川村渇真の「知性の泉」

議論やディベートと、論理的思考との関係


 議論とは、より良い解決方法を求めて意見を交換したり、異なる意見を戦わせる方法である。どんな意見でも構わないわけではなく、納得できる内容の意見が求められる。そのため、論理的思考との関係は非常に深い。では、どのような関係があるのだろうか。

世の中の電子会議室では、醜い言い合いが非常に多い

 関係を検討する前に、世の中で行われている議論の特徴を見てみよう。インターネットが普及したおかげで、多くの人が議論へ参加できるようになった。それ以上に、途中のやり取りまで含めて、多くの議論例を簡単に見れるようになった。議論の内容や質を分析するための、夢のような環境が得られたわけだ。
 そして数多くの発言を読むと、非常に面白い特徴が見えてくる。マトモに議論できている電子会議室が、極めて少ないことだ。社会的に地位の高いと思われる人が実名で登場する会議室ですら、マトモな議論を邪魔するセコイ行為が何度も繰り返されている。さらに、そうした行為を排除しようとすらしない。おかげで、醜い言い合いが非常に多く見受けられる。たとえ、表面的な言葉遣いがきれいであってもだ。
 セコイ行為の中身は共通している。自分の支持する意見に都合の良い材料ばかり取り上げる、相手の意見は良い点を無視して悪い点ばかり指摘する、どこも指摘できないときは意見全体を無視する、課題と関係ない部分で悪く言う、感情論に持ち込んで荒れた状態に導きマトモに議論させない、論理的思考自体の悪口を言うなどだ。他にもあるが、この辺にしておこう。
 こうした状況を、議論と呼べるだろうか。とうてい呼べない。単なる、意見の言い合いだ。多くのセコイ行為が含まれているので、「醜い言い合い」という表現が適する。もちろん、本人達は議論していると思っているだろうが、こうして冷静に分析すると、本当の姿が見えてしまう。

論理的思考を基礎とした議論方法が必要

 こんな現状を打開するためには、本当に役立つ議論方法を用意しなければならない。議論方法なら何でも良いわけではなく、良い議論を実現できる方法である。
 では、良い議論とは、どのようなものだろうか。もっとも重要なのは、議論により得られた結果が良いこと。次に、議論結果に高い説得力があること。さらに、結論までの議論過程を不参加者に説明できること。もう1つ、良い検討の邪魔行為を上手に排除できること。主なものは、これぐらいだろう。
 こうして挙げてみると、論理的思考と共通する部分が多いのに気付く。実は、そうなって当たり前だ。議論とは複数人での思考作業であり、良い議論結果を求めるなら、論理的思考が最良の選択となる。だからこそ、良い議論の方法は、論理的思考を確保するための方法に等しい。
 そう考えて作ると、議論の方法は、論理的思考を基礎にしながら、議論に必要な要素を加える形になる。論理的思考の中には、複数人での思考も含まれているため、加えなければならない要素は少ない。主なものは、議論の運営方法、議長や書記などの役割と活動内容、議論途中での議論内容の整理方法、議論結果の決定方法、議論後の報告方法、邪魔行為への上手な対処方法などだ。これらを論理的思考に加え、議論方法として仕上げる。
 実は、こうした内容こそ、論理的思考の各種支援技術に含まれる議論技術である。論理的思考を基礎にしながら、質の高い議論を実現するための方法として設計した結果だ。論理的思考と同様に、議論の目的を明らかにしてから、それを求めるために適した複数工程に沿って、議論作業を進める。途中の議論内容を記録しながら、最良の議論結果を導き出す。
 こうした方法を採用すれば、議論の質が高くなって、可能な限り良い議論結果が得られやすい。また、マトモな議論を邪魔する行為に対しても、適切な対処で防止でき、邪魔の影響を最小限に抑えられる。

 良い議論とは、以上のような内容だ。その説明の中で論理的思考が登場したため、関係も明らかになった。論理的思考は、良い議論の基礎となる存在なのである。逆に悪い議論は、論理的思考と反対のものといえる。

