川村渇真の「知性の泉」

思考に関わる質問への回答


論理的思考を語る人は多いが、それを実行できる人は極めて少ない。できない人ほど、思考に関する間違った意見を述べたり、不適切な形で物事を検討したりしがちだ。そんな例を信じてしまうと、自分の知的能力を低下させかねない。どのような悪い例があるのか、代表的な質問に回答する形で明らかにしよう。


日本語で論理的思考は無理なの?

【質問】ときどき見かけるのですが、「日本語は、物事を論理的に記述できないので、論理的思考には使えない」と主張する人がいます。さらに「英語やギリシャ語でないと無理だ」などと言ったりしてます。これって、本当でしょうか。この意見に反論する人もいて、電子会議室でこの話題が持ち上がると、論争になります。でも、期待したような議論になることはほとんどなくて、揚げ足取りばかり目立って、醜い言い争いばかり繰り返されます。どうしてこうなるのでしょうか?


【回答】まず、質問の要点を整理します。含まれる質問は2つあって、「日本語を使った論理的思考が可能かどうか」と、「この種の話題が電子会議室で持ち上がると、マトモな議論にならないのはなぜか」ですね。実は、この2つの回答には関係があるので、その関係まで含めて回答しましょう。なお、この種の話は細かく説明すると非常に大変なので、要点だけに絞ります。

 最初に、「日本語で論理的思考が可能か」を取り上げます。どんな課題でも同じですが、検討の目的や結論形式と、どのような道筋で検討したら適切な回答が得られるのか、最初に考えることが大切です。
 今回の課題では、次のような道筋になります。まず、論理的思考の中身を明らかにします。「どのような作業があり、途中や最後に何を作り、どのような条件を満たしたときに論理的思考だと言えるのか」を明らかにするのです。論理的思考に含まれる要素を洗い出すわけです。もっとも肝心な部分ですから、これを明らかにしないと、他の意見や議論に意味がなくなります。
 次に、論理的思考に含まれる全部の要素で、日本語を使うことで問題が生じる箇所を洗い出します。どの程度の問題かも含めて。もちろん、日本語の使い方を工夫することで何とかなる部分は、除きます。同様に、英語やギリシャ語を用いたとき、問題になる箇所や程度も明らかにします。
 以上のように、思考の道筋を用意してから検討を始めると、適切な回答が得られるはずです。検討のすべてにおいて論理的に思考することは、言うまでもありません。

 言語の違いによる影響を検討する際には、言葉の特性も理解している必要があります。どの言語でも、矛盾した内容を表現することが可能で、間違った内容を簡単に作れます。明らかに間違った内容だけでなく、間違っているかどうか簡単には判断できない内容もです。この特徴から分かるように、論理的な内容を作るためには、言語を適切に使う必要があります。また、どの言語でも新しい言葉や表現を追加できるため、言語の差はかなり小さくなります。
 我々が使う言語には、大事な特性がもう1つあります。言語による文章だけで説明した場合、説明する内容が複雑になるほど、正しさの確認が難しくなる点です。文章以外の方法を利用して、説明内容(または思考内容)を整理する必要があります。そうしなければ、論理的を確保するのが非常に難しいのです。この点こそが、論理的思考を実現する上での重要な鍵となります。
 本サイトで紹介している論理的思考方法は、この特徴を重視して設計してあります。思考内容の全体像が俯瞰できたり、含まれる要素ごとに漏れを見付けやすくしたり、要素間の整合性を検査できるように、文章以外の道具を組み込んであります。一覧表による整理、最適な作業工程の設計、作成物の形式の規定などです。
 もちろん、それらの道具の中で言語を利用します。しかし、言語で表現する内容が道具によって細かく分断されているため、言語で表現する内容が複雑にならず、理解しづらい内容の作成を防いでいます。つまり、言語による表現の欠点を、大きく補っているわけです。そして、この点こそが、論理的思考を実現するための最大の要素なのです。
 唯一の例外は、数学が扱う領域です。これは数式という厳密な表現方法が可能なため、誤解や表現ミスがほとんど起こらないからです。

