川村渇真の「知性の泉」

論理的思考方法は実用レベルで提供すべき


良い思考ができてない状況は極めて多い

 この世の中では、非常に多くの課題が検討され、その際にいろいろな思考が行われる。こうした思考結果として、製品などの仕様、行政などの実施内容といった様々なことが決められる。では、思考によって得られた結果は、良い内容ばかりなのだろうか。
 実際の結果を見ると、無駄な公共事業を何度も繰り返したり、薬害が発生したり、教育改革や大学改革が進まなかったりと、相当にレベルが低い意思決定が繰り返されている。しかも、問題があると指摘されているにもかかわらず、一向に改善しない。こうした状況を見ると、マトモに思考できているとは、とうてい思えない。
 このような現象は、行政機関だけではない。一般の企業内でも、とんでもない意思決定が行われる場合がある。そこまで達しなくても、どう考えても最良と思われない結論を出す機会はかなり多い。そんな思考結果が、企業内の至る所で出されるため、作業が失敗したり、成功の度合いが低くなっている。
 もっと小さな議論でも同様だ。インターネット上には相当多くの電子会議室がある。その中での発言を見ると、質の高い発言は皆無に近い。論理的思考の基本すら満たさない発言がほとんどなのに加え、良い議論を邪魔するセコイ行為が横行しているので、良い思考結果が得られることは極めてまれだ。
 このように、世の中の多くの場所で、あまり良くない思考結果が出されている。その最大の理由は、論理的思考方法をほとんどの人が知らないからだ。どのようにすれば論理的思考が達成できるのか、まったく知らないまま思考を続けている。当然、良い思考結果が得られるはずはない。

大学でも論理的思考を教えてくれない

 大学の教官を含む一部の人(もしかしたら多くの人?)は、自分が論理的に思考できると思っているだろう。しかし、本当にできているのだろうか。おそらく、学問の範囲内であれば、論理的な思考ができていると思う。しかし、世の中の一般的な問題に対しては、ほとんどできていないのが現状ではないだろうか。
 たいていの学問では、世界を単純化して扱うことが多く、その分だけ問題を解くのは簡単になる。しかし、社会の一般的な問題では、学問のように都合良く単純化はできない。考慮しなければならない点を全部含めて考えなければ、最良の結果は得られない。また、価値観の違いや仮定なども一緒に扱わなければならず、どんどんと問題は難しくなる。こうした特徴があるため、学問上で論理的思考ができても、実社会の問題では論理的思考ができない人が数多く出てしまう。実社会の問題でも論理的に思考するためには、もっと別な技術や方法が求めら、それこそが本当の論理的思考といえる。
 実際、高等教育フォーラムに登場する大学や研究所の関係者の発言を見ると、論理的思考の基礎すら知らないことが簡単に分かる(そればかりか、論理的思考の基礎を知っている発言者を、フォーラム内では1人も見付けられない)。もっと悪いことに、セコイ行為によって論理的思考を邪魔している人もかなり発見できる。該当する人が、大学や研究所の関係者なのだから、悲しい現状と言わざるを得ない。他の電子会議室などを見ても、論理的思考の能力レベルは同程度だった。
 論理的思考に関する発言はけっこうある。実際は論理的思考ができないのに、自分ではできると思っている人が、論理的思考の話をしたがるからのようだ。しかし、抽象的な内容が多く、それを試したとしても、実際には役に立たない場合がほとんど。また、論理的思考とは「一緒にいて間接的に教えるもので、言葉で説明しては教えられない」と言う人もいる。これは間違いで、自分が身に付けてないために、こういった発言内容になるのだろう。
 現状では、大学の教官ですら、論理的思考を身に付けてはいない。そのため、学生に教えることは無理だ。結果として、大学や大学院を優秀な成績で卒業したとしても、論理的思考の基礎すら身に付かない。これが現状なので、論理的思考のできる人が増えるはずはなく、何もしなければ今の状況がずっと続くだろう。