ディベートは、大事な点で論理的思考と相反する

 議論に役立つ能力を身に付ける方法といえば、ディベートが有名だ。このディベートと論理的思考の関係も、誤解している人が非常に多いようなので、大事な点だけ取り上げておこう。
 ディベートでは、向き合って討論する前に、課題の内容を調べる作業がある。ウソの内容を主張するわけにはいかないので、正しい内容を集めなければならない。ディベートの良さを認めている人の中には、この調べる作業が重要で、論理的な思考に役立つと考えている。論理的に正しいかどうか確認しながら調べるので、大きくは無理でも、少しは役に立つであろう。大きく役立たないのは、もっとも重要である“論理的ということの中身”を教えてないためだ。
 調査が終わったら、意見を戦わせる段階に移る。対立する立場に分かれているため、自分の立場の長所をお互いに主張し合ったり、相手の弱点を指摘したり、指摘に反論したりする。あくまで、自分の立場に力点を置いた意見が中心となる。
 対決作業で主張している内容を、どちらの立場でもない第三者的に評価すると、面白い点に気付く。お互いに主張するのは、自分の立場から見た良い点である。また、相手に指摘するのは、相手の立場の悪い点だけだ。こうした行為は、論理的思考といえるだろうか。まったく逆の行為だ。この点こそ、ディベートが論理的思考と相反する部分である。実際、自分の立場に都合の悪い材料を調査で見付けたとしても、それを自分から出すことはしない。ディベートで負ける可能性が高まるからだ。
 お互いの立場を固定する方法にも問題がある。論理的思考では、様々な視点で検討し、最良解に少しでも近づけようとする。A案とB案の相容れない主張で始まっても、お互いの良い点を集めたAB混合案や、新しいC案を導き出すのが、論理的思考であるからだ。ところが、ディベートでは最良解を求めようとしない。そもそも、思考作業の成果物といえる議論結果の質など問わない。議論の方法として見たとき、これは重大な欠陥である。
 このような特徴を持つため、ディベートをいくら上手にできるようになっても、論理的思考の能力は身に付かない。そればかりか、悪い癖が身に付いてしまう。自分が支持する内容の欠点を見ないで、良い点ばかり主張したり、相手が支持する内容の欠点ばかり指摘して、良い点を無視したりだ。こうした行為は、論理的思考を邪魔するセコイ行為に該当する。

ディベートに代わる議論学習の採用が必須

 ディベートの重大な欠点は分かったが、他にどんな特徴があるだろうか。それを求めれば、ディベートの本質が理解できるので、少し考えてみよう。
 ディベートでは、相手から指摘された全事柄に対して、納得できる反論を求められる。納得できるというのは、論理的な反論を意味する。そんなレベルで反論できないと負ける要素が生じるので、この点は身に付くであろう。ただし、ディベートで扱う論理的とは、狭い意味の論理的でしかない。課題の全体像を的確に把握したり、漏れを検査したり、最良解を求めたりする作業は含まれていない。議論の成果ではなく、反論したかどうかが問われるだけだからだ。
 相手が提示した解決方法も、必死で欠点を探すため、副作用などが指摘されやすい。このように、何かの欠点を探す能力はそこそこ身に付くであろう。ただし、上手に探す方法は教えないので、高い能力には達しにくい。
 別な面から考えるために、質の高い議論に必要な要素が身に付くかを考えてみよう。該当する要素とは、課題の全体像を適切に把握する、適切な流れで検討を進める、重要度を考慮して検討する、議論内容の漏れを検査する、各部で適切に評価する、できるだけ最良解を求める、第三者がレビュー可能な形で資料をまとめるなどだ。このどれ1つとして教えていないので、ディベートでは身に付けられない。そのため「質の高い議論に必要な能力を、ほとんど身に付けられない」点も、ディベートの特徴の1つとなる。
 ここまでの話で、ディベートの本質が見えてきただろう。短く表現するなら「検討内容の良し悪しを追求せず、相手を打ち負かすための能力が身に付く方法」となる。つまり、相手を打ち負かすための技術なのだ。ただし、この方法が通じるのは、相手が論理的思考や適切な議論方法を知らない場合だけ。論理的思考や議論方法により、検討内容を上手に整理して提示されると、打ち負かす方法がほとんど通じない。
 大事なのは、相手に負けない能力ではなく、物事を適切に検討および議論する能力である。そのためには、学習方法として、本サイトで紹介している論理的思考と議論技術が適している。これからは、ディベートの代わりに、論理的思考と議論技術を教えなければならない。

