川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−2004年01月


●2004年01月31日

歴史を知ってるだけでは価値がない

 学校の義務教育では、歴史という教科の中で、歴史上の出来事を勉強させられる。こうした教育内容に、疑問を感じたことはないだろうか。私の場合、かなり昔から、大きな疑問を持っていた。出来事の名称、登場人物の名称、発生年数などを覚えて、何の意味があるのだろうかと。
 私が学校で勉強している頃は、明確な根拠を示せなかった。何となく感じていた程度だったと思う。しかし、今改めて考察してみると、より明確な理由を提示できる。その考察結果を、簡単に紹介しよう。

 まず最初に、歴史教科内容の一般的な価値を考える。ほとんどの人が感じる、普段の生活での価値だ。主なものは、テレビ番組の理解、友人との普段の会話などだろう。このうち、テレビ番組を理解を取り上げる。
 歴史物のドラマといったテレビ番組を観る際には、覚えた知識が、番組の内容を理解するの役立つ。ただし、番組を作る側では、歴史の知識が少ない人の存在を十分に考慮している。そのため、知識が少なくても困る状況は、非常に少ない。
 たとえ番組を観る際に知らなくても、そのとき調べれば済む。インターネットが普及しているので、調べる作業が以前よりも格段に容易になった。嬉しいことに、テレビ局側が番組のページを用意していて、必要な知識をまとめて知れることも多い。こうして調べた直後の知識量は、前から覚えている知識量より多い。加えて、以前学んだ以降に新事実が判明していれば、覚えていた知識が間違っていることもある。正確さも、後で調べた知識の方が優れている。
 こうした現状は、歴史教科の内容を覚える価値を、どんどんと低下させている。価値の低下に大きく貢献しているのは、インターネットの普及だ。歴史のような教科を教える側にとって、インターネットは、とんでもなく迷惑なものであろう。

 テレビ番組や友人との会話で使う歴史内容は、表面的な知識が中心だ。出来事や人物の名前を話題にするものの、中身に関して深入りすることはない。たとえかなり詳しい内容であっても、知識が細かくなるだけだ。あくまで表面的な内容でしかない。
 では、深入りとは、どのような内容を指すのだろうか。出来事の意味を考察したり、そうなった理由(成功や失敗の理由)を明らかにしたりして、出来事の大事な部分を理解することである。実際の中身は色々あるだろう。ある戦国武将が、能力のある人材を積極的に登用したとか。また、近代的な武器へ早目に切り替え、しかもその武器に適した戦法を採用して成功したとか。他にも、住民の本音を知って、それが反映する仕組みを目指したとか。さらに深入りするなら、指導者の管理能力が高かった、とかもありだ。
 こうした点まで調べて明らかにしないと、深入りはできない。逆に、出来事や登場人物の名前や年数を覚えているだけでは、表面的な知識にしかならない。現状の歴史教科は、まさにこの状態だ。

 歴史を勉強する大きな理由の1つに、過去の出来事から学ぶことが挙げられる。そのためには、歴史の中身に深入りする必要がある。歴史上の重要な出来事には、宗教や産業などの革命、重大な犯罪、社会の新しい仕組みの構築などが含まれる。だからこそ、これらから何か重要なことを学べるはずだ。しかも数多く学べるだろう。
 歴史から学ぶというのは、どういうことだろうか。過去に起こった成功や失敗の理由を理解して、自分たちの行動に生かすことである。本当に行動できるようになるのは訓練などが必要なので、そこまで歴史教科に求めるのは難しいだろう。しかし、成功や失敗の理由ぐらいは理解しないと(理由を表面的に覚えるのではなく、理由の中身を理解しないと)、歴史から学んだとは言えない。
 この条件を満たすためには、歴史教科の内容を大幅に変える必要がある。前述のように、表面的な内容だけではなく、出来事の大事な点こそ大きく取り上げて、成功や失敗の理由を明らかにしなければならない。
 もう1つ、歴史教科の試験内容にも大きな問題がある。出来事に関して、登場人物や出来事の名前、発生年数などを覚えているか調べる試験内容が中心となっている。これでは、教える側が「歴史上の出来事を、表面的に暗記しなさい」と主張しているようなものである。実際、生徒の側もこの点を理解し、表面的な内容をせっせと暗記している。いずれ忘れてしまうのを分かっていながら。

 では、歴史から学んだとは、人間のどのような状態を指すのであろうか。成功や失敗の理由を知識として知っているだけでなく、実際に行動に役立てることだ。そこまで達しないと、学んだとはいえない。
 たとえば、次のような例を考えてみよう。歴史内容として「ある戦国武将が成功したのは、能力のある人材を積極的に登用したからだ」を学んだとする。言葉にすれば簡単なので、暗記するのは極めて容易だ。しかし、学習者の行動に反映させられないなら、歴史から学んだとはいえない。学習者が関わる出来事の中で、学習者自身が学歴や資格(補足:資格と能力が一致しないことはかなり多い)などで他人を判断していたら、まったく逆の行為をしているのに等しい。
 同じことは、歴史の教師にも当てはまる。「成功したのは、能力のある人材を積極的に登用したからだ」と教えていて、教師自身が学歴や資格などで他人を判断していたら、やはり理解していないといえる。
 こうならないためには、歴史の教育内容を工夫する必要がある。「成功したのは、能力のある人材を積極的に登用したからだ」のレベルで片付けるのではなく、自分自身の行動に当てはめ、その内容まで説明する。どんな行動なら理解していて、どんな行動なら理解していないことになるのかと。

 ここまでの考察で、現在の歴史教科の価値が明確に見えてきたはずだ。過去から学ぶための内容ではなく、出来事や登場人物の名前や年数を覚えるための教科である。テレビ番組を観るとか友人との会話で少しは役立つが、あまりにも表面的な内容でしかないので、大事な内容ではない。歴史から学ぶという観点から見れば、ほとんど価値のない内容だ。
 もっとも悪いのは、試験問題の内容。いずれ忘れるような内容の暗記を強制し、暗記の多さと正確さで点数を付けている。こんな行為にほとんど価値がないばかりか、それに気付いてもいない。実際には教師も被害者であり、文部科学省が決めた教育内容を実行しているに過ぎないのだろうが。
 理由はどうあれ、表面的な内容の暗記を求める行為は、すぐにでも止めてほしい。若者の大事な時間を奪って、無駄な作業をさせているのだから。


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