具)として、ディベートを用いている。ただし、ディベートと他の方法を比べて選んだ様子はほどんどなく、ほぼ無条件にディベートを選んでいるようだ。
 実際、ディベート以外には有名な方法が見付からない(徹底的に探せばあるかも知れないが、見付かったとしてもマイナーな方法の可能性が高い)。加えて、ディベートは、欧米を中心として数多くの採用実績がある。さらに、ディベートの重要性を強く訴える意見も、数多く存在する。こんな状況なので、議論の能力を磨く方法といえば、無条件にディベートを採用するのも当然だろう。
 こうした選択方法を、第三者として分析すると面白い。選択の過程が見えないので、いろいろな疑問が生じる。主なものを挙げてみよう。

・ディベートを学ぶことで、どのような知識や能力が身に付くか
・ディベートで得た知識や能力は、議論にどの程度役立つのか
・ディベートの得意な者だけなら、質の高い議論が実現できるか
・そもそも、質の高い議論とはどのようなものか
 (これ以降は省略し、最後に)
・ディベート採用者は、以上の疑問を解消して採用したのか

 こうした疑問を明らかにしようと、ディベートに関する意見を調べてみた。しかし、「ディベートを学ぶと、議論の能力が身に付く」という段階の主張で終わっていて、「議論の能力とはどのような中身なのか」という肝心な点に触れていない。議論の能力が身に付くことを、無条件に受け入れている感じに見えた。
 ここまで読んで、次のような疑問を持つ人もいるだろう。「上記の疑問を深く検討した人も一部にいて、その結果、ディベートを採用した例もあるのでは」と。しかし、実際に深く検討すると、ディベートは悪い方法という結論に達する(詳しくは後述)ため、もし実例があるとすれば、検討が失敗した状況でしかあり得ない。検討の失敗なので、もし実際にあったとしても価値はない。
 どうやら、上記のような疑問を解消せずにディベートを採用しているようだ。そうなると、厳しい言い方かも知れないが、採用の方法が悪いと判断するしかない。
 こうした採用方法の悪さは、何もディベートに限ったことではない。教育に関わる採用方法では、ほとんどが該当する。どんな能力が身に付くのか深く考えずに教育内容を決め、この決定方法に疑問すら持たない。そんな状態が百年以上も続いている。

目的を強く意識しながら、掘り下げ思考を繰り返す

 以上のような悪い点を指摘しても、多くの人にとっては役に立たない。指摘された意見を知るだけでは、良い方法が身に付いてないままだからだ。そこで、良い採用方法を考えてみよう。もちろん、ディベートが関係している「議論の能力を身に付ける方法」を題材にして。
 採用方法の検討でも何でも、思考内容が良くなければ価値は低い。良い思考内容とは、説得力があって、誰もが納得できる内容である。論理的に正しいのは当然で、それを第三者に説明できなければならない。他に、実用性があるとか、大事な点が漏れてないとか、いくつかの条件が含まれる。
 では、こうした思考内容を求めるためには、どうすればよいのだろうか。思考以外の作業でも同じだが、本当の目的を明らかにして、それを実現するための結論を導き出すことである。当たり前だが、本当に効果のある結論を。
 この考え方を、今回の題材に適用してみよう。目的は「議論の能力を身に付けること」であり、最終的に得たいのは「議論の能力を身に付ける方法」である。すると、最初に出した疑問と同じような疑問が生じる。「議論の能力とは何か」だ。というわけで、それを求めるのが次の作業となる。では、どう考えればよいのだろうか。「議論の能力」を掘り下げるしかない。そこで役立つのは「何のために議論の能力を身に付けるのか」という、もう1段階上の目的である。それは「質の高い議論をできるようになるため」だ。というわけで、「議論の能力」とは「質の高い議論を実現するための能力」だと導き出せる。
 次に生じる疑問は「質の高い議論とは何か」だ。これも掘り下げるしかない。前と同じように、もう1段階上の目的を考えてみる。「何のために議論するのか」だ。当然「議論によって良い結論を導き出すため」となる。今度は「良い結論とは何か」を考えなければならない。今度は「誰もが納得するような、論理的で説得力のがあり、実現可能な結論」となる。次は「こうした結論を導き出すには、どうしたらよいか」を考える。その結果、「論理的思考を用いる」を得る。続けて、論理的思考の内容や方法へと掘り下げる。
 こうした掘り下げ方を進めると、能力の教育方法に関する限り、たいていは最後に論理的思考へ達する。これが掘り下げの最後なので、ここまでの検討内容を整理してみよう。