実用レベルで体系化することが重要

 こうした状況を、どうすれば改善できるだろうか。一番必要なのは、論理的思考をある程度まで体系化して、教えられるレベルの内容に整理することだ。どんな内容が含まれ、どのような構成になり、どんな順序で学習するのかを明らかにする必要がある。そうしないと、多くの人が習得可能な内容にはならない。
 論理的思考のようなものは、単に体系化するだけでは不十分。できるだけ多くの人が使える形に仕上げなければならない。最悪なのは、難しい学問にありがちな、特殊な言語や数式だけで表現する方法。こうなると、それを習得した一部の人だけしか理解できず、多くの人が使える状況にはならない。もっと自然に理解できるような形にする必要がある。
 使用するのは、我々が話している言葉だ。それだけでは上手に思考できないので、思考の道具を用意する。何をどのように作れば、思考の質が高まるのか、道具を用いて支援する。また、思考の質を低下させる要因からの影響も、道具を使うことで減らせる。こうした道具は極めて大切で、利用できる人を大幅に増やす。これこそ、実用レベルに仕上げるための必須の要素だ。
 もっと良くするためには、実社会での思考の失敗を分析しなければならない。どんな理由で良い思考結果が得られないのか調べ、その理由を解消するような仕組みも、論理的思考の中に含める。そうすることで、論理的思考方法が実社会で実用に耐えうる内容に仕上がる。
 論理的思考を教育する場合は、以上のようにして得られた内容を、学びやすい形に分解しなければならない。基礎から始めて、段階的に難しい内容へと進めるように。ただし、学ぶ順序が1つの流れしかないとは限らないし、自分の興味のある箇所を優先して学べることも大事なので、もっと自由度の高い分解の方がよい。
 このような視点で論理的思考を体系化すれば、多くの人に役立つ内容に仕上げられる。現状では、ほとんどの人が論理的に思考できないため、その価値は極めて大きい。

既存の思考関連の学問では大幅に役不足

 論理的思考の中身を紹介する前に、既存の学問も少し見てみよう。そうすることで、既存の学問の位置付けが明確になるとともに、世の中の誤った認識も改められる。
 論理的思考に関係する学問として、多くの人に挙げられるのが数学だ。いろいろな場所で、「数学を学ぶと論理的な思考が身に付く」と聞いたことがあるだろう。しかし、これは間違いである。数学を学んで得られるのは、数値や式を扱う範囲内での論理的な思考でしかない。残念ながら、世の中の一般的な問題を論理的に思考できる能力は身に付かない。その証拠に、数学を何十年も学んだのに、一般的な課題を論理的に思考できない人が数多くいる。
 既存の学問の中で、論理的思考に関係する内容として、もう1つ有名なのが三段論法だ。三段論法は論理学の1要素であり、その論理学を初めて体系化したのはアリストテレス(古代ギリシャの哲学者・科学者)だと言われている。論理学とは、簡単に表現するなら、物事を論理的に思考するために、言葉を用いて数学のように論証する学問である。アリストテレスの論理学が出発点となり、少しずつ改良し、今日に至っている。
 では、現在までの論理学を含む既存の学問を深く勉強したら、論理的思考ができるようになるだろうか。残念ながら、ならない。信じられないなら、論理学でも何でも既存の学問を気が済むまで深く勉強してみるとよい。真剣に勉強して何万時間を費やしても、論理的な思考をそこそこ行えるようにならないことが、身をもって体験できるだろう。
 できるようにならない理由は、非常に簡単。既存の学問で扱っている内容では、論理的思考を実現するために必要な要素を満たせないからだ。たとえば、論理学に含まれる内容はあまりにも原始的すぎて、細かな部分の論理性を追求するのには適するが、複雑な内容の全体像を的確に把握するのには役立たない。現実の検討では、細かな部分の論理性よりも、全体として大事な点を重視した思考が求められ、それができないために多くの検討が失敗している。
 また、レビュー可能な形式で思考内容を整理したり、思考の漏れを発見しやすい形で整理することなども求められる。さらに、論理的思考を邪魔する人への対処方法も必要となる。こうした上手な整理方法や対処方法は、既存の学問ではあまり取り上げられていない。
 ハッキリ言ってしまうなら、既存の学問では、論理的思考という難しい内容を、真正面から検討してこなかった。それが、大学や大学院を優秀な成績で卒業しても、論理的思考の基礎すら身に付いてない現状を生んだ。論理的思考以外にも、学問が積極的に取り上げてない分野はいくつもある。建設的な議論技術、できるだけ公平な意見調整技術などだ。こうした点こそ、学問における今後の大きな課題であろう。
 論理的思考に話を戻そう。今後は、論理的思考方法をまず教官自身が習得し、全学生に教えていかなければならない。そうしなければ、大学を高等教育機関とは呼べないだろう。