 いろいろな点を説明しましたが、そろそろ質問への回答をまとめましょう。まず、(数学が扱えない領域で)論理的思考を実現するためには、優れた道具が必要です。その道具には、言語で表現する内容を細かく分割して、言語の欠点の影響を受けない機能が必須です。この種の道具を用いず、複雑な内容を論理的に思考できるのは、ごくごくごく一部の超々天才クラスの人だけでしょう(私の勝手な推測では1人も存在しないと思っていますが、もしかしているかもしれないので、このような形で表現しました)。
 このような道具を用いるのが必須なら、あとは言語による論理的な表現能力の問題だけです。これは、言語ごとに用意するしかありません。もちろん、どんな言語でも作ることが可能です。最悪の場合には、新しい概念や言葉を加えながら。この表現術は、作文技術に含めるべき内容です。
 以上の話から、論理的思考を実現する主な要素が見えてきました。言語への依存性を最小限に抑える優れた道具と、言語ごとの論理的な表現術です。この2つのうち、大きく影響するのが道具の方ですが、質の高い論理的思考には両方とも必要です。
 というわけで回答の結論ですが、日本語でも英語でもギリシャ語でも論理的思考は可能です。上記の条件を満たす限り。

 続けて、2番目の質問を取り上げましょう。実際の電子会議室ので様子を、上記の思考の道筋と比べてみてください。このような思考の道筋を最初に用意することなど、まったく行われません。さらに、論理的思考の中身について明らかにすることも、まったく行われません。
 ここで一番重要なのは、「論理的思考について検討しているのに、その中身を明らかにしないで検討し続けていることに、何の疑問を持っていない」点です。これは凄いことで、物事を検討する初歩すら知らないのに等しいのです。相当に低いレベルですね。ところが実際には、こんな重要な点に、大学教官でも気付かない人が多いのです。
 こうしたやり方で、マトモな検討などできるはずがないでしょう。代わりに行われるのは、相手の弱点だけへの攻撃、揚げ足取り、都合の悪い点の無視、誤魔化しなどです。まさに「醜い言い争い」となります。これを議論とは言いません。こんな状態になるのは、議論の仕方を知らないことも大きな原因です。
 論理的思考の中身について明らかにしない理由も取り上げましょう。明らかにしないのではなく、明らかにできないのです。他人に説明できるほどのレベルで、論理的思考を身に付けてないからです。実際、個々の発言を細かく検査すると、論理的でない箇所が数多く見付かるはずです。つまり、論理的思考など身に付けてない人達なのです。にもかかわらず、論理的思考について語っているのは、身に付けていると単に勘違いしているからなのでしょう。そんな人が集まっているのですから、マトモな検討など実現できるはずはありません。以上が、2番目の質問である「マトモな議論にならないのはなぜか」の回答です。
 論理的思考を身に付けてないことは、その中身の説明を求めると分かります。何も説明できなくて逃げるか、説明になってない内容を述べて誤魔化すでしょう。プライドが高い人ほどこういった追求を嫌がりますから、怒り出す人もいるはずです。説明を求めるときは注意してください。
 マトモに検討できない話題は、論理的思考だけではありません。教養、文化、芸術、学問といった説明の難しい話題の場合も、同じような状況が生じます。悪い検討例は、インターネットで検索すると容易に、しかも数多く見付かるでしょう。

 最後に、2つの回答に関係する点を取り上げましょう。論理的思考における言語の影響を検討するのにも、複数の人が集まって適切に議論するのにも、論理的思考方法の習得が必要です。それを持っていないと、適切な検討も、質の高い議論もできないのです。
 一番困るのは、論理的思考能力を身に付けてないことに、参加者自身が気付いてないことです。身に付けていると勘違いしているために、習得しようとは努力しません。おかげで、いつまで経っても身に付けてない状態が続きます。また、論理的思考自体の中身に触れないまま、論理的思考の話をしたがります。こういう困った人が、高学歴の人に多いのです。
 論理的思考方法や議論手法の中身に関しては、本サイトで解説していますので、該当するコーナーを参照してください。実際に身に付けるまでは、勘違いして知ったかぶりをしないように、くれぐれも注意しましょう。

(2003年2月2日)


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