議論の能力から順番に掘り下げた要素
・議論の能力を身に付ける方法
・議論の能力の中身(=質の高い議論を実現する能力)
・質の高い議論の中身(議論方法も含む)
・良い結論の中身(=説得力のあって〜実現可能な結論)
・論理的思考の中身(思考方法も含む)

 「質の高い議論の中身」と「論理的思考の中身」については、掘り下げ時に触れなかったが、実現するための方法も含んでいる。その意味で「方法も含む」という記述を加えた。

掘り下げた内容から、思考の道筋を作る

 掘り下げが終わったので、最終的な結論を得るための道筋を整理する。といっても、基本的には、項目を逆に並べるだけでよい。
 ただし、何らかの方法を具体的な内容として求める際には、追加しなければならない作業がある。考えられる複数の方法を集めて、それらを同じ基準で評価し、最良の方法を選ぶ作業だ。それも追加すると、次のようになる。なお、追加の作業を記述したのは、最後の「議論の能力を身に付ける方法」だけだ。

掘り下げた内容から導き出した、思考の道筋
・論理的思考の中身(思考方法も含む)
・良い結論の中身(=説得力のあって〜実現可能な結論)
・質の高い議論の中身(議論方法も含む)
・議論の能力の中身(=質の高い議論を実現する能力)
・議論の能力を身に付ける方法
  ・採用の候補となる習得方法を集める(または作る)
  ・候補ごとに、習得できる能力を評価する
  ・最良となる習得方法を選ぶ(=思考結論)

 ここまでの作業では、「良い結論の中身」や「議論の能力の中身」などに関して、具体的な内容を取り上げてない。これは非常に重要な点で、こうした作業が、具体的な中身を扱わずにできることを意味している(もちろん一部に例外はあるが)。
 この段階で考えているのは“どのように思考作業を進めたら良い結果が得られるか”である。つまり、良い思考結果を得るための道筋だ。これを「思考の道筋」と呼ぼう。
 では、思考作業にとって、思考の道筋はどのような価値があるのだろうか。思考の道筋は、どのように思考を進めるかの大枠なので、思考内容に大きな影響を与える。当然、思考の道筋の良し悪しが思考の質に直結する。その意味で“質の高い思考にとって極めて重要なもの”といえる。
 この段階で扱う内容には、もう1つの特徴がある。含まれる内容が、それほど難しくない点だ。ある程度の論理的思考能力さえ持っていれば、慣れると容易に作れる。ただし、今回のように、論理的思考を多くの人が知らない状況で、思考内容の中に論理的思考が含まれると、どうしても難しくなる。ここまで読んで、そう感じた人が多いだろう。しかし、論理的思考方法を習得した後だと、論理的思考の内容を知っているので、難しさは解消できる。思考の道筋を使えるようになるためには、論理的思考方法の習得が必要なので、自動的に解消されるというわけだ。

思考の道筋は思考内容の最上位階層

 思考内容全体を複数の階層として考えたとき、思考の道筋は、一番上の層に該当する。思考内容の大枠を決める内容だからだ。続く2番目の層は、第1層である思考の道筋を用いて作り始める。思考の道筋に含まれる要素ごとに、2番目の層で詳しい内容を作成する。
 同じことは、3番目以降の層でも繰り返される。すぐ上の層に含まれる要素ごとに、より細かな内容を作り進むわけだ。たとえば、ある層で、何かの評価方法が必要になったとする。すると、その1つ下の層では、評価方法を得るための作業手順を用意し、さらに下の層で、各作業の成果物を作成する。このように、層が1つ下がることに、内容が細かくなっていく。
 ただし、このような階層分けはあくまで考え方であって、それに沿って作成物を作るわけではない。何かの評価方法を作るときは、その評価方法に関する作成物だけ集めて管理し、層の存在を気にしない。階層分けの考え方を利用するのは、思考内容が上手に整理できなくなったときで、上手に細分化するために役立てる。
 以上のように、思考内容を階層として捉えると、別なメリットが生まれる。どうしても多量になりがちな思考内容を、小さな単位に小分けして扱うことが、可能となる点だ。第1層である思考の道筋は、思考内容全体を管理するための道具として役立つ。そこに含まれる各要素も、それぞれの要素ごとにほぼ独立して管理できる。ただし、要素間に関連のある内容だけは、上位となる思考の道筋を見ながら検討し、適切な内容に仕上げる。このように、考えなければならない範囲を限定して、思考内容を整理しやすくするのが、階層分けを利用した考え方である。結果として、全体も部分も理解しやすくなり、思考の質が向上する。
 もし誰かから反対意見が出されたときは、どの階層への反対意見なのかを調べる。思考の道筋に対してなのか、その要素に対してなのか、それよりも下の要素に対してなのかを。このように扱うと、一部の欠点を見付けて全体を悪く言うといった、議論を邪魔する行為から、十分に防御できる。