 ここまでの説明で、ディベートと論理的思考の関係か分かっただろう。ディベートは、大まかにだが、論理的思考と相反するものなのである。多くの人の認識とは違って。

ディベートの欠点が認識されなかった背景こそ大問題

 以上のような欠点があるにもかかわらず、未だにディベートが、議論の能力を身に付けるために役立つと信じられている。この原因の方がもっと重要なので、最後に取り上げよう。
 ディベートの採用を決めるまでの過程は、あまり深く考えてないと思われる。議論の能力を身に付けようと考えたとき、真っ先に思い浮かぶのがディベートであり、しかも有名で採用実績も多い。また、それ以外の方法は思い浮かばない。こんな感じなので、深く考えないとディベートの採用が決まる。
 通常、何かの作業で採用する方法を決めるとき、最良のものを選ぼうと考える。作業の目的は何か、どんな結果が望ましいのか、その実現にはどの方法が適しているのかなどだ。その場合、選んだ方法でどの程度の結果が期待できるかも確認する。
 この考え方は、議論の能力の習得方法選びにも適用できるし、すべきである。まず最初は、良い議論の中身を検討する。前の方で述べたように、論理的思考を基礎として、可能な限り良い議論結果を得ることだ。次に、それを実現するために必要な能力を導き出す。最後は、その能力を身に付けるための学習方法へとたどり着く。
 このように考えたとき、学習方法の候補としてディベートしか見付からなかったとしよう。その場合でも、ディベートの教育効果を評価することになる。ディベートでは何を教えているのか、習得するとどんな能力が身に付くのかなどだ。その結果、良い点よりも悪い点の方が多いので、議論の能力を身に付ける目的に対しては、悪い学習方法だと判断するしかない。仕方がないので、もっと良い学習方法を作り始めるはずだ。
 ところが、現実の社会を見ると、ディベートが悪い学習方法だと気付いていない。マトモな話が比較的通じやすい米国でさえ、ディベートが良い学習方法だと思われていて、積極的に採用されている。ディベートを真正面から分析して、重大な欠点を誰も指摘しなかったのだろうか。非常に困ったものだ。

 さらに、この現状は何を意味するのだろうか。議論能力という大事な能力の学習方法を決める際に、適切な検討が行われていないこと。それも、かなり長い間行われなかったことを意味する。深く検討せずに決めていたというわけだ。
 対象を深く検討せずに決める傾向は、教育の分野で特に大きい。高等教育も含めた教育内容は、細かな知識は少しずつ変化しているものの、全体の傾向や扱う範囲は、ここ何十年もほとんど変わっていない。過去からの惰性で続けているだけで、その必要性や効果を真正面から検討したことがない。その結果、大事な能力を身に付けるための教科が、ほとんど加えられない状態が続いている。

 もう1つ大事な点がある。教育内容を決めている人達に関してだ。物事を決める際には、ある程度の検討が必要となる。ディベートのような悪い方法を選ぶということは、マトモな検討を行ってない。その原因は、検討する能力自体を持っていないか、レベルの低い意識で仕事をしているか(=能力があるのに使ってないか)のどちらかだ。どちらにしても情けない。おそらくは、検討する能力を持っていないのだろう。
 能力を持っていない原因は、既存の学問にある。学問がサポートしている範囲に、論理的思考や良い議論方法が含まれていない。他に、適切な評価方法なども欠けている。こうした学問しか教えてないので、検討する能力が身に付かない。つまり、学問の弱点が、ディベートの欠点を長い間指摘できない世の中を生んだわけだ。これを教訓とし、特に高等教育での教育内容を見直す必要がある。

(2002年10月7日)


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