川村渇真の「知性の泉」

質問への回答を知って意識改革を


良くない回答が数多い現実

 世の中には、簡単に回答できない疑問が数多くある。さほど重要でない分野なら気にする必要はないが、非常に重要な分野だと、無視するわけにもいかない。ましてや自分に大きく関係する疑問だと、良い回答を得なければならない。何らかの回答ではなく、良い回答をだ。
 良い回答を自分で考えられないときは、どうするだろうか。おそらく、回答できそうな人に尋ねるだろう。現在はインターネットが使えるので、疑問に関係しそうな電子会議室を探し、そこで質問する方法が使える。かなり便利になったものだ。
 ところが、良い回答を得られるとは限らない。回答する人によっては、質問をはぐらかした内容で答えるからだ。よくありがちなのは、良い回答の内容が回答者の利益に反するとき、マトモに回答しない場合だ。表面的には真面目に回答している雰囲気を出すものの、その中身を詳しく調べると、大事な点をわざと避けて回答するといった姑息な手を使ったりする。こうした相手からは、良い回答など得られるはずがない。
 得られない理由は、もう1つある。論理的に思考できない人が非常に多いことだ。そのため、真面目に回答しようと思っても、良い回答をなかなか導き出せない。ただし、上記の姑息な手による内容よりは、少しマシな内容にはなる。どの程度良い内容かは、回答者の知的能力に大きく関係する。
 それにしても、日本の現状は悲しい。論理的思考が極度に苦手な人でも、有名大学の教授になれるからだ。さらに、一度教授になってしまうと、よほどのことが起こらない限り教授でい続けてしまう。こんな感じなので、学問面での社会的な地位が高い人でも、論理的思考能力が高いとは限らない。つまり、回答者を地位で選ぶ方法も使えないわけだ。
 マスメディアが正常に機能してないなど、それ以外の原因も複雑に絡み、難しい疑問に関しては、良い回答が得られにくい状況となっている。

良い回答を意識改革に利用する

 では、こうした現状を少しでも解消するためには、どうすればよいだろうか。簡単には解消できなので、良い回答を少しずつでも紹介するしかないように思う。ごく小さな効果しか期待できないが、何もしないよりはマシだ。
 取り上げる件数に限りがあるので、重要度の高い分野に絞るしかない。教育、政治、社会などに関係する疑問に。その中でも、ごく一部の疑問しか取り上げられない。その選択方法だが、たまたま目にとまったとか、誰かから質問された内容の中から選ぶことになるだろう。
 せっかく取り上げるのだから、内容の価値を少しでも高めたい。そのため、マトモに回答していない場合を優先的に取り上げる。このような回答方法には、姑息な意識や行為が含まれている。それを知ることで、姑息な行為を見抜ける能力が高まるからだ。該当する行為が世間で多いだけに、現代人にとっては重要な能力の1つでもある。
 取り上げる中身の濃さを高めるために、内容の作り方も少し工夫する。単に意見が違うだけと思われないように、良い回答の形を示しながら説明するように。これにより、単に疑問が解消するだけでなく、良い回答の作り方も少しは学べるだろう。両者を比べた場合、後者の価値の方が格段に大きい点も見逃せない。
 以上の視点で作った内容ならば、読んだ人にとって、良い回答を知られるとともに、物事を検討する際に役立つ意識も少しずつ高まるのではないだろうか。それが蓄積して、意識改革に発展するのを期待するとしよう。

 なお、説明の形式として質問回答型を採用する。誰かに質問されて回答する機会が多いと予想しているのと、その方が理解しやすく説明できそうだからだ。

(2002年9月6日)


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