思考の道筋を最初に求め、思考工程として利用

 今度は、論理的思考方法の中での、思考の道筋を見てみよう。論理的思考方法を設計する際には、少しでも多くの人が利用できるように配慮する。そのため、思考の道筋が、何かの作業として割り当てられる方がよい。作業として規定することで、より多くの人が実際に行えるようになるからだ。
 本コーナーで紹介する論理的思考方法では、思考の道筋を、思考の作業工程である思考工程として組み込む。工程分割で大事なのは、作業内容ではなく、途中の作成物を単位として分ける点だ。同時に、作成物の形式と作り方を規定し、何をするのか迷わないようにし、作成物の質の低下も防ぐ。これによって、各工程で何をするかが明確になるのに加え、工程内での思考内容が作成物の形で残る。さらに作成物は、第三者がレビューするとき役立つ。
 設計で考慮すべき点は、もう1つある。思考の道筋を誰でも作れるとは限らない点だ。その問題を大きく解消することが、論理的思考方法には求められる。そこで、代表的な思考課題ごとに、標準的な思考工程を用意する。最初のうちは、それを利用してもらえばよい。思考の道筋が何もないのに比べ、思考の質は確実に向上するはずだ。
 論理的思考方法に慣れた人向けには、思考工程を改善する方法を提供する。標準的な思考工程を出発点にしながら、思考課題ごとに最適な思考工程を求める形で。内容としては、思考の道筋を作る方法とほぼ同じになる。課題に最適な思考工程を求められるようになると、難しい課題を扱う思考作業においても、思考の質をより高められる。
 論理的思考方法では、初期段階の作業として、思考工程の選択を入れている。その中では、まず最初に思考目的を明らかにし、続けて思考結論の形式を規定する。そして、思考結論を求めるための作業工程を求め、それが思考工程となる。それ以降は、思考工程に従って作業を進める。
 ここで重要なのは、思考目的を一番最初に明らかにする点だ。思考の道筋でも、大事な箇所で必ず目的を考えていて、それ合った要素を求める。このように目的を常に意識して、それに合った思考内容を求めることも、質の高い思考作業では極めて重要となる。そうした考えが基礎にあるから、最初の作業に目的の明確化を入れてある。このような形だと、思考目的を作り忘れるという重大なミスが起こらない。

他人の意見を評価する際にも、思考の道筋が役立つ

 自分で思考することだけが、思考の道筋の利用範囲ではない。他人意見を評価する際にも、思考の道筋は役立つ。
 論理的思考方法を知らない人がほとんどの世の中なので、たいていの意見は、深く考えられたものではない。また、論理的な思考を邪魔しようとする、セコイ行為に該当する意見もある。どちらの意見も、質としてはかなり低いので、思考の道筋を利用すれば簡単に反論できる。しかも、かなり強力に。
 手順は次のようになる。まず、相手の意見を評価する前に、思考の道筋を自分で求めてみる。論理的思考方法を知っているなら、課題の種類を見て、標準的な思考工程を見付けるとよいだろう。こうして得られた思考工程で、課題を少し検討してみる。続けて、相手の意見が、思考工程のどの部分に含まれるのか考えてみる。すると、相手の意見の位置付けが見えてくる。ごく一部しか見てないとか、課題の本筋から外れているとかだ。
 もし相手の意見が悪いと判断したら、こうして検討した内容で反論する。思考工程も一緒に含めて説明するわけだ。この方法は、論理的思考を邪魔する相手に対して、大きな効果がある。思考工程として良い思考の道筋を示すため、これへの反論は相当に難しいからだ。
 結果として、相手への反論が成功するだけなく、議論そのものの道筋を、より適切な形へと導ける。単なる反論よりも、はるかに大きな成果が得られる。こうした意見は、議論の質を高める貢献度という観点で考えたとき、数多く出された意見の中で、もっとも役に立った意見となるだろう。
 以上の考え方は、自分の意見をまとめる際にも利用できる。すると、ダメな意見を作る確率が大きく減り、意見の質が格段に向上する。これこそ、論理的思考方法の効果である。

