川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−2004年09月


●2004年09月30日

試験で引っかけ問題を出すべきではない

 学校などの試験問題の中には、引っかけに属するものがある。深く考えないで解く人が、引っかかりそうな要素を入れておく形の試験問題だ。引っかけ要素にだまされると、正しい答えを導き出せない。この種の試験問題が心に引っかかるのは、真面目な気持ちで作ったのではなく、騙す意識で作られた点にある。
 こうした引っかけ問題を使うのは、良いことなのだろうか。また、どんな意味があるのだろうか。以前から疑問に思っていたので、改めて考えてみた。

 まず最初に、引っかけ問題を出す理由を考えてみよう。私の勝手な推測だが、次のような考え方で使っているのではないかと思う。普通の問題ばかりだと、みんなが勉強すれば、全員が良い点数になってしまう。これでは点数に差が付かないので、引っかけ問題を少し加え、点数がばらつくようにしたと。結構当たってそうな気がする。
 もしかしたら、次のように言い訳する人がいるかも知れない。世の中には、人を騙そうという引っかけ行為がある。それに騙されない能力を身に付けるために、わざと引っかけ問題を使っているなどと。
 他の理由も考えてみたが、これ以外に思い付かなかった。この2つの理由に意味があるのか、それぞれ考えてみよう。

 点数差が付くように使った場合は「試験の点数差が、どんな意味を持つのか」が重要となる。引っかけ問題を間違った人は、引っかけ要素に引っかかった人となる。同様に、引っかけ問題で正しく回答できた人は、引っかけに引っかからなかった人となる。つまり、引っかけ問題の出来不出来は、引っかけ要素に引っかかるかどうかと等しい。
 このことは、次のことを意味する。引っかけ問題を使用する試験は、引っかけ要素に引っかかるかどうかを調べていることになると。試験の目的が、試験の対象範囲の記憶や理解ではなく、引っかけ要素に引っかかるかに変わってしまうわけだ。こんなことで、良いのだろうか。
 おそらく実際には、そこまで考えずに引っかけ問題を使っているのだろう。点数に差が付けばよいと考えて。でも、その影響まで考えてないために、試験の目的まで変化してしまうことなど、思いもしない。
 以上のように、試験の目的が変わるのだから、引っかけ問題を使うべきではない。もし点数差を作りたいなら、難しい問題を正攻法で作るのが、正しい選択となる。難しい問題とは、理解しているかを調べる問題だ。既存の試験問題では、覚えているかを調べる問題がほとんどなので、理解しているかを調べる問題を少し入れるだけで、点数差は大きくなるはずだ。
 理解しているかを調べる問題では、回答方法が記述式になりやすい。そのため、満点か零点ではなく、間の点数を付けられる。点数の違いが生じやすく、点数差を付ける目的にも適している。もちろん、それより重要なこととして、理解しているかを調べる問題の方が、問題としての質の高い点も忘れてはならない。

 引っかけ問題を使う目的が、他人の騙しに引っかからない能力の向上だとしたら、どんな意味があるだろうか。騙されない能力が本当に身に付くなら、凄く意味のあることだろう。しかし、騙されない能力が、記述式の試験問題で身に付くのだろうか。
 その検討の前に注目すべきなのは、試験問題の出し方である。普通の問題の中に引っかけ問題を含めるだけで、引っかけ問題だと表明することはない。また、引っかけ問題を見分ける方法や、引っかからない方法を教えることはまれだ。そもそも、引っかけること自体が、試験の対象範囲(つまり学習の対象範囲)に含まれていない。試験を受ける側にとっては、引っかけ問題が、何の説明もないまま突然と現れ、それに対処しなくてはならない。学習の過程としては、明らかに変な状況だ。
 仮に、引っかけへの対処まで教育内容に含めるなら、その内容を明らかにして、教育内容へ正式に入れなければならない。当然、教科書の中に記述する形で。そうすれば、引っかからない能力を身に付けさせていると、自信を持って表明できる。その場合でも、引っかけ問題を、他の教科の試験に入れるべきではない。引っかけ防止専用の新たな教科を作り、その教科の試験問題として出題しなければならない。
 より重要な点は、引っかけに騙されない能力を教えられるかの方だ。世の中には、どんな騙し方があり、それぞれにどのように対処したらよいのか、体系化して整理する必要がある。学校で教えている一般の教科と比べて、格段に難しい内容だ。対処方法まで含めると、かなり頭の良い人でも、そう簡単には体系化できそうもない。
 さらに、教育内容として相応しいかの問題もある。騙しへの対処といった内容だけ特別に、一般の教育内容に加えるとしたら、かなり奇妙に感じる。論理的思考方法、議論手法、評価方法など、その前に加えるべき教科があるのに。それらを差し置いて、騙しへの対処だけ加えるというのでは、説得力などない。
 以上のように真面目に考えてみると、かなり変だと分かってくる。騙しへの対処を身に付けさせるというのは、後から用意した言い訳としか見えてこない。そもそも、引っかけ問題を解かせるぐらいでは、しかも事前の説明もなしに解かせるぐらいでは、騙しへの対処など身に付くはずはないのだが。

 引っかけ問題を使う意味について、かなり真面目に考えてみた。かなり真面目すぎると感じたかも知れないが、教育という重要な分野なので、真面目すぎるぐらい真面目に考えてみた。その結果、引っかけ問題が調べているのは、引っかけに引っかかるかどうかだと分かった。引っかけ問題を出す価値がないばかりか、本来の試験目的にも適さない。
 大事なのは、試験問題の作り方である。どういう風に作ったら、何を調べられるのか、理解しながら作る必要がある。実際には、そこまで考えてなくて、安易に作っているのではないだろうか。覚えているかを調べる問題と、理解しているかを調べる問題の違いも分からずに。かなり困った状況である。
 このような状況に陥ってるのは、試験問題の作り方について、教育者に教育していないからであろう。その意味で、現在の教育者は、悪い教育者教育の犠牲者である。状況を改善するためには、試験問題の作り方に関して、もっと体系的に整理し、教育できるレベルの内容を用意する必要がある。その中には、引っかけ問題の特徴と、使ってはいけないことも含めなければならない。
 そうした内容が用意でき、教育者への教育が行き届いたら、引っかけ問題も含めた変な問題を使うことはなくなるだろう。そういう日が、少しでも早く来てほしい。


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