川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−2003年6月


●2003年6月25日

調べる行為を省いたための間違い

 電子会議室での発言やウェブページの内容を読んでいると、簡単な間違いを見付けることがときどきある。一番驚くのは、難しい内容なので間違ったわけではない点だ。該当する内容の知識を持ってないために間違っていて、しかも、その知識を調べるのが大変なわけでもない。この条件に当てはまる間違いが、意外に多い。

 よく見かける例を1つ挙げよう。誰かへメールを送ったり意見を伝えたりするとき、少しかしこまった形式で書いた際の、頭語と結語の使い方。頭語として「前略」を使ったのに、結語に「敬具」を選ぶような間違いだ。
 ビジネス文書の書き方を少しでも勉強したことがあれば、適切な組合せで使うことを知っているだろう。「拝啓」なら「敬具」を、「前略」なら「草々」を、「謹啓」なら「謹言」または「敬白」を、という組合せになると。
 私の場合は、社会人になって2年目ぐらいのとき、ビジネス文書を書く機会があった。その際に、ビジネス知識が書いてある本を参考資料として購入し、それを読んで知った。若い頃に一度知っておくと、そう簡単には忘れない。もう20年以上も経つので、「謹啓」に組合せる言葉は忘れていたが、「拝啓」と「前略」は大丈夫だ。ちなみに、この本は700ページ弱もの量があり、20年以上も前に1950円で購入した。たまに役に立つので、今でも使っている。

 以上のような間違いは、初めて使うときに調べれば簡単に防げる。知らない内容なのに、調べないで使ったために生じた種類の間違いだ。難しいから間違えたとか、複雑だから間違えたとのは、大きく異なる。きつい言い方をするなら、調べるのを“さぼった”ために生じた間違いといえる。
 インターネットや検索サイトがない時代なら、調べるのが今よりは大変だった。該当する本を購入するにしても、書店へ行かなければならない。もし急ぎの場合は、誰かに電話で尋ねることになるだろうが、知っているとは限らないので、何人かに電話するしかない。ところが、今なら非常に容易だ。検索サイトで探すと、5分もあれば見付かる。読む手間を長めにかけても、30分以内で済む。そして、一度知ってしまえば、次からはまず間違えることはない。
 社会人になった当初は知らないことが多いので、何でもかんでも調べる必要がある。しかし、それを“さぼらずに”調べ続けていけば、調べる対象が少しずつ減っていく。3年も経つと、たまにしか調べなくて済む状態に落ち着くはずだ。新しい分野へ飛び込んだ場合を除いて。
 つまり、何でもかんでも調べるわけではないのだ。使ったことのない対象に関してだけ、最初の1回だけ調べれば済むのである。長く使わないと忘れる場合もあるが、再び調べたとしても、使用頻度が低いので何十回も調べることにはならない。実際には、思い出す機会がかなりある。頭語と結語の例なら、他人の書いた文書を見る機会が多くあり、それが思い出させてくれる。おかげで、忘れることはほとんどない。
 以上のように、初めて使う対象を片っ端から調べていく方法は、それほど大変なわけではない。自分の知識が増えるし、間違いも減らせる。調べる価値は高いはずだ。

 初めてのことを調べる際には、関連する内容も調査対象に含んだほうがよい。例として、前と同じ「拝啓」を挙げよう。この言葉を使う機会というのは、ある程度の形式的な文書を作る場合だ。すると、頭語と結語の使い方だけでなく、ビジネス文書の全体の形式まで調べる絶好の機会となる。
 そんなときは、関連する知識をまとめて知った方がよい。総合的に理解できし、調べる効率も高いからだ。「拝啓」に関してだけ30分以内で済ませようとせず、調査対象をビジネス文書の形式まで広げて、半日とか1日かけて調べるのが、賢い方法だ。調べるのが大変でなくなった現状では、こうした方法は昔よりも価値がある。

 余談を1つだけ。頭語と結語の使い方の間違いを指摘されたとき、開き直る人もいるかもしれない。自分は、あえて「前略」と「敬具」を組み合わせているのだと。もし自分独自の考え方で使うなら、別な言葉を(できれば新しく作った言葉を)用いるべきである。そうしないと、間違って使っているのか、何か理由があって使っているのか、区別できないからだ。
 そもそも、独自の考えで使っていると強く主張しても、間違ったのに開き直っていると他人からは思われてしまうだけだ。印象は、さらに悪くなる。開き直る利点はないので、間違いを素直に認めるのが最良の行為といえる。


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