余談:三段論法の実用的な意味と使い方

 三段論法の話が出たので、その実用的な意味を少し取り上げてみよう。三段論法の代表的な内容は、簡単に表現するなら、「Bなら必ずC。Aなら必ずB。ゆえにAなら必ずC」だ(意味を強調するため「必ず」を入れてみた)。
 では、これの本当の意味は何だろうか。まず目的だが、結論に相当する「Aなら必ずC」が正しいと証明することにある。それを理解してもらうために、間に入るBを用意し、「Bなら必ずC」と「Aなら必ずB」の2つを示している。つまり、「A→C」というつながりだけでは分からない相手に、「A→B→C」と間の要素を挿入することで、より詳しく説明する方法なのだ。
 この解釈を、実際の議論に適用してみよう。ある人が意見Cを主張するとき、その根拠としてAを持ち出す。「AなのでCだ」と。それを聞いた相手は納得しないので、もう少し詳しく説明しなければならない。今度は間にBを用意して、「AなのでBだ。BなのでCだ。だからAなのでCだ」と述べる。それでも納得しないなら、「AなのでBだ」と「BなのでCだ」のどちらかまたは両方で、納得できない内容が含まれている。その部分に新しい中間要素を追加して、説明を続けることになる。「AなのでDだ。DなのでBだ。ゆえにAなのでBだ」という具合に。これを、相手が納得するまで繰り返す。
 もちろん、証明しようとしている内容が、必ず正しいとは限らない。より細かく説明することで、正しくない内容であれば、正しくないことが明らかになりやすい。たとえば、「説明内容の中で『AなのでDだ』の部分が、明らかに正しくない。理由は〜だから」などと指摘されるだろう。こんな形で、主張している内容が否定される場合もある。
 上記のような三段論法の使い方は、説得するための方法であるともに、正しくない内容をハッキリさせる方法でもある。それにより、正しい内容は説得力を増し、正しくない内容はダメな点を指摘されやすくなる。こうした利点があるので、納得できない箇所を具体的に指定して、より詳しく説明してもらう方法は、非常に有効だ。
 現実の課題を分析すると、もっと難しい点がある。世の中の課題では、「Aなら必ずB」とならないことが多い。「必ず」ではなく、「〜の場合に」といった条件がいろいろと付く。たいていは、この条件を明らかにすることの方が、AやBの内容をまとめるよりも難しい。
 もう1つ、対象となる課題が複雑なので、AやBの数がかなり多くなる。それによって、全体が把握できにくくなり、適切な検討の難しさが増す。最悪なのは、細かな部分ばかりに注目して、全体での最良解を得られないケースだ。世の中の検討結果を見ると、これに当てはまる例が非常に多い。
 これらの難しい点の解消には、三段論法とは別の方法を用いなければならない。とくに大事なのは、全体を把握しながら思考すること。これを強力に支援する機能が、論理的思考方法では必須となる。

(2002年7月4日)


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