ディベート支持派は、今後改めることが大切

 ここで再び、ディベートの話に戻ろう。思考の道筋を利用した場合、ディベートはどのように扱われるのだろうか。
 作成した道筋の中では、「議論の能力を身に付ける方法」の部分で取り扱う。まず「採用の候補となる習得方法を集める」工程で、1つの候補として挙がる。次の「候補ごとに、習得できる能力を評価する」工程では、思考目的に照らし合わせた評価が下る。「論理的思考と議論やディベートとの関係」で述べたとおり、悪い点が多いと評価せざるを得ない。続く「最良となる習得方法を選ぶ」工程で、採用されない結果となる。
 こうした評価結果は、ディベートを強く支持している人にとって、かなりのショックであろう。しかし、採用に至った今までの判断が、悪すぎたので仕方がない。こうなった原因は、深く考えずに採用を決定したことにある。もし論理的思考方法を知っていれば、思考の道筋から考え始めて、適切な判断ができたはずだ。米国も含めた大学や大学院でさえ論理的思考方法を教えてないのが現状なので、判断を間違ったのは、仕方がない結果といえる。その意味で、ディベートを強く支持していた人達は悪くない。
 ただし、ここで解説した内容を知った後で、自分の過去を否定したくないために、ディベートを支持し続けるのは、相当に悪い行為といえる。こんな行為を続けると、論理的な話が通じない、非論理的をモットーとする人なってしまう。質の高い議論を求めている人なら、そう思われたくないだろう。

おまけ:ディベートで身に付く悪い行為

 最後に、面白い現象を1つ紹介しておこう。ディベートの欠点を指摘されたとき、ディベートを支持する人が強く反発する様子だ。ディベート支持派の反論を見ると、ディベートの欠点がハッキリと見えてくる。自分が強く支持していることを否定された状況なので、普段よりも欠点が強く出るようだ。
 その欠点とは、次のようなものである。相手が主張した事柄のうち、反論できる事柄だけを取り上げる。相手の主張した個々の事柄にだけ反論し、課題の全体像を見ようとしない。もちろん、課題の目的、ディベートで身に付く具体的な能力、良い議論の中身、良い結論の中身など取り上げない。典型的な悪い議論となってしまう。
 反論の際には、ディベートの得意な人が使いがちな手法も何個か登場する。実は、これが一番面白い。その中でも最悪なのは「〜は定義がない。定義がないので意味のない意見だ」という反論だ。定義がないのであれば、その定義を相手に求めればよい。また、求める相手が近くにいないなら、定義を推測してみればよい。しかし、そうしないで「意味のない意見だ」と結論付けている。
 では、なぜそうするのだろうか。理由は簡単で、マトモに反論できない内容だからだ。定義が含まれていないことを、反論しなくて済む理由に使っている。単に反論しなくて済むだけでなく、その意見を勝手に却下している。極めてセコイ行為である。
 普通に考えれば分かることだが、ほとんどの意見では、定義など含めない。定義を含めるのは、相手が知らない言葉だと事前に明らかな場合だけだ。それ以外の状況では、意見に定義を含めず、尋ねられたときにだけ説明する。これが一般的なやり取りだ。
 実際、定義がないと指摘した人の多くの意見で、定義が含まれていない。自分の意見は定義が含まれてないのに、他人の意見は定義がないために却下するというのは、相当にズルイ行為でもある。相手には厳しく、自分には甘い基準で評価していることになるのだから。
 このズルイ行為には、もう1つ特徴がある。どんなに定義を出し続けても、使い続けられる行為という特徴だ。定義は言葉で説明するため、その中の言葉の定義を求めることができる。説明文には、元の言葉よりも多くの言葉を含むため、定義を求める対象候補の数はどんどんと増える。おかげで、定義を求める対象には困らず、いつでも何度でも使える行為となる。
 こうしたダメな行為は、ディベートによって身に付くし、ディベートが大好きな一部の人の得意技でもある。ディベートの学習によって得た、論理的思考と反する行為なので、あえて取り上げてみた。なお、こうした人を相手にする際には、論理的思考を用い、思考の筋道を前面に押し出す方法が有効である。

(2002年12月5日)


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